初恋草

初恋草の花言葉を、知っていますか?





失恋を、した。
ずっとすきだった彼女は、僕の双子の兄さんのことが好きで。でもそのことは、実はずっと前から気付いていた。だから半分は、諦めに似た恋をしていたのだと思う。
すきだからこそ、相手の幸せを願う。そんな恋だった。

だけど、幸せを願っていた彼女の恋は実らなかった。兄さんには、別にすきなひとがいたのだ。
信じられなかった。だって、兄さんも彼女のことがすきだと、ずっと思っていたからだ。
だから他にすきなひとがいると聞いたとき、驚いたし、同時に、許せなかった。

彼女を傷つけたこともそうだけど、何より、兄さんが僕の知らない誰かに想いを寄せていることが、どうしようもなく、許せなかった。

だから、兄さんに誰がすきなのかを問い詰めたけれど、頑なに口を閉ざして、結局は聞けずに終わってしまった。そしてその日から、あからさまに兄さんは僕を避けるようになった。いつもならギリギリまで寝ているくせに、朝は早く起きて出て行くし、夜は僕の方が遅くなってしまうから、部屋に着くと寝てしまっている。唯一の塾でも、始まるまでは塾生の誰かと話しているし、終わったらすぐに教室を出て行ってしまう。会話をする暇がない。

どうして、そこまで頑なに口を閉ざすんだ。

そんな兄さんの態度に、僕の苛立ちはピークに達していた。




「……―――、では、今日の授業はここまで」

祓魔塾が終わり、僕は教科書から顔を上げる。途端に、兄さんが席を立とうとした。そうはさせるか。今日という今日は、逃がさない。

「ちょっと待って下さい、奥村君」
「っ」

出て行こうとした兄さんを、引きとめる。途端に、びく、と肩を震わせた兄さんは、おそるおそるというように、こちらを振り返った。心なしか、顔が引きつっている。

「な、ナンデスカ」
「ちょっとお話があるんですが」
「えー、えっと、それは今じゃないと、」
「ダメです」

即答すると、兄さんは更に顔を引きつらせた。他の塾生たちも、僕たちのただならない様子に、そそくさと教室を出て行く。その中にいたしえみさんは、ちらりと僕と兄さんを見やると、兄さんの制服の袖を引いた。

「………燐、大丈夫?」
「あ、あぁ、大丈夫だ。心配すんな」

心配そうなしえみさんに、兄さんは笑って見せた。それでもしえみさんの表情は晴れなかったが、兄さんが笑みを浮かべたままだったので、何も言わずに教室を出て行った。
しえみさんらしい気遣いだとは思うが、今の僕にはその光景さえ不快に思えて。

「………ずいぶんと、仲がいいんだね」
「あ?」
「彼女のこと、フッたくせに」
「あぁ? それとこれとは関係ないだろ」

キッ、と兄さんは僕を睨みつけた。どうやら、触れて欲しくないことだったようで、纏う空気がピリピリしているのを肌で感じた。だが、それは僕だって同じことで。

「関係あるよ。フッたのに仲良くしてるなんて、正気とは思えないね。しえみさんが可哀想だよ」
「別にフッたからって、友達じゃなくなるわけじゃねぇだろ。そんなことで、今までの関係を全部なかったことになんて、できるわけないだろ。俺は、しえみのことは大切な仲間として好きだし、これからだってそれは変わらねぇよ」
「ふぅん。そんなこと、ね。兄さんにとって、彼女の告白は「そんなこと」なんだ? あぁ、そうだよね、兄さんには別にすきなひとがいるんだもんね。それも当然か」
「そういう意味で言ったんじゃねぇよ! …………おい、雪男、お前どうしたんだよ。今日はやけに突っかかってくるじゃねぇか」

兄さんは不機嫌そうな顔をしながらも、この前のように僕の態度に違和感を感じているのか、怪訝そうにこちらを見ていた。
そんなの、僕にだって分からないよ。どうしてこんなに、苛立つのか。兄さんのすきなひとが誰なのか。気になって、しょうがないんだ。
だって、兄さんのすきなひとはしえみさんだって、ずっと思ってたんだ。だから………。
…………―――、だから?

「……………―――、あ?」

そこまで考えて、ふと、我に返る。
自分の思考に、違和感を覚える。だって、おかしいじゃないか。
兄さんがしえみさんをすきだと思ったから………―――、安心していた、なんて。
どうして僕は、そんなことを思ったんだ?

「雪男?」
「…………」

兄さんが、こちらを見上げる。青い瞳が揺れる。なんだろう、その瞳を、真っ直ぐに見ることが出来ない。視線を逸らす。どうしよう。兄さんを問い詰めるはずが、まさかこんなことになるなんて。

「…………、なんでも、ない」

そう、なんでもないんだ。これ以上、考えてはいけない。これ以上、深入りしてはいけない。僕はそんな危機感を覚えて、考えるのを止めた。このまま兄さんの傍にいれば、僕は何か、自分が自分でなくなってしまうような、根本的な何かが崩れてしまいそうな恐怖さえ覚えて。
僕は、兄さんに背を向けた。

「お、おい、雪男っ?」

戸惑う兄さんの声。それを無視して、僕は教室を後にした。
ばたん、と扉の閉まる音が、やけに大きく響く。

「ちくしょう…………」

もう、何がなんだか分からなくなってきた。



それから僕は、とにかく兄さんを避けた。出なくてもいい任務に出たり、授業を変わってもらったり。最初は兄さんが僕を避けていたはずなのに、いつの間にか僕が兄さんを避けるようになっていた。
そんな僕に、シュラさんは気付いているのかいないのか。これ以上悩むとハゲるぞ、なんて笑っているし、フェレス卿は会うたびに意味深な笑みを浮かべている。碌な大人しか周りにいない現状に、今更だけどため息が漏れる。

そんな、ある日。
任務の終わりに、丁度祓魔屋に用事ができた僕は、少し気が進まないながらも足を運んだ。店にはしえみさんではなく、彼女の母親の方が店番をしていて、少しホッとする。夜も遅い時間帯だったから、しえみさんは奥にいるのだろう。
彼女は僕と目が合うと、表情を緩ませた。

「いらっしゃい。あら、若先生じゃないか」
「こんばんは。予約していたものを、取りに来ました」
「あぁ、来てるよ。ちょっと待ってて」

彼女は奥の方でごそごそと何やら作業をしながら、そういえば、と軽い口調で。

「若先生のお兄さん、今日は姿が見えないみたいだったけど、忙しいのかしら」
「え? あ、えぇ、まぁ……」

あまりにも自然に尋ねられて、僕は困惑した。今日、は? まるで、いつも来ていたみたいな言い方だ。どういうことだろう。妙な、胸騒ぎがする。
僕の返事が不明瞭だったことに気付いた彼女は、あら、と少し気まずそうな顔をした。

「もしかして若先生、知らなかったのかい? 若先生のお兄さん、最近よくここに来るのよ。しえみと一緒に、庭で話をしてたり、あぁ、時々勉強してる姿も見かけるわねぇ」
「………、そう、だったんですか」

知らなかった。兄さんとしえみさんが、そんな風に二人で会っていたなんて。
胸騒ぎは止まらない。
僕の返事にどう思ったのか、彼女は自然な様子で、あぁそれと、なんて話を逸らせた。彼女なりに、気を使ったのだろう。だが、僕の中では先ほどの彼女の言葉がぐるぐると渦巻いていて。
二人で会って、何を話していたんだろう。兄さんは僕と違って話題性があるから、きっと会話は途切れない。笑いあう二人の姿を想像して、ぐ、と息が詰まる。
苦しい。苦しいはずなのに、何かが、違う。何が違う? 分からない。二人が仲が良い姿を見て、息が詰まるような感情を覚えるのは、一度や二度じゃなかったはずなのに。

それなのに、この、何ともいえない感情は、なんだ?

僕は彼女の話に耳を傾けながら、ぐっと、手のひらを握り締めていた。

祓魔屋から帰ると、珍しく兄さんが机に座っていた。真っ暗な部屋には、机を照らす電灯しか付いていない。勉強でもしているのかな。………いや、それはないか。僕が帰って来たことに気付きもしないで、一心に机に向かっている背中を眺めて、小さく苦笑を漏らす。
そろり、とその背中に近づく。そんなに熱心に、何をしているんだろう。興味を引かれて、兄さんに気づかれないように近づいて、机の上を覗き込んだ。

「…………―――、」

結果として、兄さんは何もしていなかった。ただ、机に伏してすぅすぅと気持ち良さそうに眠っている。僕はがくりと肩を落とした。ある意味で、期待を裏切らないひとだ。呆れるやら関心するやらで、僕は小さく笑みを零した。

「………こんなところで寝たら、風邪引くよ」

そっと零した声は、どこか、自分のものじゃないみたいに、優しい。僕は自分の声にぎょっとして、口元に手をやった。
無意味にきょろきょろとして、周囲を見渡すものの、僕の声を聞いたのは僕しかいなくて、つまり、こんなに動揺しているのも、僕しかいない。
僕は一体、どうしてしまったというのか。
しえみさんの告白を聞いて、いや、兄さんにすきなひとがいるのだと知ってからの僕は、どうにもおかしい。感情が安定しない。こんなことは、初めてだ。

「にいさん」

瞼を閉じて、深い眠りについているその横顔に、そっと手を伸ばす。触れた頬は暖かくて、知れず、瞼が熱くなる。
分からない。分からないんだ。どうして、こんな気持ちになるのか。理解できないことは、不安を呼び寄せる。訳の分からない何かが、背後で蠢いている。僕の背中に手を伸ばして、触れようとしている。そんな、得体の知れない恐怖を覚えて、ぞくり、とする。
思わず、縋るようにその頬を撫でて。

「兄さん。にいさんは、誰がすきなの…………?」

震える僕の声が、部屋に響く。なんて、弱い声なんだろう。自嘲する。
兄さんみたいに、強くなりたかった。強くなって、いつも僕を守ってばかりの背中に、追いつきたかった。そうじゃないと、置いていかれるような気がして、怖かった。
………、兄さんは、つよいひとだ。
いつだって前を向いている。どんなことがあっても。それは兄さんの強さで、だから、僕が強くなれば、兄さんと肩を並べて歩けるのだと信じていた。
そのはずだったのに。僕は強くなったはずなのに、兄さんは違う誰かを見ているの?
僕でもなく、しえみさんでもない、誰かを?

「…………っ」

思い浮かべてみる。兄さんの隣にいる知らない誰か。その人に兄さんは無邪気に笑いかけていて、幸せそうな顔をしていた。その人も、同じように幸せそうに兄さんを見つめていて。
それは、ひどく。
胸が焼け付くような不快感を、僕にもたらした。吐き気さえ込み上げてくるほどだ。ぐ、と思わず口元を押さえる。気持ちが、悪い。冷や汗が止まらない。兄さんに触れる指先が、す、と冷たくなる。
その温度の変化に、兄さんはうぅ、と小さく唸る。ハッと手を離そうとした、そのとき。

「………――――――、ゆきお」

ぽつり、と。
兄さんが、僕の名を呟く。ほとんど吐息に近い声で。ふにゃり、と幸せそうに緩んだ表情が、目に、焼きついて。
スッと、吐き気が治まっていくのを感じる。

「………にいさん?」

起きているのか、と顔を覗きこんだけれど、やっぱり兄さんはすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。寝言、か。寝言で僕の名を呼ぶなんて、いったいどんな夢を見ているのやら。
僕は、一つ息を吐く。胸やけは治まったけれど、それとは別の息苦しさを覚えて、きっちりと締めていた制服のネクタイを緩める。

自分の感情の名さえ、まだ良く分からないけれど。それでも、一つだけ、分かったことがある。
僕は………―――。




もやもやとした感情を持て余して、そのまま数日が過ぎた。相変わらず、お互いにお互いを避ける日々が続いている。こういうとき、いつも最初に折れるのは兄さんだ。どんなに気まずい喧嘩をしたって、次の日にはなんでもない顔をして、雪男、なんて笑って僕を呼ぶ。気まずい想いを吹き飛ばすようなその笑顔を見ると、僕だけが意地を張っているような気がして、だから僕も、なんでもない顔をして返事を返す。それが、今までの僕たちだった。
それなのに、今回は兄さんが折れる様子はない。だから僕も、何だか意地になってしまっていて、引くに引けない状態が続いている。
自然と、二人きりの気まずい部屋には寄り付かなくなって、任務だと言って夜遅くに帰って、朝は兄さんよりも早く起きる。学校ではクラスが違うから顔を合わせることはほとんどないし、塾では顔を会わせるけれど、会話なんてほとんどない。
こんなに長く、兄さんと会話をしていないのは初めてじゃないだろうか。なんだかんだと今までずっと一緒にいたから、少し、不思議だった。
そういえば、兄さんの手料理、最近食べてないな、なんてぼんやりとそんなことを考えていると、ばたばた、と学園の廊下を走る音が響く。やけに慌てた様子のそれに内心で首を傾げていると、あっと声が聞こえた。

「若先生!」
「え、あっ、三輪君?」

小柄な彼がぱたぱたとこちらに走り寄ってくる。額に浮かんだ汗をそのままに、三輪君は顔を真っ赤にして、良かった、と荒い息のまま肩を上下させる。

「見つかって良かったですっ! 若先生、早く救護室に行って下さい! 奥村くんが……―――!」

どくん、どくん、と心臓が、煩い。走っている自分の吐く息が、煩い。それでも必死に、僕は走っていた。脳内をぐるぐるとめぐるのは、先ほど聞かされた、三輪君の言葉。

『若先生も気づいていたかもしれませんけど、奥村君、最近本当に体調が悪そうにしてあって……、今日の塾の授業で、詠唱の練習をしていたんですけど、奥村君、その途中に倒れはったんです。今は理事長のおかげで落ち着いてはるけど………』

知らない。
兄さんが、体調を悪そうにしていたなんて、僕は知らない。
それなのに、それを知っていることが当然のように言われて、ずき、と心臓が痛む。

兄さんは、悪魔だ。普通の人間に比べれば、傷の治りは早い。だけど、悪魔だからこそ、普通の人間では想像もつかない現象が起きていても、不思議じゃない。ましてや、弱っている状態のときに、悪魔を祓う術である詠唱を訊いたとなれば、その体にどんな影響を及ぼすのか、計り知れない。
ぞく、と背筋に嫌な汗が浮かぶ。

にいさんが、いなくなる?

それは、ひどく、いやな、考えで。

もし、兄さんがこの世界にいなくなってしまったら、僕は、どうなるんだろう。全ての音が消えて、静寂が僕を包む。
あぁ、この感覚を、知っている。
あの時だ。兄さんが、処刑されると知った、あの時と同じ。

京都での、不浄王の復活。

あの時の僕は、世界中の全てのモノがどうでもよくなっていた。ただ、目の前にある敵を殺すことだけを考えていた。そうでもしなければ、僕は僕でいられなかった。がむしゃらに握りしめた銃のグリップの感触を、今でもはっきりと覚えている。冷たくて、固い。ただのモノでしかないそれ。
だけど、兄さんと一緒に戦ったあの時、握りしめた銃は熱いくらいの温度で、手のひらが焼け付くようだった。
楽しかった、と兄さんは言った。二人で祓魔師をやっていけたらいいと。
のん気だな、と思ったし、遊びじゃないんだよ、とも思ったけれど、でも、その言葉はひどく、兄さんらしい言葉だった。

………分かっているんだ、ほんとうは。

どんなに意地を張っても、僕は兄さんを嫌いになんてなれない。
あんな風になれたらいいと、心の奥底ではいつも思っていて、でも、それを認めるのは嫌で。
しえみさんが兄さんを選んだときも、悔しいというより納得した部分が多かった。あぁ、やっぱりそうかって。だって僕は、いつだって兄さんには適わないから。

だから、だからこそ。
兄さんを守りたいと、強く思ったんだ。
兄さんを守れる自分になれたら、きっと、初めて僕は兄さんに追いつける。だから、それまでは、兄さんには生きていてもらわないと、困るんだ。

「………僕を置いていくなんて、許さないよ」

追いつけないまま、その背中を見送るのはもう嫌だ。ぎり、と奥歯を噛み締める。見えてきた救護室の扉の前で、僕は一つ、息を吐く。額に浮かんだ汗を拭って、呼吸を整える。大丈夫。何度かそう言い聞かせて、ゆっくりと、ドアノブに手を伸ばす。
救護室の中は、静かだった。何台かあるベッドのうち、一番奥のベッドだけ、カーテンが引かれている。たぶん、あそこに兄さんが居る。
僕は、ごくりと唾を飲み込んだ。そしてゆっくりと、カーテンの引かれたベッドへと向かう。自分の足が、ゆっくりとしか動いていないような錯覚を覚えながら、それでもベッドの前へと歩み寄った僕は、そっと引かれたカーテンを引こうとして。

「なぁ、俺、どうしたらいいんだろ…………」

苦しげな、声。
聞きなれた、兄さんの声。そのはずなのに、どこか別人のように弱々しい声色だった。瞬間、どくん、と心臓が音を立てる。カーテンを持つ手が、止まる。

「…………。お前は、どうしたいんや」

静かな、声だった。低く響くその声に、再び、心臓が音を立てる。
なぜ、彼が?

「分かんねぇ。だって、これいじょう、どうしろっていうんだよ。こんな、こんなに苦しいのに、諦めることも、捨てることも、無視することもできねぇんだ。………もう、どうしたらいいのか、わかんねぇよ…………」

ふ、と兄さんが息を吐くのが聞こえた。語尾が震えていて、最後のほうは、涙の色が混じっていた。
ないて、いる。あの、兄さんが。
僕はそのとき、ひどい衝撃を受けた。僕が覚えている限りで、兄さんが泣いている姿を人に見せたのは、片手で足りるくらいだったからだ。それも、悲しい、だとか、苦しい、だとか、そんな弱音を吐きながら泣くなんて、それこそありえないと言ってもいいほどだ。特に、僕の前ではそんな姿、絶対に見せたことないのに。
…………―――、彼の前では、そんな無防備に、泣くの?

「なぁ、勝呂。おれ、どうしたらいい? おれ、アイツに嫌われたくないんだ。アイツは、俺のこと、たぶんすっげぇ嫌いで、それでもアイツは優しいから、突き放せないでいるだけなんだと思う。俺のこと、守りたいって言ってくれて、そんなこと、しなくてもいいのに、俺は悪魔で、大丈夫だって分かってるくせに、それでも、おれ、そんなアイツの優しさが、嬉しくて、さ。しえみにも迷惑かけて、……………、ほんと、おれ、さいていだ」
「奥村、」
「っ、ごめん。わけわかんねぇよな、こんなこと言っても」

小さく、兄さんが笑う気配がした。同時に、チッという舌打ちが聞こえて。

「お前はすぐそれや。謝ればいいっちゅうもんでもないやろ。なんでもかんでも自分のせいにして、自分一人が苦しめばいいと思っとる。………お前がそんなんやから、俺は………―――」

彼はそこで、ぐっと言葉を止めた。僅かの沈黙ののち、ふぅ、と一つ大きく息を吐いて、ぎし、と何かが軋む音がした。

「……………お前がそんなんやから、俺も仲間として、気になってしょうがないんや」
「勝呂………」

嘘だ、ととっさに思った。
僕からは彼の顔を見ることはできないけれど、声で、分かる。たぶん、声だけを聞いているから余計に、分かるんだと思う。その証拠に、顔を見ているであろう兄さんは、彼の嘘に気付いている様子はなかった。彼はいつものように、呆れた顔をして、兄さんと向き合っているはずだ。

「人の感情なんて、それこそ簡単に捨てられるもんやないやろ。だから、別に無理をして捨てんでも、ええんやないか? 杜山さんだって、そうや。割り切れんから、お前の力になりたいって思うから、傍にいるんやないか」
「…………でも、俺は、」
「それでも、や」

すっぱりと言い切った彼に、兄さんが息を呑む気配がした。

「それでもええから、傍にいたい。…………そういうもんやろ」

まるで、自分に言い聞かせるように、彼はそう言った。そういうものだ、と。

だれかを、すきになる。
それは悲しいことに、幸せなことばかりではない。だけど、悲しいことばかりでもない。それら全てをひっくるめて、それでも人は、他人をすきにならずにはいられない。
僕が、そうであったように。
彼が、そうであるように。

「お前だって、そうやろ。だったら、捨てようなんて考えるなや。…………それでも苦しいときは、俺が、……………俺も、志摩も、子猫丸だっておる。そんための、仲間やろ」
「………――――――、うん」

僕は、カーテンを握り締めていた手を、下ろした。
二人に気付かれないよう、そっと、踵を返す。部屋を出る直前まで、二人は何かを話していたけれど、僕はそれを聞くことはしなかった。

負けた、と思った。
…………彼は、見事なまでに、潔かった。

彼は、勝呂君は、たぶん、兄さんのことが、すきなのだろう。言葉の節々から滲み出る優しさが、それを証明していた。
だが、それを明かすことはせず、ただ一途ひたすらに、兄さんのことを思いやっていた。僕には、とうていできない芸当だ。僕は、ただ兄さんを問いつめることしかできなかった。

………それで、兄さんを守りたい、だなんて。

自嘲するように、笑う。笑っていなければ、僕はたぶん、立ってさえいられなかった。
ふらふらとおぼつかない足取りで廊下を歩いていると、雪ちゃん? と聞き慣れた声が聞こえた。俯いていた顔を上げると、しえみさんが心配そうな顔でこちらに走り寄ってきた。

「だ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「………」
「雪ちゃん?」

ぼんやりと、その緑色の瞳を見下ろす。綺麗で、優しいその瞳。僕はずっと、この瞳の中に映っていたかった。
無意識の内に、僕は彼女に手を伸ばす。触れることすら戸惑って、今まで伸ばすことができなかったその体を、引き寄せる。

「っ、えっ?」

戸惑ったような彼女の声が、くぐもって胸に響く。柔らかくて小さな肩。頬に触れるさらさらの髪と、淡い、花の匂い。

「ゆき、ちゃん? ど、どうしたの? 具合、悪いの?」
「………―――、」

だいじょうぶ、と彼女の腕が、僕の背中を撫でる。優しい、暖かなてのひら。
その感触が、あまりにも優しくて、優しすぎて、瞼が熱く熱を持った。

ずっと、きみがすきでした。

ずるい僕は、その言葉を声に出すことなく、そっと唇の上で転がして、空気に溶かした。











私は、ゆきちゃんの背中に手を伸ばしながら、そっと、その大きくて広い背中を撫でる。途端、強張っていた肩の力が抜けて、わずかに彼が息を吐くのを感じた。その仕草に、私はそっと目を閉じる。

…………―――、私は、ずるい人間です。

誰にともなく、懺悔する。私は、とてもとても、ずるい人間なのです。


彼が、彼を愛していることを、知っていました。
それでも、彼がすきでした。
私が苦しい想いをしているとき、真っ直ぐに手を伸ばして光へと導いてくれた、眩しい青の彼が、すきでした。不器用で、それでも、優しくて暖かな、彼の青い瞳が、だいすきでした。
だから、その瞳が私に向いていないことも、十分に理解していました。

彼は、自分の半身に、苦しい恋をしていました。想いを告げることも、ましてや、捨てることもできずに、ただただ抱えた想いを必死に抑え込んでいる不器用なその姿が、私には愛しく思えました。

………彼の想いが、決して実ることがないと分かっていたから、なおさら。

だからあの日、私は彼に自分の想いを伝えました。…………彼の想い人が私たちを見ていることに、気づいていながら。
彼はそんなことに気付きもせず、ただ真摯に応えてくれました。ほかに、すきなひとがいるんだ、と。
泣きそうにその綺麗な青い瞳を揺らめかせて、すきなひとのことを語る彼は、誰よりも綺麗でした。
この瞳に、映れたらいいのに。だけど、それは叶わないい。彼の瞳は、いつだって半身に向いていて、絶対にこちらには向いてくれない。

だと、したら。

彼の半身である、彼の瞳越しになら、映るでしょうか。
私へ視線を送る半身の彼を通してなら、私を、見てくれるでしょうか。

ねぇ、だいすきなひと。
私の、初恋。

……………――――――、ごめんね、燐。

心の中でそっと謝りながら、私は目の前の彼の瞳を覗き込む。揺れる深い緑色の中には、微かに青が混じっていて、私は、小さく笑う。

……………ねぇ、燐。初恋草の花言葉を、知ってる?

閉じた瞼の裏で、小さな花が揺れる。

…………初恋草の花言葉はね、………―――――――。








END

  • TOP