Bicycle Master

とある放課後。いつものように塾を終えた塾生たちは、珍しく帰路に着くことなく、教室内に留まっていた。というのも、塾生の一人である奥村燐が、双子の弟である奥村雪男が講師の仕事を終えるのを待っているというので、付き合いで他の生徒たちも残っていた。大人びているといっても、やはりまだ高校生。クラスメイト同士で話したいこともあるだろう。話題は尽きず、大盛り上がりとなるが、その中で、ふと、中学時代の話になった。

「中学んときは、帰り道で買い食いとかしましたなぁ。あの駄菓子屋のおばちゃん、元気やろか……」
「あぁ、そういえば。志摩さんが駄菓子の金額を誤魔化そうとして、おばちゃんにバレて叱られてはりましたね」
「なんでそこピンポイントで言うんですか。他にもあるやないですか、色々!」
「それは日ごろの行いのせいや、志摩。自業自得や」
「んな殺生な!」
「志摩、おばちゃん騙すとかひでぇぞ」
「奥村君まで……」

がくり、と肩を落とす志摩は無視しつつ、彼らは話を続けた。

「お前ら、ほんとにずっと一緒なんだな」
「そりゃあ、ほとんど身内みたいなもんですからね」
「家出るのも、学校から帰るのも、同じ方向やから結局一緒になるし」
「そうそう! そんとき、ほんまはバス通学でええのを、坊が体が鈍るから言うて、自転車で通学してたんですよ! 僕らはそれのとばっちり受けて、大変やったんですから!」
「そんな遠いとこやなかったし、バス代勿体無い」
「うわあ、ほんま真面目やなぁ」

再び撃沈している志摩を無視しつつ、へぇ、と相槌を打った燐はニッと満面の笑顔で。

「お前らすげぇな! 自転車とか乗れるんだ!」

と、爆弾発言を寄越した。
え、と周囲が固まる。その反応に、あれ? と燐は首を傾げる。

「あれ、俺、なんか変なこと言ったか?」
「や、へんなことっていうか…………。もしかして奥村君、自転車、乗れへんの?」

恐る恐る、というように志摩が尋ねると、燐はきょとんとしたあと。

「だってあれ、大人にならないと乗れないんだろ?」

と、再び爆弾発言を寄越した。再び、固まる周囲。

「いやそれ、自転車やのうて車の話やろ」
「えー、だってジジイがそんな風に言ってたぞ。自転車は大人の乗り物だ! って」
「ジジイって、奥村君たちを育てたっていう親父さんのことですよね? なしてそんなこと言ったんやろう?」
「わかんね」

うーん、とさして考えている風でもなく腕を組む燐に、周囲も首を傾げた。だが、考えたところで当の「ジジイ」はこの場にいない。彼の真意は謎のままだ。
早々に考えることを放棄した燐は、しかし何かに気づいたようにハッと目を見開く。

「まさか! 自転車乗れねぇの、俺だけ!?」

そんな、と周囲を見渡せば、誰もが気まずそうに目を逸らした。しかし燐は頼みの綱とばかりに、隣の席のしえみをぐるりと振り向いて。

「しえみ! お前は乗れるのか!?」
「え、えっと、その……………ごめんね、燐」

彼女が悪いわけではないのだが、しえみは申し訳なさそうに笑った。それが決定打となり、ガン、と燐は衝撃を受けたように机に伏した。

「そんな、しえみだって乗れるのに、俺だけ乗れねぇとか………」

よっぽど、彼女が乗れたことが衝撃的らしい。よくよく考えれば失礼な話だが、このとき誰もそのことに違和感を持っていなかった。むしろ、杜山さん、乗れたんだ、と更に失礼なことを考えていたのだが、口に出す人がいなかったので、その場には気まずい沈黙だけが流れた。
ぐすぐす、と落ち込む燐を見かねて、勝呂はバン、と机を叩くと。

「よっしゃ、奥村! 特訓や! 俺たちが自転車に乗れるように、特訓したる!」
「っ、いいのか! 勝呂!」
「え、坊、今俺『たち』って」
「良かったですね奥村君! 僕も協力します!」
「こねこまる……お前って奴は、ほんとにいい奴だな!」
「えー、やっぱりそうなるんやね………」
「頑張れ! 燐!」
「…………くっだらない」

それぞれにそれぞれの反応をしつつも、こうして奥村燐の自転車攻略大作戦が幕を開けたのだった。

「自転車マスターに、俺はなる!」
「ジャンル違うし」





その次の日曜日。天気は快晴。清々しいまでの晴天の下、学園内の広場に彼らは集合していた。
皆ジャージ姿で、気合十分だ。
集まった面々の中心には、一台の自転車。真っ青なボディは、滑らかな曲線を描いている。

「えー、今回の自転車攻略に当たって、理事長から自転車の提供がありました。奥村、お前あとで理事長にお礼言っとけよ」
「おー! ありがとうメフィスト!」
「今ここで言うてもしゃあないやろ」
「いいんだよ、これで」
「ったく、ほら、さっそく始めるぞ」

乗れ、と勝呂から言われた燐は、気合十分にサドルを握り締めた。そしてそのまま、固まっている。

「おい、はよ乗れや」
「え、どうやって乗るんだ、これ?」
「…………」

前途多難である。





「ほら、こうして乗るんや」
「おおおおすげぇ!」

仕方なく、勝呂は手本として自転車に乗って見せた。全然凄いわけじゃないのだが、燐はひどく感動している。すいすいと自転車をこぎ、右へ左へ迂回し、戻って来た勝呂に、盛大な拍手を送る燐。

「すげぇ! どうやって乗るんだ? どうやってすいすいーって行くんだ?」
「あぁもう! 順番に教えたるからちっと黙っとけ!」

はしゃぎまくっている燐を一喝し、勝呂はしかし、一から丁寧に教えている。これは彼の性格ゆえだろう。おかげでなんとか、自転車に乗るところまではできるようになった。
その様子を、座り込んで見守る女子一同。

「燐、楽しそうだね」

しえみが、いつもの言葉を口にする。彼女は燐が楽しそうにしていると、この言葉を必ず口にする。それを横目に、出雲はフンと鼻を鳴らした。

「アイツならすぐに乗れるようになるんじゃない? バカみたいに運動神経良いんだし」
「あはは、そうかもね」

何だかんだ言って、口調は悪いが褒めているらしい出雲に、しえみはくすくすと笑う。彼女の言葉とおり、燐はよろよろとしながらも、ペダルを漕げるところまではできるようになっていた。もちろん、後ろで子猫丸が支えていての状態だが。

「こ、こねこまる、ぜったい、ぜったい手を離すなよ!?」
「はい、分かってますよ奥村君」
「ぜったい、ぜったいだからな!」
「絶対の絶対ですから、安心して下さい」
「ぜったいのぜったいのぜったいのぜっ」
「しつこい!」

すかさず入る勝呂のツッコミ。それに苦笑しつつ、子猫丸はその背中を見上げた。
子猫丸にとって燐は、実は、初めて外で出来た友人だ。正十字学園に入るまでの子猫丸の世界は狭く、家柄も関係ない友人などできたことがなかった。そんなとき、明け透けに子猫丸を友人だと言う燐に、ほんの少し、憧れていて。
一度は拒絶した自分を、彼は笑って許してくれた。それでも友達だと、友達でいて欲しいと言ってくれた。
だから、こんなことでいいのなら、いくらでも付き合うつもりだ。彼に対して、これで少しでも恩返しができたらいい、と。
……………、奥村君。僕は君のためなら、協力はおしまへんよ。
ふ、と小さく笑って。そして。


子猫丸は、満面の笑顔で、支えていた手を離したのだった。





全身に風を感じる。風を切って走る、なんていう言葉があるが、まさに、今の自分がその状態だった。
燐は真っ青な空を見上げる。両足を乗せたペダルを必死に蹴りながら、ふいに、視界が滲んだ。
………―――みんな、いい奴だ。
なんだかんだ言って、こうして燐の為に自転車の特訓に付き合ってくれる。今までの自分には、考えられないことだ。それが嬉しくて、嬉しくて仕方なくて、ツン、と鼻の奥が痛む。
ダメだダメだ、と小さく首を横に振って、思考を切り替える。そして、おぼつかないながらも右へハンドルを切る。ぐるん、と元来た道を戻った。なんだろう、すごく、自分が自転車に乗れている気分になってきた。
燐はテンションが上がって、こちらを見ている勝呂に向かって叫んだ。

「おーい勝呂! 俺、なんか結構スムーズに乗れてね!?」
「乗れてるいうか、ちゃんと乗ってるやろ!」
「おー、やりましたなぁ!」
「ほんま、綺麗に乗れてますよ、奥村君!」
「えっ、ホントに?」

勝呂の隣で子猫丸が笑顔で手を振っている。それにパッと表情を明るくさせた燐だが、ふと、我に返る。
あれ、なんで子猫丸があそこにいるんだ? あれ? 俺の後ろにいたんじゃなかったっけ?
目を瞬かせるが、何度見ても子猫丸は勝呂の隣にいる。………と、いうことは。

「っ、お、おれ、っ、乗れてるっ!?」
「せやから、さっきからそう言うてるやろ!」

呆れ顔の勝呂だったが、その表情は明るい。
燐も嬉しくなって、ぎゅん、とペダルを漕ぐ足に力を入れる。途端に早くなるスピード。それ以上に、込み上げてくるのは、乗れたという喜びで。

「やった! 乗れた!」

やった、やった、と大はしゃぎする燐。そしてその姿を、温かい目で見守る周囲。ぐんぐんとスピードを上げる燐を呆れた様子で見守っていた彼らだが、しかし、近づいて来たにも関わらずそのスピードが落ちないことに、徐々に怪訝そうな表情になり、そして。

「ごめん! どうやって止まるんだ? これ!」
「ええええええええ!」

猛スピードでこちらに向かって来る燐に、京都三人組は全力で逃げ出した。






結局。
自転車には早々に乗れるようになったものの、所定の場所で止まるということができなかった燐が、ようやくブレーキを出来る様になった頃には、周囲は夕日で真っ赤に染まっていた。
くたくたになった燐と京都三人組は、その場にへたりこんだ。皆ボロボロで、肩を落としてお疲れモードだ。

「疲れた………、なんか知らんけど、疲れた………」
「お、おう」
「でも、これで奥村君、自転車に乗れるようになりましたね」

息を切らせながらも、子猫丸はどこか満足そうだ。その笑顔に、絶対に手を離さないと言った癖に離した恨みなど、忘れてしまう。
ふへへ、と気の抜けた笑みを浮かべながら、赤く染まった夕日を見上げていると、兄さん! と聞きなれた声が聞こえてきた。お、と振り返ると、双子の弟である雪男が、私服姿でこちらに向かって歩いて来た。

「雪男!」
「もう、こんな時間まで何してたんだよ。携帯にも出ないし」
「あーごめん。それどころじゃなくってさ」
「?」

疲れた様子で笑う燐に首を傾げた雪男は、同じく疲れた様子の三人を見て、呆れたように眼鏡を押し上げた。

「兄さん、子どもじゃないんだから、外で遊ぶのにそんなにはしゃがなくてもいいんじゃないの」
「ちげぇよ眼鏡! 自転車に乗る特訓をしてたの!」
「自転車…………?」

ほら見ろ! とところどころ凹んでいる青い自転車を指差した燐。それを目で追った雪男は、しかし、はぁ、とため息を吐いて。

「兄さん、自転車は大人の乗り物なんだから、乗っちゃダメじゃないか」
「え」

さらり、と寄越された言葉に、固まる周囲。え、もしかして、え? とお互いを見合わせて、それぞれに過ぎった嫌な予感を確認する。
そんな周囲には気付かず、にゃはは、と高らかに笑った燐は。

「残念だったなホクロ眼鏡! 自転車は子どもも乗っていい乗り物なんだよ!」
「……………ばかな」

得意げな燐に、そんなことあるかと反論しかけた雪男は、しかし、何かに気付いたようにハッと目を見開いて周囲を見渡した。同時に、スッと目を逸らす周囲一同。その反応で察することができたのか、雪男はふるふると肩を震わせて。

「え、皆さん、乗れる、ん、です、か?」
「……………」

頑なに目を逸らす一同に、絶望的な顔をした雪男は、しかしバッとしえみのほうを向いて。

「しえみさんは!?」
「え、えっと、その……………ごめんね、雪ちゃん」

決して、彼女が悪いわけではないのだが、しえみは申し訳なさそうに笑った。それが決定打となり、受けた衝撃を隠すように雪男は眼鏡を押し上げた。

「そんな、まさか、そんな……………」
「…………」

あまりにもショックを受けているらしい雪男。そこに追い討ちをかけるように、「え、まさか奥村先生、自転車に乗れないんですか?」なんて聞けるわけもなく。
気まずい沈黙が降りる中、弟のそんな様子に気付きもしない兄、燐は。

「なんだ? 雪男、もしかしてお前、自転車乗れねぇのか?」
「っ、」

無邪気に超ド級ストレートを投げた燐に、真っ青になる周囲。あちゃあ、と思ったそのとき、ゆらりと体を起こした雪男は。

「……………………何を言ってるんだ、兄さん。乗れるに決まってるじゃないか」

爽やかな笑顔で、嘘と分かる嘘をついた。

うわぁ、と周囲がドン引きしている中、燐はそりゃそうだよなーなんてのん気に納得していて。
当然じゃないか、と綺麗に笑っていた雪男は、しかし燐が後ろを向いた途端、京都三人組に向かって真っ黒な笑顔を見せた。
………余計なこと言うんじゃねぇぞ。
目がそう語っている。わずかに、彼の懐に手が伸びているのも、気になる。
なにもそこまでムキにならなくても、と思わなくもなかったが、三人は口を閉ざす。




数週間後、土日の休日明け、何故かクタクタに疲れきった京都三人組の隣で、兄さんが自転車に乗れるんなら、サイクリングにでも行こうか、と話す雪男の姿があったとかなかったとか。

提供した二台目の自転車が一台目よりもボロボロになって返ってきたのを見た某理事長は、「奥村先生の弱点を発見しました」と語り、大爆笑したのだとか。

そんな話は当然、サイクリングはどこに行こうかと夢中になっている燐が知るよしはなく。
京都三人組は、疲れきった顔で乾いた笑みを浮かべたのだった。


まだまだ、自転車マスターへの道のりは、厳しいらしい。





END

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