APOCALYPSE 前




きっかけは何だったのか、多分ほんの些細なことだったかもしれないけれど、よく覚えていない。ただ、いつの間にか集団で囲まれていて、殴りかかって来られて。俺は条件反射で手を伸ばしてしまっていた。
手のひらに残る、誰かを殴った感触。痛む頬は、誰かに殴られた感覚。我に返れば、たくさんの人間が、俺の足元に転がって呻いていた。

「う、あ、悪魔……だ……!」

そう言って、俺を忌々しそうに見上げる男たちを見下ろして、俺はただ黙ったままその場を去った。理由なんて分からないし、知りたくないと思った。
この場は、俺が立ち去って終わり。普段なら、そうだった。
だけど今回は相手が悪くて、俺が殴った相手の中に、権力を持った親を持つ子がいたらしい。だから、俺がその子を殴ったことはすぐ学校に知れて、俺と呼び出されたジジイはこっぴどく怒られた。
ジジイは終始頭を下げていて、俺はその姿を見ていつも気まずい思いをする。俺から喧嘩を吹っ掛けたわけでもないのに、と、最初の頃はそう思っていたけれど、中1の頃からそれを繰り返してきたので、中2の終わりがけとなった今では、もうそれも慣れてしまった。
ただ、いつもいつも学校に呼び出されて頭を下げるジジイには、心の中でだけ申し訳なく思っていた。

最初から最後まで頭を下げっぱなしだったジジイは、教室を出るとすぐに、俺の頭をぱぁん!と盛大に殴った。俺が何すんだよ!と抗議すれば、当たり前だこの馬鹿!と怒鳴る。
だけどすぐに小さく苦笑して。

「帰るぞ、燐」

そう言って、笑うから。
俺は、ぐっと俯いて、おう、とだけ返した。それ以上、何かを言えばきっと、声が震えているのがバレてしまうから。



そんなことがあった、翌日。あまり気乗りはしなかったけれど、俺は弟の雪男と登校した。雪男は昨日怪我をして帰ってきた俺を呆れながら、それでもきちんと手当てをしてくれて。
こんな俺の双子の弟だとは思えないくらい、頭が良くて、将来は医者になるのだと目標を立てて頑張っている。そんな雪男の邪魔はしたくないし、全力で応援したい。それが兄である俺の役目だと思っていた。
なのに。

『聞いた?三組の奥村君、また喧嘩したんだって。それも相手に大怪我を負わせたって噂だよ』
『えぇ?また?この前も喧嘩して学校に親呼び出しされてたじゃん』
『よくやるよね。そういえば、もう一人の奥村君は二組だっけ?』
『そうそう。もう一人の方は大人しいし、勉強もできるらしいよ』
『でも双子でしょ?双子って似てるっていうじゃん。もう一人の奥村君もキレたら何するか分かんないかもよ』
『そうかなぁ……』

偶然、耳にしたその会話を、俺は呆然と聞いていた。
別に、俺のことを悪く言われるのには慣れている。嫌われるのも、怖がられるのも。だけど、弟のことまで言われているのは、初めて聞いて。
ぐっと手のひらを握り締めた。このままだと、関係のない雪男まで悪く言われてしまう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
俺はぐるぐると悩んで、そうだ、と思いつく。
学校の中だけでも、雪男と関わらなければいい。そうすれば、双子だけど俺と雪男は仲が悪いってことになって、俺の悪評も雪男には届かなくなる。
そうだ、そうすれば、いいんだ……―――。
俺は唇を噛み締めて、心の中で固く決意した。



「雪男、俺、明日からお前と一緒に学校に行かないから」
「え?」

その日、塾があるとかで帰りが遅かった雪男が帰ってきて、俺は固い決意を口にした。雪男はきょとん、とした後、なんで?と間を入れず問いかけてきて。俺はうっと言葉に詰まったものの、何でもいいだろ!と押し切った。
雪男は怪訝そうに眉根を寄せていたけれど、俺がそれ以上何も言わないのを悟ったのか、分かったよ、と小さく頷いた。
ごめんな、雪男。でもこれが一番いいんだ。
俺はほんの少しの寂しさを隠して、笑った。

その日以来、俺は学校では徹底的に雪男を避けた。登下校はもちろん別々だし、廊下ですれ違っても何も言わない。最初はそんな俺に何か言いたげな顔をしていた雪男も、数日経てば俺の存在なんて忘れたみたいな態度を取っていた。元々クラスは別々だし、そこまで係わり合いがあったわけではないから、避けるのには苦労しなかった。
周囲もそんな俺たちの空気を敏感に感じ取ったのか、それ以来雪男を悪く言う話を聞くことはなかった。
……これでいい、これでいいんだ。
俺は心の中でそう唱えながら、でも、廊下ですれ違った雪男の背中を振り返りそうになる自分を、叱咤していた。
……サミシイなんて、思っちゃいけねーよな。
俺は自嘲気味に笑って、早足に雪男から離れた。



俺が雪男を避け始めて、一週間後のこと。体育の授業が先生の都合で二組と合同になった。正直、雪男を避けたい俺は体育をサボって、学校の屋上に来ていた。風当たりのいい屋上のフェンスに凭れ掛かりながら、そっとグラウンドを見下ろす。二クラスの生徒が一緒になっているせいか、結構な人数がグラウンドにいたけれど、俺はすぐに雪男を見つけることができた。
雪男は、クラスメイトだろう、一人の生徒と話していた。時折、小さく笑いながら。
俺はそれを見つめて、良かった、と思う。雪男は普通の生徒として、普通に学校生活を遅れている。それが俺の望みだったから純粋に嬉しくて、俺は小さく笑った。
その時。

「何を笑ってる?」

突然声が聞こえて、俺はビク!と体を震わせた。誰だ!?と振り返ると、給水タンクの上から俺を見下ろす一人の男子生徒がいて。俺はその生徒を呆然と見上げた。俺と同じ学ランに身を包んだその男子は、髪は黒かったけれど耳に銀色のピアスが光っていて、あ、不良だ、と思った。
そして嫌な予感がする。こういう場合、何かと因縁を付けられて喧嘩をするのがいつものパターンだからだ。
俺が少し鬱になっていると、ソイツは給水タンクの上から飛び降りて、こちらへと歩いて来た。授業中に喧嘩はあんまりしたくねぇな、と思いつつも、なんとなく不良の動向を探る。
不良は俺の目の前で足を止めて、じっと俺を見下ろした。近くで見たソイツは随分と身長が高くて、俺は見上げなければソイツの顔を見ることができない。
こちらをじっと見つめる不良に、俺はただ見つめ返した。すると不良は、何かに気づいたかのような顔をして。

「お前、何で笑ってたんだ?」
「は?」
「さっき、笑ってただろ?」

さっき、と言われて、あぁ、と思い出す。雪男を見つけて笑う俺を、この不良は見ていたのだろう。俺は、弟が下にいたから、と言いつつ、グラウンドを見下ろした。今日の授業はサッカーだったのか、生徒たちがグラウンド中を走り回っていた。その中には雪男もいて、少しだけ目を細める。
すると、俺と同じようにグラウンドを見下ろしていた不良が、何故か不機嫌そうに眉根を寄せて。

「誰か、気になる奴でもいるのか」
「え?あ、そりゃあ、まぁ」

弟だし、と俺が頷けば、不良はますます不機嫌そうな顔をして。

「……気に入らない」

そう、ぽつりと呟いて。
不良は俺の手を掴むと強い力で引き寄せて、何故かぎゅっと抱きついてきた。

「へ、ちょ……何だよ!」

俺はいきなり男から抱きつかれて、かなり慌てた。というより、かなり驚いた、という方が正しいか。とにかく突然のことに軽くパニックになった俺は、その腕の中から脱出しようともがくけれど、不良の方が力が強くて、俺はさらに驚いた。
俺が本気になって暴れているというのに、目の前の不良はそれを簡単に押さえ付けてしまっていて。今まで数多くの喧嘩を相手にしてきたけれど、こんな風に押さえつけられたのは初めてだった。
俺は暴れるのを止めて、ただ不良の様子を伺った。不良はただ黙ったまま俺を抱いていたけれど、どこか思いつめた様子で顔を上げて。

「俺は……―――」

ふ、と不良は俺の頬に手を伸ばした。頬に触れたその手は少し冷たくて、俺が首を竦めると、不良は俺の顔をぐっと上げさせて。
ゆっくりとスローモーションで近づいてくるその顔に、これって、と内心で盛大に慌てた。
これって、そう、よくドラマで見たシーンと同じで。

キス、されそうになってる!?

俺はお互いの吐息を感じるまで近づいた距離になって、よくやく我に返った。まさに唇同士が触れ合おうとしていて、俺は嫌悪感から全身を震わせて。

「い、いやだ……!」

全力で不良の体を押し返すと、その体はすぐに離れた。だけどキスされそうになるという未知の体験をしてしまった俺は、無意識のうちに一歩後退してしまって。
そんな俺の様子に、ハッと我に返ったような顔をした不良は、俺よりも顔を青ざめて深く頭を下げた。

「ご、ごめん!その、俺……なんて事を!ほんと、ごめん!」

ごめん、と何度も謝る不良に、俺の方が圧倒されてしまった。ぽかん、としている俺に不良はかなり興奮した様子で、そうだ、死んで侘びを!なんてことを言い始めたので、俺は慌てて止めに入った。

「ちょ、落ち着けって!俺は平気だから!」
「で、でも……!」
「いいから!俺が良いって言ってんだから、いいの!取りあえず落ち着けって。な?」
「……」

俺が不良の肩を叩いて笑いかけると、不良は俺を見下ろして少し泣き出しそうな顔をした。そして、もう一度ごめん、と呟いた。本当に反省している様子だったので、俺は取りあえず未遂だったし許すことにした。
ただ、どうしてあんなことをしたのか、理由が分からなくて。

「でも、何であんなことを?……俺とアンタは、初対面だろ?」
「……」

不良は、少し切なそうに眉根を寄せた後、初対面じゃない、と言った。でも俺には全く見覚えがなくて首を傾げていると、不良は学ランの袖を上げて、左腕を俺に見せた。そこには、何かから引っ掻かれたような傷跡があった。不良はその傷跡をそっと撫でて、少し懐かしむような顔をした。

「お前は覚えていないだろうけど、小さい頃、犬に襲われていた俺をお前が助けてくれた」
「……え?」
「その時から、俺はずっとお前を探していた。あのときの礼が言いたくて。そしたら、偶然この学校に通っているって知って。でもお前はあまり学校には来ないし、どのクラスなのかも分からなかった。だから偶然、お前が屋上に来たときは、すごく驚いて。でも、お前は俺の知らない誰かを想って笑ってたから、つい、頭に血が上って……」

不良はそこで言葉を切った。そして、真剣な表情で俺を見つめて。

「さっきは、本当にごめん。そして、あの時はありがとう。俺を、助けてくれて」
「………、うん」

正直、俺は少しも不良のことを覚えてはいなかった。小さい頃とはいえ、そんな出会い方をしたのなら覚えていそうなものだけど、不思議と何も覚えていなくて。
だけど、あまりに真剣な顔で礼を言う不良に、そんなことは言えなくて。俺は少し気まずい思いをしながらも、小さく頷いた。
すると、不良は安心したように笑って。あぁ、そういう顔をしていれば、全然不良には見えないのにな、と思った。



そんなことがあった放課後。俺が帰ろうと席を立つと、奥村!と呼ぶ声が聞こえて振り返った。誰だ?と思っていたら、出入口のところにさっきの不良が立っていて、俺は取りあえず鞄を持って不良の元へと向かった。

「どうかしたのか?」
「いや、特に用事はないんだが……。帰り、一緒に帰れたらと思って」

そう言って笑う不良。俺はそれに、いいぞ、と返しながら、どこか新鮮な感じがしていた。雪男以外の誰かと一緒に帰るなんて、今までに全く無くて。
俺は隣にいる不良の気配を感じながら、どこかワクワクするような、そんな高揚感にくすぐったさを覚えていた。

「?どうかしたのか?」

そんな俺の様子に、不良は不思議そうな顔をして、俺の顔を覗きこんできた。俺はそれに何でもない、と返しながら、ふと、この不良の名前を聞いていなかったことに気づく。学ランにも名前は書いていないから、本当にこの不良の名前が分からない。

「なぁ、そういえばお前はなんて名前なんだ?」
「……」

俺がそう尋ねると、不良は少し考えるような仕草をした後。

「……、夜羽ヨルバ。そう呼んでくれ」

そう言って、小さく笑った。



それから、不良、夜羽と共に登下校することが多くなった。夜羽の家は途中まで一緒の道のりになるから、自然と行き帰りが一緒になって。雪男と一緒に帰れなくて少し寂しかった俺にとって、夜羽との登下校はとても楽しいものになっていた。
夜羽は少し寡黙だけど、俺の話を親身になって聞いてくれる。うんうん、と頷いて、それで?と聞いてくれる。それが嬉しくて、俺は登下校中ずっと話していた。
そんな、ある日のこと。
家に帰り着いた俺を出迎えたのは、雪男だった。ここのところ、ずっと塾に通って帰りが遅かったのに、今日は俺よりも早く帰宅していて、帰ってきた俺をどこか不機嫌そうに見ていた。

「ただいま。……って、何でそんなに不機嫌そうなんだよ、お前」
「……兄さん、いつも一緒に帰っているの、誰?」
「誰って、友達だよ。夜羽って言って、すっげぇいい奴なんだよ」
「へぇ、そう……」

そうなんだ、と繰り返す雪男は、かなり不機嫌だ。何をそんなにピリピリしているのか分からなかったけれど、俺はすぐにピンと来た。まさか、雪男の奴。

「あのさ、まさかと思うけど。お前、俺が夜羽と一緒に帰ったりしてるから、妬いてんの……?」
「……」

まさかね!と俺は自分で言って自分で笑い飛ばそうと思ったら、予想に反して雪男は真面目な顔をして。

「そうだよ、って言ったら?」
「へ?」
「だから、妬いてるって言ったら、兄さんはどうするの」
「どう、するって……」

言われても。
俺はまさか雪男がそんな風に返してくるとは思ってもみなくて、言葉に詰まる。オロオロと返答に困る俺に、雪男は不機嫌そうな顔を一変させて、冗談だよ、と笑った。

「僕も子供じゃないんだから、兄さんに友達ができたくらいでは妬かないよ」
「な、な、何だよ!驚かせんな、馬鹿!」
「真に受ける兄さんも兄さんだけどね。……っと、ほら、早く着替えて来なよ。神父さんたちが夕飯作って待ってるよ」
「あぁ、分かってるって」

雪男がやや呆れたようにそう言うから、俺は少しだけ安心して、バタバタと自室に向かった。
部屋に入って扉を閉めた俺は、ふ、と小さく笑って。

「でも、妬いてくれたほうが、俺は嬉しいけどな……」

なぁ、雪男。と俺は今ここにはいない双子の弟のことを思った。




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