もっと、ちゃんと、





夕暮れの、誰もいない住宅街。人は誰もいないのに、俺たちは街路樹に隠れてキスをする。

「……ん、」

柔らかな感触が、唇に触れる。気持ちいい。もっとしていたい。それなのに、一瞬触れた唇は、すぐに離れていってしまった。

「っ、じゃ、じゃあな!」
「あ、…………ぉう」

真っ赤な顔をして唇を離した恋人は、照れくさそうに笑って、慌てたように自転車にまたがると、勢いよく去って行く。俺が返事を返す間もなく、その姿は小さくなる。
俺はぼんやりとその背中を見送って、深く、ため息を吐いた。
…………また、できなかったな。
自分の唇に手を伸ばす。そこはまだ暖かくて、柔らかな感触が残っていた。


もっと、ちゃんと、


すきなひとができて、その人と付き合うことができるようになれば、欲が出るのは人間として当然のことだと思う。
一緒に登下校したり、そのときにこっそり手を繋いでみたり、休日にはデートして、帰りにはキスをしてみたり。そんな、ごくごく普通の恋人がすることは一通りやった。となれば、また更に次のことを望むのは、おかしいことなのだろうか。いや、おかしくないはずだ。
手が触れて、唇が触れる。そこまでは順調だったのに、それから先へがどうしても進めない。
同性同士、というのもあるのだろうか。俺の恋人である日向は、一向に先へ進もうとはしない。それどころか、未だにキス一つで真っ赤になって、全力で照れてしまうほどだ。もしかしたら、先に進もうとする余裕すらないのかもしれない。
そんな、初心を通りこしてお前は幼稚園児かと言いたくなるような恋人に、俺は頭を悩ませている。まぁ、ぶっちゃけて言うならヤリたいってことなんだけど、頭が幼稚園児並みのアイツにそれを求めるのもどうかと考えてしまう。
つーかそもそも、アイツは考えないのか? 俺相手じゃ無理ってか? それを遠回しに言われてる、とか? ………それは考えすぎか。

「………はぁ」

知れず、ため息が漏れる。
ぼんやりと、休み時間の教室を見渡す。各グループが固まって、それぞれに話に花を咲かせている中、ちらほら見えるカップルが数組。この間の体育祭をきっかけに付き合うようになった連中だ。
人目を気にすることもなくいちゃいちゃしている奴らに、苛立ちが募る。コイツらは上手く行っているのに、なんで俺たちは上手くいってないんだ。……いや、別にそんなに上手くいっていないってわけでもないんだ。口喧嘩ならしょっちゅうしてるけど、どっちかっていうと険悪な感じじゃなくて、軽い言い合いみたいな感じだし、部活が終われば一緒に帰って、キスをして、また明日って別れる。ここまではいいのに、なんでその後が続かないんだ。俺の思考は、再びそこへと舞い戻った。
イライラする。内心で舌打ちして、視界に映るバカップルを見たくなくて、机に伏した。
くそ、ボゲ日向め。なんで俺が、こんなことで悩まなくちゃならないんだ。バレーをしてるときはあんなにぐいぐいくるくせに、普段がヘタレすぎるだろ。
悪態をつきながら、目を閉じる。同時に、授業開始の鐘が鳴った。……次の時間、なんだっけ。まぁ、いいや。
俺は教師が教室に入ってくる音を聞きながら、眠りの世界へと旅立った。薄れゆく意識の中で、日向をめいいっぱい罵りながら。



授業終了の鐘の音で、目が覚めた。伏していた顔を上げると、教室を出ようとする教師から恨めしそうな顔で睨まれた。こいつ授業いっぱい寝やがって、って顔だ。でも、しょうがないだろ。毎朝、日向と競争しているせいで、睡眠時間は足りないくらいなんだ。
欠伸を噛み殺して、鞄を取り出す。……昼飯、どこで食おうかな。鞄から弁当箱を取り出してぼんやりと考えていると、廊下から何やら騒がしい声が聞こえてくる。

「こらー、廊下を走るなー」
「あっ、はい! すんませんっ!」
「! 日向……?」

教師の声と共に聞こえてきた聞き慣れたそれに、ぱっと顔を上げる。日向が、なんで? アイツのクラス、一組だろ? 首を傾げていると、廊下側の扉から橙色の頭がひょっこりと顔を出した。近くにいた男子生徒がぎょっとしたものの、日向だと分かるとすぐに表情を緩めた。

「おっ、なんだ、日向じゃん。どしたの」
「んっ? いや……、あっ、影山!」

きょろきょろと教室内を見渡した日向は、俺と目が合うとぱっと表情を輝かせた。その分かり易い表情の変化に、どきり、とする。とっさに顔を背ければ、日向が、影山! ともう一度俺を呼ぶ。

「おーい、かげやまー。一緒に飯食おうぜー! なー聞いてるー? かげやまー!」
「っ、あーっ、うるせーよボゲ日向! 何度も呼ぶな!」

あまりにもしつこく呼ぶ日向に、つい、いつもの調子で怒鳴り返した。しまった、と思った瞬間には遅く、教室にいたクラスメイトたちがぎょっとした顔でこちらを見ていた。
しん、と静まり返る教室。え、なに、喧嘩? といった視線が、こちらに集中する。ちがう。喧嘩じゃねぇ。そう言いたいのに、上手く言葉が出てこない。
不穏な空気が教室内に漂い始めた、そのとき。

「? なに怒ってんの、お前。それより! 早く飯食いに行こーぜ! おれ腹減ったよ!」

ニッと笑った日向に、教室の空気が軽くなる。なんだ、喧嘩じゃねーじゃん、と動きの止まっていたクラスメイトたちもそれぞれに動き出して、騒がしい教室が戻ってくる。
……―――なんて、いうか。
日向は、そこにいるだけでその場の空気を持っていく力があるような気がする。そんな奴と俺は付き合っていて、恋人同士になっている。
そのことが、たまらなく誇らしいような、なんだか悔しいような気持ちになって。

「? かげやまー?」
「いま行く!」

急かす日向に駆け寄りながら、俺はそっと鞄を持つ手に力を込めて、そんな感情を誤魔化した。





「そういえばさ、今日の休み時間中に坂田の奴がさ、恋人ができたことすっげぇ自慢してきてさ。なんでも、めっちゃ美人な子らしくて。他校の子らしいんだけど、そんな美人なら写真くらい見せろよって言ったら、お前らが見たら減る、だってさ」
「へぇ」

中庭で一緒に昼飯を食べながら、日向は忙しく喋っている。いつもこうだ。とにかく黙っているときがなくて、常に何か話している。内容はくだらないものばかりだけれど、不思議と、ずっと聞いていたくなる。俺は相槌をうちながら、もそもそとサンドイッチを頬張る。つーか、そんなほかの奴の恋愛話を聞く余裕があるんなら、少しは俺たちの仲のことも考えろよ。俺たち、付き合ってもう三ヵ月は経ってんだぞ。もうちょっと進展しようとか考えないのかよ。

「んでさ、今度の日曜日にその子と初デートに行くらしいんだよ。どこ行くの? って聞いたんだけど、教えてくんなくてさ」
「ふぅん」
「もしそこが良ければ、今度おれたちもそこでデートしたいなって思ったんだけどなぁ」
「そうか」
「うん。っていうか、影山、ちゃんと聞いてる? おれ、デートしたいなって言ってるんだけど」
「あぁ。…………って、え?」

悶々と考えていたせいで、最後の方を聞きそびれてしまった。きょとん、と日向を見れば、ちょっとムッとした顔をして、真っ直ぐにこちらを睨んできた。

「………あのさ、影山。お前、なんかこの間から変じゃね?」
「変? 変、ってなんだよ?」
「んー、なんていうか、心ここにあらず? 何かぼーっとしてるし、さっきだっておれの話半分くらいしか聞いてなかっただろ」

図星を突かれて、黙り込む。すると日向はあからさまに大きなため息を吐いて、持っていた弁当を下に置くと、ずいっと俺の顔を覗き込んできた。大きな橙色の瞳が、射抜くように俺を見つめる。瞳の中には呆然とした俺がいて、日向にはこんな風に見えてるんだな、なんてことを思った。

「ひな、」
「ねぇ、影山。お前さ、言いたいことあるならはっきり言えば? ここ最近、ずーっと何か言いたそうな顔してるだろ」
「……それは………」
「そういう顔されるとさ、不安なんだよ。おれ何かしちゃったかな、とか。こういうことされんの嫌なのかな、とか。だから、言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってほしいよ」

むすっとした顔をしながらも、どこか不安そうな顔をする日向。

「……この前帰りがけにキスしたときだって、ため息ついてたし」
「っ、それは……!」
「だからっ、キスされんのがいやなんかなって……! おれはお前のことすっげぇすきだし、いっぱいさわりたいけど、でもっ、影山がいやなら我慢しようって!」
「っ、日、」
「なぁ、ほんと、嫌なら嫌って言ってよ。じゃないとおれ、どんどん我慢できなくなるんだ。お前にさわりたくて仕方なくて、自分でも怖いくらいなんだから………」

ぎゅう、と手のひらを強く握り締めて、日向が俯いた。俺はそのつむじを、呆然と見つめた。
え、今、コイツは何て言った? 俺が、嫌だと思ったから? だから、我慢してた?
…………、んだよ、それ……!

「っ、このっ、大ボゲっ!」

俺は怒鳴りながら、そのつむじに向かって力一杯拳を振り下ろした。ごん! とすごい音がして、手がひりひりと痛んだ。

「いっっっってぇぇええ! っ、っ、なにすんだ!」
「何すんだじゃねぇよこのボゲ! アホっ! テメェ、俺がいつ、どこで、嫌だって言ったよ! 俺はなんも言ってねぇだろうが! それなのに勝手に勘違いしてんじゃねぇよボゲ!」
「だっ、だって……っ! キスしたあとにため息吐かれたら、誰だって嫌だったのかなって思うに決まってんだろっ。じゃあ、どうしてお前はため息なんてついたんだよ!」
「んなのっ、お前がキスだけしかしてこねぇからだろうが!」
「………………、へ?」

日向が、驚いたように目を丸くした。呆気に取られたように俺の顔をマジマジと見上げてくるので、俺は今まで我慢していたのもあって、そのままの勢いで思いの丈をぶちまけていた。

「俺っ、俺だって、お前に触りたかったし、触ってほしかった! それなのにお前、いっつもキスだけで満足そうな顔しやがって! もしかして俺、そんなに好かれてねぇのかとか色々考えちまっただろうがっ。察しろバカ! ボゲ日向!」

ぼろくそ言って、感情が高ぶったせいもあって、じわり、と視界が滲んだ。ちくしょう。なんで俺、こんなに必死になってんだよ。そう思うのに、まるで頭の中が沸騰したみたいに熱くて、うまく考えることができない。それもこれもぜんぶ、日向のせいだ。日向が全部わるい。
こうなったらとことん文句を言ってやる、そう思ったのに。

「……な、んだよ、それ……っ」

いきなり、日向に腕を取られて、引き寄せられた。視界が真っ暗になってびっくりしていると、ぐっと後頭部を押え込まれた。ぎゅう、と強く、痛いくらいに抱きしめられて。

「よ、かったぁ………」

心底、ホッとしたような日向の声が、耳元で響いた。頬に触れた、制服越しの日向の体温。少し高めの、日向の温度。ちょっと甘い、洗剤の匂い。日向の家の使っている洗剤の匂いだろうか。そんな些細な発見が、なぜだが、胸が苦しくなるくらい、うれしくて。

「おれ、お前に触ってもいい? だいじょうぶ? いやじゃない?」
「…………しつけぇよ、ボゲ。いいって、言ってんだろ……」
「うん……、そうだね」

そぅっと、日向の身体が離れる。触れっつったのに、と文句を言おうと顔を上げて、……―――真剣な顔をしつつも顔を真っ赤にした日向と、目が合った。震える日向の両手が、俺の両頬に伸びて、引き寄せられる。
あ、キス、される。俺はそっと目を閉じた、その、瞬間。

キーンコーン、と予鈴を告げる鐘が鳴り響いて、俺たちはハッと我に返る。
そうだ、ここ学校………っ!
慌てて体を離して、周囲を見渡す。……よし、誰もいねぇ。肩を撫でおろしていると、日向はやべっ! と軽く悲鳴を上げて大慌てで弁当の中身を口の中にかきこんでいた。もはや食べた気がしないだろうと思うくらい一気に食べきった日向は、がちゃがちゃと言わせながら弁当を片付けた。

「っ、じゃ、じゃあおれっ、次体育だからっ!」
「おぅ」

先戻る! と駆け出そうとしたその頬は、まだ少し赤い。なんだか照れ臭くなりながら、ふと、その頬にごはんつぶが付いたままなことに気付いた。あのまま言ったらアイツ笑われるな。俺はその腕を取って、引き止める。

「ちょっと待て、日向」
「ん、何、っ……!」

急いでるんだけど、と言いかけた日向の頬に、唇を寄せる。付いていたごはんつぶを軽く食んで、取ってやった。
ぽかん、と自分の頬に手をやって呆気に取られる日向に、にっと笑って。

「………今度はもっと、ちゃんと、………―――」

俺の最後の言葉は、授業開始を告げる鐘の音に、かき消された。


おわり

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