「雪男のバカ!ほくろめがね!もうしらねぇかんな!」
怒声と共にバン!と乱暴に閉じられた扉を見つめて、いつか壊れそうなぁ、なんてことをぼんやりと考えた。
兄さんは、一か月に一回の割合で家出をする。理由は様々で、僕が口うるさく言うのが嫌だとか、たぶんそんな単純なことだ。
お前は俺の母ちゃんか!って怒鳴って、言われたくないならちゃんとしなよって、至極真面目に返したら、むっと唇を尖らせる。
かと思えば、何も言わなかったら言わなかったで、寂しそうな顔をするから性質が悪い。
喧嘩が絶えない僕たちだけど、不思議とその後に引きずることはない。まぁ、生まれた時から一緒に過ごしてきたんだから、お互いのことなんて誰よりも分かっている。喧嘩をしても、数時間後には何食わぬ顔をして一緒にご飯を食べている。それが僕たちだ。
だけど一か月に一度、兄さんは火山が噴火したみたいな勢いで、家出をする。去り際の文句も同じ、そして去っていった行先も同じ。
兄さんは一体何がしたいんだろう?なんて、僕はその背中を見送って首を傾げる。そしてやれやれと思いつつも携帯を取り出して、兄さんが向かっているであろうその人へと、電話をかけるのだ。
「……あ、勝呂君?僕、奥村ですが」
「あんな、奥村。俺の部屋は避難所やないんやけど」
「ん?何か言ったか?」
「………いいや、別に」
「?」
深々とため息を漏らして首を横に振れば、変なやつ、なんて不思議そうな顔をしてこちらを見上げてくる。
まったくもって、この能天気なクラスメイトはこちらの事情などおかまいなしだ。そして性質の悪いことにそれは弟も同じで。どうして自分が、この双子の兄弟に振り回されなければならないのか。
世の中の理不尽を嘆いてみるものの、頼まれれば断れない性分なのだ。仕方ないと諦めるほかにない。
「………んで?今回はどうしたんや?また若先生と喧嘩したんやろ?」
「………今アイツの話は聞きたくない」
む、と唇を尖らせて、クッションをぎゅっと抱きしめる。あまりにも強く抱きしめるものだから、クッションが変な形に歪んでしまっている。悪魔の力で抱きしめられているのだから、それも当然だ。この調子だと、いつか必ず中身が飛び出すだろう。
……というか、いつか、ってなんやねん。そうなるまで奥村がここに来るかどうかも分からへんのに。
自分の思考回路に突っ込みつつ、勝呂ははぁ、とため息を吐く。まぁ、喧嘩の原因なんて彼の弟からの電話でとっくに知っているが、知らないフリをする。こうやって話を聞いてやらないと、目の前の彼は拗ねる。言うつもりはないくせに、喧嘩の原因は?と聞かないと、むっすりとした顔をするのだ。まったくもって、面倒なクラスメイトだ。
だが、それでも毎回喧嘩をするたびに逃げ込んでくるコイツを迎えるのだから、自分も相当だ。
「………雪男は、さ」
「ん?」
「…………、雪男は、」
内心で苦笑を漏らしていると、ぽつり、と奥村は話を始めた。普段はうるさいくらいに元気がいい奥村も、こうして家出してきたときは借りてきた猫のように大人しい。そして、ぽつりぽつりとその内心を呟くのだ。
その内心を、聞いてやるのが勝呂の役目だ。本来ならこういうのは、志摩や子猫丸の方が向いている。志摩は口が上手いので相談相手にはもってこいだし、子猫丸は根気よく聞いてくれるので話しやすい。どちらかと言えば口下手な自分は、相談相手には不向きだ。
だけど、家出した彼が向かうのは、決まって自分で。
そのことがくすぐったいような、不思議な感情を覚えるのだ。
まぁ、内容は全て、双子の弟のことのみだが。
「雪男は……、俺のこと、兄さん、って呼ぶだろ?」
「あぁ。そりゃあ、兄弟やしな。先に生まれたんは、奥村やろ?」
「ん。でもさ、双子なのに、それってなんか、可笑しくねぇ?」
「?」
なにが、と聞き返そうとした勝呂だったが、クッションに顔の半分をうずめている奥村の表情を見て、何となく察することができた。
まぁ、つまるところ。
「奥村は、先生に名前で呼んで欲しいんか?」
「………―――」
こく、と黙ったまま一つ頷いたクラスメイトに、複雑な心境になる。
目の前にいる彼は気づいていないだろうが、あの弟はこのクラスメイトを「兄さん」と呼ぶことに、ある意味執着のようなものを持っている。
その心境を、兄弟を持たない勝呂には理解できないが、例えば恋人同士でお互い特別なあだ名で呼び合うような、そんな、「特別な呼び名」というモノではないか、と思っている。
その証拠に、兄さん、と呼ぶあの男の声は、愛しい、と言っているのも過言ではないほどに甘く、聞いているこちらが照れてしまうほどだ。
まぁ、呼ばれている本人は、ほぼ毎日のようにその甘い呼び名を聞いていたせいか、全然気づいていないようだが。
ので、おそらく彼が名前で呼べと言ったところで、あの男は絶対に変えないだろう。
「俺は雪男のこと名前で呼ぶのにな。なんかそういうの、不公平じゃねぇ?」
「不公平って、別にそうでもないやろ」
「そうかなぁ」
「そうや」
それっきり黙ってしまった奥村を見て、小さく苦笑を漏らす。こうして家出して、原因を聞いて、そうか、そうや、という会話で終わるのも、いつものことだ。そして沈黙するのも。この黙っている間に、彼は彼なりの決着をつけているのだと、少し前に気づいた。
そうしてその間に、勝呂は部屋を出て携帯を鳴らすのだ。
「あ、若先生?勝呂ですが」
「……―――、何しに来たんだよ」
「迎えに来たんだよ、兄さん」
む、と顔をしかめたままの兄さんを見下ろして、僕は淡々とそう言った。ぎゅうぎゅうに抱きしめたクッションに顔を埋めて拗ねる兄さんを見、勝呂君を見る。彼はひょいと肩をすくめて、明後日の方角を見た。それで何となく全てを理解する。全く、毎度毎度よく同じようなパターンを繰り返せるな、と。
僕は内心で苦笑しつつ、そっと兄さんの前に座った。僕の気配に気づいたのか、す、と体を小さくさせたのが分かって、その小さな反抗に僕は目を細めた。
「兄さん、ほら、帰るよ」
「……いやだ。帰らない」
「帰るの。勝呂君が困るでしょ?」
「大丈夫だ。勝呂なら許してくれる。お前と違って心が広いからな」
「………」
僕が勝呂君を振り返ると、口元を引きつらせていた。そして僕と目が合うと、なんとも言えない複雑そうな顔をする。否、と言わないあたり、あながち兄さんの言葉が間違っていないのだろう。
「それは僕が許さないよ。兄さん。兄さんの監視役がいないといけないんだから」
「………かんし」
「そう、兄さんは見張ってないと何をするか分からないからね」
「……」
そのまま、兄さんは黙り込んでしまった。もしかしたら、僕の言葉に傷ついているのだろうか。僕は兄さんが心配だから見張ってないと、って意味で言ったんだけれど、兄さんには違う意味に聞こえたらしい。こういうところは察しが悪くて困る。背後の勝呂君は分かってくれたようで、少しみじろきするのを感じたのに。
「兄さん、まだ怒ってるの?」
「………」
「兄さん」
「………兄さんって言うの、やめたら許す」
それは無理だ、と咄嗟に思った。何故なら僕にとって「兄さん」という呼び名は特別だからだ。そりゃあ、僕だって兄さんを名前で呼んでみたいって思うことはある。だけど、やっぱり兄さんは「兄さん」で。こっちで呼んだほうが、僕にとってはしっくりくるんだ。
だけど、それを言ったところで兄さんが納得してくれないのも、目に見えていて。
僕は笑いながら、ゆっくりと兄さんに近づいた。ぎゅう、とクッションを抱きしめる腕が強くなって、ますます兄さんは小さくなる。だけど構うことなく、そっとその耳元に近づいて。
「………―――、燐」
「っ、」
「ほら、これで満足でしょ?」
呼んだ瞬間、ばっと顔を上げた兄さんに、にっこりと笑う。顔を真っ赤にして、耳を押さえた兄さんは、僕と目が合うと。
「ひ、卑怯だ!」
「なんで。僕は兄さんが呼んで欲しいっていうから、呼んだだけなんだけどな」
「あ!また兄さんって!」
「ん?また名前で呼んで欲しいの?」
それなら、と再び耳元に近寄ろうとした僕を、兄さんは慌てて押し留めた。
「い、いい!結構です!つーか、なんか嫌だ!変な感じがするし!」
「………ふぅん?」
ばたばたと尻尾を振って、ちょっと涙目になっている兄さんに、なるほど、と思う。そうか、兄さんは名前で呼ばれるのに弱いのか、と。
これはいいことを知ったなぁ、とちょっとした収穫に満足しつつ、兄さんの手を引いて立ち上がらせた。まだ赤みの引かない兄さんの顔を覗きこんで。
「帰ろうよ、兄さん。クロも待ってる」
「……クロが待ってるなら、帰る」
しぶしぶ、と言った様子の兄さんだが、尻尾が嬉しそうに揺れている。連れて帰るときの文句もいつも同じだ。クロが待ってるから、帰る、だ。ある意味で、僕がクロのことを話題に出したら帰るんだ、とインプットしているのかもしれない。
「すみません、勝呂君。おじゃましました」
「あ、別にええですよ。これくらい」
「おじゃましたな、勝呂。また来るから」
「もう来んでええ」
ひどい!と喚く兄さんの手を引いて、勝呂君の部屋から出る。その際に、勝呂君に目配りをするのも忘れない。彼は眉根を寄せて、こちらを睨みつけていた。僕はその視線を背後に感じながら、足早に帰路に着く。
「ほら、早く帰ろう。兄さん」
「おぅ!」
元気のいい返事をする兄さんに、小さく笑いながら、さて次はいつ家出するのかな、なんてことを考えた。
嵐が過ぎ去って、俺は疲れた体をぐったりと弛緩させた。ぼんやりと部屋を見つめて、無造作に置かれたクッションに目を向ける。さっきまでぎゅうぎゅうに抱き疲れていたそれは、少し歪に歪んでいた。
「……、ほんま疲れたわ」
あの兄弟はきっと、家出することでお互いの距離を測っているんだな、と思う。兄は家出をして、弟がちゃんと迎えに来てくれるのかを確かめて、弟はそんな兄を迎えに行って、ちゃんと帰ってきてくれるのかを確かめる。あの家出が続く限り、二人が離れることはないだろう。それは構わないが、間に挟まれて四苦八苦する自分を少しは労わって欲しい。兄の方は無意識だからいいとして、弟の方は迎えに来ることで自分への牽制の意もあるのだろう。去り際のあの目がそう語っていた。心配しなくても、誰も取りはしないのに、全くいい迷惑だ。
「………次は、いつごろやろなぁ」
一ヶ月後か、はたまた数週間後か。
そのときまでに、また新しいクッションでも用意しておこうか、なんてことを考えながら、勝呂はやれやれとため息を吐いた。
喧嘩するほど仲がいい、というが、あの二人の場合は。
「家出するほど仲がいい、か」
言って、なんやそれ、と自分で自分の言葉に、笑った。
おわり