ある夏の日に。

うだるような暑い夏の日。
どこまでも青い空と、白い雲、そしてザザ、ンと打ち付ける波の音。遠くの方で蝉の鳴く声も聞こえる。まさに夏本番、と言ったこの日、僕は海へとやって来ていた。

「いくぞ、志摩!」
「ちょ!手加減よろしゅうな!?」
「死ぬ気で取れよ!」
「え、ええええ!?」

わいわいと騒ぐ塾生たちを、僕はビーチパラソルの中で監督官よろしく見つめている。照りつける砂浜の上で、皆はビーチバレーに盛り上がっている。
その中でも兄さんは特に満面の笑顔を浮かべていて、僕もそんな兄さんの姿を嬉しく思いながら見つめていた。

ほんの少し前まで、兄さんはこうやって誰かと遊ぶことなんてなくて、悪魔として覚醒してしまってからは、尻尾を隠さなきゃならなかったから、水着になる海なんてもってのほかだった。
だけどこうして兄さんを悪魔だと知ってもなお、一緒になって遊んでくれるような仲間に出会えて。
夏休みだからと海に誘われた、と照れたような兄さんの言葉が、僕にとっても嬉しいものだったなんて、きっと兄さん自身は知らないだろう。

……神父さん。兄さんは、貴方の望んだような人になりました。

僕はぼんやりと青い空を見上げて、そう内心で呟く。
しんみりとしつつも、クーラーボックスに入っていたラムネのビンに手を伸ばす。カラン、とビー玉が落ちる音が涼しげだ。よく冷えたそれを飲んでいると、ビーチバレーの外で応援していたしえみさんが、こちらに走ってくるのが見えた。

「雪ちゃんは、ビーチバレーしないの?」
「えぇ。……しえみさんは?」
「うん、ちょっと疲れちゃって」

そう言いつつ僕の隣に座るしえみさんの顔は、とても楽しそうで。そういえば彼女も、兄さんと同じように友達のいない子だったな、と思う。
しえみさんはビーチバレーをしている兄さんたちを見つめて、小さく笑う。

「……、ふふ、燐、すごく楽しそうだね」
「そうですね」

そしてこういう時、しえみさんは必ず兄さんのことを口にする。燐、楽しそうだね、と。僕もそれに、そうですね、と返すのが、ここ最近では習慣のようになっていて。

「でも、しえみさんも楽しそうです」
「そう、かな?……うん、そうだね。すごく、楽しい」

楽しいよ、とどこか自分に実感させるように、しえみさんは言う。そして、兄さんをじっと見つめた。その横顔が、どことなく他の人を見る目とは違っていて、僕は静かにしえみさんから目を逸らした。

「雪ちゃんは、楽しい?」
「え?」
「ずっと日かげに居るから、楽しくないのかなって。燐も少し気にしてるみたいだったから」
「そうですか……。心配をかけさせてしまったみたいで、すみません。でも、僕も楽しいですよ」

僕が笑ってみせれば、しえみさんは安心したように笑った。
良かった、と無邪気に笑う彼女は、気づいているだろうか。
彼女は僕自身を心配しているつもりだろうけれど、その実、僕を心配している兄さんを、心配しているのだということに。

「しえみー!こっち来いよ!」
「うん!今行くよ!」

僕の隣にいたしえみさんを、兄さんが呼ぶ。
それを嬉しそうに返事をしながら、駆けていくしえみさん。
僕はそんな二人を見つめて、目を細めた。

もし、あの二人が想いを通わせたのだとしたら。
僕は、どうするだろう?

優しい彼女なら、悪魔だろうとも兄さんを大事にしてくれるだろう。
だけど。
だけど、と思うのだ。


僕は多分、どんなに好い女性が兄さんの隣に居たとしても、いい顔はしないだろう。


「ゆーきお!」
「う、わっ!?」

そんなことを考え込んでいた僕は、突然兄さんが僕の顔を覗き込んで来て、後ろにひっくり返りそうになった。そんな僕の態度を見て、兄さんも驚いたらしく、ぴん!と尻尾を立てていた。

「な、なんだよ、そんなに驚くことか?」
「ご、ごめん。ちょっと考え事してて……。それで?どうかしたの?」
「んー……」

兄さんは、少し考える素振りをする。はたはたと揺れる尻尾の様子から、特に何か用があって僕に声を掛けたのではないのだと推測して、小さく笑った。
そんな僕に、兄さんも少しだけ笑みを浮かべて。

「なぁ、雪男」
「何?兄さん」
「俺さぁ……、今すっげぇ楽しい」
「……、そっか」

しあわせを噛み締めるような、そんな声で。
僕が大切にしたいと思う、そんな笑顔で。
楽しい、と言う兄さんに、僕はほんの少しだけ、目じりが熱くなるのを感じた。
だけどそれは、この暑さのせいだと思って、誤魔化した。



その日の夜。そのまま海岸で、花火大会をすることになった。
打ち上げ花火やら手持ち花火を持参して、皆で夜に咲く花を満喫している。
赤、青、黄色、緑、様々な色に変化するその花は、皆の顔を淡く照らしている。

兄さんは海岸に打ち上げられた木に花火を降らせて喜んでいる。そんな兄さんを、勝呂君がやや呆れた顔で見つめていた。
その姿を見て、そういえば昔、修道院で花火をしたことがあったな、と思い出す。
まだ僕たちが幼稚園に通っていた頃で、神父さんが大量に花火を貰ったとかで、修道院の庭でささやなか花火大会をした。
その時も、兄さんは今みたいにはしゃぎまわって、神父さんに怒られてた。僕は花火の出す煙が苦手で、ほんの少ししかできなかった。
そしてそんな僕を見た兄さんが、少し離れた場所からぶんぶんを大きく花火を振って見せて。

『キレイだろ!』

そう言って、兄さんは無邪気に笑う。
くるくると円を描く花火の光と、兄さんのその笑顔に、僕は嬉しくなったのを覚えている。

「雪男!ほら!」

そして、今も。
たくさんの仲間に囲まれながらも、兄さんは僕に手を振る。そしてあの日と同じように、キレイだろ!と笑うから。

「そうだね。すごく、キレイだ」

僕もあの日と同じように、そう返していた。


そして、とうとう花火も残り少なくなって、最後に一番大きな打ち上げ花火をしよう、ということになった。
もうすっかり辺りは暗くなっていて、うすぼんやりとでしか、誰がどこにいるのか分からない。
花火の準備をする勝呂君たちを見つめながら、兄さんの姿を探す。兄さんは少しは慣れた場所から、勝呂君たちの様子を見ていて、僕はゆっくりと兄さんに近づいた。

「……どうしたの、兄さん。疲れちゃった?」
「雪男……」

 ぼんやりとしか見えないけれど、もしかしたら兄さんにはハッキリと僕の姿が見えているかもしれない。何となく、真っ直ぐに僕を見上げる兄さんの視線を、感じることができるから。
 僕が隣に来ると、兄さんはそうだなぁ、と呟いて。

「俺さ、ジジイや修道院の皆と花火をしたときのことを思い出してさ」
「うん」
「何か、懐かしくて」
「……」
「ほんのちょっとだけ、寂しいかな、なんて、思っちまった」

ガラにもねぇよな、と兄さんの笑う気配がして、僕はそっと兄さんに手を伸ばした。手探りで、兄さんの手を探して、きゅ、と指を絡める。

「ゆきお……?」

兄さんが不思議そうに僕を呼んだけれど、僕は何も答えなかった。ただ黙って兄さんの手を握り締めて、その体温を感じて。

「ほな、行くで!」

勝呂君たちの準備が整ったのだろう、一際大きくそう叫んだ勝呂君がライターに火を付けて、打ち上げ花火に向かって火を灯していた。

「……、兄さん」
「ん?」

ジジ、と導火線に灯る火が、花火本体へと消えて。

「……―――僕は、」

ぱぁん!と、真っ黒な夜の空に、明かりが灯る。
隣にいる兄さんの顔がその明かりに灯されて、よく見えるようになる。
僕を見上げた兄さんのその唇に、そっと唇を落とした。そして、僕たちの影は一つになって。
兄さんの瞳に映る花火を見つめて、触れた先から想いが伝わるよう願いながら、目を閉じる。

……―――僕はずっと兄さんの傍にいるよ、と。

そして、世界に光が満ちて、消えた。







ぱぁん!と大きな破裂音と一緒に、キレイな花が空に燃える。
私はそれを見上げながら、ちらり、と燐の姿を探す。彼は今どんな顔をしているだろうか、と。
だけど向けた視線の先に居たのは、燐だけじゃなくて。
明るく灯る花の下、燐の隣にいた雪ちゃんが燐の頬へと手を伸ばすのを見て、私はほんの少し切なくなった。

大好きな雪ちゃん。
私と同じ年なのに立派でカッコいい、多分、私にとって最初のおとこのひと。
そして、大切な燐。
少し乱暴だけど優しい心を持った、私を救ってくれたひと。
二人は私にとって大事なひと。だから、二人がしあわせなら、それは嬉しいことのはずなのに。
なんで、こんなにも胸が痛むのだろう?
なんで、こんなにも泣きたくなるのだろう?

「……ッ」

私は胸を押さえて、大きく息を吸い込んだ。
ほんの少し火薬の匂いが鼻について、小さく咽る。

「ちょっと、大丈夫?」

こほこほ、と咳き込む私に、神木さんがそう言って。

「うん。……大丈夫だよ」

私は、精一杯の笑顔で、答えた。
笑っていないと、きっと私は泣いてしまうから。



ある夏の日。
私はきっと、このせつなさを忘れない。








おわり

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