空と君のあいだに SAMPLE


「おい、あれ見ろよ。また話してるぜ、アイツ」

 任務の帰り、廊下を歩いていると、向こう側からやって来た祓魔師たちの会話が耳に入った。嘲笑を含んだようなその声に、一瞬、意識がそちらに向いた。彼らは窓の外を見て笑っていて、僕は何気なくその視線の先を追って、僅かに目を見開く。
………―――兄さん?
 学園の制服姿の兄さんと、もう一人。燕尾服に身を包んだ長身の見知らぬ男が、二人で何やら楽しげに会話をしていた。男はベンチに座っていたが、兄さんは立ったまま。ケラケラと笑う兄さんに、一体どんな会話をしているのかと気になったが、会話、というより、兄さんが一方的に話しているようにも見える。男は無表情のまま相槌を打ちながらも、兄さんの話にちゃんと耳を傾けているようだ。
 誰だ、あの男。
 苛立ちと胸のざわめきが止まらない。そんな自分に内心で舌打ちしていると、同じように兄さんたちを見ていた祓魔師たちが、まるで見下すかのような目を兄さんに向けた。
「さすが、あの魔王の仔だよな。人様の使い魔に手ぇ出すなんてさ。あの使い魔の主人からすれば、面白くねぇだろうよ。人のモン勝手に横取りされて、よく黙ってられるよな」
「それはそうだろ。相手はあの青焔魔の仔だぜ? 下手すりゃ殺される。ったく、騎士団もなんであんな危ねぇ奴、さっさと処分しねぇんだよ」
 吐き捨てられたその言葉に、ぐ、と手のひらを握り締める。
 違う、そうじゃない。兄さんは、そんな人じゃない。それは、今までずっと一緒だった僕が一番知っている。そう言いたいのを、手のひらを握り締める手に力を込めることで、抑えた。
 ここでそれを言うのは簡単だ。だけど、ここで感情に任せてしまえば、きっと後で後悔することになる。それだけは避けなければならない。
 僕は、窓の向こう側で無邪気に笑っている兄さんを見つめた。
 ………やっぱり、危惧していた通りのことが起きている。
 いつか、こんな日が来てしまうんじゃないかと思っていた。半年前の、あの島の一件から。
 兄さんは、悪魔に対してどこか寛容だ。悪魔を相手に、人間を相手にしているときと同じように接する。僕や兄さんと同じ塾生たちだったなら、その光景を見たところで、兄さんらしいな、と思うだけだけれど、兄さんのことを全く知らない第三者からすれば、兄さんの行動は時には奇異として映る。
 悪魔と馴れ合う祓魔師などいない。ならば、やはり奥村燐は青焔魔の仔なのだ、と。
 そんな風に周囲から思われないよう、注意したつもりだったのに。悪魔を庇って任務に支障を来たし、謹慎処分となった。
「全く、何をやっているんだ、兄さんは」
 こちらのことに全く気付く様子もなく、ただただ楽しげな兄さんの笑顔が、やけに苛立たしく思えた。
 内心で舌打ちしていると、ふいに、兄さんが男に向かって手を伸ばした。どこか心配そうに、その頬に触れる。こちらからでは男の顔は見えないけれど、男に触れる兄さんは悲しそうな顔をしていた。
 どうして、そんな顔をするの。それとも、その男が兄さんにそんな顔をさせているの。
 苛立ちを募らせる僕を他所に、兄さんがぽつり、と何かを呟いた。すると、男が手を伸ばして頬に触れる兄さんの手を取ると、その指先に唇を落とした。
 瞬間。
 僕の手が懐に伸びる。愛銃に触れたのと同時に、男がハッと顔を上げてこちらを振り返った。鋭い藍色の瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。目が合った、と認識したそのとき、脳内に男の声が響いた。
―――……何者か知らないが、貴様の殺気、しかと受けた。貴様が私たちの邪魔をするというのなら、私は貴様を殺す。
 隠しもしない、殺気。僕はじっと彼を見返して、銃に伸ばしていた手を下げた。同時に男も兄さんに向き直って、何ごともなかったかのような空気が流れた。……表面上は。
 僕は二人から視線を外して、歩き出す。眼鏡を引き上げなら、静かに息を吐く。ビリッと銃に触れていた指先が震えて、ぐっとその震えを押え込むように握りしめた。
……―――あの悪魔は、危険だ。僕にとっても、兄さんにとっても。
 深く、息を吸い込む。懐の銃が、かちり、と音を立てたような気がした。再び銃を抜くか、否か。迷っていると、背後から奥村先生? と声が掛かった。銃に伸ばそうとした手が、止まる。振り返ると、祓魔師のコートに身を包んだ勝呂君がいて、彼も任務の帰りだということが窺えた。僕は彼に向き直って、小さく笑った。
「こんにちは、勝呂君。君も任務終わりですか?」
「えぇ、まぁ。今回は遠出だったもんで、えらい骨を折りましたけど」
「それは大変でしたね。お疲れ様です」
「いえ、先生も任務で海外に行ってはったんでしょう? そっちのほうが大変そうや」
 兄さんと同じように祓魔師試験に合格し、同じように祓魔師として任務に就いている彼は、立場は同じはずの僕を未だに『先生』と呼ぶ。それは他の塾生たちも同じで、呼ばれるたびになんだか妙にくすぐったいような気分になる。
「それほどでもありませんよ。以前に比べたら、随分と楽になましたよ。勝呂君たちや、兄さんの活躍のおかげです。騎士団は万年人手不足ですから、少しでも動ける人材が増えることで、他の祓魔師たちの負荷も減りますし」
 何気なく言ったつもりだったのだけれど、僕の言葉を聞いた勝呂君の表情が急に曇った。何か変なことでも言ってしまっただろうか。怪訝に思っていると、勝呂君は少し声を落として、その、奥村兄のことやけど、と言い難そうな顔をした。
「妙な噂が騎士団の内部で流れとんの、知ってはりますか」
「噂、ですか? いえ、特には」
「そうですか。たぶん、他の連中は気ぃ使おて先生の耳に入れへんよぉにしとったのかもしれへんな。でも、これから聞いたことありますやろ? 最近、手騎士が使役しとった使い魔たちが、急におらへんようになった、っていうのは」
「あぁ、それなら知っています。確か、一ヶ月ほど前から手騎士たちの使い魔が召喚にも応じなくなった、とか。原因は現在調査中で解決しておらず、元から数の少なかった手騎士を補うために、海外から数名、手騎士が呼ばれているんですよね?」
「えぇ。んで、噂っちゅうのが、その使い魔たちを唆したんが、奥村やないかっていうもんなんですわ」
「!」
 僕はとっさに、先ほど通りすがりに聞いた祓魔師たちの会話を思い出した。人様の使い魔に手を出すなんて、と彼らは言っていた。それがまさか、あの問題と繋がっているなんて。僕は奇妙な違和感を覚えた。いくらなんでも、タイミングが良すぎる。
 ひどく、嫌な予感がした。
「奥村先生。俺は、奥村を信じとる。けど、アイツはどうしたって悪魔びいきになりがちや。この前の任務だって、それが原因やった。………そこを、付け込まれんどけばええけど……」
 心配そうな勝呂君に、兄は大丈夫ですよ、と心にもないことを言う。彼もそれが分かっているのだろう。無言のままだ。
勝呂君の言葉の意味は、よく分かる。心優しい兄さんは、自分が守れるものは全て守ろうとする。それで、どんなに自分が傷つこうとも。愚鈍なまでの純粋さで、他人のために。
 ……謹慎処分を受けたと聞いて、僕はすぐに兄さんに電話を掛けた。出ないかもしれないな、と思った。兄さんは、自分が弱っているときは決して他人を頼らない。それは双子の弟である僕相手でも変わらない。いや、僕相手だと余計にそれは顕著だった。
 だから、今の状況じゃ出ないかもしれないと思った。けど、兄さんは電話に出た。普段の明るい兄さんの声を聞いている誰もが耳を疑うような、弱弱しい声で。
 たまらなかった。今すぐ任務を放りだして、僕よりも小さな体を抱きしめて、―――あなたがすきなのだと、言いたかった。
 でも、きっと。そんなことを兄さんが望んでいるわけではないことも、分かっていて。途中で切れた電話に、だけど僕は掛け直さなかった。静かに、ただ、泣かせてあげようと思った。不器用な兄さんの為に。そして、祈った。神様にではなく、天国にいるであろう神父さんに。
 どうか、兄さんがこれ以上、傷つきませんように、と。
 祈るように見やった窓の外は曇り空で、太陽の光は見えない。今にも雨が降りだしそうな天気に、僕の願いは届きそうもないことを知って、そっとため息を吐いた。
 いつも、そうだ。
 僕の願いは、いつだって神様に届くことはない。どんなに強く願おうと、残酷な現実はやってくる。兄さんが悪魔として覚醒したときも、騎士団に青焔魔だとバレたときも、雨が降っていた。
 まるで、天が兄さんを拒むように。兄さんを守ろうとする僕の願いを、拒むように。
「………だとしても」
 たとえ天が見放そうとも、僕は兄さんを守る。そのためなら、僕は。
「………―――」
 呟いたその言葉は、降りだした雨音に紛れて、誰の耳にも入ることなく消えた。でも、それでいい。僕自身が分かっていれば、それで。
 僕は激しい雨が降る外を眺めて、そういえば、兄さんはちゃんと屋根のある場所に行っただろうかと、そんなことが気になった。