愛してる、の所在




七月下旬、俺はレンの背に乗って、眼前にいるバハムートを睨む。
バハムートは翼を斬られたことで錯乱しているのか、しきりに咆哮を上げていた。まるで、痛い、と訴えているかのように。
俺はその悲鳴を聞きながら、そっと目を閉じる。握り締めた倶利伽羅がカチリ、と鳴く。

「レヴィアタン、アイツの頭上まで飛んでくれ。一気に、カタをつける」
『……―――』

 ちらり、と青い瞳がこちらを見る。心配そうなその瞳に俺はニッと笑って、ポンポンとその体を叩いた。

「大丈夫。力を抑えられてるからって、全く使えないわけじゃないんだ。上級悪魔ごときにやられるような、じゃない。お前らと喧嘩してた時のほうが、死ぬかと思ったくらいだしな」

小さく笑いながらそう言えば、きゅう、とレヴィアタンが一つ鳴いた。そうですね、と言っているのだろうか。その水色の目は、ゆるりと緩んでいた。
そのままバサリと大きくバハムートの遥か上空へと飛翔する。

ギアアアアアアアアアア!

バハムートが咆哮を上げる。俺たちに気づいた様子はない。

「さぁ、終わろう……―――!」

しゃあ、ん!と倶利伽羅が鳴く。青い炎が刀の上を滑る。そしてそれは大きくなり、炎は大剣へと姿を変える。
刀の柄を握り締め、そして……――――。

「うぉおおおおおお!」

レヴィアタンの上から、飛び降りた。

風を切る音が耳に鳴り響く。落下する速度は徐々に速くなり、バハムートがこちらを見上げた。
……―――ユダ……!
その深緑色の瞳と、目が、合って。

俺は、刀を振り上げる。
その刀が、バハムートへと振り下げた、その、時。

「………――――、     」

何か、耳元で声が聞こえたような気がした。それは風の音に混じって、よく聞こえなかったけれど。俺は一度目を閉じて、そして、ぐっと、力を込めて刀を薙いだ。

キィン、と耳鳴りのような音が、響いて。

ギィ嗚呼アアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!

獣が咆哮を上げる。青い炎に包まれて。そしてその声は徐々に力をなくして、やがて灰となって風に飛ばされていった。
さらさらと飛んでいく灰は、降りた帳の中へと消えて、見えなくなった。

「………ユダ」

俺はソレを見届けて、そっと目を閉じた。何度も見てきたはずの光景なのに、いつも慣れない。
落ちていく俺の体を、レヴィアタンが受け止める。ひゅう、と上空へと翼を広げるレヴィアタンの体に、ぎゅっとしがみつく。
レヴィアタンはそのまま、柳やネビロスのいる元の屋上へと飛んだ。ネビロスは俺に気づくと、一つ頷いた。どうやら、柳は大丈夫のようだ。
ネビロスに頷き返しつつ、俺はレヴィアタンから飛び降りた。真っ直ぐに彼を見上げると、レヴィアタンは俺の前に首を下げた。

「………なぁ、レン」

そっと近づいて、額をレンの額に押し付けながら、俺はぽつりと呟く。

「俺さ、ユダと対決したとき、ほんとは、ユダを殺すつもりなんてなかった。アイツを殺すふりをして、アイツの中にある悪魔の力を奪おうって思ってた」
『……―――』
「お前とも、約束したよな?ユダを殺さないって、絶対、お前たちの兄弟は守るって。………でも、俺は……うそつきだからさ。……………ッ、あの約束も、嘘になっちまった」
『………』
「……―――ごめんな、レン」

ユダを、救えなかった。

そう言えば、レンは黙ったまま、そっとその青い瞳を伏せた。俺も、それ以上は何も言わなかった。
救えない、命がある。
救えなかった、命があった。
誰でも救える力を、持っているはずなのに。俺はいつも、間に合わない。

俺はただ……―――。

「誰かを守りたいだけなのに、な……」

上手くいかねぇや、と少し引きつりながらも笑えば、レヴィアタンの体がカッと光を帯びた。それはやがて、人の姿へと変化する。彼はあの怖いくらいに真っ直ぐな目で、俺を見下ろしていた。

「夜………ッ」

夜羽、と彼の名を呼ぼうとして、その手が俺の頬へと伸びた。そのままじっとこちらを見下ろした水色の瞳が、ゆらりと揺らいで。
つ、とその頬に、綺麗な雫が一つ、零れた。

「アンタは、いつだってそうだ。誰かのために力を使って、誰かのために泣くんだ。だから、アンタのために、今度は俺が泣く番だ」
「夜羽……」
「ユダのことは………、正直、俺は最初から諦めていた。アイツの恨みは深い。それを取り除くのは、不可能だと。それでも、アンタは戦ってくれた。諦めないと、言ってくれた。それだけで、十分だ」
「………ッ」
「ありがとう、燐。「青い夜の子」の長男として、礼を言う」

救ってくれて、ありがとう、と。
夜羽は笑う。泣きながら、それでも。
俺は息を詰めて、首を横に振った。礼を言われることをした覚えがないのだ。俺は自分にできることを、しただけで。
そう言えば、夜羽は小さく笑って、そうだな、と返した。俺もそれに笑い返していると、突然、横から突撃してきたアトにぎゅうぎゅうに抱きつかれた。

「そうだよ、兄さん」

ぐす、と泣きながらそう言ったアトを見下ろして、ぎょっとする。長い爪も牙もないソイツは、紛れもなく………―――。

「琉乎……ッ、お前……!」
「兄さんは、俺たちのために頑張ってくれた。いつだってそうだった。だから兄さん……ごめん、なんて言わないで」
「琉乎………、でも、俺は………」

かつて、自分の考えなしの言葉で、琉乎を、アトを苦しめた。それは今も続いていて、彼が俺を「兄さん」と呼ぶのが、その証拠だ。

………じゃあ、俺を「兄さん」って呼べばいいさ。

あの時、どうしてそう言ってしまったのか。自分でも嫌気が差してしまう。俺は弱くて、その弱さゆえに、琉乎を『雪男の身代わり』にしてしまった。
そのことを、彼自身、気づいていたはずなのに、それでも笑って、「兄さん」と俺を呼ぶ。
そう呼ばれるたびに生まれる罪悪感。だけど同時に、嬉しいと思ってしまう、卑怯な自分。
俺は、「兄」としても、「王」としても失格だ。そう言えば、琉乎はふるふると首を横に振った。

「居場所のなかった俺に、初めて居場所をくれたのは「兄さん」だよ。あの時言ってくれた言葉が、どれほど嬉しかったか。そして、兄弟を捨て、人間を捨てた俺を……『「腐の王」として認めてくれたのも、貴方でした』」

群青色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。
鋭い牙と、爪を持つ悪魔。「腐の王」アスタロトがそこにはいて。
彼は、すっと俺の前に膝を付いた。同時に、レンも同じように膝を付いて、頭を垂れていた。

『俺たちは、貴方だから仕えた。貴方だから、許すこともできた。…………それはこれからだって変わらないのです』
『だからどうか………―――、後悔をしないで下さい。いつでも前を向いて歩く貴方の背中を、俺たちはずっと、お守り致しますから』

二人は、顔を上げなかった。ただ、俺の前に膝を付いて、そう言った。
その真摯な姿に、俺は目尻が熱くなるのを感じた。だけど、それを堪えて、ぐっと顔を上げる。

「『腐の王』アスタロト」
『はい』
「『蛟の王』レヴィアタン」
『はい』


「……―――、これからも、俺の傍にいてくれ」


『……―――それが、貴方のご命令とあれば』
『必ずや、成してみせましょう』

自信満々に言い切った二人に、俺は耐え切れず、一つ、涙を零した。
だけどすぐに顔を上げて、ニッと笑う。

「ほんと、俺はいい配下を持ったよ」

自分には、もったいないくらいだ。そう言えば、初めて二人が笑みを零した。
その時。

『………―――私からも、お礼を言わせて下さい』

ぽつり、と聞こえた声に、ハッと目を見開く。聞き覚えのあるその声は、俺の心臓をぎゅっと掴んだ。
儚くて、それでも優しい声。いつだって兄妹たちの身を案じ、優しく微笑んでいた、彼女。

「……―――ミカ」

「青い夜の子」ミカがそこにはいた。
ネビロスの傍には柳が眠っていて、どうやら魂の切り離しに成功したようだ。
魂だけとなったミカは、向こうが透けて見えるほど存在が希薄だったが、ちゃんとその姿がオレの目には映った。
俗に言う、ゴーストの状態なのだろう。

柔らかな茶色の長い髪を揺らして、彼女は微笑む。

『………王様、お久しぶりです』
「………ッあぁ、久しぶり。ミカ」

彼女はいつものように、そう言った。だから俺も、いつものように、そう返した。

『兄妹たちが、随分と貴方にご迷惑をお掛けしたみたいで……。本当に、申し訳ありません』
「いいや。俺は、何もできなかったよ。みんなの力があったから、俺は今までやってこれたんだ」
『それも、貴方のお力ですよ。………ふふ、夜羽や琉乎が懐くはずだわ』

小さく声を上げて笑ったミカは、レンを見、アトを見、そして、眠っている柳を見た。

『彼女も、本当はただ、居場所が欲しかっただけなのです。私も……覚えのある想いだから、分かるのです。私があの人を愛していたように、彼女も、愛している人がいた。その人を守るために、貴方とあの人に、銃を向けたのです』
「……あぁ、分かってるよ」

柳が、愛している人。
ミカが、愛していた人。

かつてミカがそうしたように、柳もまた、愛する人の為に俺を殺そうとした。
なんていう因果だろうか。俺は少し、不思議な気分になった。

『……貴方は、私に言いました。力になれなくて、ごめん、と。ですが私も、貴方に言いたいことがあったのです。………あの時、言えなかった言葉が』

ミカは、そこで言葉を切った。そして。

『私の方こそ、騙してごめんなさい。………そして、救ってくれてありがとう、と』

「……ッ、ミカ……!」

『もうずっと前から、私たちは貴方に救われていたんですよ』

知らなかったでしょう?と彼女は笑った。今まで見てきた中で、一番、綺麗な笑顔で。
そして彼女は空を見上げる。夜の闇の中、綺麗な月が昇る空を。

『私も、もう行かなければ。あの人が、待ってる』

ゆるりと細めた目は、愛しさに満ちていた。きっと、先に行ってしまった人を、想っているのだろう。

「あぁ……。きっとアイツも、お前を待ってる」
『……そうですね』

ふふ、と笑った彼女は、スッと目を閉じた。それに応じて、彼女の姿が光の粒となって風に流されていく。

さよなら、と彼女の唇が動いた。
ありがとう、と俺は声に出さずにそう言った。

どちらも音にはならなかったけれど、確かに、お互いに届いたのを、俺は感じた。


夜が満ちる。
そして、青い夜が、終わりを告げた。






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