「あっ、あのね、燐」
赤らんだ白い頬と、見上げるその瞳に、僕は悟る。
あぁ、僕は失恋したんだ、と。
不思議と、悲しくはなかった。なんとなく、分かっていたのだ。彼女の心が、自分にないことくらい。
いつだって、あの緑色の綺麗な目は、兄さんに向いていた。
分かっていた。僕は、兄さんには適わない。どんなに努力しても、最後のところで、僕はいつも兄さんには適わない。
分かって、いた。分かっていたんだ。だからこうして納得しているし、彼女が兄さんを選んだのならと、身を引くつもりでいた。正直、とても悔しいけれど。でも、まだ僕は自分を抑えるだけの理性を持っていた。
それなのに。
「……………―――、ごめん」
兄さんが返したのは、僕が思っていた言葉と、正反対のもので。
時が、止まる。
「本当に、ごめん。でも、俺はお前の気持ちには、答えられない」
「燐……」
「ごめん」
兄さんは、真っ直ぐに彼女に向かって告げると、深々と頭を下げた。そしてもう一度、ごめん、と言う。すると彼女は慌てて、頭を上げて、と兄さんの肩に手を置いた。
彼女の促されて顔を上げた兄さんは、ほんの少し、悲しげな顔をしていた。
どうして、兄さんがそんな顔をするのだろう。僕は分からなかった。そして、兄さんが彼女の告白を断った、理由も。
僕から見ても、兄さんは彼女に惹かれていたはずだ。どうしてこんな時だけ双子だと感じるんだろうと、苦虫を潰したような苦々しさを覚えたことがあるからだ。
それなのに、どうして。どうして、そんな顔をするんだ。僕は、猛烈な怒りを覚えた。
「私のほうこそ、ごめんね、燐。いきなり、こんなこと言って……」
「いや、しえみが謝ることじゃねーよ。俺が、悪いんだからさ」
「そんなことないよ。………でも、どうして?」
彼女は、どうして自分の告白を断ったのかと問うた。それもそうだ。傍から聞いていた僕も気になった。どうして、兄さんは彼女の告白を断ったのか。
兄さんは、少し言いよどむ気配を見せた。だけど、彼女がとても真剣な顔をしているのを見て、覚悟を決めたようで、僅かの沈黙ののち。
「俺、他にすきなやつがいるんだ」
だから、しえみの気持ちには、答えられない。
兄さんは、ハッキリとそう言った。
兄さんに、すきなひと?
それは、彼女じゃないのか。だとしたら、一体誰だ。僕は大きく胸が騒ぐのを感じた。
「そ、っか。そうなんだ。それなら、仕方ないね」
彼女は、震える声でそう言って、俯いた。細い肩が、震える。もしかしたら、泣いているのかもしれない。兄さんもそれが分かったのか、ただ黙って、彼女を見下ろしていた。
「っ、ごめん」
とうとう耐え切れなくなったのか、彼女は走り去った。泣くのを見られたら、兄さんが困ると思ったのだろうか。そんな彼女の背中を、兄さんはただ見送った。
彼女が走り去っても、ずっと。
部屋に帰ると、まだ兄さんは帰ってきていなかった。僕は部屋の中で一人、深くため息を吐く。
兄さんに、すきなひとがいる。
でもそれは、しえみさんではなかった。だとしたら、一体誰だ。僕はあらゆる顔を思い浮かべたが、しっくり来なかった。
じゃあ、もしかして兄さんは、しえみさんの告白を断るために、嘘を付いたのだろうか。いや、兄さんはそんなことをする人ではない。それならハッキリと、そう言うはずだ。
「…………だれだ」
兄さんのすきなひと。どんなに考えても、分からない。
「…………―――っ、くそ」
なんだって、僕はこんなに焦っているのだろう。兄さんがしえみさんと付き合わないのなら、僕はそれを喜んだっていいんだ。僕にだってまだチャンスはあるんだって、思っていいはずなんだ。それなのに、どうしてこうも、気になるんだ。
考えすぎて、頭が痛い。眼鏡を外して眉間に手をやっていると、部屋の扉が開いて、兄さんが帰って来た。
「ただいまー、って、どうしたんだよ、雪男? ここにすっげぇ皺が寄ってるぞ」
「………」
いったい、誰のせいでこんなに悩んでいると思っているんだ。僕の苛立ちは募る。
どうやら兄さんは僕のそんな苛立ちに気づいたようで、怪訝そうな顔で僕を呼んでいた。だけどそれに返事を返す余裕のない僕は、兄さんの声に気づかなかったフリをする。
気まずい沈黙が、部屋の空気を重たくさせた。だけど、それでめげる兄さんではなくて。
「っ、雪男!」
ぐん、と腕が引かれる。予想以上の力で引っ張られて、僕が驚いていると、真っ直ぐにこちらを見上げる青い瞳と、目が、合って。
「聞こえてるんなら、返事くらいしろ! 一体、どうしたんだよ」
「………―――、るさい」
「何か、悩みでもあんのか? だったら、少しくらいなら、相談に乗ってやらないこともないからさ。だから、」
「煩い!」
心配そうな兄さんの言葉を遮るように、僕は声を上げた。こんな風に怒鳴ったことがない僕は、自分の声をまるで他人の声のように感じた。
驚きに目を見開く兄さんの顔が、やけに、鮮明に映って。
何もかも、煩わしかった。
失恋したことも。それでも諦めて、彼女の幸せを願ったのに。それなのに、兄さんはたやすく僕の心を騒がせる。それが苛立たしくて、ひどく、煩わしかった。
あぁ、ちくしょう。なんだって、こんなにイライラするんだ。そうだ。それもこれも、兄さんが悪いんだ。兄さんが、すきなひとがいる、だなんて言うから。
だから。
「…………―――、兄さん、今日、しえみさんに告白されてたよね」
ぽつり、とそう告げれば、兄さんはあからさまに、表情を変えた。サッと青白くなる頬。
「み、てた、のか………?」
「偶然、ね。しえみさんが告白して、兄さんがフッているところも、全部、見てたよ」
「…………っ」
全部知っていると告げると、兄さんは苦しそうに顔を歪めた。だけどそれを押し殺して、そうかよ、と強気に言い返してきた。その態度が、また、僕の苛立ちを助長させた。
「すきなひとが、いるんだって? しえみさんの他に」
「………―――、そうだ」
否定するでもなく、少し諦めたように、兄さんは頷いた。僕はその姿に、再び、強い衝撃を受けた。
信じていなかったわけではないけれど、こうして改めて本人の口から聞くと、それが真実なのだと分かってしまった。
兄さんには、すきなひとが、ほかに、いる。
それが、無性に、許せなかった。
「へぇ、兄さんにそんなひとがいたなんて、知らなかったな。一体、だれなの? 兄さんのすきなひとって」
「それは、言えねぇ」
「僕にも? いいじゃない、言っても。誰にも言わないよ」
兄さんは、頑なだった。頑なに首を横に振って、言わない、言いたくない、と言う。その態度があまりにも顕著で、僕は僅かに違和感を覚えた。
確かに、言いたくないのは分かる。僕だって、実の双子の兄に自分のすきなひとを言えと言われて、素直に答えるわけがない。だけど、それにしたって兄さんの反応は、あまりに違和感がありすぎた。
兄さんは固く唇を閉じて、絶対に言うものか、という顔をしている。それが逆に、僕の好奇心を刺激した。
こうなったら、何がなんでも、聞き出してやる。そんな、対抗心にも似た気持ちが芽生えて。
僕はぐっと兄さんの両肩を掴んで、すぐ真横の本棚に押し付けた。兄さんはとっさのことで身動きが取れず、ハッと顔を上げた。
「、ゆき、お?」
「兄さん、教えてよ。兄さんのすきなひと」
「な、なんでそこまでこだわるんだよ! べ、別にいいだろ、誰でも!」
「良くないよ」
全然、良くない。
笑って見せれば、兄さんは顔を引きつらせて、体を縮こまらせていた。言うまで離さないから、と言えば、必要以上に肩を震わせて、泣きそうな顔をする。
僕はなんだか、小さな子どもを苛めているような気分になった。だからといって、止めるつもりはないけれど。だって兄さんは、小さな子どもじゃないのだから。
「………っ、ゆきお、も、勘弁してくれ……っ」
「そんなに、言いたくない?」
ふるふると首を縦に振る兄さん。よっぽど、言いたくないらしい。
ここまで言ってもまだ言うつもりのない兄さんに、僕はやはり、違和感を覚えた。そこまでしてまで兄さんは口を閉ざすのは、何故だ。
普通の、女の子相手だったなら、同じ塾生の神木さんや朴さんだったら、兄さんは素直に白状していたはずだ。僕も知らない人ではないわけだし。逆に、僕が全く知らない子でも、同じことだ。知らないから、名前を聞いただけではどんな人物か想像するしかない。兄さんからしてみれば、今ここで僕に言ったところで別になんの支障もないはずだ。
だとしたら。
兄さんのすきなひとというのは、もしかして、公には言えない相手、ということなのだろうか。例えば、結婚している女性、とか? もしくは学校の先生? いや、でも、兄さんは年上よりも年下の方が好みだったような気がする。僕がそうだから、たぶん、きっと、そうだ。
じゃあ、もしかして、ものすごく年下の女の子、とか? …………いや、ない。それは、ない。
それなら、一体、どうして…………。
ぐるぐると頭を悩ませていた僕は、ふと、兄さんの様子が可笑しいことに気づいた。
顔を真っ赤にさせて、うろうろと視線を彷徨わせている。真っ直ぐに僕を見れずに、だけどどこを見て良いのかも分からずに、不自然なほど、僕と目が合わないようにしている。
「? 兄さん?」
「ぅへぇっ? な、なにっ?」
「や、なに、って、それは僕の台詞なんだけど」
顔、真っ赤だよ、と。
僕は無意識のうちに、兄さんの首筋に手を伸ばした。医師を目指しているせいか、ここに触れて熱を測るのが癖になっているようだ。うん、別に熱はないみたいだ。まぁ、兄さんの体は半分は悪魔なんだし、風邪なんて引かないだろうけど。そんなことを考えていた僕は、首筋から手を離したとき、兄さんがどんな顔をしていたかなんて、気付きもしなかった。
だから。
「…………っ、も、はなせって!」
「うわっ」
どん、と胸を押されて、僕は慌てて足を踏ん張る。
「いきなり何するの、兄さん」
「っ、うるせぇっ、っ、全部、ぜんぶ、雪男が悪ぃんだ!」
「な、なんだよ、それっ。僕は別に悪くないだろ!」
「悪い! めっちゃ悪い! おれがっ、どんな想いで…………、っ」
ぶるぶると握り締めた拳を振るわせる兄さんは、だけど、最後の言葉は口にしなかった。ただ俯いて、その細い肩をいからせている。
なんだろう。兄さんの様子が、おかしい。僕は呆然と、兄さんの顔を見ることしかできなかった。
「………………―――、おれ、は」
言おうとして、でも、閉じて。また開いて、を繰り返す。
その様子に、胸が騒ぐ。この先を、聞きたい。だけど、聞いてはいけないような、そんな胸騒ぎがする。
「っ、おれ、はっ、……………っ」
ぱく、と兄さんが言おうとしている言葉が、口の中で空回っているのを感じた。もしかしたら兄さんは、何かを告げているのかもしれない。音にはならないだけで、何かを、言っているのかもしれない。
だけどそれは、僕の耳には届かない。それは兄さんも、よく分かっているみたいで。最後には何も言わなくなってしまった。その姿が、なんだろう、すごく、悲しそうに見えて。
「……………、ごめん」
僕はとっさに、謝っていた。兄さんが言いたいことを聞き取れないことに、もどかしさを覚えながら。すると、兄さんはハッと顔を上げて、僕を見た。
揺れる青い瞳が、傷ついた色を宿して。え、と思った次の瞬間には、兄さんはその色を仕舞いこんでしまっていた。
「な、んで、雪男が謝るんだよ………。別に、わるくねぇだろ、何も」
「あ、いや、その、」
「もう、この話は止めにしようぜ、雪男」
ぴしゃりと兄さんは言いきった。喧嘩したときは、いつもこうだ。兄さんがこう言いだしたときは、何を言っても無駄だった。どんなに僕が納得できなくても、たとえ兄さん自身が納得がいっていなくても、止めにしようと言い出したら、絶対に止める。今回も、また。
止めようと言った兄さんは、次の瞬間にはいつものように笑っていた。笑って、腹減ったな、なんて言う。そして自然な動作で、夕飯作るなー、なんて言って、部屋を出て行ってしまった。
「…………、なんだよ」
僕はその背中を見送って、呟く。
結局、兄さんのすきなひとが誰なのか、聞けなかった。それどころか、ますます分からなくなってしまった。兄さんに、あんな顔をさせるのが、誰なのか。
僕は、舌打ちを一つ。
どんなに苛立たしく思っても、夕食が出来上がる頃には、きっといつもの僕たちがいることを、僕は知っていたからだ。
すきなひとを振った人間と、一緒に夕食を食べる。なんてシュールな光景だ。滑稽すぎて、笑えてきた。
「失恋、か」
今更だけど、自分が失恋したのだと実感して、胸が痛かった。
「っ、くそっ」
悪態をつく。抑えた胸元が苦しい。ずき、ずき、とまるで疼くように痛む胸を抱えて、俺は廊下の壁に肩を寄せた。ひやりと冷たい壁の感触が、やたらと肌に吸い付いた。
「っ、ちくしょうっ」
どうして、なんて、考えるまでもなかった。こんなに胸が痛いのも、涙が出そうになるくらい苦しいのも、原因なんて、一つしかない。
『あ、あのね、燐』
昼間、しえみに呼び出された。祓魔屋の庭に。俺としえみが出会った、綺麗な庭。俺は最初、その庭で花に囲まれたあいつを、まるで花の妖精みたいだと思った。綺麗だな、と思ったし、可愛いな、とも思った。
そして、今も、その思いは変わらない。
花と笑顔が良く似合う、可愛らしい女の子。初めてできた、異性の友人。意識しないほうが難しくて、あいつが笑うたび、緊張したのを覚えている。
だけど、でも。
『私、燐のことがすきです………!』
差し出されたのは、綺麗な花束。しえみによく似合う、綺麗な花束。まるでしえみの心を映すかのようなそれを、だけど俺は、受け取らなかった。
いや、受け取れなかったんだ。
………………、とっさに思い浮かんだのは、雪男の顔だった。
雪男は、しえみのことがすきだ。双子だからだろうか、それはすぐに分かった。雪男はしえみの前では、気を許したかのように笑うから。
俺の、だいすきな笑顔で、笑うから。
だから、すぐに分かった。俺はとっくの昔に、失恋していたんだって。
「……………、」
ゆきお、と唇が動く。声にはならない。出してはいけない。想いが、零れてしまうから。だからずっと、ずっと、我慢してきたのに。
「…………人の気も、知らねぇで………っ」
アイツの触れた首筋が、熱い。
ついた悪態は、何も知らない雪男にか、それとも、きっかけとなったしえみにか。分からない。分からないけれど、判っていることは、ただ一つ。
「失恋、か」
今更だけど、自分はどうあったって報われない想いを抱えているんだと気付いて、胸が苦しかった。
END