犬と黄昏 壱   後





…………なんだか今日は、いやなよかんがする。

日向は掃き掃除をしていた手を止めて、じっと空を睨んだ。
月島がやって来てから、今日で二回目の太陽が昇った。影山が来るのは、あと一回、太陽が昇った日で、つまり今日は、ここには来ない。
いつもだったら、早く来ればいいのに、と思う日向だが、今日ばかりはどうにも胸がざわついて仕方ない。尻尾はうずうずとするし、背中はぞわぞわして、妙に気が立っているのが分かる。

『いやだなぁ。今日に限って、烏養宮司はいないし………』

鳥野神社の宮司は、月島の伝言を聞いてここ数日は大人しく神社にいた。が、今日は何やら他の神社で大事な集まりがあるらしく、出かけている。すぐ帰ってくるから、とは言っていたけれど、すぐってどのくらいのすぐなのか分からないので、日向の不安は益々大きくなる。

『こういう日は、大人しくしとけって宮司が言ってたっけ』

日向は烏養の言葉を思い出して、うんうんと頷く。そうだ、こういう日は、大人しく境内の中に入って、大人しくしておこう。一度眠ってしまえば、太陽が降りてまた上る頃までぐっすりだ。そしたら、影山に会える。
そうだ、そうしよう。日向は手早く掃き掃除を済ませようと箒を握る手に力を込めた。
その、とき。

『………………ッ!』

ビリィッ、と全身の毛という毛が、総毛立った。同時に、痛いくらいの耳鳴りが、響く。

『う、うわっ…………っ』

とっさに耳を押さえて、うずくまる。その間も、肌を焼け付くようなビリビリとした威圧感を感じていて、じわり、と額に汗が浮かぶ。

『これ、は………、まさかっ…………』

押しつぶされそうな重圧に耐えながら、顔を上げる。

なにか、くる。
とてつもなく大きくて、つよい、何かが。

日向は真っ直ぐに顔を上げて、じっと、神社の入り口である鳥居の方を見た。じわり、じわりと近づいてくる何かに、ごくり、と唾を飲み込んだ。

……………ずる、
……………ずる、
……………ずる、
………………………ずる、…ずる、

何かを引きずるような、音。それはだんだん、だんだん、近づいて来て。
日向はぐっと腰を落として、足に力を込めた。そして、『ソレ』が日向の視界に入ったその瞬間、跳躍しようと踏ん張って………―――。

『え、』

止まる。
日向の目の前に現れたのは…………。

『かげや、ま…………?』

背中にどんよりとした煙のような闇を背負い、焦点の合わない目でこちらを見つめる、影山の姿だった。

『どうして影山が…………。いや、それよりっ………!』

一瞬の動揺、しかしすぐに日向は目の前の闇を睨みつけると、懐から一枚の紙を取り出した。そしてそれを右手の人差し指と中指で挟んで、パン、パン、と二拍手。手から生まれる音は結界を呼び覚まし、ぐるり、と神社を囲むようにして具現する。日向はそれを確認しつつ、スッと目を閉じると。

『………―――、高天原に神留り坐す 』

高い、日向の声がその場に響く。瞬間、カッと光を宿した紙が日向の詞(ことば)を具現化させ、浮き上がらせる。

『皇が親神漏岐神漏美の命以て八百万神等を。神集へに集へ給ひ…………―――』

す、と日向が閉じていた瞼を開く。橙色の瞳が、うっすらとした赤みを帯びて。

『今日の夕日の降の大祓に祓へ給ひ清め給ふ事を諸々聞食せと宣る ……………―――っ!』

紙を持つ日向の指先が、影山へと向けられた。直後、日向を中心に具現化した詞が、弓矢のように影山へと降り注いだ。ドドッ、と押し寄せた詞に、影山の背後の闇が一瞬たじろく。が、消えたところからまた違う闇が溢れだし、影山を覆った。

『っく、詞足らずか………っ!』

日向は舌打ちする。自分じゃ、ここまでが限界だ。直接祓うには、もっと大量の詞が必要になるが、それを使うには自分よりも階級が上であり宮司である烏養の許可が必要になる。
だとしたら、日向が取る方法はただ一つ。

『せめて、結界内に影山を連れてくることができれば………っ!』

この烏野神社は、鳥居からこちら側は結界の内側になる。結界内は全ての悪が浄化される仕組みになっていて、つまり、今の影山をこの結界内に入れることができれば、あの闇と切り離すことができる。
だが、それは影山に取り憑いている闇、…………月島の言っていた大武丸も気づいているのだろう。せっかくの餌を逃がしてなるものかと、影山を深く暗い闇で覆っている。
このままでは、影山と大武丸は完全に同化してしまう。そうなったら最後、もう二度と切り離すことはできなくなり、影山を殺さなくてはならなくなる。

そんなの、嫌だ! ぜったいに、嫌だ!

『かげやまっ!』

日向は、叫ぶ。今の全ての感情を、詞に乗せて。

『影山! 聞こえてたら返事をしろ! 影山ぁっ!』

お願い、届いて………! 日向は祈るように詞を紡いだ。そのとき、闇に包み込まれていた影山が、ふ、と顔を上げた。
目が、合う。その瞬間、影山の瞳に一瞬だけ、光が戻ったような気がして。

『かげやまっ!』

日向は手を伸ばす。影山も、つられるように手を伸ばそうとして、しかし。

『………―――させぬ』

影山の伸ばした手を覆うように、闇が溢れ出す。影山! と日向が彼の名を呼ぶが、もうその瞳には光はない。ただの虚ろな眼差しが、ぼんやりと虚空を見つめていた。
その生気のない目に、ぞわ、と日向の背筋が騒ぐ。

影山は、いつだって偉そうで、横暴だし、全然優しくないし、いやだって言うのに耳を持ってきたりして、いじわるだ。
だけど、だけど………!

『…………、はなせ』

日向の脳裏に過ぎったのは、寂しそうに俯いて小さくなる、影山の姿。我がままで、偉そうで、凶暴な、だけど、きっと誰よりも…………―――さみしがりやなひと。
だから、こんな風に闇に取り込まれて一人寂しく死なせるなんて、絶対にさせない。

『影山を、放せっ!』

日向は、影山の後ろにある闇を鋭く睨みつけた。爛、と赤みを帯びた瞳が、さらなる赤を宿す。
その瞳に、ざわ、と闇が騒ぐ。日向の内にある『何か』を感じ取って、ざわついているのだろう。

だが、もう遅い。

ぐるる、と喉が鳴る。ひどく、喉が渇く。身体中の血が騒いで、日向を囃し立てる。

…………―――、喰え、と。

その瞬間、日向の姿がその場から消え―――………。

『ぎ、ギィいいいいいい!!』

此の世のものとは思えない悲鳴が、響く。日向は鋭い牙を持って、闇に喰らい付いていた。その瞳は爛々と真っ赤な血の色に輝いており、次々に闇を喰らい尽くしていく。

『な、何故じゃ…………!』

闇、いや、大武丸は己を喰われながら、叫ぶ。

『何故、何故、ヌシがそのような姿で我を喰う!? 何故、何故じゃ……………――――――― 兄上!』

兄上、と日向をそう呼ぶ大武丸は、しかし、もはやその体は元の半分にも満たない大きさにまで減っていた。影山の心の闇を喰らい、肥大化していった大武丸だが、ここまで喰われたとなれば、此の世に姿を保つことすらできないだろう。

日向は、にぃ、と鋭い牙を見せて、笑う。

『違うよ。おれは、お前たちの兄じゃない。……………ただの、狛だよ』

最後のひとくち、とばかりに大口を開けた日向は、闇を喰らう。その瞬間、大武丸の姿は断末魔と共に、消えて。
ふ、と意識を失くした影山の身体が、力を失くしたかのように倒れ込んできて、慌てて日向はその体を支えた。

『…………ふぅ』

日向は影山の横顔を見て、そっと息をつく。額に手を伸ばして、指先から伝わる体温に、小さく笑う。いつも見ているはずの大きな体は、今はとても小さく見えて。

『かげやま……』
「ん、」

名を呼べば、うっすらと瞼が開かれた。ゆらりと揺れる黒い瞳には、一人の青年が映っていた。
橙色の髪に、真っ赤な瞳。名も知らない、だれか。だけど不思議と、知っているような気がする、誰か。だけどその名を呼ぼうとして、影山は名を知らないことに気付いた。

「…………だれ、だ…………?」

影山が、手を伸ばしてくる。日向はその手を掴んで、笑った。

『大丈夫。もう、大丈夫だよ。………―――おれが居るよ』

大丈夫、と言えば、影山は再び意識を失くしたかのように、ふっと目を閉じた。安心しきったような横顔に、日向はじっと影山の手を掴んだまま、小さく、良かった、と呟いた。


 ……………―――夕方の太陽に照らされて、伸びた影が、二つ。ひとつは人間の、そしてもうひとつは、鬼の姿をした影が、そっと寄り添っていた。



『それで? まんまと鬼に戻っちゃった間抜けなチビすけは、宮司にバレて現在謹慎処分中、ってわけね』
『いちいち言わなくてもいいじゃんか!』

むぅ、と頬を膨らませた日向は、現在鳥野神社の境内で、じっと身を潜めている。外には出られないよう、鳥養宮司が結界を張ってしまっていて、外で思いっきり跳ね回りたい日向にとっては、この謹慎は拷問のようだった。

『ひま! ひますぎる! これじゃ、影山に呑気だって言われても反論できないよ』
『いいんじゃない? 元から呑気なんだから。それに、たぶんあの人間とはもう逢えないよ。君の本来の姿、視られちゃったんでしょ?』
『…………うん』

しゅん、と尻尾が力なく垂れて、日向は肩を落とした。
あのとき、大武丸が彼の世へ消滅したとき、倒れこんだ影山の体は結界の内側にあった。結界の内部は、彼の世と同じ空間になっており、日向の姿もきっと視えていたはずだ。だから、影山も問いかけた。だれ、と。

狛は、此の世の人間からはただの犬にしか視えない。だから影山も、日向のことはただの神社に住みついている犬だとしか思っていなかったはずだ。だが、彼の世の空間に人間が迷いこむと、日向や月島の今の姿を視ることができるようになってしまうのだ。

彼の世と此の世は、交わってはならない。だが、視てしまえばその境界が揺らぎ、視た人間に悪影響を及ぼしてしまうこともある。そうならないよう、彼の世の住人は、慎重に動いてきたというのに。
月島は、深々とため息をもらす。

『ほんっと、君は色々問題起こしすぎ。だからこんな田舎の神社に追いやられたっていうのに。ちょっとは大人しくできないわけ?』
『今回のはおれのせいじゃないよ! だいたい! そっちがもっとしっかり羅生門の警備をしてないからこんなことに、』
『は? 元鬼風情が、何偉そうに言ってんの。天照大御神のおかげで生きながらえたくせに』
『…………―――』

ひやり、と温度のない月島の瞳が、日向を鋭く見下ろす。げ、不機嫌になっちゃった。日向はぶるりと体を震わせた。月島は、不機嫌になるととことん苛めてくるのだ。

『いい? 君の首にはいつだって首輪が付いてんの。それは君を絞め殺す道具にだってなるんだから、もう少し考えて行動しなよ。じゃないと本気で、いつか死ぬよ?』
『……分かってる』 

日向は神妙に頷いた。ホントに分かってるのかと言いたげな月島だが、自分の置かれた状況など、自分が一番に理解しているに決まっている。

自分は、首輪に繋がれた狛だ。天照大神に拾われて、救ってもらった。その恩は一生忘れないし、恩を返すためにこうして神社に奉公している。でも、だからこそ。

『天照大神がおれを助けてくれたみたいに、おれも、誰かを助けたいって思ったんだ』
『…………ふぅん? 筋金入りの馬鹿だね、君は』
『失礼だな! んまぁでも?』
『?』

怪訝そうな月島を、ニッと笑って見上げた。途端に嫌そうな顔をする月島に。

『なんだかんだ言って、おれのこと心配してくれてんだろ? ありがとな!』
『な、』

詞をなくす月島に満足しつつ、日向は境内の扉の隙間から外を見た。太陽は、てっぺんより少し低いところにある。その眩しさに、そっと目を細めた。

影山があれからどうなったのかは分からない。騒ぎを聞きつけて慌てて駆けつけた鳥養宮司が、しっかり日向を怒鳴りつけながらもてきぱきと対処していた。さすが、浄階として名を馳せた宮司、鳥養宮司の孫だ。

『お前のやったことは褒められたことじゃねー。けどな、神使としては立派な行いだ。………よくやったな、日向』

そう言って、くしゃりと日向の頭を撫でた鳥養は、そのまま影山に術を施した。一連の記憶を封じ、もう二度と、この神社には立ち寄らないように。日向はそれを、じっと見ていた。
後悔は、していない。影山を助ける為には仕出の自分は力不足だった。だから、『力』を使った。
そのことには一ミリも後悔はしていないが、やはり、ほんの少し、寂しいような気もして。

もう会えないんだよなぁ。ボールも、持ってきてくれないんだろうなぁ。

外を眺めながら、日向の尻尾と耳が、しゅん、と垂れる。元気のない日向の様子を、月島はじっと見下ろした。こればかりは、どうしようもないことなのだ。いくら日向が望んだところで、影山はもうここには来ない。

『日向、もう、あの人間のことは忘れたほうが……―――』

いいよ、と言おうとした月島の詞は、あっと声を上げた日向の声に掻き消された。ぴん、と耳も尻尾を立てて、日向は嬉しそうに扉の枠に手を掛けていた。何ごとだ、と月島も同じように窓の外を見やって、あ、と目を見開く。

『かげやま!』

日向が、嬉しそうにその名を呼ぶ。ゆっくりとこちらに向かって近づいて来るその姿に、月島は驚愕のあまり詞を無くしていた。
馬鹿な。あの人間は、確かに鳥養宮司が記憶を封じ、もうここには来ないように暗示を掛けたはずだ。なのに、どうして。

影山! と日向が何度でも名を呼んでいる。だが、その詞は影山には聞こえない。………はず、だった。

「うっせぇボゲ! 何度も呼ばなくても聴こえてるわボゲ!」

『へ?』
『え?』

ぽかん、と呆気に取られる日向と月島。
影山はずんずんと怖い顔をしてこちらに歩いて来る。そして、境内の階段を上って、日向の真正面までやってくると、立ち止まった。むっと唇を尖らせて、眉間に皺を寄せている。あ、これは完璧に不機嫌な顔だ。日向はおそるおそる、扉越しに影山を見上げた。

『か、かげやま、さん……? え、え、なんで? あの、もしかして、怒って、る?』
「………怒って、ねぇ」
『うっそだ! ぜってー怒ってるだろ、その顔!』
「うるせぇ! 怒ってねぇって言ってるだろ!」
『じゃあ、なんでそんな顔してんの! 怒ってるからだろっ!』
「っ、それはっ………!」

影山が、苦々しい顔をした。ほら、やっぱり怒ってんじゃん。日向はそう思ったが、なんだか苦しそうな影山に、日向の胸もきゅう、と苦しくなる。苦しくて、狩衣の胸元をぎゅっと握り締めると、影山が唇を噛み締めていて。

「俺だって、わかんねーよ。なんでこんな、ボロくせぇ神社に来ようと思ったのかとか、覚えのねぇボールを、なんでこんなに大事に鞄にしまってのかとか、………お前のことだって、全然わかんねぇよ。………けど」

影山は、ぱっと顔を上げた。その手には、日向の大好きなボール。いつも影山が持ってきてくれて、夢中でそれを追いかけた、大事なボール。
そしてそれを、影山は日向に向けて差し出して。

「でも、このボールは、お前の、だろ」
『っ!』
「それだけは、分かる」

分かるんだ、と真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる綺麗な黒の瞳に、日向はぐっと唇を噛んで、泣くのを我慢する。そして、両足に力を込めて。

『ば影山っ! いっつもくるのっ、おそいんだよっ!』

跳躍。
扉を蹴破る勢いで跳ねた日向は、驚きに目を見開く影山に一目散に飛びついた。が、驚きのあまり咄嗟に身を引いたせいで、飛びつきに失敗。日向はころころと階段を転げ落ちた。

『ぎゃう!』
「あ、わり」

ころころと転がった日向は、鼻頭を盛大にすりむいた。だけど、そんな痛みなんて気にならない。パッと顔を上げると、影山と目が合って。

『影山! ボール! くれ!』

日向は、鼻の頭を真っ赤にしたまま、満面の笑顔を浮かべた。


おわり


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