犬と黄昏 壱   前




雪ヶ丘町の外れに、小さな神社がある。名を烏野神社。古ぼけた境内は傾いていて、今にも崩れてしまいそうなほど廃れた神社だ。手入れがされていないのか、いたるところにコケや雑草が生えていて、そんじょそこらの廃墟とは年季の入り具合が違う。
そんな、くだびれきって人も来ないような神社に、しかし人影が一つ。ふわふわの橙色の髪に、赤の単、白の狩衣、白の袴を身に着けた小柄の少年だ。その頭には、髪と同じ色の耳が生えていて、尻にはふわふわの尻尾が生えている。
彼はその橙色の大きな瞳をきょろきょろと忙しなく動かして、そわそわと落ち着かない様子だ。

『まだかなー、まだかなー』

そわそわうろうろきょろきょろ。とにかく落ち着きのない橙色の少年は、しかし次の瞬間、ハッと顔を上げた。ひくん、と鼻を鳴らして、ピン! と耳を立てると、パッと鳥居の方へ駆け出す。その先には、一人の少年の姿がある。

『かげやまー!』

橙色の少年は、ぴょんと軽快な足取りで、やってきた少年に飛びつこうとした。突然飛んできた少年に、彼、影山はぎょっと驚いて、慌てて後ろに飛び退いた。瞬間、飛びつきに失敗した少年が、ころころと地面に転がる。

『ぎゃぅ!』
「あ、わりぃ」
『ひっ、ひどいよ! 避けるなんて!』

勢いを殺して起き上がった少年は、きゃんきゃんと影山を非難する。影山も、自分が避けたせいだと分かっていたので、素直に謝った。影山が殊更な態度を取ったので、橙色の少年は得意げにふふん、と胸を張る。

『よーし、許してやらないこともない!』
「…………」
『ちょ、ちょ、耳! 耳持たないで!』

自分よりも背が高く、体格もいい影山に耳を引っ張られて、橙色の少年は再び非難の声を上げる。耳は少年の弱い部分の一つで、触られると力が抜けてしまうのだ。
やだやだ、と頭を振ってどうにか影山の手から逃れると、キッと睨みつける。

『耳はやだって言ってるじゃん! なんでいっつも耳持つのっ!』
「そう怒鳴(ほえ)るなって、ほら、これやるから」

これ、と言いながら影山が取り出したのは、オレンジ色の丸いボール。それを見て、少年、日向はパッと目を輝かせる。

『ボールっ! ボールだっ! ボールくれっ!』

ぴょんぴょんと飛んで催促すれば、影山は苦笑しながら、ころころとボールを地面に転がした。日向はそのボールを、嬉々として追いかける。つるつるとした感触の、ぶにぶにのボール。日向はボールが大好きだ。だからいつだって、ボールを持ってきてくれる影山を心待ちにしている。でも、影山が来てくれるのは、いつも太陽が七回上る内の一回だけ。それも、七回目の太陽が落ちようとしている、黄昏時にしか来てくれない。ずっと待っているのに、影山は短い間にしかボールを持ってきてくれないので、日向はそのことに少し不満を持っていた。

『なぁなぁ! なんで七回の内、一回しか来てくんねーの? もっとおれ、ボールで遊びたい!』
「はぁ………ったく、お前は呑気そうでいいよな」
『なんだと! おれだっていろいろ忙しいんだぞ! ばかにすんな!』

ぴん、と尻尾を立てて抗議する。そう、日向だって忙しいのだ。毎日、古ぼけた神社の掃除をしたり、草むしりしたり、時々寄ってくれる猫のじいちゃんとかに挨拶したり、とにかく影山が来ない日はずっとずっと忙しい。
それなのに、呑気そうって失礼だ! そう言えば、影山は境内の階段に座って、ふーっと息を付いていた。大きく肩を落として、体育座りしたまま動かなくなってしまった。

『かげやま?』

そーっと近づいてみるけど、反応がない。ときどき、影山はこんな風になる。というか、日向の前では結構、なる。日向が何を言っても、ボールを投げてって強請っても、全然動かなくなってしまうのだ。
だから日向は、影山がこんな風になったときは、黙ってその隣に座ることにしている。

『……………』
「……………」

黙ったまま、時間が過ぎる。ボールで遊ぶのもすきだけど、こうして影山の隣に座って過ごすことが、日向は最近すきになってきていた。
そっと、隣から伝わるあったかな温もり。独りでは絶対に感じられない、ほかほかとした気持ち。
影山も、こんな気持ちになってくれてると、いいなぁ。
日向は落ちる太陽を見つめて、そっと目を細める。隣にいる影山の気配は、なんだか泣いているような気がして、しくり、と胸が痛む。
大丈夫だよ、おれが居るよ。その想いをこめて、日向はそっと影山にすり寄った。

 ……………―――夕方の太陽に照らされて、伸びた影が、二つ。ひとつは人間の、そしてもうひとつは、小さな犬の影が、そっと人間の影に寄り添っていた。



狛(コマイヌ)、と呼ばれる種族がいる。狛は、天照大神に仕える神官の、下の下の下の下の、そのまた下、くらいの、出仕、と呼ばれる階級にある種族だ。そしてその狛の一匹が、日向だ。日向は出仕にもなりたての見習い狛で、この古ぼけた烏野神社の雑用を任されている。
ちなみに、この神社の宮司である鳥養は、同じ雪ヶ丘町にある別の神社の宮司に一目ぼれしたらしく、現在地道にアタックをしているところで、太陽が十回上る内の一回しか帰って来ない。
ショクムホーキだ! と抗議してみたけれど、影山と一緒にボールで遊んでいるところを見られてしまって以降、日向は烏養と二人で協定を結んでいる。
本来、狛と人間は関わってはいけない決まりだ。種族も違うし、出仕とはいえ神に仕える神使
である以上、人間との接触は極力してはいけない。だけど日向は影山の持ってくるボールは大好きだし、影山も、いじわるだし怒ると怖いけど、好きだ。
だから、協定を結んだ。烏養がいない間神社を管理する代わりに、影山と会うことを許す。
ぎぶあんどていく、って奴だって、烏養は言っていたけど、ぎぶあんどていくってなんだろう。
日向は首を傾げたものの、影山と会うことは許されたので、それでいいか、とそれ以上のことは考えないようにした。

『影山、今日は来るかなぁ』

神社の掃き掃除をしながら、日向はぼんやりと空を見上げる。前に影山が来たのは、と指折り数えて、今日で四日目だということに気付いて、がっくりと肩を落とす。まだあと、三日もある。

『ちぇー、つまんないの』

ふてくされつつ、さっさと掃除を済ませてしまおうと箒を持つ手に力を込めていると、神社の入り口の方から、覚えのある匂いがした。この、甘ったるい匂いは………。

『へぇ、相変わらず汚い社だね。よくここで働けるよね、チビすけ』
『チビ言うな!』

ふーっと尻尾を立てて威嚇するものの、やって来た長身の少年はどこ吹く風だ。むむむ、と日向は少年を睨み上げる。
日向と同じ、赤の単、白の狩衣、しかし袴の色だけが違って、浅黄色の袴を身に着けた、黒縁眼鏡の少年だ。名前は、月島。日向と同じ狛だが、階級は日向の一コ上。権禰宜と呼ばれる階級で、天照大神が住まわれている高天原で仕事をしている。主に、地方の神社の管理をしている宮司と高天原との連絡係として動いていて、ときどき、日向のいる烏野神社にやって来ていた。だけどそのたびに『チビ』だとか嫌味を言ってくるので、日向は月島のことが少し苦手というか、ぶっちゃけ嫌いだった。

『何しに来たんだよ! おれ、掃除に忙しいの!』
『まぁまぁ、そう邪険にしないでよ。今回は用事があって来たんだからさ。………んで、烏養宮司は?』
『…………いま出かけてる』
『またか………』

はぁ、とため息を漏らした月島は、その色素の抜けた髪を掻いた。困ったな、と眉間に皺を寄せていて、珍しい月島の表情に、日向はマジマジと見上げる。すると、月島は日向の視線に気づいたのか、途端に不機嫌そうな顔をして。

『………なに?』
『えっ、いや、何かあったのかなーって。月島がここに来んのも珍しいけど、宮司に用があるなんてめっちゃ珍しいなって思ってさ』
『…………君は聞いてないんだ? 高天原では結構な噂になってるのに。ああ、こんな田舎じゃ無理もないか』

ぶつぶつと呟いて、再び、ため息。なんだよ、いきなり来るなり、ずっとため息ばっかり吐きやがって、と文句を言おうとしたけれど、どうにも、様子がおかしい。背筋がぞわぞわして、尻尾がむずむずする。こんな感じがしたときは、だいたい、原因は一つだ。

『…………もしかして、禍津神のこと?』
『へぇ、珍しく冴えてるね』
『珍しくは余計!』

ムッとして尻尾を膨らませれば、月島ははいはいと苦笑していた。

禍津神(マガツカミ)とは、人間の負の感情を主に主食とする鬼を総べる神のことで、天照大神とは簡単に言うと敵対関係にあった。昼の太陽を属性とする天照の対を成し、夜の月を総べる悪しき神で、日向たち神使はその禍津神が放った鬼を退治したり、祓ったりすることも仕事としている。

『禍津神の手下の一人、大武丸がここ数日、この地域で姿を現しているという情報が入ってね。だからこの辺りの社を任された宮司たちには、警戒と御祓の準備をしておくように伝達が出てるんだ。だから君んとこの宮司にも、そう伝えておいてもらえる?』
『わ、わかった………!』

ぶるぶる、と尻尾が震える。日向が神妙に頷けば、その様子を見た月島がニヤリと笑って。

『なに? もしかして、こわいの?』
『っ、こわくない!』

いくら見習いとはいえ、日向だって狛だ。鬼を相手に戦うことだって、できる。そう言えば、月島は本当かなぁ、なんていじわるを言ってくる。

『大丈夫ったら、大丈夫だもん! おれだって狛なんだ! 戦える!』
『ふぅん? なら、いいんだけどね』

とにかく、伝えたからね、と言い残して、月島は去って行った。他の神社にも伝えに行ったのだろう。いーっと舌を出して見送った日向だったが、独りになった途端、ぶるり、と全身を震わせた。ぎゅう、と箒を持つ手に、力がこもる。

『だっ、だいじょうぶ! ぜんぜんっ、こわくないし! 鬼なんてへっちゃらだもんね!』

誰もいないのに一人でそう叫んではいたが、いつもは元気な尻尾はだらりと下がっていて、強がりを言っているのはすぐに分かった。

『ぜんぜん、大丈夫。……………おれは…………』

ぽつりと呟いた日向の声は、黄昏時の神社に、虚しく響いた。



黄昏、とは。
誰(た)そ彼(かれ)は、という意味を持ち、人の見分けが付きにくい、深い暗闇を意味している。それは人を闇へと引きずり込む、ほの暗い深淵の入り口を示していて、昔はこの時間帯に外へ出歩いてはならないと言われていた。

誰(た)そ彼(かれ)は。
彼の世と此の世を繋ぐ境目が、揺らぐ時間。
伸びた影は、果たして伸ばしているのか、それとも、こちらに伸ばしているのか………―――。



人生、上手い具合にはいかない。影山は高校一年にして、そのことを骨の髄まで味わっていた。

「………くそっ!」

本当に、上手くいかない。苛立ち紛れに、影山は足元にあった石を蹴飛ばす。こん、と勢いよく飛んで行った石は、電柱に当たって固い音を立てた。
苛立っていたし、もどかしかった。影山は苛立ちのまま、盛大に舌打ちをする。

影山は、バレーがすきだった。バレーに人生を捧げていると言っても過言ではないほどに。
ボールが己の手から離れ、スパイカーの手に吸い込まれ、相手コートに消える。その一連の流れが身震いするほどに好きで、だから、そのためには勝つことが重要なのだということも、十分に理解していた。勝たなければ、試合には出れない。一つでも多くの試合で、一つでも多くのスパイクを決めた方が、勝つ。それがバレーだ。影山はそう思っている。
だから勝つためには、スパイクを決めるためには、自分の能力が必要だということも、十分に理解していた。が、影山にとって苛立たしいのは、自分の望むスパイカーが部員内にいないことだった。そしてさらに文句をつけるとするなら、影山はまだ一年で、三年の先輩にはSがいる。年功序列の気が強いスポーツにおいて、いくら実力が影山の方が上だとしても、三年のSが試合には出される。そのことが、影山の苛立ちを助長させていた。

俺だったらああする。こうする。試合を見るたびに、影山は苛立った。
なんでそこにトスを持っていく? スパイカーに合わせていては、絶対にブロックは破れない。それなのに、どうして、どうして、どうして………!

日々苛立ちの募る影山にとって、唯一のよりどころが、街の外れにある古ぼけた神社だった。あそこに行けば、アイツに会える。影山の持ってきたボールを無邪気に追いかけて、嬉しそうにするアイツ。その姿を見ていると、癒された。最近では、落ちこんでいる影山に何を思ったのか、ボール遊びを止めて、ちょこんと隣に座ってくるようになって。
動物に好かれたことのない影山は、まさかそんな近い距離に来るなんて思ってもみなくて、いつか、あのもふもふとした尻尾を触らせてもらえないだろうかと、うずうずしているところだった。
嫌がるだろうか? アイツは。でも、触ってみたい。きっと暖かくて、ふわふわして、気持ちがいいはずだから………―――。

荒んだ心が、ふっと軽くなったような気がして、笑う。
そうだ、今日は行く予定じゃなかったけど、アイツに会いに行こう。アイツのことだ、きっと姿を見つけるなり、嬉しそうに駆け寄ってきてくれるはずだ。

影山は駆け出した。
彼の足元に伸びた影が、にぃ、と嗤う。

「?」

影山は、何気なく背後を振り返った。その、瞬間。

『…………誰(た)そ彼(かれ)は………―――』

地を這うような低い声が、耳元で囁く。吐息交じりの、ねっとりとした声。ぞわり、と背筋に嫌な汗が伝った。
後ろに、誰か、いる。

『…………誰(た)そ彼(かれ)は………―――』

それは、だれ、だ?
影山はぐっと手のひらを握り締めて、勢いよく振り返った。

つづく


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