いとしいひと。


キスをする。
たったそれだけの行為だけど、それでも手が震えるのは、きっと相手がいとしいひとだからだ。




「ふ、あ……っ、ん」

ゆっくりと、鋭く尖った牙を舌でなぞる。少しだけ舌が切れたけれど、構わずに。すると組み敷いた体はピクリと震えて、甘い吐息を吐き出した。
それが嬉しくて、怯えて奥に引っ込んでしまった舌に舌を絡ませて、ねっとりと舐め上げる。

「ん、ん、ふ、………ゆ、」

キスに慣れていないのか、間の息継ぎができなくて、苦しげな声を漏らす。とん、と肩を叩かれたけれど、無視して深いキスを繰り返す。くちゅくちゅと濡れた音が響いて、自分でも息が上がるくらい、とにかく目の前の人の唇を奪った。

「は、ふ……ッ、な、長げぇよ……ッ」
「そうかな?」

唇を離すと、真っ赤になった顔でそう抗議された。少し涙目で言われても、説得力がない。僕は小さく笑って、きゅ、と両の手のひらを重ねて、その首筋に顔を埋める。

「雪男……?」

そんな僕に、兄さんは怪訝そうに僕を呼んだ後、重ねた手のひらを握る手に、きゅっと力を込めてくれた。
たったそれだけのことだったけれど、僕の心臓は大きく跳ねて。

あぁ、このひとはどこまでもいとしいひとで。
どこまでも、ざんこくなひとなんだ、と。

僕は兄さんの優しさに、少しだけ泣きたくなった。



悪魔の力を受け継ぐ、僕の双子の兄さん。
とにかく強くて、真っ直ぐで、いつも僕の前を歩いては、振り返って無邪気に笑ってくれた人。
誰よりも優しいこのひとが茨の道を選んだ。だったら僕は、その茨の道を一緒に進むと決めた。
守る。そう心に誓った。その為なら、なんだってできた。祓魔師になったのも、その為に、色々なものを捨てたのも。

優しさや正義だけでは、祓魔師にはなれない。残酷なことを冷静にできなければ、悪魔は祓えない。
僕はきっと、たった一人の犠牲を払えば世界が救えるのなら、そのたった一人を殺すことができる。自分でも、そう冷静に判断している。

ただ。
ただ、兄さんは違うのだろう。
たった一人の犠牲も出さずに、自分が傷つきながらも全てを守る。
それはただの自己犠牲に過ぎないのに、誰も、そのことに気づかずに。
全て、兄さんの笑顔で誤魔化されてしまう。

でも、それはダメだ。
兄さんが傷つくのなんて、僕には耐えられない。
他人が傷つくのは、大丈夫なのに。兄さんが傷つくのは、どうしても許せない。

それなら、僕が盾になる。
それなら、僕が剣になる。

何者からも兄さんを守り、何者にも奪わせない。

……このひとは、だれにも渡さない。

僕がその想いを、言葉にするとするのなら、それはきっと。

「……すきだよ、兄さん」

きゅぅ、と手のひらを強く握り締めて、そう囁く。すると兄さんは少しだけビクリと体を震わせたけれど、すぐに小さく笑って。

「俺もだよ、雪男」

そう言った。
僕はその言葉に、息が苦しくなって。
違うんだよ、と言いたくなった。
兄さんの『それ』はあくまでも『兄として』だけれど。
僕の『それ』は『弟として』じゃないんだよ、と。
だけど、僕は口を閉じる。

兄さんは気づいている。僕が、兄さんにどんな感情を向けているのかなんて。
だから、気づかないフリをしている。だって、兄さんは僕を『弟』としてでしか見れないから。

「何があったか知らねーけど……、今日はお前の好きなもん作ってやっから、元気出せって。……な?」

そう言って、起き上がろうとする兄さんの手が、震えていた。
僕はそれを見て見ぬフリをして、うん、と兄さんの両手を離した。

「何が食べたい?」

起き上がった兄さんは、いつも通りの顔でそう僕に尋ねる。
僕は眼鏡を押し上げて、今日は中華系がいいな、といつも通りの顔で答える。

「中華、な。分かった!腕によりをかけて作ってやるから、待っとけよ?」
「ん、楽しみにしているよ」

へへ、と照れくさそうに笑った兄さんは立ち上がって、厨房行って来る!と元気よく出て行った。
いつもと、同じように。
僕はその背中を見送った後、パタン、と閉じた扉を見つめた。そして、ぽすん、と再びベッドに倒れこむ。微かに兄さんの匂いが残っていて、切なく胸が疼いた。

「兄さん……」

ついさっきまで繋がれていた手を見つめて、僕は自分の手に唇を落とす。

「兄さん、愛してる」

声にした言葉は宙ぶらりんのまま、いとしいひとに届くことなく、空気に溶けて消えた。








END

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