アオハルのにおい 3




練習するのはいいかもしれないが、ちゃんと周囲を見なさい、とか。たぶん、そんなことを言われた気がする。話の途中で、教頭のヅラが綺麗に澤村主将の頭に着地した『あの事件』を思い出して、吹きだしそうになるのを堪えるのに必死で、あまり内容は覚えていない。隣で日向も小さく肩を震わせていたから、たぶん、アイツも笑えるのを堪えてた。
教頭も話しながらあのできごとを思い出したのか、苦々しく顔をしかめて、次からは注意するように、と締めくくった。早々に職員室を立ち去って、二人並んで廊下を歩く。しばらくの沈黙の、あと。耐えきれずに日向がぶはっと盛大に噴き出した。

「っはは! 次からは注意するように、だってさ! 教頭もヅラ注意しとかないとな!」
「おい日向、声がでけぇって」
「いーじゃん。皆気付いてるって。あーあ、でも、昼休み終わっちゃったなー。もっと練習したかったのに」

ぶつぶつと唇を尖らせて、日向は大きく伸びをした。さっき職員室を出るときにちらっと見た時計は、昼休みが終わる十分前を告げていたのを思い出す。今日の昼休みのほとんどは、教頭の説教で終わってしまったようだ。

「別に、放課後も練習できるからいいだろ」
「そうなんだけどさ。なんていうか、こう、いっぱい練習しても、もっともっと練習したいって思うんだよな。いっぱい練習して、今よりもっと強くなって、そしたら、もっと試合ができる。たくさん、コートにいられる」
「……」
「コートの上にいられるのは強い奴だけ、なんだろ?」

な? と日向は楽しそうに笑う。得意げな顔に、当たり前だろボゲ、と返す。強い奴がコートに残る。弱い奴は去るしかない。コートに残るためには、強くなる以外に方法はない。
何を今さら、と少し呆れて、けど、なんだが心の奥がむずむずした。込み上げてくる感情がよく分からなくて、首を傾げた。うれしい、とは、少し違う。だけど、それ以外に上手い言葉が見つからない。うれしい、のか。俺は。何に対して? ……やっぱり、よく分からない。
ただ、楽しそうな日向のつむじを見ていると、むずむずとした胸の疼きは強くなる一方で、俺は目を逸らした。

「強く、なりてーな」

もっと、もっと強く。
心の底から吐き出された日向の声は、低く耳に響いた。俺はハッとして、日向を見下ろす。相変らず大きな瞳で前を見つめていて、その横顔にはいつも通りに見えた。
でも、いま。俺は確かに感じた。日向の、時折見せる、ピンと張り詰めるような、静電気のような、ゾッとするほどの威圧感。圧倒的な、ケモノの匂い。貪欲に獲物を貪る、ケモノのそれを。
俺は一瞬、息を忘れて。

「………おう」

言葉を返す。そうだな、と。
強くなりたい。もっと。その気持ちは俺の方が強い。お前なんかより、ずっと。たぶん。きっと。そう言えば、日向は何故か嬉しそうに笑った。おんなじじゃん、と。
全然ちげぇし。俺の方が強いって言ってんだろ。抗議したら、おれの方が強いし! と強気に言い返されて、結局、いつもの口喧嘩になってしまった。
歩きながらぎゃあぎゃあと言い争っていたら、いつものように白熱しすぎて、俺は周囲を見る余裕なんてなくなっていた。

「このっ、クソボゲっ!」
「っきゃっ」

いつものように日向の頭を掴もうと右手を振り上げたら、その手に柔らかい感触がした。え、と右を見た瞬間、驚いたように目を見開いた見知らぬ女子生徒が、ぐらりと体勢を崩した。その先は、階段で。目が合ったままの彼女の体が、わずかに宙を浮いた。
あ、落ちる。
茫然と、瞬間的に脳裏にその言葉が浮かんだ、瞬間。

「っ、危ないっ!」

目の前を翻る、橙。風を切る音がして、日向が彼女の腕を引く。ぐんっと強く腕を引かれた彼女は、同じ背丈ほどの日向の肩にぶつかるようにして倒れこんだ。

「っあっぶねー。……だいじょうぶ?」

二人して尻餅を付いたまま、日向は彼女の背中をさすった。日向の肩に顔をうずめたままの彼女は、自分に何が起きたのか理解するのに時間がかかっているのか、ゆっくりと小さく頷いていた。日向はそんな彼女を宥めるように、背中をさすってやっている。

「怪我とかしてない?」

ゆっくりと問いかける日向に、徐々に落ち着いてきたのか、彼女がしっかりとした動きで頭を横に振った。だいじょうぶ、と少し震えてはいるが、返事が返って来た。おずおずといった様子で肩から顔を上げた彼女に、日向はニッと笑った。

「ん、大丈夫そうだね! よかった!」

晴れやかな太陽のような、日向の笑み。彼女はどこか夢を見ているかのような顔で、日向の顔をじっと見ていた。その顔に、じり、と胸の奥が痛む。? なんだ、これ。さっきと、全然ちがう。さっきのはむずむずして、けど嫌じゃなかったのに。今のは、なんか、いやだ。
よく分からなくて首を傾げていると、立てる? と日向は彼女の手を引いて立たせてやった。立ち上がった彼女は、日向よりも少し身長が高いようで、並ぶと目線が違っていた。日向が手を引いている間も彼女は茫としていて、その顔に、また、胸が痛んだ。
日向は彼女の様子に気づいていないのか、ぱんっと勢いよく両手を合わせた。

「ごめんな! おれたち、夢中になっててさ。ほら! 影山もちゃんと謝れよ」
「……わるい」
「え、あ、うん……」

彼女は。
謝った俺に見向きもしないで、ずっと日向の方ばかり見ていた。瞬きをするたびに音がしそうなほど長い睫を震わせて、大きな瞳でじっと日向を見ている。その白い頬がわずかに赤く染まっていて、俺は思わず目を逸らしたくなった。
……、どうして? なんでこんなに、目を逸らしたくなる?

「ざっと見、怪我とかしてなさそうだけど、もしどっか痛いとこあったら言って? おれ、保健室までつきあう、」
「………が、……です」
「え? ごめん、よく聞こえなかったんだけど、もしかしてどっか痛いの?」
「………、」

こくん、と小さな頭が動く。柔らかそうな栗色の髪が揺れて、俺は妙な胸のざわつきを覚えた。
なにか、いやな、よかんが。

「えぇっ、ほんとに? どっ、どこ? どこがいたいの?」

日向がぎょっとして、彼女の全身をじろじろと上から下まで見た。だが、俺から見ても怪我をしているようなところはどこにも見当たらない。日向もそれに気付いたのか、あれ? と首を傾げていた。マジマジと彼女を見ると、当人は両手を胸の前に持っていくと、惚けたような顔で。

「………むねが、いたい、です」
「っ、むっ、」

ぼんっと日向の顔が真っ赤に染まる。むね。胸。何度か口の中で転がして、慌てて、保健室! と叫んでいた。

「とっ、とにかく! 早く、はやく保健室行こう! 先生に診てもらわないと!」
「あ、あのっ、そうじゃ……なくて………、怪我、とかじゃないんです……」
「? 怪我じゃない? え、じゃあ……?」

一体、なんだというのか。
俺も分からなくて首を傾げていたら。彼女はそのピンク色の唇から小さな吐息を吐いて、苦しそうに大きな瞳を潤ませていた。困惑に日向と二人で顔を見合わせていたら、彼女がきゅっと制服の胸元を握り締めて。

「胸の奥がドキドキして、熱くて、苦しいんです。これは俗に言う、恋、なのでしょうか?」

え。

…………なんだって?

こい。鯉。濃い、故意、KOI。俺の頭の中で、パソコンのキーボード並みの変換が行われた。
来い。…………、恋?
だれが、だれに?

「よく分からないけれど、でも、貴方を見ていたら、すごく、胸が苦しい……」

これが恋なのでしょうか、と彼女は日向を見てそう言う。
ぽかん、と呆気に取られた顔で、大口を空けたまま惚けていた日向は、震える手で自分を指さした。信じられない、とばかりに大きく目を見開いて。

「……―――、おれ?」

瞬間。
日向の言葉を肯定するかのように、昼休み終了のチャイムが鳴った。





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