我輩は猫である。3 前編





俺は猫だ。名前は、トシ、という。
野良猫だった俺を拾ってくれた今のご主人、銀と一緒にオンボロアパートで暮らしている。
銀は学校の先生だから、昼間は家にはいない。いつもなら一匹で留守番して、銀が帰ってくるのを待っているんだけど、明日の俺はいつもとは違う。

5月5日。明日は俺の誕生日なんだ。

誕生日なんて、たくさんの兄弟たちと同じ日に生まれた猫にとってそこまで大切なものじゃない。そんなこと、分かってる。
でも、ずっと一匹だった俺にとって、初めてご主人と迎える誕生日だから、本当は銀と一緒にいたいって思っていた。
だけど、銀は明日は学校だ。せっかくのゴールデンウィークなのにってブツブツぼやいているのを聞いたから。

『行くのか、銀』

俺が小さく鳴いて、すり、と銀に擦り寄ると、ブツブツ言っていた銀は俺を見下ろして、哀れな俺をなぐさめてくれんのかー?と嬉しそうに俺の頭を撫でた。

『……銀』

行くな、とは言えない。そもそも俺と銀は種族が違う。銀はニンゲンで、俺は猫だ。言葉を交わすことさえ、できない。
俺は頭を撫でる大きな手の感触にそっと眼を閉じて、これで我慢しないと、と思った。
暖かな手。それだけで、充分じゃないか。


その日の夜。
おやすみ、といつものように俺に声をかけた銀は、もぞもぞと布団にもぐりこんですぐに寝息を立て始めた。銀はいつも寝るのが早くて、俺はそれを確認してから眠りにつく。
だけど今夜は、ちょっとだけいつもと違う俺がいて。

『銀』

小さく鳴いてみても、銀が起きる様子は無い。そろり、と布団の上に乗って、眠っている銀を見下ろす。夜の闇にもはっきりと浮かび上がる、銀色の髪。ふわふわと揺れるそれを眺めて、また、銀、と鳴く。だけど銀は、やっぱり目を覚まさない。
すーすーと気持ちよさそうに眠る銀に、俺はぐらりと心が揺らいだ。

……ちょっとくらい、いいだろうか。

俺はゆっくりと、銀を起こさないように慎重に、銀の隣にもぐりこんだ。ほっこりと暖かい銀の体温を感じて、俺は小さく息をつく。

銀の隣は、ひどく落ち着く。

もぞもぞと銀の体に擦り寄ると、ううん、と小さく唸る。ドキドキして、起きてしまっただろうかと銀を見上げると、銀は俺の体に気が付いてぎゅっと抱きしめてきた。近くなる温度に、更に心拍数を上げたけれど、銀は眠ったままだ。

甘い、銀の匂い。そして、力強い腕と、ぬくもり。

俺はそれを心地よく感じながら、ふと、どうして俺はニンゲンじゃないのだろう、と思った。
もし、俺が人間だったなら。きっと、銀の背中に腕を回せるのに。
そして、言葉を交わして。おはよう、と言う銀に、おはようって返せるのに。
疲れて帰ってきた銀に、おかえりって迎えてあげられるのに。

どうして、俺は猫なんだろう。どうして、銀はニンゲンなんだろう。
それが、ひどく寂しくて。……哀しい。

俺は沈みそうになるその想いを振り切るように、きつく瞼を閉じた。明日になれば。……―――誕生日になれば、きっと忘れられる。こんな、ちっぽけな猫の、おろかな願いなんて。

俺はそう自嘲して、ゆるゆると眠りの闇に落ちていった。



「ええええええええええええええッ!?」

緩やかな眠りに身を任せていた俺は、けたたましい声で目が覚めた。
俺はまだ夢の中に居たのにそれを邪魔されて、ちょっとイラっとしつつ丸くなる。
いつもは俺に起こされないと起きないくせに。今日くらいは俺も寝坊したっていいじゃないか。

「んだよ、うるせぇな」

もうちょっと寝かせろよ、と銀に向かって抗議する。どうせ分かりはしないんだし。
すると銀は、いやいやいや!何言ってんのお前!と俺を揺さぶってきた。

「ちょ、お前!寝んなコラ!」
「んー、銀、しつこい」
「や、しつこいじゃなくて!」

とにかく起きて!と言われて、しぶしぶ俺は顔を上げる。真っ直ぐに俺を見下ろして、驚いたような、焦ったような顔で俺を見る銀に、首を傾げる。

「銀?」

どうしたんだ、と俺は銀に擦り寄ろうとして、ビシリ、と体を硬直させた。
何か、体が重い。っていうか、何か、うまく動けない。ってか、何か、コレ、え?

俺は呆然と、自分の手のひらを見下ろして愕然とする。
明らかに、俺の視線の先にはニンゲンの手のひらがあって。手のひらから腕を伝って視線を下ろしてみても、どう考えたって俺の方に伸びていて。

ちょっと、待て。これって……ッ!

「お、俺……ッ」

ニンゲンになってるんですけど!



とりあえず混乱した頭を落ち着かせて、俺はまじまじと自分の体を見下ろした。
五本の指、二つの腕と足。ニンゲンそのものの体が俺の思ったとおりに動く。
すごい、本当に、俺、ニンゲンになってる……。

俺は何か分からないけど感動して、銀を見上げた。すると銀は、すごく困った顔をして俺を見下ろしていた。

「銀……?」

どうした?と心配になって銀を呼ぶと、あー、と唸りながら頭をかいて、俺から視線を逸らす。

「えっと……、その、とりあえず、隠してくれる?」
「!」

何を、とは聞かなくても分かった。俺は慌てて、シーツに包まる。俺は猫だから気にならないけれど、銀はニンゲンだから気になるのだろう。
シーツに包まった俺を確認して、少し落ち着いた銀は、まじまじと俺を見下ろして言い難そうに。

「あの、さ。ところで、君は誰?」
「え……」

俺がきょとんとしていると、銀は更に、なんで俺の部屋にいるわけ?と聞いてくる。俺は少し混乱したけれど、銀は飼い猫である『トシ』がニンゲンになったなんて、分かるわけがない。そう思って、俺はどう説明しようかと悩んだ。俺自身でさえ原因が分かっていないのを、銀に説明できるだろうか。
だけど、このままでいるわけにもいかずに。

「あの、俺は……。トシ、だ。銀」
「へ?」
「だから、俺はお前の飼い猫だ、銀」
「か、飼い猫って……」

や、俺、そんなサービス頼んだ覚えねぇけど!?となぜか慌てる銀に、首を傾げる。何か、誤解させるようなことを言っただろうか?

「サービス?」
「え、あ!いや、なんでもないから!」

銀は自分の失言に気づいたのか、何でもないを連呼する。よく分からないけれど、銀が何でもないって言っているので、気にしないことにした。

「でも、『トシ』って……、その、俺が飼ってる猫と同じ名前なんですけど」
「だから!それが俺だって言ってんだろ!」

まだよく状況を把握できていない銀に、俺は苛々しつつもそう叫んだ。すると銀は、呆気に取られたような顔をして。

「ええええええええええええええッ!」

また、絶叫した。


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