七夕には祈らない




ザー、ザー、と激しい雨が窓を叩く。夕方から振り出した雨は本格的に激しさを増していて、この分だと明日の朝まで降り続けそうだ。
クーラーも無ければ除湿機なんてもってのほか、な旧男子寮の部屋は、とにかくジメジメと湿っていた。空気がどんよりと重く、空気中の酸素が水気を含んで肩に圧し掛かってくるようだ。
額にしっとりと引っ付く前髪をかき上げながら、僕はじろりと隣を睨む。

「ちょっと、兄さん。いつまで拗ねてんの。課題、まだ終わってないでしょ?」
「んー………」

机に顔を伏した兄さんは、唸りながら尻尾を振っている。どことなく、その尻尾もしっとりしているように見えて、いつもの元気がない。それは本体である兄さんも同じで、むっすりと頬を膨らませて、じっと窓の外を睨んでいた。僕は深くため息を吐く。

「しょうがないじゃない、今の時期は雨が降りやすいんだから。さっさと諦めて、課題を終わらせたほうがいいよ」
「…………ん、」

僕がなんとか兄さんの機嫌を直して課題をさせようとするものの、当の兄さんはずっとこの調子だ。ただでさえ湿気でイライラしているのに、隣でジメジメされたら苛立ちは増すというもの。
僕は内心で舌打ちしつつ、全くこの兄は、と呆れる。

「また来年、すればいいじゃない。七夕なんて、毎年あってるんだし」

そう、今日は七月七日。世間で言う、七夕、と呼ばれる日だ。
離れ離れにされた織姫と彦星が、年に一度の逢瀬が出来る日、なんて、世間ではロマンチックな逸話が流れているけれど、一方で、地域によっては雨乞いの行事と融合しているところもあるらしいから、なんとも不思議な日だと思う。

そんな七夕を、兄さんはそれはそれは楽しみにしていた。どこからか(恐らくフェレス卿の協力のもと)青竹を持ってきて、五色の短冊を用意して、願い事は何にしようかとずっと悩んでいた。そんなことに頭を使うくらいなら、単語の一つでも覚えればいいのに、と思ったけれど、それを言ったら、ちょうちょがない! と怒鳴られた。ちなみに、情緒、ね。

そうして、一週間前から楽しみにしていた七夕は、しかし当日は生憎の雨。天の川は厚い雲に覆われて、これでは織姫と彦星の逢瀬は叶わないだろう。
そして、そのことに凹んだのはなにも天上の織姫と彦星だけじゃなく。楽しみにしすぎて若干テンションが空回っていた兄さんも、雨が降るという残酷な現実に、どんよりと暗雲を背負っていた。

あまりにも凹んでいるので、僕は逆に不思議に思った。毎年、確かにこの日は竹を用意したり短冊を作ったりしていたけれど、今年の兄さんは特に気合が入っていたように思う。いったい、どんな心境の変化があったのやら。僕は密かに苦笑を漏らしていると。

「…………だって、来年もできるか、分かんねぇじゃん」

ぽつり、と兄さんが零した。
机に伏してじっと窓を睨んだまま。僕は驚いて、兄さんの横顔を見る。

「どういう意味?」
「……………………、来年、俺、認定試験あるだろ」
「うん、あるね」
「精一杯のことはするし、受かるためにがんばろうとは思うけどさ。でも…………、もしかしたら、っていうことも、あるだろ?」
「………」

僕はきょとりと目を瞬かせる。
一年後にある、祓魔師認定試験。それに合格しなければ、兄さんは騎士団によって処刑されてしまう。たぶん、それまでに色々あるだろうし、素直に試験まで過ごせるなんて甘い考えは持っていない。
だけど、まさか当の兄さんが、『受からない』ことを考えていたなんて。驚きだ。

「おい、なんだよその顔」
「え、あ、いや………、受からないときのことも、考えてるんだなーって」
「お前俺のことなんだと思ってんの? 俺だって、不安に思うことくらい、あるっつーの」

ぶつくさとぼやきながら、兄さんは唇を尖らせる。心なしか、尻尾がしゅんと垂れているように見える。
項垂れた肩は細く、僕よりも一回り小柄な体が、雨の音に混じっていつもよりも小さく見えた。
拗ねながらも、どこか不安そうに揺れる青い瞳。いつもは無駄に強気で、無駄に元気で、心配したこっちが馬鹿を見るくらい明るい兄さんの、ほんの少し、弱った顔。たぶんきっと、他の人は、知らない顔。
…………ばかだなぁ、兄さん。
僕は内心で、小さく微笑む。

「そんなに不安に思うなら、さっさと勉強しなよ。認定試験には、筆記だってあるんだからね」
「う………」
「それに、」

僕は、思う。
たとえば、だとか、もしかしたら、だとか、未来のことに不安を覚えて、いつだって後ろ向きでいるのは、僕の方だ。
もう、何度だって考えた。もし、兄さんが青焔魔の仔だと教団に知られてしまったら、だとか、それこそ、認定試験に合格しなかったら、なんて、あの実地訓練のときからずっと考えてきた。
その度に、そんな不安を抱える僕とは裏腹に、馬鹿みたいに明るい兄さんに、いつだって苛立たしくて仕方なかったけれど。でも、たぶん………そんな兄さんに、悔しいけれどいつだって救われていたのは僕のほう。
だから。

「もしかしたら、受かる可能性だってあるんだ。だから、それまでにがんばればいい話じゃない」

だからきっと、兄さんが後ろ向きになったときは、僕が前を向いていればいい。
ただ、それだけのことなんだ。

「……………、そう、だよな」
「そうだよ」

頷けば、兄さんはそれまで暗かった表情を一変させて、そうだよな! と満面の笑顔で笑っている。ほんとうに、単純なひとだ。そんな簡単なことじゃないのに。思って、苦笑。やっぱり僕達は、気の合わない兄弟だ。

「よし! んじゃ、さっそく気合入れて、七夕の飾りつけをしよう!」
「っ、はぁっ? なんでそうなるの? 意味が分からないよ」
「だって、せっかくの七夕じゃん。竹だって準備したんだしさ。ほら、雪男も!」

ぐい、と強引に腕を引かれて、短冊を差し出される。何、と兄さんを見上げれば、願いごと! と一言でまとめられてしまった。はいはい、願いごとを書けってことね。
僕は呆れつつも、短冊を受け取って、少し考える。後ろで兄さんが、僕の手元を覗き込んでいるのが分かって、振り返る。

「なに?」
「えっ、や、何て書くのかなーって思ってさ」
「………………秘密」

腕で短冊を隠しながら、短冊に願い事を書く。えー、ケチ! ホクロ眼鏡! と兄さんが背後で煩い。僕は綺麗に無視を決め込んで、さっさと短冊を書くと、部屋の隅に飾ってある大きな竹にくくりつけた。兄さんの背丈じゃ絶対に届かないし、見えない位置に。

「くそ! んなとこに結ぶなんて卑怯だろ! それじゃ見えないじゃん!」
「別に? 僕は見えてるから平気」
「うぅ、くそう、ホクロ眼鏡のくせに……っ!」

悔しげに竹を見上げる兄さん。凹んでいるかと思ったら笑って、笑ったかと思ったら今度は怒り出して、くるくると忙しい人だ。
だけど、そんな兄さんが、僕は嫌いではない。

「兄さん」
「………んだよ」

むすりと拗ねてこちらを見上げてくる兄さんに、にっこりと微笑んで、その額に唇を落とす。ちゅ、と軽い音を立てて離れると、兄さんはぽかんと呆気に取られた顔をしていて。

「へ、」
「ほら、兄さんも願いごと、書いたら?」
「え、あ、……うん…………」

呆然と立ち尽くす兄さんを置いて、僕は机に戻る。あぁ、これで少しは静かになったかな、と期待したけれど、すぐに背後で兄さんが喚き出して、ジメジメした部屋はすぐに騒がしくなった。
外の雨は、止まない。七夕に降る雨は、織姫と彦星が流した催涙雨だっていうけれど。
この部屋にはきっと、雨は似合わない。
そっと窓の外を見る。あの雲の向こうで、織姫と彦星が、愛しい人に会えずに泣いているのだろうか。まぁ、僕には関係のないことだけど。

「…………ねがいごと、か」

日々の不安は尽きない。叶えたい夢も、願いもある。だけど、今日願うとするのなら。


………――――――、来年は、晴れますように。


僕は笑いながら、隣で短冊を前に唸る兄さんの願いごとを見るために、そっと立ち上がった。







おわり

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