Firefly Moon 前

もう五月も終わり、六月に入り始めた頃。
じっとりとした湿気を含んだ空気が、重く肩に伸し掛かる。夕方のテレビのニュースで、もうすぐ梅雨入りの季節になります、なんて、天気予報士が笑顔で話していた。何が嬉しいんだろうって、その笑顔をぼんやりと見ていた記憶がある。
農繁期のこの時期にとっては恵みの雨かもしれないけれど、普通ならこの時期は憂鬱になる。ジメジメとした空気は重苦しくてイライラするし、曇天の日は何だか頭痛がする。いいことなんて一つもない。
小さな頃から、この時期が嫌いだった。昔は身体が弱くて、精神的なものもあってこの時期にはよく体調を崩した。梅雨なんて、本当に一つもいいことなんてない。そう悪態を付いていた。
それはたぶん、今も変わらない。だけどたった一つだけ、違うものがあるとするなら。

あの日だけは、きっと違っていた。



ことの起こりは、僕が中学生の頃の話。
その日は、学校で帰りが遅くなった。調べ物をするために図書館に寄っていて、つい気になった本を読んでいたら、気づけば外が真っ暗になっていた。
慌てて図書館を飛び出して、暗い夜道を走る。車通りの少ない、田舎道。時々、小さな虫の鳴き声がする。ジィ、ジィ、と鳴く虫の声と、僕の荒々しい息だけが、道路に響く。
静かだな、と走りながらも思っていると、ふわり、と目の前を小さな光が横切った。ハッと目を見開いてその光を目で追う。

「蛍だ………」

淡い光の玉が、ふわりと揺れる。
黄色のような、緑色のような、不思議な色の光の玉は、僕の目の前を横切って、どこかへと飛んでいく。何となく立ち止まって、その光の行先を追って、あっと小さく声を上げる。
確か、この近くに小さな湖があったような気がする。普段から人が近づくことはない、静かな湖だ。
もしかして、蛍の行先はあの湖だろうか?
僕は何となく気になって、蛍の後を追った。
蛍は、まるで導かれているかのように、真っ直ぐにどこかへ飛んでいく。その後を追っていた僕は、何だか不思議な気分がした。普段の僕だったら気にも留めないだろうし、ましてや急いでいた足を止めて方向転換するなんてこと、絶対にしない。
だけど、何だか気になったのだ。蛍の行先が、どこにあるのか。

小さな小道を歩いて行くと、蛍はほんの少し速度を上げた。慌てて僕も足を進める。すると、ふわりと高く飛び上がった蛍は、急に光るのを止めてしまった。暗い闇に蛍はまぎれてしまって、姿が見えなくなってしまった。
しまったな、と思ったものの、気づけはやはりあの小さな湖の近くまで来ていて。あの蛍はきっと湖に行っただろうと予測を付けて、止めていた足を動かした。

歩くこと、数分。かすかに水の匂いが風に交じって届いた。近い。そう思って、少し足を速める。
もうすぐだ、と湖の方向を見やると、そこだけ妙に明るく見えて。僕は困惑しつつも、ゆっくりと湖に近づいて………―――息を呑む。


無数の、それこそ見たことないくらいの数の蛍たちが、湖に集まっていた。まるで、街を照らすネオンのように、明るく湖を照らしていた。

小さな月が、たくさん水面の上を滑っている。
そしてその月たちの真ん中に、彼は、いた。

湖岸に素足を晒して、無邪気に笑っている。月たちと、まるで何かを語り合っているかのように。
淡い光に照らされた、白い横顔。湖の底を思わせる、青い瞳。闇に溶けるような、黒い髪。それら全部が、幻想的で、とても綺麗だった。

僕はその姿を、一心に見つめていた。目が離せない。逸らせない。あまりにも綺麗で、綺麗すぎて、現実味がない。
ぼんやりと彼を見つめていると、彼はぴたりと動きを止めた。それまで彼の周りに飛んでいた蛍たちも、光るのを止めた。湖が、一気に暗くなる。
え、と思ったその瞬間。

「お前、誰だ?」
「っ!?」

心底不思議そうな声が真後ろからして、慌てて振り返った。
思いのほか近い場所に、彼の少年は立っていた。まるで彼自身が発光しているかのように、夜の闇の中でもしっかりとその青い瞳が見えて、まるで燃えているようだった。
蛍、だ。彼を見て、そう思った。

「お前、誰だ?」

彼はもう一度、問いかける。黙ったままの僕を怪訝そうに見やって。
僕は慌てて口を開いた。だけど音にならず、パクパクと唇だけが動く。どうしよう、驚きすぎて声が出ない。
焦った僕だけれど、彼は僕の唇をじっと見た後に、ニッと笑った。

「よく分かんねぇけど、お前が『ゆきお』って名前なのは分かった」
「っ、」
「よろしくな、ゆきお!」

無邪気に笑った彼の笑顔は、再び灯した小さな月たちの光に照らされて、眩しかった。




彼は、名前を燐と名乗った。
燐は湖の岸辺に佇んで、蛍たちと笑っている。僕はそれを、ただぼんやりと見つめている。
声を出すことが、なんだか無粋のような気がした。静かな夜に光る蛍たちとの語らいを、邪魔したくなかった。だけど彼は時折声を上げて笑って、そんな沈黙を守る僕を跳ねのけた。

「ゆきお!お前も来いよ!冷たくて気持ちいいぜ!」
「えっ?僕は……」

じゃぶじゃぶとこちらに手を振りながらやって来る燐に、逡巡する。まだ六月初めのこの季節は、少し肌寒くて、水浴びをするには少し早い。それに、僕は体がそこまで強くなくて、こんな日に水浴びでもしようなら、明日は風邪をひいてしまうだろう。
わずかに躊躇いを見せた僕を、だけど燐はぐいっと腕を引いて。

「ほら!楽しいから!」

ぐいぐい腕を引いて、僕を岸辺へと誘う。ばしゃん!と弾ける水渋きが、蛍の光に照らされて。
まるで光に囲まれているみたいだ。
じん、と冷たい水が足元から体へと這い上がってくる。ぬめりを帯びた砂の感触が、足の裏に吸い付いてくる。
ぐっしょりと濡れた服の感触に、少し燐に文句を言いたくて、顔を上げる。

「な、なにするの……!」
「ほら!見てみろって!」
「え、っ………!」

いいから!と指さした先を見て、声を失くす。

湖の水面に、空の星が輝いている。時折水面に蛍が弾けて、空を揺らして。
まるで、そう。空の海を泳ぐように。

「きれい………」

惚けたように呟く僕に、だろ?と燐は自慢げに笑う。その笑顔も、とても綺麗だと思った。
足元の砂の感触も、水の冷たさも、濡れた服のことさえ忘れて。
ただただ、その光景を見つめ続けた。

「ここの景色を、見せたかったんだ」
「え?」
「だってあそこからじゃ、見れないだろ?」

静かにそう言った燐は、照れたように頬を掻いて。だけど僕の視線に気づくと、困ったように笑って見せた。
そしてまた飛沫を上げて、走り出す。弾けた水面がキラキラと光って、燐はくるりとこちらを振り返った。

「ゆきお!」

燐が僕を呼ぶ。僕は彼の後を追って、駆け出した。

静かな湖の岸辺で、僕と燐の声が弾ける。蛍はそんな僕たちを見守るように飛んでいて、世界には僕たちしかいないみたいに感じた。
燐は、まるでその顔しか知らないみたいに笑っていて、僕には到底できないと思った。だけど燐の笑顔が移ったみたいに、いつしか僕も笑っていて。
気づけば、夢中になって駆けていた。こんな風に息を切らせて走るのも、声を上げて笑うのも、初めてのことで。
僕は酔ったみたいに、ただ、夜の海を泳いでいた。



とうとう体力が尽きて、僕は岸辺に座り込んだ。足はがくがくと震えていて、顔の筋肉だって引き吊っていた。どっと疲労感が体中を襲って、僕は耐えきれずにその場に倒れ込む。

「お、おい、大丈夫か?」

仰向けに見た空に、燐の心配そうな顔が混じる。僕は一つ頷いて、大丈夫、と小さく笑った。
そして、案外素直に笑えている自分に、驚いた。

「体力ないんだなぁ、ゆきおは」
「っ、ち、ちがうよ!」
「声、震えてるぜ?」

からかうような燐の声に抗議しようとしたけれど、痛いところ突かれて黙り込む。ムッと唇を尖らせた僕をどう見たのか、燐は僕の隣に腰を下ろした。そして僕と同じように空を見上げて、あぁ、とそっと声を漏らす。

「楽しかったなぁ。いつもは俺とこいつらだけだったから、こんなに遊んだのは初めてだ」
「そっか………」

僕もだよ、とは声に出せなかった。何だかそれを認めるのが悔しくて。それに、燐相手には情けない姿を見せたくないと思った。
黙った僕につられるように、燐も黙りこんだ。何だかさっきと様子が違っていて、僕はかすかに違和感を覚えた。
燐?と問いかけようとした言葉は、しかし、燐自身に遮られた。

「…………―――なぁ、ゆきお。その………もし、お前も楽しかったって思ってくれてるんなら、さ。…………―――――明日も、ここに来てくれる?」

僕は、真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる燐の青い瞳を見返した。

燐こそ声が震えてるよ、とか。
僕も実は楽しかったんだよ、とか。

そんな言葉は、出て来なくて。代わりに。
不安そうに揺れる青い瞳に吸い込まれるみたいに、唇を寄せるしかできなかった。


触れた唇は、冷たくて暖かい。
まるで、そう、蛍みたいな。

そんな、優しくて切ない思いねつを僕に灯した。





ふわふわと熱に浮かされた僕は、そのまま帰宅した。
どこかぼんやりとした僕を見た神父さんは、帰りの遅かった僕への説教を引っ込めて、心配そうな顔をした。

「おい、大丈夫か、雪男?」

大丈夫だよ、神父さん。そう言おうとした僕の視界は暗転して、ひどく焦った神父さんの声さえ最後まで聞けなかった。

あぁ、そうだ。明日も彼に会いに行こう。約束したんだ。だから………―――。



暗い闇の中で、たった一匹で飛ぶ蛍を見た。
まるで仲間を探すように飛び回っている蛍は、しかし誰もいないと分かって、静かに地面に落ちた。
じわ、じわ、と蛍の灯が弱くなっていく。

泣いている。
声も上げずに泣いている。
自らの灯を、自らの涙で消そうとしている。

大丈夫だよ。
僕がいるよ。
だからそんな、見ているだけで胸が痛くなるような泣き方なんてしないで。

そっと手を伸ばした僕を、蛍は見上げて。


「………―――、お前なんて、嫌いだ」


その綺麗な青い瞳を静かに燃え上がらせて、そう言い放った。



「り、っ!」

ハッと目を見開くと、見慣れた天井と自分の手が見えた。まるで空を掴むように伸ばされた自分の手を見て、あぁ、夢か、と思う。
そして自分があの夜、帰ってすぐに倒れてしまったのだと気付いた。
神父さんには、心配をかけてしまった。彼の目の前で倒れてしまったから、きっとひどく心配したに違いない。
僕はふぅ、と深く息を吐く。
ひどく、苦しい夢を見た。じわりと滲む汗が不快で、僕はゆっくりと起き上がった。熱が出ているのか、頭の奥が重い。揺らぎそうな視界を振り払いつつ、真っ暗な部屋を見渡した。まだ夜が明けていないのか、やけに静かだった。

「……」

今、何時だろう?
時計を見ようと起き上がると、部屋の扉が開いた。わずかに光が差し込んで、神父さんが顔を覗かせていた。僕と目が合うと、少し驚いた顔をして、起きたのか、とこちらに歩いて来た。そっと伸ばされた手が、額に触れる。

「熱はまだ少しあるみてぇだな。……ったく、ジジイを驚かせるんじゃねーよ」
「ごめん、なさい」
「ま、お前が夕方になっても帰って来ないなんてやんちゃができるようになって、俺は安心したけどな」
「え?」

遅れて帰ってきたことや、急に倒れたことを怒ることもなく、神父さんはそう言って笑った。どうして、と神父さんを見やれば、彼は優しく目を細めて。

「男ってのは、親に言われた通りのことをして、いい子ちゃんでいる必要なんてどこにもねぇんだよ。むしろ、ちょっとやんちゃするくらいがちょうどいいんだ。だから、ちょっと遊んでて帰りが遅くなったくれぇで、怒ったりしねぇよ」

むしろ、大歓迎。と神父さんは晴れやかに笑った。ゆっくりと頭を撫でる手が、暖かくて優しい。まさかそんなことを言われるなんて思ってもみなかった僕は、ただ、うん、と頷いた。それ以上、何も言えなかった。
そんな僕を小さく笑っていた神父さんは、だけどよ、と困った顔をして。

「やんちゃをするのは構わんが、あんまり無茶はするなよ? お前、丸二日も寝てたんだぞ? いったいどこでなにを……―――」
「、え?」

僕は神父さんの言葉を聞いて、唖然とした。
丸、二日?
ちょっと、待ってくれ。じゃあ、僕はあれから二日間も眠っていたのか? 一度も目覚めることもなく?
そんな。それじゃあ。

『…………―――なぁ、ゆきお』

僕は、

『その………もし、お前も楽しかったって思ってくれてるんなら、さ』

あの、大切な約束を、

『…………―――――明日も、ここに来てくれる?』

破って、しまったのか?


「………―――、お前なんて、嫌いだ」


「っ、!」

夢に見た彼の瞳を思い出して、ぎゅっと胸元のシャツを握りしめる。どうした? と慌てる神父さんの声が遠くて、ただ、どく、どく、と激しくなる心臓の音と、あの日の彼の無邪気な笑い声だけが、耳の奥で響いていた。

『ゆきお!』

燐が、僕を呼ぶ。
その声さえ、嬉しくて。あの綺麗な青い瞳に映っているって思うだけで、心臓がうるさいくらいに跳ねた。
もう一度、会いたいと言ってくれた。うれしかった。だから…………。だから、

「行かなきゃ………」

例え、約束を違えてしまったとしても。
もう一度、君に、会いに行きたい。
ちゃんと謝って、今度こそ、ちゃんと伝えたい。

僕だって、君といて楽しかったのだと。

僕の声で、ちゃんと伝えなきゃ、意味がないんだ。

「雪男………お前………」

慌ててベッドから降りようとした僕を、神父さんは驚きながらも止めなかった。体力的にも万全じゃない僕を止めるでもなく、ただ、そうか、とだけ言って。

「男ってのは、成長が早いもんだなぁ。この前まで、ガキだと思ってたのによ。……もう男の顔してやがる」

行って来いよ、後悔する前に。神父さんはそう言って、僕を送り出してくれた。その言葉に感謝しつつ、まだふらつく足を引きずって、僕は外へと飛び出した。
それから、がむしゃらに走った。時々、足を縺れさせて、転びそうになりながら。それでも。
少しでも早く、燐に会いたい。
約束を破った僕を、怒るだろうか? それとも、もう会うのも嫌だって言うだろうか?
例えそうだとしても、僕は君に会いに行く。

走って。走って。走って。こんなに息を切らせて走ったのは、初めてで。

「りん…………っ」

必死になって呼んだ声は、夜の田舎道に遠く響いた。いつもなら少し怖いと思う田んぼ道も、目に入らなかった。ただひたすら、前だけを見ていた。
そうして、ようやくあの湖の近くまでやって来た。あの角を曲がれば、すぐに湖が見える。
もうすぐ。もうすぐ。逸る心を抑えて、勢いよく角を曲がって……―――。

「え?」

見えてきたのは、夜の湖なんかじゃなくて。
黒い大きな機械たちが、静かに僕を出迎えていた。
どれもこれも、工事作業場で見たことのある機械ばかり。これらは作業途中なのか、ぽつりと置き去りにされているみたいだった。

「どう、いう………」

僕はふらつく足を何とか引きずって、湖を囲むフェンスに掴みかかった。カシャン!と乾いた音がやけに大きく響いた。
どうして?なんで?なんで湖に工事作業車が?だって、ここには……!
ぐっと手のひらを握り締める。痛いくらいにフェンスが食い込んだ。なぜ、と言いながら、僕は心の奥底では理解していた。
だって、フェンスに掛けられた看板に、全ての真実が載せられていたのだから。

『正十字湖埋立工事 工期 着工 平成○年6月○日〜………』

その日付は、今日のものだった。つまり、今日から工事が開始されていて、もうすでに半分以上が埋め立てられていた。もちろん、中に入ることは禁じられていて、それもおそらく、今日から開始されたのだろう。

どうして、僕は知らなかったんだろう。この湖が、埋め立てられることを。
そして、彼は知っていたのだろうか。この湖が、無くなってしまうことを。

たぶん、彼は知っていた。
だから、『明日も』って聞いたんだ。明日きのうが、最後だったから。

『…………―――なぁ、ゆきお』

不安そうな、燐の声。今更だけど、あの時の彼の声が震えていたのは、きっと。
明日しか会えないということを分かっていて、だから、祈りにも似た思いで告げたからだ。

そして僕は約束して。
そして僕は、それを破ってしまった。

「……………っ、めん」

ごめん、という言葉は、声にはならなかった。
声が出ない。瞼が熱い。フェンスを握る手は冷たく震えて、痛い。視界が歪んで、半分だけの空の海が、ゆらりと揺れる。

泣くな。僕にその権利はない。だって僕は約束を守れなかった。泣く資格すらない。その資格があるのは燐だけで。だけど僕はその涙を拭ってあげられることすら、もうできない。

苦しい。苦しくて、僕はただ、フェンスにしがみついていた。


その日は、痛いくらいの快晴の空で。
綺麗な月の光が眩しすぎて、蛍の淡い光は、とうとう見えなかった。







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