天国はいらない。




「うーん……」

二人きりの部屋。僕が自分の課題をするために机に向かっていたら、隣で兄さんがうんうんと唸り出した。課題をしたの?と聞く僕に、今からやることだったんだよ!と言って机に向かったのが、五分前のこと。多分、もうそろそろ何か言い出すな、と思っていたら、案の定だ。

「んー、うーん、うー」
「……どうしたの、兄さん」

僕が兄さんの方に向き直ると、兄さんは渋い顔をして頭を抱えていた。
正直、僕は自分の勉強をしたいのだけど、せっかく兄さんが一生懸命勉強しているから、先生として教えてあげないといけないだろうし、ぶっちゃけて言えば、隣でうーうーと唸られて煩かったのもあって。教えてあげるよ、と言えば、それがさぁ、と兄さんは椅子に凭れ掛かってお手上げのポーズをした。

「今日さ、手騎士の召還術についての講義だったんだけど、しえみとまろ眉がさ、悪魔を召還できたんだよ。んで、俺もなんか召還できねーかな、と思って」
「へぇ凄いね、しえみさんと神木さん。でも兄さん、それって授業の時にはできなかったんだよね?ならできないんじゃないかな?手騎士の素質は生まれつきのものだからね。どう頑張っても召還できない人はできないよ」
「……じゃあ、雪男もできねーの?」
「そうだよ。僕には手騎士の素質はなかったからね」

丁寧に説明してあげると、兄さんは納得できたのかできなかったのか分からない顔で、ふぅん、と言った。手には魔法円の書かれた紙が握られていて、僕はその紙を見て、おや?と思った。
わずかにだけど、描かれている魔法円が間違えているような気がしたのだ。

「兄さん、その紙、ちょっと貸して」
「?いいけど?」

首を傾げつつ僕に紙を差し出す兄さん。僕はそれを受け取ってマジマジと見てみる。やっぱり、間違えている。これでは、魔法円は成り立たない。
僕は違う紙に正しい魔法円を書いて、兄さんに手渡した。兄さんはその魔法円をじっくりと見ると、小さく唸りながら首を傾げて。

「?何か変わったのか?」
「……。その魔法円は今日授業で習ったはずでしょ?ちゃんと覚えておかないとダメだよ、兄さん」
「わ、分かってるって!それより、これで合ってるんだよな?」
「うん。後はこの紙に血を垂らして、思いつく言葉を言えばいいんだよ。まぁ、授業のときにできなかったなら、無理だろうけどね」
「やってみなきゃ分かんないだろ?えーっと……思いつく言葉……うーん」

悶々と考えていた兄さんだったけど、ハッと急に何かを思い出したかのように。

『アイス食いたい!』
「は?」

いや、それ、今の兄さんの願望でしょ!?
僕は頭を抱えた。うん、これじゃ何も召還できないな。
生暖かい目で兄さんを見守っていたけれど、やっぱり何も起こらなくて、兄さんは少しがっかりしていた。しゅん、と元気をなくしている尻尾が特にその心境を顕著に表していて、分かり安すぎて少し笑ってしまった。

「ほら、やっぱりダメだったでしょ?」
「あぁ、そうみたいだなー」

残念、と兄さんが紙を机の上に置いた、その時。
カッ、と紙が眩い光を放って、部屋中を照らした。

「!?」
「な、何だ!?」

あまりの眩しさに目を開けていられず、僕は眼前に手のひらをかざしてカードした。すると、ボン!という何かが破裂する音が響いて。

『私を召還したのは、汝か』

光の中現れたのは三対の白い羽を持つ、銀色の髪を一つに束ねた男だった。
男は低く響く声でそう言いながら、机の上から兄さんを見下ろした。ぽかん、と呆気に取られていたに兄さんは、ハッと我に返って。

「こら!机の上に乗っちゃダメだろ!」

と男に向かって怒っていた。そこなの!?と僕は思ったけれど、男は黙って机から降りたので、僕は口を閉ざした。すると兄さんは満足そうに笑った。だけどすぐに男の顔を見上げて、ん?という顔をしたかと思うと。

「……ところで、アンタ誰だ?」

それは直球すぎるでしょ、と僕は半分呆れてしまった。だけど男はとても真面目な顔で兄さんを見下ろすと、ゆっくりと口を開いた。

『私はラファエル。大天使、ラファエル。神に仕えし使途の一人』
「ラ、ラファエルだって……!?」

僕は絶句した。確かに、背中から生えた白い羽は天使を現してはいるが、まさか三大天使の一人がこんな所に降臨するなんて誰が思うだろう。それも、魔神の息子である兄さんによって、だなんて。
驚いている僕を余所に、兄さんは、お前ラファエルっていうのか、なんてのん気に笑っている。兄さん絶対分かってないよね、と頭を抱えつつ、僕は一歩前に出た。するとラファエルは僕に気づいたのか、じっとこちらを見下ろして来た。随分と背の高い方なんだな、と思いつつ、一つ頭を下げて。

「初めまして。僕は奥村雪男、そちらは兄の燐と申します。ご察しかとは思いますが、貴方様を召還したのは兄です。ですが、兄は貴方様のような方をお呼びするような詞を唱えたわけではないのに、何故降臨なされたのです?」
『……?何を言っている?ちゃんと唱えたではないか。私を呼ぶ詞を。愛、救いたい、と』
「…………」
『私はその詞に応じ、降臨したまで。それのどこがおかしい?』

いや、それ勘違い。
と僕は思ったけれど、まさか『アイス食いたい』を『愛、救いたい』と間違えていますよ、なんて言えるわけもなく。

「あぁ、そうですね……」

ただ、そう返すしか僕には出来なかった。



勘違いで降臨してしまった大天使、ラファエル。彼には悪いけれど、僕はすぐに帰っていただくつもりだった。何故なら兄さんは悪魔で、しかも魔神の息子だからだ。もし兄さんが悪魔だと分かったら色々と面倒なことになりそうだし、天国と地獄がどのような関係にあるのかは知らないけれど、このことで両者間の間に何らかの問題を起こすことだって在りえるからだ。
だけど、予想に反してラファエルは帰らなかった。というのも、ラファエルのことを兄さんが思いの他気に入ってしまったからだ。それに、ラファエルもどこか兄さんを気に入っている様子で、僕は当てが全て外れてハラハラを通り越して、イライラしていた。

「なぁなぁ、ラファエル。お前ってさ、天国から来たんだよな?天国ってどんなとこなんだ?」
『それを現世の人間に教えることはできない。だが、そうだな……不浄のない場所、とでも言えばいいか』
「へぇ?じゃあ、その『ふじょう』のない奴とかは天国に行けるんだな」
『まぁ、そうなるな。ただ心の綺麗な人間だけじゃなく、罪を悔い改めた者にも天国の門は開く』
「へぇ、凄いなぁ」

うんうん、と感心した様子の兄さんに、ラファエルは少し楽しげな笑みを浮かべている。その笑みは慈愛に満ちた、まさに「天使」そのものの顔だったけれど、僕のイライラを助長させるには十分だった。
僕は兄さんとラファエルの会話に入り込むようにして、口を開いた。

「ちょっと兄さん、お喋りもいいけど課題が途中だったでしょ?提出は明日だよ?」

僕はそう言うと、無邪気に笑っていた兄さんは唇を尖らせた。ちぇ、と小さく舌打ちをして、机に向かう。

「はいはい、分かってるって。……ごめんな、ラファエル、ちょっと待っててくれるか?お前の話は面白いからな、もっと聞かせて欲しいんだ」
『分かった。待ってる』

こくり、と頷くラファエルに兄さんは満足そうに、よし!と笑って腕まくりをした。そして机の上のノートに視線を走らせる。僕はその姿を横目で見ながら、小さく笑う。兄さんは勉強に関しては容量も悪いし、一つの問題を解くのにすごく時間がかかる。だから、一度課題に取り掛かれば、最低でも一時間は必要だ。つまり、その一時間は兄さんはラファエルと話さないわけで。
……別にそれを狙っていたわけではないけれど。でも、これで僕も自分の課題に集中できそうだ。
僕は内心でほくそ笑みながら、自分のノートに向かった。

だけど。

『燐、そこの問題は違うぞ』
「え?そうなの?」
『あぁ、その悪魔に有効な致死節は……』

後ろで兄さんの課題を見守っていたラファエルが、すぐに口を挟み始めたのだ。そしてそれを一々うんうんと頷いて聞く兄さん。僕が教えるときには、そんな風に素直に聞いてもくれないのに。
僕はまたイライラしつつ、二人の会話を聞いていた。最初は兄さんの解く問題の間違いを指摘していたのに、最後にはあまりに間違えまくる兄さんを見かねたのか、問題を解く前に解説をし始めてしまった。
これじゃ、兄さんのためにはならない。僕は教師心一割、嫉妬心九割の心でもって、立ち上がった。

「あのですね、すみませんが兄さんの課題の邪魔をしないでいただけますか。問題を解く前に解説しては兄さんの為にはなりません」
『だが、分からない問題を解いても時間の無駄だろう?それなら最初から解説して、納得させるほうが早い』
「ですが、それは貴方の役目ではないでしょう。それは僕の役目です。兄さんが分からないのであれば僕が教えますので、貴方は黙って見守っていてくだされば結構です」
『だが、汝は自分の課題があるだろう?それなら、私が教えたほうが汝も助かるかと思うが』
「……」

僕は内心で舌打ちする。天使ゆえの慈愛心なのかは知らないが、盛大に邪魔だ。
僕がイライラしていると、兄さんが敏感に僕の様子を感じ取ったのか、雪男?と声を掛けてきた。何、と不機嫌なまま返事をすれば、兄さんは少し驚いた顔をして。

「お前、何イライラしてんだ?」
「……」

カルシウム不足か?なんて検討外れなことを聞いてくる兄さんに、僕は眉間を押さえた。全く、誰のせいで僕がこんなにイライラしていると思っているのだろう?
僕はイライラしたまま、眼鏡を押し上げて兄さんを見た。

「それは兄さんが馬鹿だからだよ」
「な、何だよそれ!何で俺が馬鹿なのとお前がイライラしてんのが関係あるんだよ!」
「関係大有りだよ。そんなことにも気づかないの?」
「ッ、この、自分がちょっとできる眼鏡だからって、調子乗んなよこの眼鏡!」

あぁ、くそ!と兄さんは苛立たしそうに頭を掻いたあと、乱暴に立ち上がってずんずんと扉の方に向かって行った。

「ちょっと兄さん、どこ行くの」
「どこだっていいだろ、この眼鏡!」

じゃあな!とひどく怒った様子で、兄さんは部屋を出て行ってしまった。バタン!と乱暴に閉じられた扉が悲鳴を上げて、僕は呆然とその背中を見送った。

「……あ、」

しまった、と思ってももう遅い。
僕はようやく我に返って、頭を抱えた。僕は自分で勝手にイライラしていたのを、兄さんにぶつけてしまった。それも、自分勝手な感情で。
……どうしよう、きっと傷つけた。
去り際の兄さんの顔を思い出して、僕はぎゅっと唇を噛む。誰よりも傷ついて欲しくないひとを、僕自身が傷つけてどうするんだ。
僕が自己嫌悪に塞ぎこんでいると、ふ、と目の前に陰が差した。顔を上げると、銀髪の天使が僕を見下ろしていて。

『謝りに行かないのか』

さも不思議そうな顔でそう言われて、僕はハッとする。そうだ、こんなところで塞ぎ込んでいる場合ではないんだ。早く兄さんを追いかけて、謝らないと。
僕は立ち上がって、部屋を出ようとした。だけどその前に、一度振り返った。古びた寮の部屋に佇むその美しい天使に、僕は小さく笑って。

「貴方、兄が悪魔だと気づいていますよね?」
『……―――』

天使は黙っていたけれど、僕は気にせずに続けた。どうせ、この天使は否定も肯定もしないだろうから。

「でも、貴方は何も言わなかった。そこには、一応礼を言っておきます。もし、貴方が兄さんを祓おうとしたのなら、僕は全力で貴方を止めに入ったでしょう。……、だから、感謝しているんです。僕は今、問題を起こすわけにはいかないので」
『愛する兄のために、そこまでするのか、汝は』

天使は僕の言葉に苦笑した。それはまるで愚かな人間を笑っているようにも、諌めているようにも見えて。
だけど僕は、どちらでも構わない。何故なら。

「当たり前です。兄は僕の全てだ」

僕のカミサマは、もう既に存在しているのだから。



部屋を出た僕は、真っ直ぐにある場所に向かった。兄さんは考え事や悩み事があると、決まってある場所にいることが多い。それは正十字学園の、ある塔の上だ。兄さんはよくそこに立って、どこか遠くを見ていたり、下界を眺めていたりする。多分、そうすることで自分の頭を整理しているんだと思う。悪魔の息子でありながら祓魔師を目指すという、茨の道を裸足で歩くような生き方を選んだのだから、それも当然と言えば当然で。
僕はそんな兄さんを、何も言わずに見守ってきた。言葉なんて必要ない。態度で示すこともしない。ただ、黙って見守る。それが何より兄さんには必要なことだし、きっと兄さんはそんな風に悩んでいる自分を誰にも見せたくないと思っているだろうから。
だけど、今は違う。
僕は塔を駆け上って、荒い息を整えながら兄さんを探した。その姿はすぐに見つかったけれど、兄さんはいつもと違って背中を丸めて、座り込んでいて。
まるで小さな子どもが泣いているようなその姿に、僕は胸を締め付けられた。

「兄さん……」

小さく囁くと、兄さんは肩を震わせた。だけど決して顔は上げなくて、きゅう、と更に小さくなった。
僕はそっと兄さんの傍まで歩み寄って、しゃがみ込む。そして、その小さな背中にコツン、と額を押し当てる。
どくん、と少し跳ねた心臓の音を聴きながら、僕は祈るような気持ちで、その言葉を告げた。

「ごめん、兄さん。ごめん」
「……」

ごめん、と何度も謝る僕に、兄さんはふるふると頭を振った。僕は悪くない、とでも言いたいのだろうか。でも、今回は僕が悪いのだから、僕はもう一度、ごめん、と囁いて。

「兄さん、ごめん。何度でも謝るから、だから、泣き止んでよ」
「……ッ、泣いてねーよ」
「うん。……ごめんね」

震える声で、泣いてない、と繰り返した兄さんに、そうだね、と返して。
僕は顔を上げて、兄さんの頭を撫でた。さら、と手から滑り落ちた黒い髪が揺れて、兄さんは顔を上げてくれた。その目元は赤くなっていて、罪悪感が募る。そんな僕に、兄さんは少し気まずそうに。

「……俺こそ、ごめん。お前は、俺のために言ってくれているのに」
「兄さん……」

それは違うよ、と僕は言いかけた。でもきっと兄さんは納得しないだろう。だから僕は口を閉ざして、うん、と頷いて。

「じゃあ、今回はおあいこってことで」
「あぁ、そうだな」

仲直りだね、と笑えば、兄さんは照れくさそうに笑い返してくれた。
その笑顔に僕はホッとして、兄さんの頬に手を伸ばした。少し濡れた頬を拭ってあげながら、赤い目元にちゅ、と唇を一つ落とす。

「へ……!?」
「仲直りのシルシ、ね」

呆気に取られる兄さんに笑いかけながらそう言うと、ば、馬鹿じゃねぇの!と真っ赤になった顔で兄さんは僕を罵った。
僕はそれを甘んじて受けながら、脳裏にあの銀色の天使を思い浮かべた。


もし、あの天使の羽を真紅に染め上げてしまったとして。
僕はその罪で、天国に行けなかったとしても。
それでも構わない。
兄さんのいない世界なんか、いらない。

兄さんのいる世界こそが、僕にとっての天国なのだから。


おまけ。


寮に戻ると、あの天使は姿を消していた。魔法円の描かれた紙が二つに破られているのを見ると、どうやらあの天使自身が紙を破ったのだろう。悪魔と違って、天使は力で抑えつけるわけじゃないので、自分で紙を破ることだって可能だ。
兄さんは、天使がいなくなったことを少し残念がっていた。だけど、また魔法円を使って呼び出そうとはしなかったから、兄さんなりに何かを感じ取っているのかもしれない。
僕はそう思いながら、ふと、自分の机に開いたままのノートに視線を落とした。部屋を出る前にはなかった文字を見つけて、目を細める。
だけど僕は直ぐにそのページを破って、ゴミ箱に捨てた。

「雪男?」

怪訝そうに僕を呼ぶ兄さんに、なんでもないよ、と笑う。
兄さんは少し首を傾げていたけれど、僕の笑顔に、そっか、と納得して、勉強しないとな!と気合を入れて机に向かっていた。
さて、今度はどのくらいもつのかな?と時計を見ながら、僕は小さく笑った。

ノートに書かれた言葉は、きっと僕には不要の言葉。
だから、捨てたところで何も変わりはしないのだ。



Love is patient; love is kind; love is not envious or boastful or arrogant or rude. It does not insist on its own way; it is not irritable or resentful; it does not rejoice in wrongdoing, but rejoices in the truth. It bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.




END

というわけで。
リクエスト頂きました、佐伯様、ありがとうございました!
リクエスト内容は「燐が手騎士の授業の復習をして居たら天使を召喚して懐かれて、それにイライラする雪男」ということでしたので、思いっきり大天使さんに登場して頂きました。懐かれるというより気に入られる感じになってしまいましたが(笑
本当は大天使さんVS雪ちゃん、的な空気になったのですが、天使と言われて純粋倍体の某聖騎士さんが頭を過ぎりまして、こういう人とは喧嘩は成立しないな、という結論に達しました。天使って、何も言われても糠に釘っぽい感じがしたので。
リクエスト通りになったのかひどく不安ですが、許してあげて下さい。

ではでは、リクエストありがとうございました!

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