愛してる、の終焉




八月の初め、「青い夜の子」たちとの長い長い戦いが終わりを告げた。暑い夏の日差しがまぶしいその日、生き残った「青い夜の子」の一人であるテトスの悪魔の能力を彼から取り除くことに成功した。
「青い夜の子」の中でも幼かった彼は、悪魔の力のない自分を、ただ不思議そうな顔で見下ろしていた。だけどすぐに小さく微笑んで。

「ありがとう、王様」

そう、言った。
それからテトスは、なんと祓魔塾の塾生になることになった。彼が何を思ったのかは分からない。もう悪魔に関わるのは止めたらいいのに、と一度止めに入った俺を、テトスは真っ直ぐに見上げて。

「ぼくたちは、ずっと戦ってきた。それが、本当は嫌だった。戦いなんて痛いだけだし、誰かを傷つけるのも、怖くて堪らなかった。でも……やっぱりぼくの居場所は、ここしかないから。人間も悪魔も嫌いだけど……。でもここなら、何かを見つけられるような、そんな気がするんだ」

前を向いて晴れやかに笑う少年は、太陽の光の下で、とても眩しかった。



ペテロも同じように悪魔の力を取り除くことになったが、本人がそれを拒否している。どうやらまだレンのことが諦められないようで、彼との縁を断ち切りたくないのだという。
その気持ちは分からなくもないので、今のところ監視付きの条件で虚無界で暮らしている。時々レンは会いに行っているらしいけれど、どんな会話を交わしているのか気になって、監視をしているアリトンに聞いてみた。
すると彼女は呆れたような顔をして。

『それがね、聞いてよ若ちゃん!あの二人、会話どころか目も合わせないのよ!見ているこっちがイライラしちゃう!言いたいことがあるなら、すっぱりきっぱり言っちゃえばいいのに!』

らしい。
……まぁ、これまでに色々あったのだから仕方ない。二人のことは時間が解決してくれるだろう。


そして、今回協力してくれた志摩や勝呂にも、挨拶に行った。二人はペテロの所在などを探してくれたし、今回のことは一段落付いたことを知らせなければと思ったからだ。
すると二人は。

「これくらい、別にかまわへんよ。それに結局、俺たちはなんもできへんかったし」

ヒラヒラと手を振って去っていった志摩は、三年前に比べるとずいぶんとかっこよく見えた。だけどその後すぐに可愛い女の子を見つけてナンパしている姿を見て、やっぱり志摩だな、と妙に納得した。
そんな志摩を呆れたように見ていた勝呂は、妙に神妙そうな顔をして俺を見下ろすと、少し迷ったように視線を彷徨わせた。俺に言いたいことがあるのに、それを言おうか迷っているような、そんな顔をしたあと、ややって、口を開いた。

「……余計な世話かもしれへんけど。……お前にはお前の事情があって、虚無界のこととか悪魔たちのこととか、色々と大変かもしれへん。けど……―――お前の弟のことも、気にかけてやりぃ。……あんなやり方してたら、いつか……」
「分かってるよ、勝呂」

俺は勝呂の言葉をさえぎって、ニッと笑った。勝呂はハッとした顔をしていたけれど、すぐにひょいと肩をすくめた。

「……ほんま、お前ら兄弟は分からんわ」
「悪いな、勝呂」

でも、ありがとな。
そう言えば、照れたように顔を赤らめた勝呂が、止めろや気持ち悪い!なんて怒鳴っていた。
照れんなよ坊、なんて勝呂を茶化しながらも、そっと、目を伏せた。

……分かってるよ、勝呂。全部、ちゃんと。

俺はぐっと顔を上げて、一つの決意をした。





「雪男。ちょっとここに座れ」
「え?」

「青い夜の子」事件が無事に収束を見せた八月の上旬。帰宅した僕を待ち構えていた兄さんは、真剣な顔でベッドに座ったまま、ぽんぽんと自分の隣を叩いた。何故かは知らないけれど、怒っている様子で、むっと唇を尖らせていた。

「あの、兄さん?どうかしたの?」
「い・い・か・ら!座れ!」

ぼすぼすと乱暴にベッドを叩く兄さん。これじゃ埒が明かないと思って、僕は兄さんの指示した場所に座った。ぎし、とベッドが軋む。

「はい、座ったよ、兄さん。いったいどうしたの」
「………」

言うとおりにしたのに、むぅとさらに不機嫌そうな顔をして黙り込んでしまった。ワケを聞こうにも、本人がだんまりを決め込まれたらどうしようもない。
いったいどうしてしまったのか、と内心でお手上げしていると、兄さんはじっとこちらを睨んできて。

「……ずりぃ」
「え?」
「雪男は、ずるい!」

ずるい!とふてくされたような顔をしてそう連呼する兄さん。何がなんだか分からずに目を白黒させていると、兄さんは唇を尖らせたままベッドを叩いていた。

「雪男は、ずるい。ずるくて、卑怯だ!」
「ちょ、兄さん、落ち着いて……!」

ばたばたと暴れだし始めた兄さんに、僕は慌ててその肩を掴んだ。すると、ぐす、と鼻を啜る音が聞こえてきて、ぎょっとする。顔を見ようと覗き込めば、見んな!と腕で隠されてしまって。
僕はとっさに兄さんの両腕を掴んだ。兄さんは暴れるのを止めて、だらりと俯いていた。

「兄さ、」
「………―――こわかった」

ぽつり、と呟く兄さんに、ハッと目を見開く。ずず、と鼻水を啜って、涙声になりながら、兄さんはぽつりぽつりと話始めた。

「怖かった。お前が俺を裏切ったって聞いたときも、お前の姿をしたペテロに刀を振り下ろしたときも、ずっと、ほんとは、こわかった」
「兄さん」
「ペテロが……お前を消すために、悪魔を差し向けたって聞いたときも……すぐにでも助けに行きたいって思った。だけどお前は無事で……、三年前には持ってなかった銃なんて持ってて……。何だよって思った。お前も、俺に、いえないことあるんだなって……。だけどっ、でも……!」

……―――こうして俺の傍にいてくれるだけで、それでいいと思わせるお前が、ずるい。

搾り出すようなそのか細い声に堪らなくなって、そっと、兄さんの頬に手を伸ばした。覗き込んだ兄さんの瞳は綺麗な雫で揺らいでいて、とても綺麗だった。

「僕はね、兄さん。ずっと兄さんの傍にいるよ」
「っ、ずるい」
「うん。そうだよ、僕は、ずるいよ」
「や、柳とか、可愛い女の子、お前の回りにたくさんいるのに」
「……それでも、兄さんが大事だから」
「っ、ほんと、お前はばかだよ……」

小さく悪態をつく兄さんに、そうだよ、と僕は笑う。
だって僕は決めたんだ。ずっと兄さんの傍に居て、兄さんのことを守ると。
もう二度と、離れ離れにならないように。

「ゆきお、おれ………、」

ゆら、と兄さんの瞳が、甘く揺れる。見たことのないその色に、どきり、とする。少し赤らんだ目元だとか、そんなところに目がいって、離せなくて。どく、と心臓の高鳴りがうるさい。

「にい、さん……?」
「ゆき、………おれ、……っ、おまえのこと……―――」

震える唇が、次の言葉を紡ごうとした、そのとき。

『お前ら、ちょ、押すなって!今、めっちゃ若さんいいとこなんやから!』
『そんなこと言って!さっきから一番前を独占してるじゃないの!いい加減代わりなさいよ!』
『そうだよ!若の可愛い顔、ボクも見たい!』
『……皆さん……邪魔です……写真……撮れません………』
『止めないか。こんなこと、若君が知ったら……』
『そんなこと言いながら、一番悔しそうなのは兄上ではありませんか?』
『ッ、そ、そんなことはない!俺は若君が幸せならそれで……!それを言うならお前もだろう、アスタロト!』
『違います!俺は本当に若君が幸せならと思っています!』
『……お前ら人の部屋の前で、よぉそんな大声で喋れるな。もう中の奥村たちに気づかれとるんやないの?』
『あ!祓魔師!いつの間に……!』
『さっきからおったんやけど……?あんたらが奥村君たちの部屋の前で山になってる辺りから』
『っ!ば、馬鹿な……!我らが祓魔師風情に気づかぬとは……!』


「馬鹿は、君たちの方だと思うけど………?」


がちゃ、と扉を開ければ、扉の前で山になっている上級悪魔たちと、勝呂君と志摩君。どうやら扉の前で覗いていたらしい彼らに、僕はにっこりと微笑んだ。

「随分と大所帯じゃありませんか。よっぽど虚無界は暇なのですね、皆さん」
『あ、あはは、若さんの弟君も言うようになったやないの』
『なんだよ!文句あるの!?』
「えぇ、そりゃあもう。たっぷりと」

バチバチと火花を散らせる僕とベルゼブブ。その横でイブリースは空笑いをしていたし、アザゼルはカメラを懐に素早く仕舞っていた。アリトンはごめんなさいね、とまったく反省している様子もなく笑っていた。
僕はせっかくの雰囲気を台無しにされた恨みもあって、懐に仕舞っていた銃を抜いた。

「まぁ、せっかくいらっしゃったんですし、相手してもらいましょうか」
『上等!若の弟だからって手加減しないんだから!』

ベルゼブブの好戦的な目がこちらを射抜くと同時、僕は銃を放っていた。





「………あーあ……。結局はこうなっちゃったな……」

俺は呆然と、銃をぶっ放す雪男を見送って、小さく苦笑をもらす。するといつの間にか近くにいたレンが、すまなさそうな顔をしていた。

『すみません、若君。お邪魔をしてしまいまして』
「いや、いいんだよ。これはこれで、さ」
『……若君……』
「それに………、俺は謝らなきゃならないことがあるんだよ、お前に」
『俺に、ですか?』
「そ。……実はさ、テトスと約束したんだ。今回のことが終わったら、レンとアトを俺から解放するって。それなのに、結局テトスにお前たちのことを返せなかったから」
『……テトス本人は、何と?』
「………「兄さんたちはそれを望んでいないだろうから」ってさ。アイツ、急に大人びてきやがってさ。俺のほうが、ダダをこねてるガキみたいだよ」
『そう、ですか。……でも、俺は嬉しかったですよ』
「え?」

きょとん、とレンを見上げると、レンは少し照れたように微笑んでいた。

『貴方に必要とされていると、そう実感できて。とても嬉しかったです』
「……そっか」
『それに、貴方はいつも我慢しすぎなのです。少しわがままになったくらいが丁度いいのですよ』
「そうかなぁ……」

雪男が居て、仲間がいて、そして、配下の悪魔たちがいて。
俺はもう十分、わがままを言っているような気がするのに。
俺がそう言えば、レンはそうかもしれませんね、と笑っていた。


レンの言いたいことは、よく分からないけれど。
でも、俺はきっと、これからもこうやって皆に支えられながら、生きていくのだと思う。
大切な人たちを守るために。大切な人たちと、笑っていられるように。

なぁ、雪男。
さっき言えなかった言葉、いつかきっと、ちゃんと聞いてくれよな?

雪男。俺は、お前のことが…………――――。































白い病室の中、彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。その両手には包帯が巻かれていたが、彼女はそれをとても大切なもののように撫でていた。
こんこん、と病室の扉を叩く音がした。彼女は、やはり窓の外を眺めているだけで、返事もしなかった。まるで、誰かを待っているかのように。
客人は、ゆっくりと病室に入ってきた。窓の外ばかりを眺める彼女に気にする様子もなく。
そして彼女に近づくと、そっと、持っていた花束を机の上に置いた。

「………すきな、ひとがいるの」

ぽつり、と彼女が呟いた。誰にともなく、囁くように。

「彼はいつだって優しかった。人ではない私に対しても、対等に扱ってくれた。彼の、優しい笑顔が好きだった。とても、とても、好きだった」
「……―――」
「でも、彼は、他に愛してる人がいた。その人に向ける瞳は、とても甘くて、優しくて。だから、そんな目を向けられる人が、羨ましくて仕方なかった。……いっそ、殺してしまいたいと思うほどに」

彼女の声が震えた。頑なに窓の外を見るその肩が、震えていた。

「こんなにすきなのに、愛してるのに、どうして私じゃないんだろうって。どうしてアイツなんだろうって。ずっと、そんなことばかり考えてた」

やがて、彼女の震えが大きくなり、それはやがて、哄笑へと変わった。

「そうして彼は、私に銃口を向けた……!アイツを守るために……!でも、それでもいいの。この傷は………彼が残してくれたものだから……!」

彼女は包帯の巻かれた手を、いとおしむように頬づりをした。そのとき。

「………―――、僕は、貴女を妹のように思っていました。大切な家族のように、思っていました」

客人の言葉は、笑う彼女に届いただろうか。
ただ、両手に頬を寄せる彼女の瞳からは、とめどなく涙が零れ落ちていた。
客人は机に置いた花束の上にそっとハンカチを置くと、そのまま黙って病室を後にした。

残されたのは、綺麗な花束とハンカチと、そして、優しくも残酷な、彼女に対する彼なりの答えだった。











「全くもって、理解しがたいな人間とは」

呆れたような、それでいて淡々とした口調で、「彼」は呟いた。眼下には、仲間に囲まれて無邪気に笑う一人の青年がいる。
「彼」は青年を見下ろして、ふ、と微笑んだ。

「今はそうして、笑っているといいさ。でもいずれ、キミは思い知ることになる。キミが犯した罪は、早々消えるものではないと」

クスクス、と楽しげに「彼」は笑う。そして、背後を振り返った。そこには、一人の男が「彼」に向かって頭を垂れていた。
男は純白の服が汚れることもかまわずに、「彼」に向かって下げていた剣を捧げた。「彼」は剣を一瞥した後に、ゆるりと微笑んだ。

「………私が授けた剣を、大事に使ってくれているようで嬉しいよ。我が天使」
「当然です。主から頂いたこの剣を、蔑ろにするなどありえません」
「ふふ、さすがは、私の可愛い天使だ」

「彼」は満足そうに男の答えを聞いた後、再び眼下を見下ろした。

「「青い夜の子」は失敗したが、まだ手は残っている。私から愛しい主を奪った幼王には、もっともっと苦しんでもらわねばならない」

そう、復讐はまだ、終わらない。

「さぁ、もうすぐ時は満ちる。その時まで、せいぜい幸せを噛み締めているがいい」

「彼」は笑いながら、ふ、と姿を消した。その場に残されたのは、真っ白な純白の羽だけだった。




「………ッ!」

ハッと視線を感じて顔を上げる。窓の外から誰かがこちらを見ていたような気がしたけれど、そこにあるのはただただ青い空だけだった。

「兄さん、どうかしたの?」
「………いや、なんでもない……」

不思議そうな雪男に笑いかけながらも、じっとりと手のひらには汗が滲んでいた。
気のせいだと思うには、覚えのありすぎる気配と、視線。
まさか、と思いながらも、拭いきれない、不安。

カタ、と震える手のひらを押さえつけながら、ぽつり、とその不安の名を、呟いていた。





「…………――――――――ルシファー」






照り付ける夏の暑い日。
激しい夏が、始まろうとしていた。







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