あなたの素顔





知り合いの先輩に進められて、高校からバレーを始めた。中学では、「モテるから」という理由でバスケ部に所属していたものの、三年間、ベンチから動くことは結局なかった。俺にはどうやらバスケの才能はないらしい。そう悟った俺は、高校では別の部活に入部しようと決めていた。どうせやるなら、レギュラーになれる部活がいい。中学で散々だったから、熱狂できるものがいい。だが、何がいいのか分からずに迷う俺に、同じ中学で仲良くしてくれていた先輩から、バレー部にしたらどうかと進められた。俺は身長だけは高くて、一九〇手前だったこともあり、体験入学のときにしきりにバレー部員に入部を勧められた。煽てられるだけ煽てられて、調子に乗った俺はその日の内にバレー部への入部を決めていた。
だが、そのときの俺は、別にバレーなんて相手コートにボールを落とせばいいんだろ、くらいにしか思っていなかった。要するに、「バレーを舐めていた」のだ。
身長が重要視されるバレーだ、きっとすぐにレギュラーになれる。そんな安易な考えしかもっていなかったのだ。
だが、いざ始めてみると、思ったようにボールは飛ばないし、MBというポジションに宛がわれたはいいものの、ブロックするたびに叩きつけられるボールに腕は痛いし、レシーブも上手くいかない。何もかも上手くいかないことばかりで、ボールを追いかけるという点ではバスケと似ているのに、こんなにも違うのかと愕然とした。

だが、俺は不思議と、辞めようとは思わなかった。へたくそで、一年の頃はベンチから動くことはできなかったのに、それでも俺は必死にボールに追いすがった。
そしてとうとう二年になり、レギュラーに抜擢された。初めてコートに立って、自分のブロックが決まったときのあの快感。相手スパイカーから放たれた強烈な速攻をこの手で止めてやったときの、あのなんとも言えない感動に、俺は夢中になった。

要するに、「バレーにハマッた」瞬間だった。

三年になり、全国は狙えなかったものの、春高予選で決勝まで進んだこともあり、俺はバレーの名門である大学からの推薦が貰えた。もちろん、俺もその大学に進むつもりだったので、一二もなくその大学を受けた。

そうして、名門中の名門と言われ、世界で活躍するバレー選手の多くを出してきた大学で、一人の先輩に出会った。
真っ黒な黒髪と、同じ色の鋭い瞳。涼やかな顔立ちは大学内の女に人気で、練習試合を見に来る女も多い。だが、本人はその中から恋人を選ぶこともせずに、ただひたすらにバレーに打ち込んでいた。そのストイックさに、同じバレー部員の中でも憧れている奴が何人もいた。もちろん、俺もその一人だ。
先輩の名前は、影山飛雄。高校のとき、全国で優勝を果たしたことで有名なあの烏野高校でSを務めていたという、いわば「天才の人」だった。

影山先輩は、とにかくすごい人だった。傍にいれば、同じチームにいれば、おのずとその凄さが実感できる。先輩のあげるトスは、精度がものすごく高い。スパイカーが欲しいトスが、必ず上がる。スパイカーに気持ちよく打たせるトスを上げることのできる、スパイカーからすれば喉から手が出るほど欲しいSが、先輩だった。恐らく俺たちの中で一番、全日本召集に近いのではないか、と噂されているくらい、すごい人なのだ。

先輩は、元々は宮城の人だったらしいが、この大学に入るためわざわざ東京に上京してくるほどの、バレー好きだ。俺ももともとバレーは好きだったけれど、この先輩のおかげで、俺はますますバレーが好きになった。友人からは、「気持ち悪い」と言われるくらい、バレーに、そして先輩に熱を上げていた。


「影山、カバー!」
「ハイ」
「上がった! 速攻、来るぞ!」

いつもの練習試合。俺は影山先輩と同じチームだ。レギュラー組と準レギュラー組に分かれての試合で、本番さながらの試合をする。
俺は影山さんからの指示(サイン)を元に、助走に入る。相手ブロックは囮であるもう一人のMBに吊られている。影山先輩のトスは、どこに上がるのかフォームでは見抜けない。綺麗に囮に吊られてくれたおかげで、俺の前はガラ開きだ。影山先輩の上げたトスが、俺の前に差し出される。俺はこの瞬間が、実は一番好きだ。

「ッラァ!」

相手ブロッカーの焦った顔に得意げになりながら、思い切りスパイクを叩きこむ。ダン! と力強い音と共に床に叩き付けられたボールが、宙を舞う。
ピィーッ! と試合終了のホイッスルが鳴る。18-23.見事なまでの点差で、俺たちレギュラー組の勝利だった。よし、と内心でガッツポーズを取りつつ、コートから立ち去る影山先輩に駆け寄った。

「影山先輩! どうでした? 最後のスパイク!」
「あぁ………。悪くなかった。もう少し助走に入るのを早くすれば、打ちやすくなるんじゃないか? 俺も、もう少し調整してみるが……」
「い、いや! 先輩はそんな気にしなくていいですよ! 俺が調整しますから!」
「そうか? だが、もう少し精度を上げれば……」
「大丈夫ですって! 影山先輩は、今まで通りにしてて下さい!」

深く考え込みそうになる先輩に、俺は慌てて言い募った。ここで、「はいそうですね」でも言おうものなら、持ち前のストイックさを発揮して納得いくまでトスの練習をし始めてしまう。それが、多少の練習ならいいが、自分の限界を超えて練習しようとするから、俺たちチームメイトはハラハラしっぱなしだ。
影山先輩は、天才的センスを持っていながら、常に努力を怠らない人だ。だからこそ、憧れるチームメイトが多いのだけれど、無理をしてしまう癖があって、目が離せない人でもあった。

額に浮かんだ汗を拭いながら、スポーツドリンクを仰ぐ先輩は、やっぱりどこか考え事をしているみたいだ。きっと、さっきの試合のことを反復しているんだろう。あまりにもストイックすぎて、俺は逆に心配になった。あまりにも張り詰めてしているこの人が、いつかぶっ倒れてしまいそうで。

「……影山先輩、大丈夫なんですか?」
「?」

考え事をしていた先輩が、俺の言葉にきょとん、と目を丸くした。幼く見えるその表情に、少しドキリとしつつ、そんな心情を誤魔化すように、俺は頭を掻いた。

「その、何ていうか。影山先輩って、普通にしてても凄いのに、練習とかでも全然手を抜かないし、さっきも、俺が調整すればいいことなのに、影山先輩も調整しようかって言ってくれて。すごく嬉しいし、尊敬しますけど、なんか………無理してるんじゃないかって思って……」
「…………」

じ、と真っ黒な瞳が俺を見上げる。俺の方が若干背が高いから、自然と影山先輩は見上げる形になる。瞬きもせずに見つめられて、深い夜みたいな瞳に吸い込まれそうになって、落ち着かない気分になった。影山先輩って、人のことじっと見る癖あるよな。なんか、猫っぽいっていうか……。
あまりにも見られるので、視線を逸らしていいものなのか分からなくてそわそわしていると、先輩が何か言いたげに僅かに唇を開いた。が、それが声になる前に、監督から集合が掛かった。

「……行くぞ」
「あっ、はい!」

影山先輩は視線を逸らせて監督の下へ走る。俺もその後について行きながら、結局何が言いたかったんだろう、とほんの少し、気になった。

監督から、さっきの試合について指摘を受けて、後は自主練になる。帰る奴もいるし、残って練習する奴もいる。影山先輩はもちろん残るし、むしろ最後まで黙々とサーブの練習をしている。俺もそんな先輩に続いて最後まで残っては、レシーブやらブロックの練習に励んでいた。

「明日は、県外から練習試合のために他の大学から数名来ることになっている。自主練はほどほどにしておけよ」
「はい!」
「それじゃあ、解散!」

合図のあと、ぞろぞろとそれぞれに準備を始めた。今日はサーブの練習でもしようかな。ボールを持って来ようと用具室に行こうとしたら、同じレギュラー組のSWの先輩から呼び止められた。

「おい、今日も遅くまで練習するなら、あんまり無理はするなよ。監督が言ってた通り、明日は他大学と練習試合だからな」
「はい! でも、珍しいですよね、他大学と練習試合なんて」
「あぁ、なんでも監督同士が知人だそうだ。それで、練習試合組んでみようってことになったらしい。まぁ、相手はそこまで有名な大学じゃないから、楽勝だろう」

はは、と先輩は軽く笑い飛ばした。確かに、監督が行っていた大学の名前はあまり聞かないし、何人も日本代表を選出してきた大学の選手である俺たちからすれば、楽勝で勝てる相手に違いない。
そうですね、と俺も笑おうとして、不意に、視線を感じてそちらに目を向けて、ぎくり、とする。
影山先輩が、じっとこちらを見ていた。何の感情も見えない、真っ黒な瞳で。

「……―――」
「おい? どうした?」

先輩が、怪訝そうに俺に声をかけた。そこで影山先輩も視線を逸らせて、俺は我に返る。

「あ、いえ。なんでもないです……」
「? そうか」

不思議そうな先輩に、俺は無理やり笑みを浮かべた。だが、脳裏には未だに影山先輩の表情が張り付いていて、俺は妙な胸騒ぎを覚えた。
影山先輩、なんであんな顔していたんだろう……。あんな、失望した、みたいな顔を、どうして。



翌日。俺は少し早めに体育館に向かった。授業のコマ割的に、ちょうど時間が余ってしまったのだ。他の大学との練習試合もあるし、早めに行ってアップでもしておこう。のんびり体育館の扉を開けようとして、ダン! とボールが床に落ちる音が聞こえて、ハッとする。扉を開けば、静まり返った体育館で一人、サーブに打ち込んでいる影山先輩がいた。浮かぶ汗の量からして、相当な時間、ここでサーブ練をしていたことが伺えた。

「かっ、影山先輩っ!?」
「……おぅ、今日は早いな」

額の汗をシャツで拭いながら、影山先輩はふぅっと息を吐いた。その様子から、先輩がいつも誰よりも早く来て練習をしているのだと知った。

「先輩、いつも早めに来てるんですか?」
「いや、いつもじゃねぇよ。授業によってまちまちだな」
「はぁ……でも、だいたい早く来て練習してるってことですよね? すごいな。先輩って本当にバレー好きなんですね。そんなに練習しなくても、先輩は上手いのに」
「……上手いのと練習するのと、何か関係あるのか?」

きょとん、と。先輩は心底不思議そうに、そう言った。上手いから練習しなくてもいい、という俺の言葉が、心底理解できないという顔だ。

「強くなりてぇ、負けたくねぇから練習する。当たり前のことだろ」
「それは、そうですけど……」
「それに……もっと強くならねぇと、アイツが……」

ふ、と。
影山先輩の瞳に、僅かな翳りが見えた。アイツ? と俺が問おうとしたら、他の先輩がやってきて、その場の空気は流れてしまった。
いったい、さっきのはなんだったんだろう。アップしている間もそのことが気になって、ちらちらと先輩の顔を盗み見たけれど、いつもと変わらないストイックな表情しか分からなかった。

「集合!」

先輩の顔を見るのに必死になっていると、監督から号令が掛かった。ハッと顔を上げると、いつの間にか監督の隣に大勢の人が集まっていて、どうやら今日の相手である他大学のメンバーが到着していたようだ。
慌てて号令の通りに集合しようと駆け出して、ふと、影山先輩の姿を探した。あの人のことだ。相手チームを観察して、どんな試合をしようか考えているはずだ。そう思って先輩の顔をチラッと見て、驚く。
先輩は、とても驚いた顔をして相手チームを見ていた。あの真っ黒な瞳を大きく見開いて、茫然としている。先輩の表情に俺も驚いて、相手チームと先輩を交互に見る。先輩は、一人の男をガン見していて、動揺を隠しきれていない様子だった。
見られている男もそれに気付いたのか、あっ、と目を見張ったあと、ニッと歯を見せて笑った。オレンジ色の癖っ毛を揺らして、まるで子どもみたいに笑う男。他のメンバーに比べると身長は低く、俺たちも含め、集まっている連中に埋もれてしまいそうなほどだ。
男の笑顔に、す、と先輩の表情が変わる。いつもの無表情。だが、何かいつもと違う。妙に熱の篭った瞳で、その男を見ていた。

「えー、それでは、今から練習試合を始める。今日はわざわざ地方から他大学生を呼んでいる。気合を入れて臨むように」
「ハイ!」

監督は、どこか楽しそうにそう言った。相手チームである監督も、よろしくお願いします、と丁寧に頭を下げた。
解散したのち、ユニホームに着替えて軽くアップを取る。ちらりと相手チームを見れば、あのオレンジ色の髪の男は、十番のユニホームを着ていた。が、その色はLのものではなく、俺は驚いた。アイツ、Lじゃなかったのか?

アップを済ませたあと、レギュラー組で集まって軽いミーティングを行う。いつもの流れだ。主将が、集まった俺たちを見渡して、力強く頷く。

「いいか。相手がどうあれ、俺たちは名門大学の名に恥じないプレイをするだけだ」
「ハイ!」
「それから、影山。今日はどのスターティングでいこうか」

セッターであり、試合の流れを決める要である影山先輩は、いつも試合のメンバーを考える役割を担っている。主将は影山先輩よりも先輩だが、影山先輩の言う通りにするのが効率がいいと知っているので、いつも影山先輩に指示を仰ぐ。最初は監督が決めていたものも、今では影山先輩は決めていることがほとんどだ。
影山先輩は、ハイ、と頷いて。

「今日は―――――Aで行きます」
「えっ」

きっぱりと言い放った先輩に、皆、軽く動揺した。チームのスターティングは、AからDまであり、Aから攻撃、防御の度合いが違ってくる。Aは本番の試合を考慮した、主要メンバー全員が総出で入っているものだ。
俺たちの動揺を他所に、影山先輩は、これで行きます、ともう一度繰り返した。

「いや……影山、お前を疑っているわけじゃないが、Aは少しやり過ぎじゃないか? 試合とはいえ、今回は練習試合だ。手を曝すのはあまり……」

さすがに、今回は主将は難色を示した。俺も、いや、影山先輩以外の誰もが同じことを思ったに違いない。相手はほとんど無名の大学チーム。いくらなんでも、やりすぎではないのか、と。
だが、影山先輩は表情一つ動かすことなく、いえ、と首を横に振った。ちら、と相手チームを伺って。

「Aで行きます。いや……Aじゃないと、たぶん、勝てない」
「え? どういうことだ?」
「あっちには、アイツが、………十番がいる」

じっと、先輩は相手チーム、いや、十番の番号を背負うあの男を見ていた。鋭い眼差しは、どんな試合でも見せたことがない、熱がこもっている。
あの先輩が、そこまで言うほどの男なのか、あの十番は。妙にピリピリとした雰囲気を、先輩は漂わせていた。
主将は先輩の様子を見、しかし首を横に振った。

「だが、影山。今回は練習試合だ。本番じゃない。……やはりここは、せめてBにしておいた方がいいと思う」
「………。分かりました。Bで行きましょう」

少し瞳を伏せた先輩が、こくり、と小さく頷く。強張っていた雰囲気が成りを潜め、いつもの無表情に戻る先輩に、主将や他のメンバーもホッと肩の力を抜く。俺も、知れずに息を止めていたらしい。ふぅっと息を吐く。

「よし、じゃあ、やるか」
「ハイ!」

円陣を組んで、気合を入れる。この瞬間が、俺は実は好きだったりする。みんなで一丸となっているような、そんな気にさせて、これからの試合に胸が躍る。一列に並ぶと、相手チームも同じように並んだ。オレンジ頭の十番は、隣に並んだ気弱そうな男に笑顔を見せて頷いていた。気弱そうな男、十一番の番号を背負った男は、背丈こそ十番よりも高いが、オロオロとして落ち着きがなく、肩も張っていてとても緊張しているようだった。いや、十番以外のほとんどがカチカチに緊張していて、本当に大丈夫なのかと敵チームながら心配になる。

「「お願いします!」」

お互いに挨拶をし終え、自分のポジションにつく。俺は前衛からのスタートだ。ふと、相手チームを見ると、ちょうど俺の反対側にあのオレンジ頭の十番がいて、その場で軽く飛び跳ねていた。え、もしかしてあの十番、MBなのか? あの身長で? 信じられない。他の連中も、驚いたように十番を見ていた。

ピィ! と試合開始のホイッスルが鳴る。先行は俺たちのチームだ。



「カバー! ナイスレシーブ! 上がったぞ!」
「ブロック二枚!」

ふわり、と影山先輩のトスが、囮の俺ではなく主将に上がる。相手のブロック二人は完全に俺に吊られていて、ガラ開きになった主将が綺麗にスパイクを決める。ダン! とボールが相手コートに消える。今ので23-15になり、俺たちは第一試合を勝利した。

第一試合目だが、なんというか、拍子抜けしてしまった。あんなに影山先輩が警戒していたチームだから強いのかと思ったが、そんなこともなく。影山先輩のトス回しに翻弄されて、MBは囮に吊られまくっていたし、なにより、相手のSが無能すぎた。おそらく一年なのだろうが、ガチガチに緊張していて、それは試合が中盤に差し掛かっても抜け切れずにいた。レシーブをミスるのはもちろん、肝心のトスもミスを連発。その度に、泣きそうな顔をしていた。だが、その度に十番が笑って、気にすんな、と声を掛けているようだ。十番は試合慣れしているらしく、俺のスパイクも何度か止められた。だが、それだけだ。あのSのミスをカバーしているためか、速攻を打ってくる気配はない。
―――影山先輩の思い過ごしじゃないか? もはや俺たちの中で、相手は敵ではなかった。第二試合までの休憩時間中、俺たちの間にはまったりとした空気が流れていた。タオルで汗を拭いていると、チームメイトであり友人が声を掛けてきた。

「やっぱ、Bにして正解だったな。つか、Cでも良かったんじゃないか?」
「だな。相手チームがかわいそうになってきたよ、俺」

ちら、と相手チームを見れば、皆、意気消沈と肩を落としていた。だが、それでもあのオレンジ色の十番だけは元気に笑顔を浮かべて、一人一人に声を掛けているようだった。
そしてあの、ミスを連続していたセッターに声を掛けると、Sはずっとペコペコと頭を下げていて、ミスしたことを謝っているみたいだった。だが、十番は気にした様子もなく、ぐるりとセンターを含めたチームメイトを見渡して、ぽつり、と何かを言った。

途端。

チームの誰もが、表情を変えた。それまでオドオドとしていた雰囲気は消え、まるで、水面で揺れていた波紋が、ぴたりと消えるように。静かな表情になった。
その変化に戸惑ううち、第二試合開始のホイッスルが鳴った。

「次も楽勝だな」
「……―――あぁ」

隣で友人が笑う。だが俺は、何故かそのとき、笑えなかった。

スターティングは、一試合目と同じ。目の前には、オレンジ頭の十番。だが、一試合目と纏う雰囲気は変わっていた。何が、どう、というわけではない。だが、『何かが違う』。真っ直ぐな焦げ茶色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。目を逸らしたいのに、逸らせない。逸らすことを許さない、強い瞳。
ぞくり、と得体の知れない何かが背筋を駆け抜けて、鳥肌が立った。

ピィ! と試合開始のホイッスル。次は相手の先行。相手のサーブが綺麗にこちら側のコートに入る。落ちる前にLである先輩が拾う。綺麗に上がったボールは、影山先輩の方へ向かい、先輩が両手を構える。同時に俺と、エースであるSWの先輩が助走に入る。SWの先輩は囮、今度は俺が決める番だ。相手のMB二人はエースに気を取られて、そちらに目線が行っている。よし、いける! ふわり、と綺麗に上がったトスが、俺の目の前にやってくる。俺は腕を振り上げてスパイクを決めようとして―――――。

目の前に突きつけられた、手のひら。翻る、オレンジ色の髪。

「!?」

バシィ! とスパイクが手のひらに当たり、相手コートへとふわりと宙を舞う。

いま、何が起きた?

確かに、前衛のMBはエースに吊られていた、はずなのに。いつの間に俺の目の前に来た?
戸惑う俺たちを他所に、緩く上がったボールを見て、オレンジ頭の十番は叫ぶ。

「チャンスボール!」
「ッ、ハイ!」

落ちる前に後衛のSWがレシーブで上げ、Sに返る。あの、ミスを連発していたSは、どこか緊張気味に構えていた。またミスるぞ、とその姿に誰もが思った、瞬間。

「――――あげろ!」
「!」

あの、オレンジ頭の十番が叫ぶ。ビク! と肩を震わせたSは、しかし、十番の声に反応して、肩の力が抜けた。だが、そっちに行くと分かっていて打たせてやるほど、俺たちは甘くない。俺と先輩の二枚ブロックが、フロントライト(コート右)にいる十番の前に構えた。
が、Sが十番に上げようとしたトスが、十番とは正反対の左側に飛んだ。

「っ、あ!」

セッターが青ざめた。まさかそちらに上がると思っていなかったのか、左側にいたSWは驚いたように体を硬直させた。あれでは打てないだろう。またミスか、と僅かに力を抜いた、次の瞬間。
俺たちの目の前から、オレンジ頭の姿は消えていた。

「っ!?」
「え、」

ひゅ、と風切り音がして、コートの右端から一気に左端へ。オレンジ色の残影が走る。
グンッ、と十番の小柄な体が跳躍。あの小柄な背丈からは想像もできないほど飛んだ男は、ガラ開きの場所から一気にボールを打った。
ドン! と素早くボールが俺たちのコートに落ちる。俺たちはただ、それを茫然と見ていることしかできなかった。たん、たん、とボールが転がる音だけが響く。
ピッ、と審判の笛が鳴る。同時に、相手チームはそれぞれ十番に駆け寄って、満面の笑顔でハイタッチを決めていた。ころころと俺たちのコートに転がるボールを見て、誰かが呟く。

「……――――うそだろ」

なんだ、今のは。
俺たちの誰もが、声を発せずにいた。それまで余裕の顔をしていた誰もが、あの十番を前に表情を強張らせる。いや、ただ一人、影山先輩だけは変わらず、じっと十番を無表情のまま見つめていた。

それから、十番が前衛に来るたびに、ボールは俺たちのコートへと叩き付けられた。相手Sも慣れてきたのか、ミスもなくなり、点差はなくなっていく。まるで真綿でじわじわと首を絞められているような、そんな息苦しさを覚えた。焦りからか、俺たちもミスを繰り返してしまい、20-21という点差に、とうとう俺たちの方からタイムアウトを宣言した。

「―――なんなんだ、あの十番」

主将が呟く。誰もが同じ感想を抱いていた。だが、影山先輩はあくまでも冷静に。

「十番は囮ではありますが、強力なスパイカーでもある。ですが、それはあくまであの十番がちゃんと機能できた場合です。………あのチームでは、十番の機能をフルに生かせていない」

先輩は言いながら、どこか苦しそうだった。いや、悔しそう? というべきか。複雑な表情を浮かべている影山先輩に、俺たちは首を傾げた。なぜ、先輩がそんな顔をするのだろう。

「……とにかく、あの十番には気をつけよう。だが、あまり気を取られすぎるのもマズイ。あの十番はあくまでも囮。俺たちの能力を活かせば、封じられないわけじゃない」

やるぞ、と主将がいつになく真剣に言った。そうだ。ここで負けるわけにはいかない。俺たちには、名門大学の名が背負われている。それを、無名大学に負けたとあっては、いい恥さらしだ。
誰もが神妙に頷く中、影山先輩の表情はどこか浮かない。声を掛けようかと思ったけれど、時間が来てしまい、俺たちはコートに戻った。位置は最初に戻っており、俺の目の前には十番がいる。絶対、お前の思うとおりにはさせない。させてたまるか。その思いを込めて、俺はぐっと腰を落とした。

ピィ! と試合開始のホイッスルが、鳴る。



――――結果、二試合目は21-23で俺たちのチームが勝つことができた。二試合立て続けにやったので、少し長い休憩が設けられた。無事に勝つことができたことへの安堵にホッと肩の力を抜いていると、あのオレンジ頭の十番がずんずんとこちらに歩いて来るのが見えた。どことなく怒ったように肩を怒らせたソイツは、呆気に取られる俺たちの目の前で、影山先輩の胸倉を掴み上げた。十センチはあろう身長差を気にした様子もなく、ギッと先輩をにらみつけて怒鳴った。

「影山! さっきの試合! なんだよあれ! 気ぃ抜いてんじゃねーよ!」
「!」

ハッと目を見開いた先輩が、しかし、負けじとオレンジ頭を睨み返した。

「う、うるせぇボゲ! それを言うなら、テメェだってそうだろうが! なんだよあのスパイク! テメェはもっと、高い打点で打てるだろうが!」
「しょうがねぇだろ! こっちは正Sじゃねーんだから! だけど、そっちはお前がいるくせに、どうしてもっと全力でこねーんだよ! なんか、別人みたいに大人しいトスばっか上げやがって!」
「それはっ………!」

ぐ、と影山先輩が言いよどんだ。ギリッと奥歯を噛み締めて、悔しそうな顔をしている。またあの顔だ。俺はなんだか胸騒ぎがして、二人に駆け寄った。先輩の胸倉を掴むなんて、許せるはずもない。

「おい、お前! いきなりこっち来てなに言ってんだよ。影山先輩を離せ!」
「いやだ! おれは影山と話してんの!」

影山先輩を掴む十番の腕を引き剥がそうとすると、それ以上の力で振り払われてしまった。呆気に取られる俺を見て、十番は吼える。

「お前! 影山と一緒のチームだろ!? なんでコイツがあんなトス上げてんのに、なんも言わねーんだ! コイツはもっと、もっとすげートス上げる奴なのに! 悔しくねーのかよ!」
「えっ、は?」
「おい、やめろ日向!」
「おれはすっげぇ悔しい! 今日の練習試合、お前と対決できるってすっげぇ楽しみにしてたのに! っ、おれなら! おれならあんなトス、お前に上げさせねーのに!」
「っ、だったら、なんで俺と同じ大学に来なかったんだよ!!」

一際大きな声で怒鳴った影山先輩は、なんだか泣きそうな顔をしていた。顔を真っ赤にして十番を睨みながら、ちくしょう、と力なく項垂れる。

「俺、しってるんだからな。お前、ここの推薦、来てただろ」
「!」
「なのにお前は、いつの間にか全然知らねぇ大学に行ってて……んなこと、一言も俺に言わなかったくせに……今さら、っ、今さら俺のトスに文句つけんじゃねーよ……!」

握り締めた影山先輩の手のひらが、震えていた。怒りか、それとも、別の何かか。怒鳴る先輩の声も震えていて、どこか頼りなく聞こえた。
初めて、だった。先輩が、こんなに感情を乗せた声で話すのを聞いたのは。先輩はいつも冷静で、どちらかといえば口数の少ない人だった。怒鳴り声なんて、ほとんど聞いたことがない。
しん、とその場に沈黙が下りる。誰もがこの二人の間に流れる空気に戸惑いを隠せずにいて、迂闊に口を挟んでいいものなのか、考えあぐねていた。

「………じゃあ、やってみたらどうだ?」

重たい沈黙の中、ぽつり、と、それまで黙っていた監督が呟いた。全員が監督に視線を向けると、監督は少し思案するように顎に手を当てたあと、隣にいた相手チームの監督に目を向けた。

「どうだろう。うちの影山と、そっちのえーっと、日向くん、だっけ。二人を組ませてみるっていうのは」
「えっ!」

突拍子もない監督の発言に、誰もが驚いた。練習試合相手のスパイカーを組ませるなんて、聞いたことがない。一体何を言い出すのかとハラハラしたが、意外にも相手の監督もノリ気になったのか、いいですねぇ、なんて楽しそうに頷いた。主将が慌てて、二人に駆け寄った。

「かっ、監督! 本気ですか? 影山と他学生を組ませるなんて……」
「おぉ、本気だ。そうだな……チーム編成は、そっちのチームに影山が入るって形で。影山も、それでいいだろう?」
「え、いや、でも、監督、俺は……」
「やります!」

戸惑う先輩を無視して、十番が勢いよく返事をした。大きな目を輝かせて、嬉々とした表情を浮かべている。

「お、おい、日向。お前、何を勝手に……」
「え、だってさ、久しぶりにお前のトス、打ちたいじゃん! な? いいだろ?」
「――――……」

さっきまで先輩に怒鳴り散らしていたのが嘘のように、十番は晴れやかに笑っていた。だが、先輩はやはり何か言いたげな顔をしていて、すっきりしない。やはり、嫌なんだろう。さっきまで、掴み合いの怒鳴り合いをしていた相手だ。心境は複雑だし、いい気はしない。
途方に暮れた顔をする先輩に、ここは俺が影山先輩を守らないと! と妙な使命感が襲って、二人の間に入ろうと一歩足を踏み出して。

「………―――、ひなた」

先輩が、十番の名前を呼んだ。ぽつり、と呟くように。その声が、なんだか頼りない子どもみたいで、どきり、と心臓が高鳴った。まるで、縋りつくような甘みのある声に、十番は、ん? と先輩を上目づかいに見上げた。

「どした? 影山」
「………。俺、アレ、上げられる自信、ねぇ。……だから、いやだ……」

いやだ、と何度も繰り返す。ひなた、いやだ、と。だけどそれを全て、真っ直ぐな目で受け止めた十番は、それでも最後にはニッと満面の笑顔で、先輩の両手を取った。

「お前ならだいじょーぶ! ……っていうか、なんでそんな弱気になってんだよ」
「………だって」
「だって、なに? 影山さぁ、何を心配してんのか知んないけど、お前が上げたトス、おれが打たないわけねーじゃん。言ったろ? 『どんなボールだって打つ』って!」

笑ったまま、十番は先輩の手を握り締めた。

「だからさ――――、おれにトス、持ってこいよ」

十番は、俺たち選手にとって司令塔でありチームの要であるSを前に、いっそ、傲慢とも取れる言葉を吐いた。おれに、合わせろ、と。影山先輩に向かってなんてこと言うんだ、と俺は憤慨した。俺たちのチームの宝と言っても過言ではないその人に、たかがMBが、と。こんな奴、影山先輩もトスを上げるのは嫌だろう。やはり、他のチームでSをする先輩なんて、あまり見たいものではない。つか、いつまで先輩の手を握ってんだよコイツ。俺は十番を睨む。いい加減、手を離せと文句を言ってやろうとして。

「――――、分かった」

こくり、と先輩が一つ、頷いた。さきほどまで浮かべていた迷いを一切捨てた、清々しいほど真っ直ぐな瞳で。その潔さに、傍から見ていた俺の方が困惑したくらいだ。

「え、」
「よっしゃあ! じゃ、決まりな! ほら、こっち来いよ、影山!」
「う、うるせぇ! つか、手、ひっぱんな!」
「へへ、いいじゃんいいじゃん」

何が楽しいのか、十番は小さな子どもみたいに先輩の手を引いて、早く早く! と自分のチームへと連れて行こうとしている。そんな十番に悪態をつく先輩の背中に、言いようのない不安が込み上げる。なんだか、このまま向こうへ行ったきりになってしまいそうで、俺は思わず先輩の背中に手を伸ばしていた。

「せ、せんぱ、」
「―――、すまん。ちょっと、行ってくる」

すまさなそうな顔をした先輩が、俺やチームの皆を見てぽつりと呟いた。そんな顔をされてしまったら、もう、何も言えなくなる。伸ばしかけていた手を引っ込めて、代わりに、落とした手のひらを強く握り締めた。
十番に手を引かれてあちらのチームの輪に入った先輩は、少し居心地の悪そうにしていた。相手チームの奴らもオロオロとしていて、戸惑っているのが分かる。が、そんな周囲に構うことなく、十番だけがテンション高く跳ね回っていて、異質な空気が出来上がっていた。

「はは。まさか、こんなことになるなんてなぁ……」

隣で、主将が困ったように空笑いしていた。そりゃあ、誰も想像していなかったに違いない。まさか、自分たちの大事なSが眼の前で華麗に『持って行かれる』なんて。

「監督も、何を考えているのやら……」
「あー、まぁ、その。お疲れ様です」

深々とため息を吐いた主将は、影山先輩とは別のSを呼んで、ローテの打ち合わせをしていた。その背中はどこか哀愁が漂っていて、そもそもこんな事態になったのはあの十番が突っかかってきたからなのに、とどこか釈然としない気分だった。

「集合! 試合、開始するぞー。今回は即席のチームだし、十五点でセットポイントとするからなー」

監督たちののんびりとした集合がかかる。俺たち選手をよそに、監督たちはどこか楽しそうにしていて、何を呑気な、と文句を言いたくなる。コートの向こう側にはあっちと同じユニホームを着た先輩がいて、真っ直ぐに俺たちを見ていた。真剣な、漆黒の瞳。あまりにも真っ直ぐにこちらを見つめてくるので、なんだか、本気で先輩と対戦しているような気分になった。

「「お願いします!」」

それぞれ整列して、頭を下げる。こうなったら、とことんあの十番を止めて、邪魔してやる。もともと身長は俺の方が高いし、止められないことはないのだから。気合を入れ直して、俺は十番のユニホームを着たソイツを、じっと睨みつけた。先攻は俺たちのチームから。サーブは、俺たちの中で一番サーブの上手い先輩で、ホイッスルと同時に相手コートのサイドラインギリギリの際どい所に落ちる。見極めようとした相手チームの選手は、落ちる寸前で入ってることに気付いて、慌ててレシーブ。ふわりと上がるボールを、先輩が素早く追いかける。さすが、というか。どんなボールが来ようと、正確なトス回しをするその人は、落下点の見極めが誰よりも早い。まるで図ったように、先輩の頭上にボールが落ちて、先輩の手に触れたかと思えば、すぐに離れる。ふわり、と上がるボール。十番か、とあの目立つオレンジ色を探して、ぎょっとする。

十番、動いてねぇ………!

あ、と思った瞬間には、先輩の放ったトスが相手のWSの手元に吸い寄せられて、振りかぶったその手から一気にこちらのコートへと叩きつけられた。

「―――……な、」

俺はそれを、呆然と見送ることしかできなかった。他の奴らもみんな、俺と同じような顔をしている。恐らく誰もが思っていたはずだ。先輩は、十番に上げる、と。だけど実際は、十番ではなくWSへと上がった。当のWSも、スパイクを放つ瞬間、驚いた顔をしていた。
たぶん、先輩のトスが打ちやすかったからだ。俺も覚えがある。先輩を合わせるようになる前から、先輩のトスは正確な打点で上がる。欲しいと思う場所に、すでにある。先輩には、どんなスパイカーが来たとしても合わせられるセンスがある。天才、と呼ぶに相応しい、圧倒的な技術が。
さっきのスパイクだってそうだ。きっと先輩は、俺たちが十番をマークすることに気付いていた。だからあえて、他のスパイカーに打たせた。……恐ろしいまでの、観察力で。

「………すげぇ」

改めて、俺は先輩に対して憧憬に似た感情を覚えた。あの人は、すごい。そんな人と同じチームでいられることの幸せと、今、その人を掻っ攫ってちゃっかり同じチームになっているあのオレンジ頭が、妬ましく思えてくる。

「……キャプテン」
「ん? どうした?」
「俺、次、全力で止めます」

どんなスパイクだって、止めてみせる。そして、影山先輩のチームメイトとして堂々とあのオレンジ頭から先輩を取り返してみせる! 拳を握りしめて気合を入れる俺に、主将は不思議そうに首を傾げながらも、期待してるぞ、と俺の肩を叩いた。
それからの俺は、好調に好調だった。ガチの試合をしているときよりも、本気だったかもしれないと思うくらい、俺のブロックは冴えていた。相手の囮に引っかかりそうになったときも、何とかワンタッチで上げ、余裕のあるスパイクはキル・ブロックで完全に防ぐ。点差は開いて行き、9-13まで開いた。いくら先輩が入っているとはいえ、他の奴らの実力は大したことはない。俺はいつしか、余裕でスパイクを防げるようになっていた。もちろん、あの十番の速攻でさえ、何度も防ぐことができた。

「お前、今日は絶好調だな!」
「おう!」

自分でも、面白いくらいにブロックが決まっている。身体の奥からぞくぞくと得体の知れない何かが湧きだして、何でもできるような気分になってくる。もしかしてこれって、俺の才能が開花しちゃった的な? マジか。もしかして俺って隠れ天才ってやつ!?
少し調子に乗っていたら、唐突に、ビリッとした視線を感じた。射抜くような、強い視線。ハッとその視線を追えば――――。

「……お前、強いな」

ネットの向こう。俺よりも小柄なソイツが真っ直ぐに俺を見上げていた。焦げ茶色の大きな瞳が瞬きもせずこちらを見ていて、好調な俺に悔しがってるのかと思いきや、ソイツは楽しそうに笑っていた。ぺろり、と舌なめずりをして、まるで、獲物を前にしたケモノのようなギラギラとした輝きを瞳に浮かべている。
ぞく、と背筋を這う『これ』は、なんだ? わずかに息を呑んでいると、ソイツは俺から視線を逸らせて、背後にいた先輩を見上げた。

「かげやま、――――」

ぐっと握り締めた拳を、先輩に向けて突き出す。先輩は大きく目を見開いたあと、ぐっと唇を噛んだ。何かに耐えるような、いや、怯えているような顔で、自分よりも小柄なソイツを見つめていた。

「日向、だめだ。言っただろ。……アレができるか分かんねぇって、だから……」
「影山」

十番は、先輩の名前をただ呼ぶ。それだけのことなのに、先輩はぐっとその唇を閉ざすのだ。その先の言葉を、期待しているかのように。

「おれ、バカだからさ。あの頃と一緒で、信じること(これ)しかできねーの」
「………」
「な! やろーぜ!」

ん! と突き出した拳を更に強く突き出す。それをじっと見つめた先輩は、だけどそっとその腕を持ち上げて、………こつん、と拳を突きあわせた。

「………、ん」
「よっしゃあ! 気合入って来た!」

突き合わせた拳に満足した十番が、その場で飛び上がる。いったいなんだったんだ、今のは。戸惑う俺たちに、十番はぐるっとこちらを振り返ると、にっと笑って見せた。

「!」

止めれるもんなら、止めてみろ。

目が、そう語っていた。好戦的な色を宿した瞳で挑発的に見上げてくるそいつに、わけの分からない苛立ちを覚えた。なんだよ、なんなんだよ、コイツは。俺よりも身長が低いチビのくせに、さっきから、なんでそんなに強気なんだ。
苛立ちを乗せて睨み返せば、十番はぺろりと舌なめずりをしてみせた。一瞬、圧されそうになった俺は、慌てて頭を振って切り替えた。

「っ、キャプテン。俺、次も止めてみせます!」
「? お、おお、期待してるぞ」

やけに気合の入っている俺に、主将はやはり不思議そうな顔をしていた。こうなったら、絶対に止めてやる。ぐっと両手を挙げて、身長差をアピール。こうすることで、相手に威圧感を与えることを、俺はよく知っていた。
ピィ! とホイッスルが鳴る。サーブ権はこちらから。キャプテンのサーブが、サイドラインギリギリに入る。さすが、上手い! 内心で感嘆の声を漏らしていると、傍にいたSWがなんとかレシーブで拾い上げた。ふわり、と上がるボール。視界の端で、先輩が動くのが見えた。
来る。次、十番。
俺はオレンジ頭を探した。アイツは最初、フロントライトにいたはずだ。だが、アイツはすでに助走に走っていて、俺の前を横切ってフロントライトからフロントレフトへ、フロントライトで構えていたもう一人のMBを置き去りに、ガラ空きのフロントレフトへ一気に跳躍。
移動攻撃……!
目で追うだけで精一杯のスピードで、アイツは全ての三枚のMBを置き去りにしたかのように見えた。っ、けど!

「っ、させるかぁっ!」

元から十番をマークしていた俺は、必死に手を伸ばす。リーチは俺の方が分がある。少し遅れたくらいなら、取り戻せるはずだ。
先輩のトスが一気に十番の下へ運ばれる。そのボールを打とうとした十番の目の前に、俺の両手が入る。多少無理な体勢ではあるが、止められないことはない……!

バンッ、と手のひらに叩きつけられるボールの感触。勢いを弱めたボールは、こちら側のコートに入った。

「っしゃあ! 触った! カバー!」
「前ッ、前!」

落ちそうになるボールをLが拾う。上がるボール。それを見上げて、俺はぞくぞくとした高揚が体の奥から沸き起こるのを感じた。
止めた。止めてみせた。あの十番のスパイクを。どうだ。これでもまだ、お前はあんな強気な顔ができるか。
得意げな気持ちで十番を目で追う。十番はまっすぐにボールを見上げていて、俺の方に気付いた様子はない。……んだよ。もっと、悔しがってるかと思ったのに。少し、残念な気分になる。
舌打ちしたいのを堪え、先輩の上げたトスを他のMBが打つ。スパイクを、真正面に飛び出した十番の手に触れ、勢いが落ちる。
次も来る気か。だが、次も止めてやる!
気合を入れて十番を目で追う。上がったボールの落下地点には、先輩の姿がある。また、十番に上げるつもりだろうか。先輩は無表情でボールを見上げていて、どっちか分からない。次はどうでる? 両手を構える俺の目の前を、再び通過するオレンジ。
また移動攻撃か!
だが、今度はスピードがやや落ちているのか、追いつけないスピードではない。俺を含め、MB三枚が十番の前に立ちはだかる。ちらりと見やった先輩は、なぜか、驚いた顔をしていた。試合中にそんな顔をするなんて珍しい。少し呆気に取られていると、先輩に背を向けているはずの十番が、鋭く叫んだ。

「影山! ―――――、ッ、もってこい!」
「!」

ハッと目を見開いた先輩が、何かを決意したような顔でボールを見上げた。狙ったような正確さで、ボールが先輩の頭上に落ちる。その指先が触れた、一瞬。ふわり、と上がるトス。
え。
今までに見たことのないそのトスに驚く間もなく、十番が目の前で跳躍。上がると分かっていて、そう簡単に打たせてたまるか! 俺と他のMB三枚が、十番の前に壁となって立ち塞がる。
ブロックの前には、ボール。この角度で打ち込んだとしても、完璧に防ぎきることができる。
やれる。止められる。確信した、そのとき。
今まさにスパイクを打とうとした十番と、目が、合う。

「ッ!」

一瞬の、それこそ瞬きをする間もない時間。だが、俺は確かに「見た」。
――――その口元が、確かな笑みを刻むのを。
あ、と思ったときには、十番の手から放たれたボールが、俺の手の間をすり抜けて、ブロックの真後ろ、誰も居ない場所へと叩き付けられた。
ダン! とボールが床を叩く音が、妙に響く。一瞬の静寂。そして。

「影山!」
「っ、ひなたっ!」

茫然とする俺たちをよそに、二人はネットを挟んだ向こう側で歓声を上げていた。
俺は、自分の手のひらを見た。何の感触もしない、ただの手のひらを。

いま、何が起きた?

混乱している頭は、いやでも脳裏に先ほどの映像を映し出す。
確かにあのとき、十番の前には三枚のブロックが付いていた。アイツの跳躍力とトスの高さから、ブロックできないはずはなかった。だが、アイツの放ったスパイクは俺の両手の間をすり抜けていった。普通なら、絶対に通り抜けることのできない、両の手のひらの間を。
………もしかしてアイツは、見えていたのか? 俺のブロックが、通り抜けられる広さなのだと。あの一瞬で? ……まさか、そんな。

「ほら、言ったとおりだろ!? お前ならできるって!」
「うっ、うるせぇ! なんでお前が自慢げなんだよ!」
「うへへ! いいじゃんいいじゃん!」

恐る恐る見やった十番は、先輩と楽しげにハイタッチを交わしていて、パァン! と甲高い音と共に交わされた手のひらを、先輩は嬉しそうに笑って受け止めていた。

………――――あんな先輩の顔、初めてみた。

いつも冷静で、大人しくて、どこかピンと張り詰めた糸のような空気を纏っていた先輩。それが、あの十番の前ではまるで無邪気な子どもみたいに、目を輝かせている。
………悔しい。
ぎりっと奥歯を噛み締める。勝負はまだついていないし、さっきの一点が入ったところで、俺たちのチームの優勢は変わらないのに、俺はすでに悔しさで胸がいっぱいだった。
どうして、そんな顔、するんですか。ソイツは、あなたにとってなんなんですか。
もやもやとした苛立ちが募って、俺は二人の姿を見ていられず、目を逸らすことしかできなかった。

結局、それからの試合は散々だった。たった一本のスパイクに、俺たちは翻弄されて、気づけば13-14まで点差が追い詰められていた。まぁ、最後は結局俺たちのチームの勝利で終わったものの、チームの誰一人として嬉しそうな顔をしていなかった。たぶん、誰もが思っていたに違いない。あの十番の得体の知れない強さと、そして、影山先輩の違いに。
先輩本人は、たぶん、気付いていない。だけど、今までずっとチームメイトとしてやってきた俺たちには、分かる。

温度が、違う。

ボールに向かう直向きさも、バレーに対する情熱も、いつもと同じはずなのに。たった一つ、十番にトスを上げるときの先輩は、いつもと違っていた。
静かで、だけど、確かに込められた、熱。
コイツならやれる。できる。そんな、火傷してしまいそうなほどの熱意。それが、先輩の上げるトスには込められていた。
どうして。何度目かになる思いが込み上げて、喉の奥を震わせる。苦々しい表情でベンチに戻って来た俺たちを、監督はどこか楽しそうに迎えた。

「お疲れさん。……どうだった? 試合は」
「………」

監督の問いに、誰もが言葉を返せずにいた。それすらも監督は見通していたように、一つ、静かに頷いてみせた。

「……だろうな。あんなの見せられちゃあ、今までのお前らを否定するようなもんだ」

仲間だと思っていた。大切なチームだと。だけど今日、あの十番とチームを組んだ先輩は、見知らぬ誰かだった。じゃあ、今まで俺たちが信じてきた先輩は、一体誰だったんだ。
混乱して、悔しくて、ぐるぐると答えの出ない迷路に迷い込んだように、言葉が脳裏で交差する。
黙ったままでいる俺たちをぐるりと見渡した監督は、ふぅっと深く息を吐いた。

「お前らには話してなかったが、影山は―――、」
「監督」

監督の言葉を遮ったのは、他でもない、影山先輩本人だった。先輩は俺たちの前に立つと真っ直ぐに俺たちを見て、そして、ふかく、本当に、深く、頭を下げた。こんなにも真っ直ぐに、後頭部が見えるまで他人から頭を下げられたのは初めてで、俺たちの間に動揺が走った。

「っちょ、せんぱ、なにやって……」
「………ごめん。俺は、お前たちに言っていなかったことが、ある」

頭を下げたまま、先輩は震える声でそう言った。

「本当はこのまま、言わなくてもいいかって思っていた。だけど今日、アイツと、……日向と同じチームでバレーして、改めて思った。俺は………、」

先輩はそこで、一度言葉を切った。もしかしたら、迷っていたのかもしれない。なにを? たぶん、先輩がときどき見せていた、何か言いたげな顔の意味だ。俺は何となく、そんな気がした。そしてそれは、的を射ていて。

「――――、俺は、お前らのSとして、相応しくないと思う」

静かに、先輩は言い切った。淡々と、いつものように。
まさかそんなことを言うとは思ってもなくて、誰もが虚を突かれたような顔をしていた。俺だって同じだ。先輩が、俺たちのSに相応しくない? どうしてそんなことを。
俺たちの疑問に答えるように、先輩は顔を上げた。一人一人を見渡して、すっと目を細める。

「………俺は、中学のとき『コート上の王様』と呼ばれていた。独裁的で、自己中な、独りよがりな『王様』だと。あの頃の俺には、バレーで勝つこと以外何も考えていなくて、アイツらの言うように『王様』そのものだった」

懺悔するかのように、先輩は言う。自分は、自分勝手な人間だったのだと。

「でも……高校に入って、みんなと……日向とバレーをして、分かったんだ。バレーは、コートにいる全員がいて初めてできるものなんだって。だから俺は、この大学に入っても、そのつもりでいたし、俺のトスでスパイカーの道を開くんだって、そう、思っていた。…………、だけど」

初めて、そこで先輩は、苦しそうに顔を歪めた。泣き出す寸前のような、見ているこっちが苦しくなる、そんな顔をして。

「皆は悪くねぇ。それなのに、俺はどうしても思っちまう。どうしてもっと、真剣にやんねぇんだって。もっと、強くなりてぇんじゃねぇのかって。ずっと、ずっと、そう思ってた」

温度が違うのだと、先輩は言った。俺がさっき感じたように、俺たちと先輩の間には、温度差があると。俺はその言葉に、どきりとする。 ちらりと見やったチームの何人かは、俺と同じような顔をしていた。

「皆、それぞれ理由があって、バレーしてるって分かってる。俺と同じもんを求めるのは、間違ってるってことも、頭では理解していたつもりだった。俺の感情を押し付けたら、中学の二の舞だ。俺はそんなこと、したくなかった。………でも、ごめん。やっぱり俺は、もっと真剣にバレーがしたい。もっと、強くなりたい」

先輩は、もう一度、深く頭を下げた。俺は、俺たちは、その姿を見つめて、誰もが口を開けずにいた。
先輩は、――――痛々しいくらいに、真っ直ぐだった。飾った言葉を選ぶことをせずに、ただただ真っ直ぐに、自分の感情をぶつけてくれた。他の奴らはどうかは知らない。けど、俺は先輩の言葉を聞いて、単純に、うれしい、と思った。先輩はいつも、言いたいことを押し殺したような顔をしていて、それがもどかしく思うときもあったから。
そして、たぶん、そう思ったのは、俺だけじゃないはずだ。

「―――顔を上げてくれ、影山」

主将が前へ出て、未だに頭を下げたままの先輩に声をかけた。先輩はゆっくりと顔を上げて、それでも主将や俺たちの顔を見れずに俯いていた。たぶん、俺たちが怒ると思っているのだろう。だとしたら、とんだ勘違いだ。主将はそっと微笑んで、影山、と先輩をもう一度呼んだ。

「俺たちの方こそ、お前に謝らなければいけないな」
「え?」
「ずっと、お前が何か言いたそうな顔をしていたのには気づいていた。だが、それに気づいていながら深くお前に尋ねようとしなかったし、歩み寄ろうとしなかった。俺たちにも、非はある。……はは、強豪チームが聞いて呆れるな。バレーは繋ぐ競技だと、知っているはずなのに」
「主将……」
「でも、今日影山の本心が聞けて、良かったと思う。これで何か変わるのかどうかは正直分からん。でも……少なくとも」

主将はそこで、俺たちを振り返った。にやっと笑った主将に、俺たちも笑い返す。
そうだ。これで何が変わるのかなんて、それこそ誰にも分からない。けど。

「俺たちはお前と同じチームとして、これからもバレーがしたいと、そう思う。……俺たちだって、名門と言われるこの大学でバレー部員として入ったからには、真剣にやりたいと思うプライドだって、あるさ」
「!」

ハッと大きく目を見開いた先輩が、その漆黒の瞳を潤ませて、くしゃりと表情を歪めた。だけど、その瞳から涙がこぼれることはなく、ただ。

「………ありがとう」

嬉しそうなその声だけが、唇から零れた。
気負った様子もないその顔は、まるで、先輩の素顔が見れたみたいだ。
照れ臭そうな先輩に、俺たちもつられて照れ臭い気分になる。妙にふわふわした空気が場に流れた。なんか、これ、中学とか高校で青春してるみたいな空気じゃね? と誰もがそわそわしていると、監督がこほんっとわざとらしい咳払いをした。俺たちはそこで我に返って、ハッと姿勢を正した。

「あー、まぁ、纏まったんならなによりだ。こりゃ、無理いってあっちの大学呼んで正解だったな」
「えっ、どういうことですか? あちらの監督と知り合いなのでは……?」
「それは間違いない。アイツとは長年の付き合いにはなるが、さすがに知り合いだからって、そう簡単に他の大学と練習試合なんて組めるもんじゃないんだ。今回は、特例中の特例だ」
「はぁ……。でも、どうしてそこまでして……」
「ん? そりゃあお前、見たかったに決まってんだろ」

ニッと監督は楽しげに目を輝かせて、白い歯を見せて笑った。

「『コート上の王様』と言われた影山が、本気でトスを上げる。そしてそれを、あの十番が打つ。あの二人でしか見ることのできない景色。俺はただ、それを見たかっただけだ」





それから、俺たちは他大学生チームとの交流もかねて、一緒に飲みに行くことになった。あっちの奴らは地方から出てきているので、時間は大丈夫なのかと思ったが、今日は遠征のつもりでホテルを取ってあるらしい。今日一泊して、明日には地元の宮城に帰る段取りのようだ。
じゃあ今日は飲めるな、と監督同士がニヤッと笑いあっていた。長い付き合いだというのは本当らしい。
大学から少し離れたところにある、ごく普通の居酒屋。ここはよく試合後などに打ち上げで利用していたため、店長のおっちゃんとは顔見知りに近い。おっちゃんにワケを話すと、「いいねぇ大学生!」と感動して、特製のからあげをご馳走してくれた。ありがとうおっちゃん。

「えー、それでは! 俺たちのこれからの健闘と! それから! おっちゃんのからあげに! かんぱーい!」
「「「「かんぱーい!」」」」

ドッと笑い声がそこかしこで上がりながら、俺たちはグラスを合わせる。一気に煽ったビールは喉を通り抜けて、なんともいえない爽快感が駆け抜ける。うんうんそうそうこれこれ! たまんねぇな! 一気にグラスの半分を煽った俺は、ツマミの枝豆に手を伸ばして、ふと、あのオレンジ頭のことが気になった。そういえばアイツ、どこに座ってんだ?
わずかに視線を巡らせると、俺の左斜め前の席に座っていた。隣にはアイツと同じ大学の、あのミスをしまくっていたS。そして反対側には俺たちのチームのMBの里島が座っていた。しかも、何を飲んでるのかと思えば、グラスには髪と同じオレンジ色の液体。おいおい、オレンジジュースかよ。小さく苦笑していると、俺と同じように十番の飲み物がアルコールでないことに気付いたのか、隣のMBが十番に絡んでいた。あ、そういえばアイツ、アルコール弱いんだっけ。んで、すぐ絡む。

「おっ。お前まさかそれ、オレンジジュース? おいおい小学生じゃねぇんだから、酒頼めよ酒! うまいぞー、酒!」
「べ、別にいいだろ! おれ、オレンジジュースすきなの! なに飲もうと、おれの勝手だろっ」
「そうだけどさー、ちょっとは付き合えよー。せっかくだしさー。ほら、俺のやるし!」
「えっ、いや、いらな、」
「ほらのめー!」

ぐっと十番の肩に腕を回した里島が、自分のグラスを押し付けていた。あーあ、ああなったアイツは面倒くさいぞ……。と、若干他人事のように見守っていた、ら。

「里島」
「んー? あっ、影山せんぱ、」
「そこ、どけ」
「へっ」
「いいから、どけ」

有無を言わせない先輩の低い声。ひやりと冷たいその声色に、言われたわけじゃない俺ですら背筋を凍らせた。え、影山先輩? なんか、若干目が据わっていらっしゃるような……?

「クソ、もたもたすんな」
「あっ、え、あ、スンマセン………」

舌打ちした先輩は、里島を押しのけるようにして十番の隣に座った。それをじっと見守っていた十番は、小さく苦笑を漏らして先輩を出迎えた。なんとなく気になって、俺は耳をダンボにして二人の会話に聞き耳を立てた。

「なーんだよ。お前、『王様』は辞めたんじゃねーの?」
「うるせぇぼげ。黙ってろクソが。へたくそのくせに」
「うは! なにそれ、懐かしい!」

先輩から飛び出す罵詈雑言に対し、十番はカラカラと楽しそうに笑い飛ばしていた。先輩は唾でも吐きそうな勢いで不機嫌そうに眉根を寄せて、チッと舌打ちしていた。

「でもおれ、もうへたくそじゃねーもん。な? 今日ので分かっただろ?」
「………」
「―――……やっと、追いついた」

十番はぽつりと呟いた。十文字にも満たない言葉なのに、ずしりとした重さがある。それでいて、わくわくしたような楽しそうな声色でもあって、俺は思わず十番の顔をマジマジと見てしまった。アイツは大きな目をキラキラと輝かせて、好戦的な色を隠しもせずにいた。

「おれさ、本当は、ずぅっと、お前に嫉妬してた。おれがどれだけ頑張ってお前に追いつこうと思っても、追いついたと思っても、お前は必ず追いついて来ておれを追い越して行くから。………お前と一緒の大学にしなかったのは、そんな自分がいやで、お前と距離を置こうって思ったんだ。おれはおれで、強くなりたいって。それが良かったのかとか、よく分かんないけどさ。………でも、」

十番は、真っ直ぐに先輩を見た。迷いのない、つよい瞳で。

「これでやっと言える。あんとき言えなかった言葉。影山、おれは―――――――」

そのとき、丁度十番の斜め前にある皿を取ろうとしたSの身体に阻まれて、結局、アイツが何を言ったのか聞くことができなかった。瞬きにも満たない、一瞬。だけど、Sが自分の席に座りなおして二人の様子がよく見えるようになったときには、影山先輩は机に顔を伏せていた。えっ、えっ、なに、なにがあったんだ? 戸惑って、原因であるはずの十番を見たが、アイツもアイツで先輩の様子に驚いているようで、あー、とか、うー、とか変な唸り声を上げていた。ぴくりとも動かない先輩に若干心配になっていたら十番が、困らせるつもりはないよ、とか、返事、いらねーし、とオロオロしていた。なんだその台詞。それじゃあまるで。
―――先輩に、告白した、みたいな――――。
んなわけあるか、と即座に思いついた考えを否定する。すると、チッと盛大に舌打ちした影山先輩が、ギッと十番を睨みつけた。射殺さんばかりの眼光。でも、その目元は赤く染まっていて、妙な色香があった。傾けたビールを飲むフリをして、ごくりと唾を呑む。マジマジと先輩のなんかエロい顔を見つめていたら、先輩はつんと唇を尖らせると、伏せたまま睨み上げるように十番を見上げた。

「―――、いらねぇの?」

ぽつり、と。
拗ねたような声色で、先輩は呟いた。へんじ、いらねぇの、と。どこか舌たらずな声は甘く耳に響いて、俺は思わず飲んでいたビールを吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
ちょっ、か、影山先輩、その言い方っ、なんかすっげぇ、

「っ、っ、っ、かわいすぎるだろっ!」

酒を飲んだわけでもないのに顔を真っ赤にした十番が、俺の心境を大絶叫してくれた。
ぽかん、と呆気に取られる俺やチームメイトたち、十番のチームメイトも目を丸くしていたし、先輩だって呆然と十番を見ていた。が、当の十番は相当テンパっているのか、ぐしゃぐしゃと元々癖っ毛だった頭を更にかき乱した。もうむり、ぜったいむり、がまんできるか、と意味の分からない言葉をぶつぶつ呟きながら、勢いよく立ち上がると、先輩の腕を取った。

「影山、いくぞ」
「? どこに……?」
「いいからっ!」

戸惑う先輩を引きずるようにして、十番は店を出て行く。残された俺たちはただただ、その背中を見送るだけ。
一瞬の静寂の、あと。もう既にできあがっていた監督二人が、仲いいなぁ、とのんびり呟いた。それから、自分達の学生時代の話をし始めて、それにつられるように場の雰囲気が元に戻りつつあった。
俺の隣に座っていた友人が、なぁなぁ、と声を潜めて話しかけてきた。ちらっと、二人が去って行った方を見て。

「なぁ」
「なんだよ」
「もしかしてさぁ、あの二人ってさぁ」
「…………みなまで言うな」

それ以上友人の言葉を聞いてはいけないような気がして、俺は頭を振った。くらりとアルコールが視界を揺らす。うん。気のせい気のせい。きっと気のせいだ。
そうそう、気のせい気のせい。

「どっちがどっちなんだろ。明日、先輩がどんな顔してくんのか怖くて見れねーよ」
「……」

ぶるりと体を震わせる友人に、俺は何も言わずに、ただ、一気にビールを煽った。
気のせい、気のせい!
例え、腕を引く十番を見て、先輩が今まで浮かべたことのないような、幸せそうな顔でふわふわと笑っていたとしても。
それがあなたの、本当の素顔ですか、とは心の中だけの疑問にしておこう。





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