いくじなしTRICK




「なぁなぁ、ゆきおー」
「………」

きた。
僕は身構える。同時に背中にかかる重みと体温。ふわりと香るシャンプーの甘い匂いに、跳ねあがる心臓の音をごまかすように、僕は眼鏡を押し上げる。勤めて冷静に、僕は脳内で悪魔薬学の歴史を読み上げる。目元は机の上の教科書を見ていて、絶対に背後は振り返らないようにする。よし。一呼吸置いた、のち。

「なに、兄さん」
「んー、べっつにー。呼んだだけー」

くっ、あざとい。
一瞬にして消える悪魔薬学の歴史。後ろから回された腕が僕の頭を抱える。ゆきおー、と柔らかく伸びた声が僕を呼んで、耳元に甘い吐息がかかる。僕はぞくりと這い上がってきそうな何かをどうにか抑え込んで、奥歯を噛みしめる。

なんで耳元で喋る。
というかそもそも、なんでくっついてくる。

何度目かになる疑問が浮かんだものの、こんな接触も、兄さんにとっては兄弟のスキンシップの一つなんだろうな、と思うと、なんだか虚しい。
内心でため息。上がった気分もすぐに沈んで、僕は冷静に兄さんを振り返る。

「用がないなら…………って、なんで下履いてないのっ?」

また僕は、悪魔薬学の歴史を読み上げる羽目になった。



いくじなしTRICK



「えー、だってあちぃし」
「暑いからってそんなだらしない恰好しないの!」

むっと唇を尖らせて暑いという兄さんは、白いワイシャツ一枚という何ともあざとい恰好をしていた。風呂上りの濡れた髪が、シャツの肩の部分を濡らす。ボタンは上の部分が二つほど外されていて、ちょっと屈めば胸が見えてしまいそうだ。僕はそこまで見て、え、と思う。なんか、サイズが合ってないような………――――って、そのシャツは!

「兄さん、あの、それ、僕の……」
「え、あぁ、風呂場んとこ置いてあったから、着た」
「………」

さらりと寄越された言葉に、固まる。
着た、じゃねぇよ。なんでだよ。自分の着替えくらい持っていっただろ。お風呂に入るんだから。それなのに、なんで僕のを着る。
ぐるぐると悩む僕に、兄さんは何を勘違いしたのか、こちらを覗き込んできた。

「ゆきお? なんか、ごめん。これ、着ちゃいけなかった?」
「っ」

下から覗き込んできたので、絶妙な位置で、シャツが捲れる。上も下もギリギリ見えるか見えない位置だ。僕は一瞬、意識が飛ぶ。しかしすぐにハッとして、今度は円周率を唱える。3.1415……って、あれ、そう言えば円周率って最近見直されたって話だったような気がする。
そんな意味のないことを考えて、どうにか理性を取り戻した僕は、はぁ、と深くため息を零すことでいつもの自分を演じることに成功した。

「別に、着ちゃいけないことないけど。……ちゃんと自分の着るようにしてよ」
「ん。気をつける」

へへ、と鋭い牙をちらりと見せて笑う兄さん。かわいい。その無邪気な表情と、誘うような色気のある姿のギャップが、僕の脳内をかき回す。
くそっ、かわいい。あざとい。なんだってこの兄は、こうもあざといんだ。

「なぁなぁ雪男?」
「………なに、兄さん」
「なんかさぁ、これが雪男のやつだからか知んねぇけどさー」

すっげぇ、安心すんの。

「っ」

来た。心臓に、ずどん、と一発。
今度こそ固まる僕に、兄さんは容赦ない。ゆきおー、と何やら上機嫌な様子で懐いてくる。尻尾をぶんぶん振っているせいか、下のシャツが捲れて………―――。

「っ、っ、にいさん!」
「う?」
「ズボン! 暑いのは分かるけどもうだいぶ涼しくなってきたんだからちゃんと着て! 風邪でも引いたら勉強にも支障がでるんだから! ほら!」

一気に捲し立てて、クローゼットの引き出しから適当なズボンを取り出すと、光の速度並みのスピードで兄さんに手渡した。驚いて目を丸くしていた兄さんは、僕が差し出したズボンを見て、嬉しそうに頬を緩ませていた。

「雪男、俺のこと心配してくれたんだな……。兄ちゃんうれしい……」

ふにゃりと緩みきった笑顔でズボンを抱きしめる兄さん。だめだ、なにをどうやっても兄さんが可愛い。可愛すぎて、苛立ってきた。イライラしながら、未だにズボンを穿こうとしない兄さんを促す。

「ほら、早く着て」
「はーい」

もそもそとズボンを穿く兄さんに、ひとまずホッと安心する。とりあえず、目に毒な部分は隠された。これなら大丈夫だろうと改めて向き直って、絶句。

「に、」
「ゆきおー、これちょっとでかいんだけど……」

裾がだぼだぼになっているのを見て、兄さんはちょっと困った顔をしていた。
しまった! 自分のズボンを渡していた……! なんたる不覚……っ。
サイズの違うズボンを穿いた兄さんは、いつも以上に幼く見えた。たゆんだ裾から少し覗く足の指が可愛くて、これが俗に言う萌袖ならす、萌裾ってやつか、とどこか遠い目をする。

「んー、ま、いっか。雪男のだし」
「………いいんだ………」
「うん。それにさ、なんかこれさ、」

ちらっと兄さんがこちらを見上げる。僕は非常に嫌な予感がして、とりあえず心の準備だけは整えておく。脳内には絶えず悪魔薬学の歴史と円周率を流していて、これなら何が来ても迎え撃てる。よし、と気合を入れた、その直後。

「彼シャツっぽいよな!」

無邪気に笑いながら、兄さんは爆弾を投下した。かれ、しゃつ、って、いや、それ……。

「あれ? 雪男? どうしたんだよ、ぼーっとして」

おーい、と僕の目前で手を振る兄さんの手を、がしっと掴んだ。

「兄さん」
「お、おぅ?」
「いい? 彼シャツっていうのはね、彼氏が彼女に着せたシャツのことであって兄さんが勝手に着た僕のシャツは彼シャツって言わないの。いくら語学力がないからって聞き覚えのある言葉を使わないでよね。他所に行ったとき変に思われるから」
「え、あ、うん、ごめん……」
「全く……。ほら、ボタンも留めて。だらしない格好しちゃダメだよ」
「えー、いいじゃん別にー」
「ダメ」
「ちぇ、雪男のけち、ホクロ眼鏡」

ぶちぶち言いながら、兄さんはシャツのボタンを留めていた。
その横顔を、眼鏡を押し上げながら眺めていた僕は。


………―――よくやった、僕!


内心でガッツポーズを取っていた。
ほんと、よくやった。よく耐えた。兄さんのあざとかわいい攻撃によく耐え切った奥村雪男!それでこそ、最年少で祓魔師になった男! やると決めたらやるんだよ僕は。

「んだよ、にやにやして。なんか面白いことでもあったのか?」
「別に、何でもないよ。それよりも兄さん、今日出した課題はやったの?」
「………やってねぇ」
「なら、ちゃんとやってね。全部終わるまで、今日は寝かせないから」
「………―――その台詞は別んとこで聞きたかったなー……」
「何か言った?」
「いーえ、なにもー」

ぼそぼそ何か呟いていた兄さんだけど、気分を入れ替えたのか、しぶしぶ机に座って課題を始めた。よし、これで僕も課題に打ち込める。一仕事終えたような爽快感に浸っていた僕は、背後で兄さんが、いくじなし、と呟いたことに気付かなかった。




おわり

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