路地裏のパン屋さん SAMPLE
夜勤が明けた土曜の夜、僕は重たい身体を引きずって帰路についた。一人暮らしのマンションに帰り着くと、服が皺になるのも厭わずにベッドに倒れ込む。ぼふ、と柔らかなクッションが疲れた体を包み込み、じわりと沈み込む。
「…………、疲れた」
ぽつり、と呟く。今日、というか、今週は本当に忙しかった。
先週の木曜日、どうやらどこかのヤクザさんたちが、組同士で抗争を起こしたらしく、それを止めるために警察も総動員するという騒ぎが起きた。そのため、怪我人も多く出てしまい、現場から近かったということもあり、僕が通っている病院に大量のヤクザさんや警察官さんたちが運ばれてきた。
本来なら、ヤクザさんと警察官さんが同じ病院に運ばれることはない。だが、他の病院は別の急患でいっぱいだったらしく、仕方なく、同じ病院に運ばれることになったらしい。
そのため、ここ一週間は病院内にどこかピリピリとした空気が流れていた。それもそうだ。ヤクザさんが入院しているってだけでもプレッシャーなのに、そこに警察官さんもとなれば、ピリピリしない方がおかしい。
まぁ、僕はただ患者さんを診る医者としていればいいのだし、その患者さんがヤクザだろうが医者だろうが関係はないけれど、他の患者さんや看護師たちはそうもいかないらしく。
プレッシャーに耐えられず容体が悪くなる患者さんが出てしまい、右へ左へ大忙しだった。
そして今日、ようやく他の病院に空きができたらしく、警察官さんたちはそちらに移ってもらい、ヤクザさんたちを別の特別病室に入れることで、なんとか事態に収拾がついた。あとは、ヤクザさんたちが大人しく退院してくれることを待つだけだが……。
「…………疲れたなぁ」
言葉に出すと、想像以上に身体は悲鳴を上げていた。動いている間は感じなかった疲労が、ここに来て一気に出たようだ。
僕は掛けていた眼鏡を外しながら、ふと、先週は「OKUMURA bakery」に行っていないなと思い出した。忘れていたわけではなかったのだけれど、忙しくて行けなかった。
『先生!』
燐くんの弾けるような笑顔を思い出して、僕は小さく笑う。あぁ、どうしよう。無性に彼に会いたくなってしまった。だが、身体はそれ以上に休息を欲していて。
重たくなる瞼の裏で、彼の焼いたパンの匂いを、思い出していた。
泥のように眠ったせいか、少し身体はだるいものの、疲れはずいぶんと取れた。まだぼんやりとする頭をすっきりさせるために、熱いシャワーを浴びた。そのおかげで、思考がクリアになった僕は、ちらりと時計を見やる。朝に帰ってきて、それから眠ったせいか、外は日が暮れそうになっていた。夕方の午後五時二〇分。確か、あのパン屋さんは夜もやっていた。今から行っても、きっと開いているだろう。
僕は少し迷ったものの、そう言えば冷蔵庫に食材と呼べるものが入っていないことに気付いて、買いだしついでに寄ってみようと思い、外へ出かけることにした。
見慣れた道を進み、見慣れた店の、見慣れたドアを開く。その先には、いつもの笑顔で出迎えてくれる彼が………―――、いなかった。
「あ?」
「え?」
二人、お互いを見て、目を瞬かせる。チリン、という可愛らしい音が、間抜けに通り抜ける。
ぽかん、と呆気に取られる僕だったが、相手の方が先に復活したらしく、いらっしゃいませ、としかめっ面で愛想のない挨拶をした。取りあえず客だから挨拶したと言わんばかりの態度だ。
接客業としてそれはどうかと思いつつ、僕はじっと彼を見つめた。彼も僕の視線に気づいたのか、何だと言わんばかりにこちらを睨む。
容姿といい、目つきといい、可愛らしいパン屋にはひどく不釣り合いのように見えた。
鶏冠のように撫でつけた髪は、真ん中の部分だけ金色に染めていて、耳にはピアス、指にもゴテゴテの指輪をはめていて、どこか不良然とした青年だ。そんな彼がエプロン姿でレジに座っていると、妙に違和感がある。
僕がマジマジと彼を見ていると、彼は眉間に皺を寄せて。
「……俺に何か用ですか」
「えっ、あ、いや……」
存外、丁寧な口調で問われて、僕は一瞬言葉に詰まった。言葉のイントネーションが違っていて、どうやら彼は関西の人のようだ。
じっとこちら探るように見る目に、どう言ったものかと思案したものの、他に言いようもなく。
「その、今日は燐く、……あ、いや、奥村君じゃないんだな、と思って」
「…………アイツなら、今日は休みです」
「あ、あぁ、そうなんだね」
そうか、彼は今日は休みか。ということは、この彼が前に言っていたバイトなのだろうか。ここ一カ月、燐くんがいるときにしか来たことがなかったから分からなかった。
僕は少し落胆した。彼に逢えると思って足を運んだが、無駄足だったようだ。
僕が肩を落としていると、彼は少し怪訝そうな顔をしたあと、あっと何かを思いついたような顔をして。
「もしかして、アンタが『先生』?」
「え?」
「奥村が話しとった。怪我の手当てをしてもらった病院の先生が店の常連にいるって。それ、アンタのことやろ」
急に、彼は敬語を止めた。挑むような目で僕を見て、ガタン、とレジから立ち上がった。そのままずいっと僕に近づいて。
「…………―――、なぁ。アンタがもし『奥村目当て』でここに通っとるんやったら、一つ忠告したる。中途半端な気持ちでアイツと関わらんで欲しい。迷惑や」
「な、」
直球に寄越された言葉に僕が絶句していると、彼は真っ直ぐにこちらを見据えてきた。あまりにも真剣な表情に、僕は困惑してしまう。
中途半端な気持ち、とはどういうことなのだろう。僕はただ、彼のことがすきで、その笑顔が見れれば、それだけで満足だった。別に、この想いを伝えようだとか、受け入れてもらおうだとか、思ったことはない。何故なら僕は男で、燐くんも男だ。同性同士の恋愛が、そう簡単に上手くいくわけがないことくらい、僕にだって分かる。ドラマや小説のように、すきになったからと言って、相手もすきになってくれるなんて、そんな都合のいいことなんてあるわけがない。
「………君の言う、中途半端な気持ちっていうのがどんなものなのか、僕には分からないよ。僕はただ、」
先生、と僕を呼ぶ彼が、すきだ。弾けるような笑顔も、時折見せる幼い顔も、すきだ。
ただ、それだけだった。
そう言えば、彼はじっと僕を見つめた。そして、フン、と一つ鼻を鳴らす。不快だと言わんばかりに。それから、吐き捨てた。
「綺麗ごとやな」
「何だって?」
「アンタの言う言葉は、綺麗ごとや。嘘臭くて、偽善臭い。すきやから、ただ傍にいたいだけやなんて、ドラマでもそんな台詞言わへん」
「ッ、そんなこと、他人の君に言われたくないね」
僕は、こみ上げる怒りを押し殺した。
何故、ここまで言われなければならないのか。そして、燐くん本人ならともかく、他人である彼に僕の気持ちをどうこう言われる筋合いはないと思った。
だが、彼は淡々と続けた。
「すきだから、傍にいるだけでええ? それで満足? 冗談もほどほどにせえよ。じゃあ聞いたる。アンタ、奥村を抱きたいと思ったこと、あるやろ」
「な、ん」、
僕は再び、言葉を失くした。あまりにも直球すぎる。
そんな僕に、それ見たことかと言わんばかりに、彼は笑った。
「そうやろ。男なら惚れた相手に対して傍にいるだけでええなんて思ったりせぇへん。そこには絶対欲が絡む。………なぁ、『先生』。それでもアンタは、傍にいるだけでええやなんて、言えるんか?」
「…………―――」
「だから、忠告や。中途半端な気持ちで、奥村と関わらんで欲しい」
その言葉に、今度こそ僕は、返す言葉を失くしていた。