はやくきて太陽





東京遠征のため、期末テストで赤点を取ってはならない、と。
ある意味で、バレーの練習よりも困難な問題に直面した俺と日向は、嫌々ながらも月島に勉強を教えてもらっていた。嫌々だけど。絶対嫌だったけど。けど、日向のヤツが、東京に行けなくてもいいのか! なんて言ってくるし、強い奴がゴロゴロいるところには、確かに行きたい。つか、絶対に行く。だから、月島の嫌味にも耐えて、必死に勉強に励んでいた。が、月島は部活の前後にしか教えてくれない、というので、ちょうど、マネージャーの見学に来ていた谷地さんに、勉強を見てもらうことになった。
………の、だが。

「ここは、こうで。うん。で、ここをこうすれば解けるよ」
「ふんふん………おっ、あっ、ほんとだ! すっげぇ、わかりやすい! さすが!」
「えっ、あ、うん、そ、そうかな……?」
「うん! やっぱすげぇなー谷地さん! 頼りになる!」
「うぇっ、そっ、そんなことないよ……! 日向も、最初に教えてた頃に比べたら、だいぶ間違えなくなってきてるし」
「ほんと? これも谷地さんの教え方が上手いからだよ!」

日向は終始、すげー、とか、さすが! とか、とにかく谷地さんを褒めまくっている。そのたびに谷地さんはオロオロしながらも照れ臭そうに笑っていて、何か、ふわふわとした空気が二人の間に流れていた。
俺は目の前のノートを写しながら、そのふわふわした空気を肌で感じて苛立ちを覚えていた。
おい日向、お前、勉強しなきゃ東京に行けねぇんだぞ分かってんのか。ふわふわしてんなボゲ。ギロリと睨むものの、日向が気づいた様子はない。内心で舌打ちする。

「おい、日向。さっさと写せよ」
「あっ、うん」

盛り上がっているところに俺は釘をさす。日向はさっきまでのテンションを下げて、黙々とノートにペンを走らせた。だが、三分もしないうちにそわそわと落ち着きがなくなって、バリバリと頭を掻きはじめた。ノートと谷地さんをチラチラと交互に見て。

「あ、あのさっ、ここ、なんだったっけ」
「うん? ……あ、これはね、さっきの公式を当て嵌めて、そこからこの数字を掛けて」
「うんうん」

おい日向、それ、さっきも聞いた問題じゃねぇか。どんだけ要領悪いんだよ。一回聞いたら死ぬ気で覚えろよくそが。だからサインもいつまで経っても覚えられねぇんだよ。
………ちくしょう。なんか知らねぇけど、もやもやする。谷地さんの分かりやすい解説も、うんうんって頷く日向の声も、煩わしくて仕方がない。
耳栓してぇ、と内心で思って、ペンを握る手に力を込めた。すると、数学の解説をしていた谷地さんが、声の調子を少し上げた。

「そういえばさ、日向って、『小さな巨人』さんに憧れてバレー始めたんだよね」
「うん、そうだけど?」
「実はお母さんが『小さな巨人』さんが活躍してたときの雑誌持ってて、いるならあげるって言ってたんだけど、どうかな?」
「! ほしい! すっげぇほしい! くれんのっ!?」
「う、うん……、日向がいるなら……」
「マジで! やった!」

今すぐここで飛び跳ねてしまいそうなほど喜んでいる日向に、少し押されつつも谷地さんもどこか嬉しそうだ。
俺は二人の様子を、やっぱりもやもやしながら見ていた。ノートの内容なんて、ちっとも頭に入らない。それどころか、二人の会話が気になって気になって、だんだんイライラしてきた。
なんだよ。日向、お前、ちゃんと勉強しろよ。東京、行きてぇんじゃねぇのかよ。そう言いたいのに、喉の奥に詰まって言葉が出てこない。

「すっげぇ嬉しい! ありがとう! 谷地さんってほんと優しいよね。勉強もできるし、絵とか上手いし! あのポスター見たけど、すっげぇって思った。こう、ぐわーってなったっていうか。ああいうの、おれ、よく分かんないけど、でも、すげぇって思ったし!」
「う、……そっ、そんな……私なんか、別にすごくないよ……。でも、日向が『村人B』には『村人B』の良さがあるって言ってくれたから、がんばれてる……だけで……」

わずかに頬を赤らめて、谷地さんは照れくさそうに笑った。………なんだこの空気。胸の奥に何かが痞えて、むずむずする。自然と、眉間に皺が寄っていくのが自分でも分かった。
そのとき。

「おーい、日向―! お前、今日日直だろー? 先生が呼んでたぞ!」
「ゲッ、そうだった!」

教室の入口で誰かが日向を呼んだ。日向は顔を僅かに青ざめて、慌てて立ち上がった。

「ごめん! おれ、日直だったの忘れてた! すぐ戻ってくるから!」
「え、あ、ひな、」
「おい、日向……」
「んじゃ、よろしく!」

戸惑う俺たちを華麗に無視して、日向は風のように教室を出て行った。茫然とその背中を見送った俺たちは、自然と目線があって、慌てて逸らしあった。

「………」
「……」

気まずい。
何て表現したらいいのか分からないが、とりあえず、気まずい。日向が居なくなった途端、静かになるこの場の空気に、二人とも顔を上げられずにいた。

「え、っと、その、………続き、しましょう、か?」
「あ、あぁ………」

日向のときと違い、おそるおそる、というように声を掛けてきた谷地さんに、頷くしかない俺。つか、なんで俺には敬語なんだよ。同じ年だろ。別にいいのに。……そう言いたいのに、出てこない。なぜだ。
かりかり、とペンを走らせる音だけが、二人の間に響く。それ以外は、何も聞こえない。

「………」
「………」

ちら、と横目で谷地さんの様子を見れば、心なしか肩が上がっていて、動作もどこかぎこちない。緊張しています、というのがありありと分かる態度だ。その空気につられて、というわけではないが、なんだか、声を掛けづらい。というより、声を掛けていいのかすら分からない。思えば、こうして同年代の女子と話すことなんて、滅多になかったような気がする。だから余計に、どんなことを話せばいいのか、話していいのか、その加減すら分からない。
自然と、吐息みたいなため息が漏れた。



目の前でペンを走らせていた影山さんが、呼吸するみたいなため息を吐いた。
どっ、どうしよう、な、何か話したほうがいいのかな……? で、でも何を話したらいいんだろ……!
私はノートを見るフリして、影山さんの様子を伺う。伏せられた睫が意外に長いとか、綺麗な顔してるなとか、でも目つきは悪いな、とか、ツラツラと感想が頭の中に過ぎって、ハッと我に返る。人の顔をジロジロ見て、しかも勝手に感想なんか抱いちゃうなんて失礼すぎる! 人を見た目で判断しちゃだめって、日向のときに痛感したはずなのに、私って学習能力なさすぎる……。こんな調子じゃ、やっぱり社会に出ても上司に怒られてばっかりの人生になってしまうよ……。
ずん、と途端に肩が重く感じる。あぁ、ほんとう、私ってダメな人間だ……。がっくりと肩を落としていると、影山さんがのっそりとノートから顔を上げた。

「………、あの、谷地さん」
「っ! はっ、ハイッ!」
「これ………その……」
「あっ、はい、これが、なんでございますでしょうかっ」
「え、あ、いや、………………」
「………」
「………」

だ、ダメだ……! 会話が続かない……!
さっき、せっかく影山さんが何か言いかけたのに! 私ってばもうちょっと落ち着いて対応出来なかったのかな! 
影山さん、なんて思ったかな……落ち着きのない人間だなって思われたかな……うるさい、とか? うえぇそうなったらますます話しかけ難いよぉ……。
……どっ、どうしよう………。影山さん、心なしかちょっと俯いちゃってるし……!
そういえば私、日向とばっかり話してて、影山さんとはちっとも喋ったことなかった! やっ、やっぱり煩いって思われちゃったかな。なんか、日向と話してるとき、影山さん、怖い顔してたし……。無表情なんだけど、だからこそ余計に、雰囲気で分かるっていうか。怒ってますってオーラだしてたもんなぁ。どうしよう、ほんと、どうしよう……っ! なんで日向、日直だってこと忘れちゃってたの……! 
はっ、早く………っ!




何か話そうときっかけを作ったつもりが、何の話をしようとしていたのか途中で忘れるなんて、俺はなにをやっているんだ……。
ぐったり、と肩を落とす。なんだよ、どうすればいいんだよこの空気……。つか、俺、谷地さんに勉強教えてもらうためにここにいるんだろ? なのになんでこんな重苦しい空気の中にいるんだよ。どうすんだよ。これ、迂闊に喋ったらいけない感じの空気じゃないか? でも、さっき中途半端のままで終わっちまったし。………あぁもう。なんだよ。なんなんだよ。俺、なんでこんなに谷地さんのこと気にしてるんだ? ………つか、それもこれも、みんな日向のボゲのせいだ。アイツが、日直だったことを忘れてて、どっか行っちまうから。だからこんな、変な空気の中にいなきゃいけなくなったんだ。
だいたい、アイツはいつもそうだ。俺のこと振り回すだけ振り回しておいて、急にどっか行っちまうから。音駒のセッターとか、MBとか、いつの間にか仲良くなってやがるし。それなのに俺にはトスくれってうるせぇし。なんだよアイツ。俺のトスが欲しいなら、俺だけ見てろよくそが。
上手く谷地さんと話せないことにイライラして、ついでに、誰とでもすぐに仲良くなってしまう日向にもイライラして、内心で、舌打ちする。
クソ。ボゲ。バカ。全部、日向のせいだちくしょう。
だから………っ!




『『――――……はやく戻ってこい、日向………!』』






日直の用事を済ませて五組の教室に戻ると、なんか、必死の形相をした二人がいて、首を傾げた。どうしたんだろ。なんか、難しい問題でもあったのかな。もしそれがテストに出るなら、おれも勉強しとかないと! 慌てて二人に近づくと、勢いよく顔を上げた二人に怒鳴られた。

「「おそい!!」」
「うぇっ!?」

二人、見事に声がハモってて、おれは驚く。二人とも、よく分からないけど半分涙目になってて、おれを見上げていた。えーっと……、状況がよく分からないけど、うん。

「二人とも、仲いいね……?」

声がハモっちゃうくらい、いつの間に仲良くなったんだろ。首を傾げると、二人はきょとんと目を丸くしていて、お互いの顔を見合わせていた。その仕草がなんだか似ていて、おれは笑った。
なんていうか、この二人、どっか似てるような気がしてたんだよね。だからきっと、谷地さんにマネージャーになって欲しかったんだ、おれ。
自分で自分に納得して、うんうん、と頷いていると、がたんっと勢いよく立ち上がった影山に、ふざけんなくそボゲ、って睨まれて、な、仲、いいの、かな? って谷地さんに首を傾げられた。
本当はすごい奴なのに、自分のことよく分かってないところとか、そっくりだと思うんだけどな。
そう思ったけれど、頭を掴んでぎりぎり締め上げてくる影山に、これはナイショにしておこうって思った。


――――……だって、二人が仲良くなっちゃったら、おれ、こまるもんね。


小さく、笑って。
おれの大好きなトスを上げる、大好きなセッターの手から逃れるため、おれは駆け出した。







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