いつか告げるさよならを




「僕が誰とも付き合わないのは、兄さんのせいだよ」

そのとき。
兄さんが見せた表情を、僕は一生忘れないと思う。





兄さんが祓魔師認定試験に合格してから、早十年。二十五歳になった僕たちは、旧男子寮を出て祓魔師専用のマンションの一室を借りて生活していた。もちろん、兄さんと同室だ。いい加減部屋くらい別にすればいいじゃないですか、とフェレス卿が意味ありげに笑っていたけれど、僕は爽やかに却下した。二人で一人ずつ部屋を借りるより、少し広い部屋を二人で借りた方が家賃が安い云々、とお金の計算が苦手な兄さんを言いくるめて、同居生活を続けようとしたのはひとえに、僕が兄さんをすきだからだ。それ以外に何がある。いいや、あるわけがない。僕は胸を張って答えることができるだろう。
僕は、兄さんがすきだ。有り体に言うなら、愛してる。
がさつだし、バカだし、大雑把で乱暴なのは小さな頃から変わらない。だけど、誰よりも優しくて、傷つきやすいことを知っている。それを隠して笑う強さも、ぜんぶひっくるめて、兄さんのことがすきだった。
だけどそれを、告げたことは一度もない。だって、僕の想いが兄さんを困らせることを、知っていたからだ。心の優しい兄さんは、僕の想いを知った瞬間、嬉しいと笑いながら僕から離れていくだろう。
本人は気づいていないだろうけど、兄さんはどこか自分を卑下する部分がある。自分なんか、と。だから、僕が想いを告げれば、兄さんは嬉しいと笑いながら、それでも僕を拒絶するだろう。俺みたいなやつが、お前に釣り合うはずがねぇよ、と。お前はもっと可愛い子を見つけて、幸せになれよと。そう笑うに決まってる。手に取るように分かる。それだけの年月を一緒に過ごしてきたわけだし、僕の考えはあながち間違っていないはずだ。
だから僕は、自分の想いを告げようとは思わなかった。幸い、兄さんには好きな人はいないみたいだし、このまま二人でいれたらそれでいいと思っていた。
―――、なのに。

「兄さんに、恋人………?」

いつもの夕食中、何だかいつも以上に落ち着きのない兄さんが、唐突にそんなことを言い出した。
恋人ができた、と。
僕の脳は、一瞬フリーズを起こす。信じられない言葉を、今、聞いた気がしたんだけど。
兄さんに、恋人。
ガサツで口が悪い兄さんに、恋人。嘘だ。信じられない。一体どういうことだそれは。僕は好物の魚を前に、箸を止めた。だが、そんな僕に気付いていないのか、兄さんは照れくさそうに八重歯を見せて笑っていた。

「おう。他の奴らにはまだ言ってねぇけど、お前にはちゃんと報告しておこうって思ってさ。雪男は俺の、大事な弟だし」
「………」

弟。そう、兄さんにとって僕は、『弟』でしかない。そんなこと、口にされなくても分かっていた。だけど今ここでその言葉を使うのは、卑怯だ、と思った。だって、そんなことを言われたら、僕はそうだねとしか言えないじゃないか。

「………良かったね、『兄さん』」

僕は。
上手く笑えているだろうか。本当に、「良かった」という顔を、できているだろうか。自分で自分の顔を見ることはできないから、今自分がどんな顔をしているのか分からないが、たぶん、上手く笑えているはずだ。だって、僕の顔を見た兄さんが、ホッとしたような顔で笑っていたから。
もしかして、反対されるかと思ったのかな。柄にもなく、緊張していたのかもしれない。家族に恋人のことを報告するのは、思いのほか、勇気のいることなのだろうか。僕には縁のない話だから、それを知る術はない。
そう、自分でも不思議なことに、兄さんに恋人ができたと聞いても、僕は兄さんのことがすきだと思った。諦める、だとか、忘れる、だとか、そんな感情は一切浮かばなかった。そんな自分が少し可笑しくて、思わず笑みさえ零れた。兄さんはそれを、「兄に恋人ができたことを喜ぶ弟の顔」にしか思わなかっただろうけれど。

「兄さんに恋人かぁ。どんな人なの? 僕の知っている人?」

だとしたら、嫌だな、とは思った。しえみさんや神木さんならまだ分かるけれど、それ以外の、名前と顔は知っているな、くらいの人だったら、僕はそんな人に兄さんを奪われたんだと、複雑な心境にしかならなさそうだ。
だが、そんな僕の心配を他所に、兄さんは首を横に振った。お前は、知らないと思う、と。

「一緒に任務に就いたって話聞いたことねぇし」

任務、という言葉に、兄さんの恋人は祓魔師だと分かった。そして僕と一緒に任務についたことがない人。これで、大幅に的は絞られた。僕は幼い頃から祓魔師として任務についていた経験がある。そんな僕と任務についたことがないということは、僕が講師になって任務に入る数が減った当たりから祓魔師になった人か、もしくは最近祓魔師になったばかりの人か。どちらにせよ、僕よりは祓魔師の経験がない人なのだろうと目星をつけた。

「そっか。僕の知らない人なら、今度紹介してよ。『いつも僕の兄さんがお世話になってます』って挨拶したいし」
「んだよそれ。それじゃ、俺がいつもアイツの世話になってるみたいじゃん」
「違うの?」
「ちげーよ! 俺が世話してやってるほう!」

米粒を飛ばしながら怒鳴る兄さんに、汚いな、と顔をしかめつつ、恋人ができたところでそのガサツなところは変わってなくて、思わずホッとする。
兄さんは、兄さんだ。恋人がいたって、それは変わらない。
僕は比較的穏やかな気持ちで、兄さんの話を聞いていた。兄さんの恋人はかなりの恥ずかしがりやらしく、手を繋ぐのもやっとだった、だとか。初デートはメッフィーランドだった、とか。いつの間にそんなところへ行ったんだ、と思わずにはいられないが、それでも僕は、楽しそうに話す兄さんに、穏やかな相槌を打っていた。
……そう、あの言葉が飛び出すまでは。

「雪男もさー、恋人つくんねーの?」

何気ない、一言だった。
散々、恋人自慢をしまくった兄さんが、ふと、思いついたように口にした言葉。兄さんのことだから、深く考えて言ったわけじゃないんだろう。俺に恋人ができた→あれ? 雪男は? くらいの調子だ。
分かっている。兄さんとは生まれたときからの付き合いだ。考えてることなんて、手に取るように分かる。……分かって、いるのに。

「なに、言ってるの」

長年、それこそ、人生の半分以上を費やした恋心が、その言葉を許さなかった。
かたん、と握っていた箸を置く音が、やけに大きく響いた。魚をつついていた兄さんは、僕の反応に目を丸くした。「どうした、雪男」

「なに怒ってんだよ」

僕の顔を見て、眉間に皺を寄せる。怒ってる? いいや、そうじゃない。僕は。

「……兄さんは、僕に恋人ができればいいって、そう思ってるの」
「え、や、だって、普通そうじゃねぇの? お前は頭いいし、モテるし、……ムカつくけど……、だから恋人がいたっておかしくねぇだろ? けど、そういう話、全然きかねーし。だからなんでかなって」
「………」

ただ、かなしい、と思った。
僕は、兄さんと居られたら、それでよかった。それだけでよかった。ずっとこのまま二人で居られたらって。それは兄さんも同じだと思っていた。今まで、兄さんは隠していたつもりかもしれないけれど、何度か告白されているのを見かけたことがある。噂だって、聞いていた。奥村(兄の方)は、とうとう五十人切りをしたらしい、と。切り、とは振ったことを指すらしい。
青焔魔の息子で、悪魔で、祓魔師。複雑な立場にある兄さんだったけれど、それでも好きだと告白する人が多いことを、僕は知っていた。けど、兄さんはどんなに素敵な人から告白されても、全て断っていた。断り文句ですら、噂に聞くくらいだ。「俺は悪魔だから」大半の人がそれを聞いて諦めたと聞く。僕だったら一笑して、それがなに? と言うだろう文句。だけど、他の人からすれば、やはり、ハードルの高いことなんだろう。
そうして僕の知らない誰かを振って、その足で、僕と暮らすこのマンションに帰ってくる。一緒にご飯を食べて、のんびりと二人の時間を過ごして、寝る。だから僕は、安心していた。兄さんは、誰とも付き合うつもりがないんだ、と。
だけどそれは、僕の勘違いでしかなかったんだ。兄さんは僕以外の人と一緒にいて、そして、僕が兄さん以外の人と一緒にいてもいいと思っている。
それが、ただ、とてもかなしい。無性に悲しくて、そして、裏切られた、と思った。
だから。

「僕が誰とも付き合わないのは、兄さんのせいだよ」

思わず口をついて出たのは、そんな、心にもない言葉だった。

「ぇ」

兄さんは言葉を失くしている。つり目がちな瞳を大きく見開いて、固まっている。そして、僕の言葉の意味を理解して、顔を真っ青にしていた。
……傷つけた。
その顔を見て、僕は悟る。僕は自分の言葉を反芻して、それもそうか、と他人事のように思う。僕は兄さんにこう言ったんだ。「兄さんは悪魔だから、双子の弟である僕は誰とも付き合えない」と。
皮肉だな、と内心で苦笑する。僕自身が一蹴するだろう兄さんの断り文句で、僕は兄さんを責めている。

「雪男、俺は……」
「………もういいよ」

僕は自分の食事が乗っていた食器を手に取って、席を立つ。今の僕は冷静じゃない。自分でも分かっていた。たぶん、次に口を開いたときは、また、兄さんを傷つける言葉を吐くだけだ。それが分かっていたから、僕は会話を中断させた。
食器を流しに置いて、机に置いていた携帯や財布を持って、その足で玄関へ向かう。兄さんが後ろで付いてくるのが分かった。ぱた、ぱた、とフローリングを素足で歩く音が聞こえる。無視して、外出用の靴を履くと、か細い声で、「どこいくんだよ……」と尋ねてくる。また無視。僕は頑なに口を閉ざして、兄さん二人で暮らす部屋を後にした。
ぱたん、と背後で扉の閉まる音が、やけに響いた気がした。

「……はぁ………」

扉に寄り掛かって、ふかく、ふかく、ため息を吐く。肺にある酸素を全て吐きだして、ようやく、僕は一息ついた。思わず呟く。「……やってしまった……」
あんなこと、言うつもりはなかった。思ったことも、なかったはずだった。だけどあのとき、とっさにあんな言葉が出たことに、自分でもショックだった。あれじゃまるで、僕は兄さん以外の人と付き合ってもいいと思っていると言ったも同然だ。

「……はは、兄さんのこと、責められないな……」

軽く笑い飛ばして、僕は歩き出す。いつまでも部屋の前で立っていたら、不審者扱いされてしまう。かといって、このまま部屋に戻るわけにもいかず。さて、どうしようかと考えながら、ふと思いついた。そうだ、こういうときは。
僕は持ってきた携帯を開いて、とある番号を探す。夜も八時を回っていたけれど、きっと相手は出てくれる。数回のコール音のあと、聞き慣れた声がして僕はホッとする。

「……すみません、遅くに。今、大丈夫ですか?」



夜もだいぶ更けた、とある居酒屋。次の日が祝日で休みとあって、店内は大いに賑わっていた。ある席は、会社の集まりだろうか、頭の具合がだいぶ心配な年配の男が顔を赤く染めながら、テーブルに縋り付いて泣いていた。どうやら、年頃の娘に彼氏ができたらしい。携帯の待ち受け画面には、おそらく件の娘だろう、幼稚園のお遊戯会の写真があり、それを眺めてオイオイと泣いていた。その周囲で、彼の部下らしき青年や女性が、若干顔を引き攣らせながらも、「娘さんはまだ幼稚園なんですから、そんなに心配しなくても」と彼を宥めていた。くそくらえだ。
またある席では、同窓会だろうか、同年代の男女が数名集まって騒いでいた。どうやら王様ゲームに勤しんでいるらしく、王様になった男が高らかに「十番は誰にも言ったことない秘密を打ち明けること!」と叫んでいた。十番を引いた男は、酔いとは違う赤みを乗せた頬で隣の女性を見て「おれ、実は昔好きだったんだよね」と言い、隣の女性は驚いたように目を見開いて「え……私も……ほんとは」なんていうお馴染みの展開だ。周囲はそれを囃し立て、「知ってたしwww」やら「やーっと言ったな!」と何やら茶番を繰り広げていた。くそくらえだ。

そして、またある席では、そんな周囲のどんちゃん騒ぎとは無縁のように、暗雲が立ち込めていた。

「…………だから、言ってやったんです。「僕が誰とも付き合わないのは、兄さんのせいだよ」って。そんなつもり、なかったんですけどね。はは、僕、最低ですね……」
「先生、それ、今日三回目」
「志摩、それ言うたらあかんやつや……」
「そうですよ志摩さん。今の先生にそれを言うたところで、馬の耳に念仏、猫に小判です」
「そっかぁ、雪ちゃん、辛かったんだね……。よしよし。だいじょうぶだよぉ。雪ちゃんは最低じゃないよ。燐のこと、ほんとにだいすきなんだねぇ」
「杜山さんも、それ、今日三回目……」
「ちょっと、アンタ飲みすぎなんじゃない? ほら、水」
「えへへー、ありがとぉ、出雲ちゃん」
「ばっ、な、名前でよぶな!」

もはや、この場は混沌、カオスと化していた。この混沌を生み出している張本人、この酒の場を設けた人物は、店に入るなりビール→清酒→焼酎、と浴びるように酒という酒をちゃんぽんし、同じ話を繰り返し繰り返し、壊れたレコードのように繰り返していた。
迷惑極まりない。だが、付き合いの長い勝呂は、そんな彼を放っておくことはできなかった。たとえ同じ話を何回も聞かされようが、若くして苦労してばかりの同じ年の彼を突き放すほど、勝呂は冷徹にはなれなかったのだ。それはたぶん、ここに集まったメンバーも同じだ。
よしよし、としえみに頭を撫でられている奥村(弟)を眺めて、勝呂は内心でため息を吐く。
……よもや、こんなことになろうとは。
胸に宿るのは、ほんの少しの罪悪感だ。まさかこんなことになろうとは、数日前の自分は予想だにしていなかったのだ。だが、今更そんなことを言ったところで、もう遅い。今の自分にできるのは、傷心している奥村(弟)に付き合って愚痴を聞いてやり、そして―――。
……はよ迎えこいやあの馬鹿兄。
つん、とテーブルに置いた携帯をつつきながら、さきほど密かに連絡を取った人物の到着を、悪態を付きながら待つことだった。



ふわふわと、夢の中にいるような心地がする。ついでに、懐かしい。そうだ、この感じは、小さな頃に神父さんにおんぶをしてもらったときに、似ている―――。
あぁそうか、これは夢か。夢の中で、幼い僕は神父さんにおんぶされているんだ。
僕は小さく笑って、甘えるように眼の前の肩の頬すりをした。こうすれば、きっと神父さんはいつものようにこう言うんだ。ほんの少し笑みを含んだ、優しい声色で。

「なんだ? 雪男。今日は甘えたさんだなー」
「っ!」

夢見心地だった僕は、聞こえてきた声に一気に覚醒した。
ハッと顔を上げれば、目の前にいたのは懐かしい神父さん、じゃなく。

「に、にいさん……」
「おー、そうだぞー。奥村雪男くんのお兄さんだぞー」

寝ぼけてんのかぁ? と少し茶化したような声で、兄さんはそう言った。え、なんで、どうして兄さんがここに? っていうか。

「っちょ、ちょっと、兄さん、降ろして!」

なんで僕は兄さんにおんぶされているんだ!?

軽いパニックになった僕は、慌てて兄さんから飛び降りようとした。だけど、あぶねーだろ! と僕の足を掴んだ兄さんによって、それを阻止されてしまった。

「お前、ちゃんぽんして足元ふらふらだろ! いいからここは、おにーちゃんに任せとけって!」
「………」

へへ、と八重歯を見せて笑う兄さんは、いつも通りの兄さんだ。それが無性に苦しくて、なんだか悔しい。兄さんは、気にしないのだろうか。僕はあんなことを言ったのに。それとも、気にするほどのことでもないのだろうか。
ぐるぐると回る思考回路は、まるで答えの出ない迷路だ。こんなことで悩むなんて、高校時代の僕だったら考えられないことだ。
あの頃の僕は、もう少し、冷静だった。いや、必死だった、というべきか。兄さんを守るため、兄さんを奪われないため、僕は必死だった。双子である僕が騎士団に従順であったなら、きっと兄さんにとっても有益になるはずだと思っていたし、祓魔師として知識を付けることが兄さんを守ることだと思っていた。兄さんが祓魔師認定試験に合格して祓魔師になるまで、僕には余裕なんてものは一切なかった。それこそ、兄さんへの恋心すら、ときに忘れていたくらいだ。
なのに、今はどうだ。兄さんが祓魔師になって、騎士団の中でもそれなりに居場所ができて、ようやく落ち着けると思ったのに、今度は兄さんへの恋心に振り回されて、この様だ。
大人になったら、もっとスマートになれると思ったのに。なったらなったで、こんな面倒くさいことになるなんて、知らなかった。
そして、そんな僕とは逆に。

「お前さー、なんかあるとすぐアイツら呼び出すの、どうにかしてやってくんね? しえみ、酒とかあんま強くないのに、お前に付き合って飲んじまうから、めっちゃ真っ赤になってたぞ。それに、京都三人組はともかく、しえみと出雲は女なんだから夜遅くまで付き合せたらダメだろー」

そう言って軽快に笑う兄さんは、少し、落ち着いたな、と思う。
昔は無鉄砲で、考えなしで、見ているこっちがハラハラしなきゃいけなかったのに。年相応の落ち着きを持った兄さんは、なるほど、女性がほっておくはずがない。そしてそれは現実になって、兄さんは誰かのものになった。

「………、にいさん」
「んー、どした、雪男」

僕を守ってくれたあの頃の背中が、目の前にある。懐かしい背中が、あの頃とは違う広さを持って、目の前にある。………まるで、僕を置いてどこかに行ってしまうような気がして。

「………、ぼくを置いていかないでよ、にいさん……」

ずっと僕の傍にいてほしい。どこにも行かないで、誰のものにもならないで。僕だけの兄さんでいて。
眼の前の背中に縋り付く。ぎゅう、と強く抱きしめると、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。それはいつも僕と兄さんが使っているシャンプーの匂いで、たったそれだけのことにひどく安心した。
だから、だろうか。ふわふわと宙に浮いていたような意識がまどろみの中に引いて行く感覚。あ、これ、寝る。落ちそうになる瞼を必死に開こうとするけれど、体は正直だ。
遠のく意識の中で、僕は兄さんを呼ぶ。このまま意識を飛ばしたら、兄さんはいなくなってしまうような気がして、何度も確かめるように。
そんな僕に、兄さんは小さく肩を揺らして笑った。

「――――大丈夫だ、雪男。俺はずっと、お前の傍にいてやるよ」
「ほんとうに?」
「あぁ、ほんとに。なんなら、ゆびきりするか?」

ゆびきり、という言葉に、僕は兄さんの言葉が真実だと知る。兄さんが「ゆびきり」をするときは、絶対に守るっていうサインだ。兄さんが「ゆびきり」をして違えたことは、一度もない。
そっか、兄さん、「ゆびきり」してくれるんだ。ずっと、僕の傍にいてくれるんだ。
うれしい。すごく、うれしい。すき、だいすき。にいさん。僕の―――。

「すきだよ、兄さん」

あいしてる、とその耳元に囁いて、僕はまどろむように意識を失った。その、寸前。前を向いたままの兄さんが、幸せそうに頬を緩めて、ぽつりと何かを呟いた。それが何なのか、僕は知る由もない。
今はただ、幸せな微睡の中で、そっとその肩に頬を寄せることだけが、僕にできる唯一のことだった。








―――困ったときはとにかく、勝呂、もしくは子猫丸に聞け。

というのが、俺の信条だ。いや、ルールとも言うべきか。
とにかく、俺は窮地に立っていた。とても困っていた。だから、俺のお悩み相談所、もとい、心強い味方である勝呂に、とある相談を持ちかけた。そのとある相談というのが。

「―――――雪男が、俺に全然、好きって言ってくれねぇ」

これだ。

大問題だ。由々しき事態だ。俺は真剣に、真面目に、勝呂に相談した。どうしたらいいと思う? と尋ねたら、それまで真剣な顔で話を聞く体勢にいた勝呂が、途端に姿勢を崩して、なんや、そんなことかいな、と言った。

「そんなこと? いま、そんなことって言ったな!? 何がそんなことなんだよ! 俺には重大な問題なんだぞ!!」
「あーはいはい分かった分かったすまんて」
「謝罪が軽い!」
「うるさいわ!」

軽くあしらわれそうになって、冗談じゃねぇぞと思う。散々悩んで、これでもかと悩んで、元から頭を使うのは苦手だっていうのに、それでも考えて考えて考え抜いて、それでもどうしようもないから勝呂に聞いたっていうのに、ここで勝呂に見放されでもしたら、俺は一体どうしたらいいというのか。

「頼むよ、勝呂! 俺にはお前しかいねぇんだ! な? 一生のお願いだ!」
「……おまんの『一生のお願い』はいくつあるんか、ほとほと疑問や」
「頼む! 頼みます! 本気で困ってんだよ……!」

必死に拝み倒す俺に、勝呂は普段の二倍は眉間に皺を寄せて、凶悪な面をしたけれど、最終的には深く、深くため息を吐いて、しゃーないな、と呟いた。
この、勝呂の「しゃーないな」が出たときは、相談に乗ってくれるときの合図だ。俺は暗雲に光が差しこんだ気がして、目を輝かせた。

「すまん! 恩に着るぜ勝呂! 今度美味い飯奢るから!」
「その言葉忘れんなや? ったく……。それで、なんやったっけ? えーっと」
「雪男が全然俺に好きって言ってくれねぇって話!」
「あー……そうやったな……」

あーどうでもええわ、と言いたげな顔をしつつも、勝呂は顎に手を当てて考え始めた。こういうとこ、真面目だよな、と思う。だからこそ、つい勝呂に頼ってしまうんだけれど。
ぶつぶつと何やら呟きながら考えていた勝呂は、おもむろにノートを取り出して、ペンで何やら書き始めた。覗き込むと、ノートの真ん中に、『奥村(弟)』と書いて、それを丸で囲った。

「前提として、先生がお前のこと好きなんは、分かってるんやな?」
「おう」
「……ま、それは俺の目から見ても明らかやから、別にええけど」

勝呂は俺の返事に苦笑しつつ、先ほど書いた丸の上に『奥村(兄)』と書いてそれを丸で囲むと、二つの丸の間に矢印を書いた。『奥村(弟)』→『奥村(兄)』という具合だ。
勝呂は矢印を書きながら、俺をちらりと見やる。

「んで、お前も先生が好き」
「当たり前だろ!」
「はいはい」

ノート上の図に、新たな矢印が加わる。『奥村(弟)』→←『奥村(兄)』。

「が、これはお互いに口に出したことはなく、ただ心の中で想っているだけ。つまり、片思いしている状態、というわけやな?」
「……俺はわりかし、態度に出してる」
「例えば?」
「えーっと、『後ろから抱きつく』? 『風呂上りに雪男のシャツを着る』? それから、あっ帰ってきた雪男に『ご飯にする? お風呂にする? それともオ・レ?』もやったな」
「………。どこからツッコミ入れたらええか分からんから無視するわ。とにかく! おまんからのアプローチはしたんやな?」
「おう。けど全部躱された。さすが雪男だよなー。兄ちゃん惚れ直しそうだ」
「………」

なにやらげっそりとした顔をした勝呂が、ノートに書きくわえる。『※アプローチ過多。だが、効果なし?』その隣にちっさく『先生ご愁傷様です』と書いていた。なんて読むんだろこれ。訊こうとしたら、勝呂は淡々と話を進めてしまった。

「この図でいくなら、お前が素直に先生に「すきって言って欲しい」って言えば済むような気がするんやけど」
「……それは、ダメだ」
「なんでや。つか、そもそも、お前が先生に告白すればええやろ。それをまどろっこしく遠回しなことするから……」
「だからっ、俺からじゃ、ダメなんだって!」

バンッ、と机を叩く。結構な音がして、その乱暴な音で我に返る。「す、すまん…」
萎縮する俺を真っ直ぐに見た勝呂が、はぁっと息を吐いた。眉間に手をやって、唸り声を上げている。

「………なんや、また変なこと考えてるんやないやろうな?」
「……んだよ、変なことって」
「例えば、先生から告白させて、いざ、先生が心変わりしたときに、少しでも引き止められる要因になればええな、とか?」
「っ」
「………当たり、か」

やろうな、と勝呂は少し呆れたように笑った。俺は少し気まずくなって、勝呂の顔色を窺う。

「軽蔑、したか?」
「いんや、別に。おまんの先生に対する執着心は知っとったし、今更やろ」
「でも、」
「なんや」
「こういうの、ずるい、って思うだろ。俺がこういうこと考えてるって雪男が知ったら、……俺、雪男に嫌われちまう……」

自分は何もしないで、相手から動いて貰おうなんて。そしてそれを、いざというときの武器にしようとするなんて、卑怯だ。分かっている。けど、そうでもしないと、俺は安心できない。
雪男の好きと、俺の好きには、同じようで違う何かがある。
雪男のそれは、家族に向けるそれの延長だ。好きで、だから、幸せになってほしいと願う。
だけど、俺のは違う。好きで、だから、俺のものでいてほしい。有り体に言うなら、愛してるから、傍にいてほしい。
こんな強い執着、他の誰にも抱いたことはない。雪男だけ。唯一、俺と同じ血を持つ雪男だけに、俺は強い執着を抱いている。
自分でも、いっそ、怖くなるくらいに。

「雪男に嫌われたら、俺……、俺は……」

この先、どうやって生きて行けばいい?

ひやりとした冷たさが背筋を駆け抜ける。思わず身震いをした俺に、勝呂はアホ、と小さく罵って、こつんと軽く俺の頭を叩いた。

「全く関係ない俺ですら許せるのに、おまんとずっと一緒におった先生が許さへんわけないやろ。……んなこと、おまんが一番分かってるとちがうか」
「勝呂……」
「それよりまずは先生と両想いになってから! そっから考えればええやろ?」
「ん。そうだな……!」

ニッと笑ってみせた勝呂に、俺もほんの少し気分が上昇する。そうだ、まずはウダウダ悩むより、行動あるのみ!
表情を明るくさせた俺に頷きつつ、勝呂はノートに向かう。「ええか」二つの円とは別のところに、もうひとつ、円を書く。その円の中心に、『A』と書き足して、トントンとペンでその部分を叩く。

「仮に、この『A』を『奥村(兄)』の恋人にする」
「え?」

一瞬、言われた意味が分からなくて、マジマジと勝呂を見た。が、勝呂は目で、黙って聞いとけ、と言ってきたので、黙り込む。
勝呂は更に図に矢印を書き足した。『A』=『奥村(兄)』。=の上に、恋人と書く。

「そしてそれを、『奥村(弟)』に言ったとする。そしたら、『奥村(弟)』はどう思う?」
「……」

どうや、と尋ねられて、少し考える。もし、俺が雪男に「恋人ができたんだ」と言ったら。

「――――、『………良かったね、兄さん』って笑う、と、思う」
「……やろうな」

先生らしいわ、と勝呂は苦笑した。そして、さも重要なことを話すように声を潜めて、
ここからがミソや、と言う。味噌? なんで味噌? と思ったけれど、真剣な勝呂の表情に今は口を閉じる。

「んで、散々この『A』の自慢をして、そこですかさずお前はこう尋ねる。「お前は恋人を作らないのか」と。そしたら先生は?」
「………怒る」
「なんで?」
「だって俺がすき、だから………って、あっ!」

俺はそこでハッとする。勝呂は得意げに笑って、そうや、と頷いた。

「先生はきっと怒るやろうな。自分が好きなのはおまんなのに、どうしてそんなこと聞くんや!ってな。その言葉が出れば、もうこっちのもんや」
「な、なるほど……! さすが勝呂!」

鮮やかだ。あまりにも鮮やかな手口に、感嘆の声が漏れる。
これ以上ない案だ。これなら雪男も口を滑らせるに違いない。俺は勝呂の両手を掴んで、ありがとうな! と感動のあまり涙が出そうになるのをぐっと堪えた。
泣くには、まだ早い。せっかくの案を生かさなければ!

「これ、さっそく試してくる!」
「おー、上手くやれや。……その後の報告、楽しみにしとるわ」

ぐっと親指を立てた勝呂に、俺も晴れやかな笑顔で親指を突き立て返す。健闘を祈る。男同士のひそやかな作戦は、こうして立てられたのであった。

……が、作戦は、思わぬ方向に転がった。

恋人ができた。→ 雪男笑う。→ 恋人いねーの。 → 雪男怒る。ここまでは良かった。あまりにスムーズすぎて、逆に居心地が悪くなったくらいだ。居もしない恋人『A』を自慢する俺に、無理して笑う雪男に罪悪感すら抱いた。けど。

「僕が誰とも付き合わないのは、兄さんのせいだよ」

この、言葉だけは。

俺は、逃げるように部屋を出て行った雪男の背中を見送って、閉じられた扉を前に、ただただ呆然とするしかなかった。

「………、っ」

じわりと視界が滲んで、慌てて唇を噛む。ここで泣くのは、卑怯だ。雪男はぜんぜん悪くないのに。ただ、俺が、勝手に傷ついている、だけで。

「おれのせい、か……」

なくな、と自分に言い聞かせる。だって、雪男は当然のことを言っただけだ。雪男は俺を好きにならなければ、きっと、可愛らしい子と恋をして、子どもができて、家族になって、そんな、幸せな人生を送れたはずだ。いや、もし俺を好きになったとしても、俺が雪男を拒否すれば、きっと雪男は俺を諦めて、違う人生を歩めたはずだ。
だけどそうできないのは―――――、俺が、雪男のことがすきだからだ。
俺が、――――弱虫だから、だ。

「ごめん……ゆきお……、ごめん……、けど、今だけ、だから………っ」

閉じられた扉の向こうで、雪男はきっと苦しんでいる。そうと分かっていても、俺はなにもできない。……しようと思わない。だって俺はいつか。

「――――、おいて、いかれるから」

だから、今だけは、この我儘を許してほしい。
溢れそうになる感情を押し殺して、そっと目を閉じる。零れた涙が一滴、頬を流れた。





――――貴方はいつか、年老いることがなくなるでしょう。

そう、メフィストから告げられたのは、俺が祓魔師認定試験に合格してすぐのことだった。
晴れて祓魔師ですねオメデトウゴザイマス、と告げた唇が、次の瞬間にはその言葉を吐いていた。
合格したことに浮かれていた俺は、その言葉にぽかんと呆気に取られてしまった。間抜けな顔ですね、とメフィストはさして気にした様子もなく、俺の顔を見てそう言った。だが、俺はそれどころではなかった。俺はいま、なんて言われた? 

「……としおいる……って」
「ん? ああ、意味が分かりませんか? では、言葉を変えましょう。『貴方は、他の人間よりもはるかに長い生を生きることになるでしょう』。まぁ、不老不死とまではいきませんが、少なくとも、貴方の周りにいる人間が全員死んだとしても、貴方は生きているでしょうね」

さらりと、なんでもないことのように寄越された言葉は、その軽さとは裏腹に、俺の胸に鋭く突き刺さった。
不老、不死。なんだ、それは。

「どういう、ことだよ、それ」
「どういうもなにも。悪魔とは、そういう生き物なのです。人間の肉体が生まれ、朽ち、死に絶える時の流れすら瞬きに感じるほどの、長い年月を生きる。ほら、猫と人とは元から生まれ持った寿命が違うでしょう? それと同じです。貴方の場合、元が人間の肉体ですから、私たちのようにとはいきませんが、普通の人間よりははるかに長い年月を生きることになりますね」
「それは……どのくらいの長さなんだ?」
「さぁ?」

ひょいと肩を竦めた悪魔は哂う。「別に問題はないでしょう?」

「問題ないって……!」
「だって、そうでしょう? 人間とは不思議なイキモノで、なによりも「死」を恐れている。己という自己が死ぬことを、心の底から恐怖している。これは他のイキモノにはない、人間のみが感じるものです。それが、貴方には無用の心配になるわけですから」
「……っ俺は、長生きしたいわけじゃねぇよ!」
「おや、そうですか」
「……っ、じゃあ、俺は……っ」

この世界に、一人、取り残される。

それは、なんて残酷な。

「それが、貴方の背負うべき運命。時の螺旋です」

こともなげに、時の悪魔は告げた。言葉を失くす俺にさらに悪魔は言う。「それとも、運命に抗って自害でもしますか?」

「悪魔とて、全くの不死というわけではなりません。以前告げたとおり、貴方の悪魔の心臓はこの倶利伽羅にある。これを破壊すれば、貴方は他の悪魔同様、死ぬことができますよ?」
「っ、ふざけんな! んなこと……っ、できるわけねぇだろ!」

脳裏に浮かんだのは、あの日の光景だ。青い焔を纏った、俺の、俺たちの大事な親父が、自らの胸に鋭い刃を突き立てた、あの瞬間。

『こいつは俺の息子だ……!』

聖職者にとって、自害がどれほど重い罪であるのかを知りながら、それでも俺を守るために自ら死を選んだあの人を、裏切ることなんてできない。自殺なんて、それこそ、あの人への冒涜だ。怒りに吼える俺を、まるで子犬を相手にするかのように、悪魔はさらに問う。

「では、どうするのです? 生きるのは嫌、死ぬのも嫌。貴方はどちらを選ぶのです?」
「………――――俺は……」






……結局、俺はそのとき、答えを出せなかった。……今も、明確な答えは出せないままだ。
あれから、約十年。じわじわと、運命は俺に問いかける。
――――二十歳を過ぎたあたりから、体は成長を止めた。
――――どんな大怪我をしたとしても、以前は時間のかかっていた再生能力が、今では瞬きする間もない。
――――まるで、「悪魔」の俺を生かすかのように。
それゆえに、年々周囲との差を思い知ることになる。今年で二十五になった同期たちの中には、結婚して子どもが生まれた奴もいる。この十年、俺以外の奴らはみんな、まるでビデオの早送りをしているかのような速さで、年を重ねていく。俺はそれを傍から見ているだけの、傍観者になっていた。

生きるのか、死ぬのか。

答えなんて出ないまま。

「やっぱ、俺はずるい奴だな……」

勝呂の連絡を受けて、迎えに行った雪男は、まるで小さな頃に戻ったみたいに、必死に俺に縋りついた。置いていかないで、と。それはこっちの台詞だ、と小さく笑いながら、どこにも行かないと約束した。ゆびきり、と俺たち二人だけには分かる特別な約束をすれば、雪男は安心したように笑った。

「すきだよ、にいさん」

あいしてる、と囁くような愛の言葉に、甘やかな胸の痛みを感じながら、なんて幸福な時間だろうかと笑う。
背負った雪男が完全に落ちたことを、ずしりと重くなった体で悟った。寝ちまったな。小さく笑って、ぽつりと呟く。

「――――お前が死ぬまで、俺も死なねぇから」

だから。



いつか告げるさよならを




「今はまだ、」


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