悪魔と祓魔師

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『 ある小さな村に小さな男の子が住んでいました
  彼は村にある小さな教会に住む心の綺麗な男の子で たった一人の父親を助ける大変働き者な男の子でした
  そんな男の子を皆たいそう感心し 彼の手助けをしていました 

 ですがあるとき 村に大きな災いが起こりました
  巨大な悪魔が村を襲い 村の人々は困り果てました
  なんとか悪魔を祓うすべはないかと すると悪魔は言いました

  ……―――この村一番の働き者を出せ

  村の人々は口々に そんな者はいないと言いました 同じ村の誰かを悪魔に差し出すなどできなかったのです
  そんな彼らの前に 一人の少年が現れました
  あの教会に住む男の子です 彼は言います

  ……―――自分がこの村一番の働き者です どうか僕が一緒について行きますので村を助けて下さい

  そうして男の子は悪魔と共に村を去りました
  村の人々は男の子の勇敢な行動を褒めたたえ 彼の名を子どもに付けることにしました 』




ぱたん、と分厚い本を閉じる。表紙には笑顔を浮かべた少年が一人。
彼はどうして笑っているのだろう? 村を守れたから? 自分の名前が村の子どもたちに付けられるようになったから?
分からない。だけど彼の笑顔を見ていると、なんだか安心できた。小さく本に向かって笑いかけると、スピーカーからジジ、と雑音が聞こえてきた。

「………602。時間だ、来なさい」

冷たい男の声がする。顔を上げると、ガラス越しにこちらを見下ろす蔑んだ目。目。目。
あぁ、ここはなんて、冷たい世界だろう。もう忘れてしまったけれど、むしょうに、青い空が見たいと思った。






「………ぐふ、っ」

苦しげに呻く細い背中を、そっと撫でる。喉が上下して、堪え切れなかったように吐いた。ごほ、と苦しげなその姿を見つめながら、俺はとにかく何度も背中を撫でた。その度に彼女は胃の中の物を吐いて、そして吐くものがなくなっても吐き続けた。
もう胃酸しか吐き出されなくなったころ、彼女はピンと張っていた肩を緩めた。ゆるゆると顔を上げる。顔色は真っ白で、緑色の瞳はどこか虚ろだ。だけど俺を認めると、僅かに瞳に光が灯った。

「………、?」
「あぁ、もう大丈夫だ。ゆっくり休め」

彼女が小さく何かを囁く。その言葉を間違いなく受け取って、俺は笑った。俺の顔に安心したのか、彼女は小さく頷いて、そっと俺の膝に頭を乗せた。その綺麗な金色の頭を、そろりと撫でる。しばらくの間そうしていたら、すぅすぅと小さな寝息が聞こえてきて、俺もホッと息を付いた。そして近くに置いていたタオルケットを引っ張ると、彼女の体にかけてやる。
彼女の顔色は悪かったものの、寝顔は穏やかだ。伝わる体温も、温かい。その温もりに目を閉じて、ふと、扉の向こうに行った彼女を思う。

大丈夫だろうか。元気にしてるかな? そんなことを考えて、一人、笑う。
元気にしてるわけがないのに、そんなことを考える自分がなんだか可笑しい。

ここ、は、どんなところなのか、実はよく知らない。
真っ白な壁と、真っ白な床、真っ白な天井。そしてよく分からない機械が壁に張り付いていて、じっと俺たちを囲っている。その機械には俺たちは触れられない。随分と前に触れようとしたら、どこからともなくレーザ光線が降り注いで大変なことになった。たぶん、相当大事な機械なんだろう。
実験施設だ、といつも白い服を着ている男が言っているのを聞いたことがある。俺たちに注射したり薬を飲ませたりするのが実験らしい。よく、分からないけれど。
そんなことをぼんやりと考えていると、扉の向こうに行った彼女が戻って来た。少し顔色が悪いけれど、それ以外はどこも普通そうだった。

「………、寝たのね」
「あぁ、ぐっすりだよ」

彼女は俺の膝の上にいる彼女を見て、小さく囁いた。彼女が起きないように、との配慮だろう。俺もひっそりと小声で話す。彼女は少し疲れた様子で、俺の隣に座った。手には扉の向こうで貰ってきたのだろう、四角いクッキーの袋があった。

「食べる?」
「あぁ」

彼女の差し出したクッキーを口に入れる。苦い。だけどもう随分と前から俺の中の「クッキー」とはこの苦いクッキーだから、別に苦ではなかった。苦いけど。
ぼり、と乾いた音を立てる。噛めば噛むほど、苦い。なんだか今日は特に苦い気がする。彼女もそう思っているのか、隣でちょっと顔をしかめていた。

二人並んで、苦いクッキーを頬張る。そしてぼんやりと、ある一点を眺める。
白い壁に仕切られた中に一つだけ、窓がある。その窓の向こうはいつも晴れていて、虹が架かっていて、山がある。とても綺麗な風景だ。

「ねぇ。いつかさ。あの山の向こうで羊と遊べたらいいわね。みんなで」
「………―――」

こんな会話も、もう何回目だろう。俺はそっと頷いた。言葉は飲み込む。淡い期待なんて、端から持っちゃいないのだから。


窓の向こうはいつも晴れていて、虹が架かっていて、山がある。
だけどそれは。


壁に描かれた絵だよ、だなんて、彼女には言えない。

いいよ。
ただの実験動物の気持ちなんて、分からなくていい。
いいよ。
例え実験体として失敗作だったとしても。

俺は、綺麗な窓の外を見る。
いつかおしまいが訪れたそのときは、こんな風景が見られるのだろうか。俺はじっと壁を見つめて、どんよりとよどんだ空気を深く吸って、吐き出した。
まるでこの空気と同化してしまいそうだ、と思いながら。



しばらくそういていると、隣にいた彼女が小さく震え始めた。小さな震えはやがて大きくなり、まるで彼女だけ違う生き物みたいにガタガタと体が動いていた。
彼女は自分の肩を抱きしめて、大きく目を見開いていた。ぎゅっと唇を固く閉じて、必死に声を漏らさないようにしている。

「ぁ、ぁ、ぁ」

彼女の唇から、小さな声が漏れ始めた。体の震えも大きくなって、とうとう耐え切れなくなったのか、甲高い悲鳴を上げながら小さくその場に丸くなった。まるで何かから、自分を守るように。
その悲鳴で、俺の膝の上にいた彼女が目を覚ました。俺の隣で震える彼女を見て、怯えた顔をしている。俺は彼女にかけていたタオルケットを、そっと震える彼女に被せた。

「……、……?」

怯える彼女が、くい、と俺の裾を引く。俺は黙って頷いて、震える彼女の元を離れた。怯える彼女は、黙って俺に付いて来る。甲高い悲鳴は、止まない。
俺は怯える彼女をできるだけ遠ざけたあと、部屋の隅に置いてある毛布を大量に抱えた。そしてそれを、そっと震える彼女の上に被せる。悲鳴は、少し落ち着いた。
震えもだいぶ治まった頃、がちゃり、と白い部屋の扉が開いた。白い服を着た男が、白い手袋をして白い注射器を持っている。男はずんずんと歩いて、怯える彼女の腕を取った。
ふるふる、と彼女が首を激しく横に振る。だが、男はそんな彼女に頓着した様子はない。
長細い注射針を、彼女は涙目になりながら拒絶した。だから俺は、ずい、と彼女と男の前に立った。わずかに、後退する男。

「俺でいいだろ。俺にすればいい」

真っ直ぐに男を見てそう言えば、男はわずかに目を細めた。だけど声を出すことはなく、差し出した俺の腕に、注射針を差し込んだ。ぐん、と何かが体内に入る感触がする。気持ちが悪い。
ぐらぐらと視界が揺らいだけれど、なんとか踏ん張った。男は時計を見て、俺を見て、そして小さな手帳に何かを書いた。そしてそのまま、何ごともなかったかのように扉の向こうへと消えて行った。
俺はその背中を見送って、がくりと膝を付く。

なんだか、やけに体が熱い。燃えているみたいだ。意識がはっきりとしなくて、ぐらぐらと揺れる。天井か、壁か、床か。とにかく揺れている。そしてやけに聴覚だけが鋭くなったみたいで、チク、タク、と時計の針の音だけがやけに鮮明に、耳に入ってきた。
ぐるん、と視界が回る。あ、どうしよう。瞼が重い。狭まる視界の中で、この前読んだあの本の背表紙が、鮮明に映った。



『 悪魔に捕らわれた男の子は 悪魔の元で必死に働きました
  悪魔のために何ができるのか 心の優しい彼は必死に考えました
  だけど必死に働く男の子に 悪魔は意地悪ばかりしていました

  男の子は悲しくなります どんなに頑張っても悪魔には男の子の頑張りは伝わりません
  そんな心優しい彼を見た神様は 彼の綺麗な心に胸を打たれ
悪魔の元から彼を助け出しました  』



『何、読んでるのよ?』
『ん?これ』
『これって……、へぇ、悪魔に連れ去れた男の子を、神様が助けてくれるお話じゃない』
『あぁ、そうだな。最後には神様が男の子を助けてくれて、コイツは自由になる』
『いいわね。でもきっと、いつか私たちも神様が外に連れ出してくれるわよ』
『………っ!』

そうだ、そうに決まってる、と表情を明るめる彼女。
うんうん、と嬉しそうに頷く彼女。
その隣で、俺はそっと笑った。言葉は飲み込む。過度な期待は、持たせないほうがいいから。

本の中の男の子は、神様に助け出されて笑ってる。そしてその端で、悪魔は悔しげに苦しげに呻いている。
そうだ、これは。ある意味で、的を射ている絵本だ。だって。

俺たちは人間じゃないから無理なんだ、なんて、無邪気に笑う彼女たちには言えない。

……俺たちは、この本の隅で呻いている悪魔だなんて、言えない。



は、と目を開けると、心配そうに俺を見下ろしてくる緑の目と、赤い目があった。俺と目が合うと、ぱっと表情を明るめた。緑色の目の彼女は涙を溜めて、俺に抱き付いてきて、赤い目の彼女はホッと息を吐いていた。
よかった、皆大丈夫そうだな。そう思った瞬間。

ぱ、と部屋が急に暗くなった。え、と思う間もなく、俺たちを囲っていた機械が、キューと唸り声を上げたかと思うと、ぴたりと何も言わなくなった。
シン、と静まり返る部屋。何も音が聞こえなくなって、怯える彼女たちは俺にしがみついた。
俺はただじっと、動かなくなった機械たちを、暗くなった部屋を、目を凝らして見つめた。

止まった。何かが、止まった。
何が? 何が止まった?

疑問に思った、その瞬間。
ドン、とどこか遠くで、懐かしい音が聞こえた。何かが弾ける音だ。その音は大きくなって、激しさを増す。
あぁ、まるで悪魔が攻め込んできたみたいだ。俺はパニックになって泣き叫ぶ彼女たちをぎゅっと抱きしめた、その瞬間。

ドン! と。

今までで一番大きな音が、した。
そして、身を引きちぎられるような衝撃。
ぐるん、と体が飛んで。
わずかに、火薬の匂いがした。

あ…………。

火薬の匂いのする場所は、窓のある壁だった。
いつも晴れていて、虹が架かっていて、山がある。
だけどその向こうに、見慣れないものが微かに見えていた。

どくん、と心臓が大きく波を打つ。こんな風に心臓が動いたのは、初めてだった。
どくん、どくん、どくん。あぁ、煩いくらい。俺の心臓は、こんなにも煩かったんだ。
がら、と僅かに崩れる壁に、緊張が走る。


…………、いいの?
あの壁の向こうの酸素、肺に入れちゃっても。
………、いいの?
じりじりと焼け付くようなレーザー線じゃない光、浴びても。

…………―――、いいの?

生きても、いいの?


俺の問いに答えるように。
ガラガラ、と崩れる壁の向こう。




「……………――――、神様」




青空越しの、神様を見た。



『  悪魔の元から助け出された男の子は神様に言いました

  ……―――神様どうかお願いです。僕を助けてくれたように悪魔も助けてあげてください。

  男の子の願いを聞いた神様は 男の子が去った後 彼の優しさに気づき涙するひとりぼっちの悪魔の手を取って 優しく微笑みました  』






『「………―――、一緒に生こう」』 



その言葉と、ともに。






おわり

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