Firefly Moon 後

それから、数十年が経った。
目指していた医師の免許を取得したその年、僕は帰郷した。医師になるために田舎を出て必死に勉強して、ようやく実家に顔を見せる余裕ができたのだ。
育ての親である神父さんは、もういない。数年前、突然の事故で死んでしまった。人が跳ねられそうになったのを助けようとして、身代わりになったのだ。
いかにも、神父さんらしい最後だ。僕は葬式で胸を張って別れを告げた。

それからは、本当に一度も実家には戻っていない。神父さんのこともそうだけれど、あの日のことを思い出すと、どうしても故郷に足が向かなかった。
だけど、ようやく医師免許を取得したのだし、別の報告もあったから、一度帰郷することを決めた。

……―――あの湖の跡地に行くかどうかは、まだ決めかねているけれど。

帰ってきた僕を、他の修道生たちが迎えてくれた。懐かしい顔もあれば、新しい顔もある。だけど修道院は相変わらずそうで、僕は安心した。

「しっかし、立派になったなぁ、雪男。お前が医者になったなんて聞いたら、藤本神父、あの世で息子自慢でもしてるんじゃないのか?」
「あはは。そうかもしれませんね」
「そうそう。……ま、医者はお前の夢だったしな。本当に良かったな、雪男」
「はい。ありがとうございます」
「しっかしお前、イケメンになりやがってよ。例の彼女、やきもきしてるんじゃないのか?」
「そんなことありませんよ。……それに、彼女とは婚約しましたし」
「えッ、本当に?やったな、雪男!」

おめでとう!と頭を撫でる手は、覚えているよりもずっと細い。だけど温かさは変わってなくて、ほんの少し胸が温かく痛んだ。

「そういえば、このあたりも随分と変わりましたね。ここに来る途中でマンションが建ってて、びっくりしました」
「だろ?町を活性化させようってんで、マンションやらスーパーやらが結構出来始めてよ。ほら、お前が小さい頃に近所に湖があっただろ?あそこも、今マンションになってんだよ」
「………へぇ、そうなんですか」
「そうなんだよ、んでさ………」

僕は計らずもあの湖のその後を知ってしまい、動揺を抑え切れなかった。表面上は何もないような顔をしているけれど、内心はひどく動揺していた。
あの湖の上には、人間が住むようになったのか。なんだか、皮肉のような気がした。

湖のその後を知ることはできたけれど、やっぱり気になって、そのマンションを見に行った。
空はどんよりと曇っていて、風に乗って運ばれてくる匂いは、まずかに雨の匂いがした。雨が来る。そう思ったけれど、急ぐことはしなかった。
あの夜息を切らせて走った道を、ゆっくりと歩く。あんな風に走ったのは、後にも先にもあの時だけだった。
とにかく必死だった。待っていたものが、彼からの拒絶よりも残酷なものだとは知らずに。
走って。走って。必死だった。彼に会いたくて、謝りたくて。
だけど、結局、謝ることもできないまま。

あの角を曲がれば、湖の跡地がある。僕は少し足を速めた。あの日の僕が、背中を押しているみたいに。
急かされるように角を曲がって、そして、目の前の光景を見た。
まだそう年月はたっていないのか、新築同然のように綺麗なマンション。大きくもなく、小さくも無い。ただただ普通のマンションが、そこには建っている。
ベランダには布団が干されていたり、窓の隙間から揺れるカーテンが見えた。

あの湖の面影は、もうどこにもなかった。


「………―――あぁ、」

僕はぽつりと声を漏らす。
そうか。僕は、怖かったんだ。もうあの場所はないのだと。彼に会うことはできないのだと。確信してしまうのが、怖かったんだ。
だって確信してしまえば、信じたくないものも真実になってしまう。

………―――。

ぽつり。ぽつり、と。
雨が、頬を撫でる。世界は静かで、雨の降る音しか聞こえない。このまま、雨に全部流れてしまえばいいのにと、都合のいいことを考えた。
なんて自分勝手なんだろう。小さく苦笑を漏らすと、頭から降り注いでいた雨が止んだ。抗議するように、パタパタと叩く音。俯いた地面に見えるもう一つの靴と、かすかな影。
一人にして欲しいのに、一体誰だろう。荒んだ気持ちが、嫌になる。差し向けられた傘が、ひどく邪魔に思えた。

「お前さ、こんなとこで何突っ立ってんの?びしょ濡れじゃん」

静かな、青年の声。低くもなく、高くもない、耳に心地いい声。少し呆れたような声で、だけど、しょうがないなと言うようにも聞こえて、そのことが少し勘に触った。
何も知らないくせに。赤の他人のくせに。どうしてそんなことを、言われなければならないのか、と。

「………別に。僕の勝手ですから、気にしないで下さい」
「気にしないでって言われてもなぁ。気になっちまうだろ?なぁ、せめてどっか屋根のある場所行けよ」
「余計なお世話です」
「余計でもなんでも!風邪引いたらどうすんだよ。この時期の風邪って厄介だし、それに」
「っ、別に僕が風邪を引こうが倒れようが、あなたには関係ないでしょう!?」

関わらないで欲しいのに、やけに突っかかってくる青年にイライラして、彼の傘を振り払った。バシャン!と傘が地面に転がる。
青い傘が、視界の端でくるりと回って。同時に。
パァン!と、乾いた音が響く。ジン、と痛む頬と、滲む熱。
叩かれた。そう思ったのと同時にカッと頭に血が上って。
どうして、見知らぬ他人に叩かれなきゃならないんだ!むしゃくしゃして、殴り返してやろうかと顔を上げて。

「っ、風邪だって舐めてたら、い、一生会えなくなっちまうことだってあるんだよ!」

激しい青と、目が、あった。
ゆら、ゆら、と燃える青と。

青年はぐっと僕の胸倉を掴んで、キッとこちらを睨みつけてきた。黒い髪は雨に濡れて、白い肌に映えた。覗く青の瞳は、苛烈に燃える灯に似ている。
あぁ、彼の名みたいだ。呆然と、その瞳を見て。

「…………り、ん…………?」
「………―――え?」

自然と、その名を呟いていた。
青年は驚いたように大きく目を見開いて、そして、何かに気付いたようにハッと肩を震わせると、じり、と後ずさった。唇が、ゆきお、と震えて。
次の瞬間、彼は僕に背を向けて走り出してしまった。

「ま、待って………!」

僕は慌ててその背を追いかける。意外と足が速くて、すぐには捕まえられない。だけど、追いかけるのを止めようとは思わなかった。
走って。走って。走った。それこそ、あの日よりも速く。
雨が頬を叩く。それでも彼を見失わないように、一生懸命手を伸ばす。
もうすぐ、もうすぐ届く………!前へ、前へと伸ばした手は、その手首をようやく掴んで。

「燐………っ!」
「っ!」

その、僕よりも細い身体を、引き寄せた。
抱きしめた体は触れたところから熱を持って、冷たい身体に火を灯す。触れる髪から、雨の匂いがした。柔らかなそれに頬を寄せると、何だか泣きたくなった。

「は、離せ……!」
「いやだ、燐、」
「離せって……はな、………っ、ゆきおっ!」
「ッ」

懇願するような、そんな必死な声で僕を呼ぶ燐。腕の中で、逃れようと暴れる蛍を、僕は。

「…………――――――、ごめん、もう、離せない」

大事に、大事に。だけどきつく、抱きしめて。
逃がさない、と囁いた。
びく、と大きく肩が震えて、暴れていた体がぴたりと動かなくなる。どうしたんだろう、と顔を覗き込んで、息を呑む。

「り、燐………」

燐は、泣いていた。静かに、声を殺して。
あぁ、やっぱり君は、そんな泣き方をするんだ。そう思うと切なくて、ぎゅっと抱く腕に力を込めた。

「泣かないで、燐。お願いだよ」
「……っ、ゆき、………ゆきお………っ」

何度も。何度も。それしか知らないみたいに、僕の名を呼ぶ。小さく震える身体に胸が詰まって、苦しい。

「ごめん、ごめん、燐。………っ、会いたかった」
「………、ん」

ごめん、と何度も謝る僕を、燐はふるふると首を横に振って答えた。そっと僕の胸を押して、ゆっくりと僕から離れる。
やっぱり、嫌だったのだろうか。不安が胸に過ぎった。だけど、燐は。

「分かってたよ、ゆきお。お前が熱で倒れて、来れなかったこと」
「え……?」
「だから、ゆきおが謝る必要なんて、どこにもないんだ。謝るとすれば、俺の方だ。ゆきお、体が弱いのに、無理やり引っ張った」
「そ、それは……!」
「だからっ、もう、会えねぇって思った。合わす顔ないって。ゆきおに風邪引かせて苦しませたのに、どの面下げてお前に会えるんだよ。あんな……っ、あんなに苦しませたのに……っ」

ぎゅ、と固く瞼を閉じて、手のひらを握り締めていた。
僕は少し混乱してしまった。燐の言うことはちゃんと理解できたけれど、でも、彼の言い分からすると、燐は。

「ちょ、落ち着いて、燐。……あのね、少し聞いてもいいかな」
「……ん」
「えーっと、その、燐は………、もしかして、人間なの?」
「は?」

目を点にした燐が、こちらを見上げてくる。何言ってるんだ、こいつ、と言いたげな目だ。
僕は自分のした質問が気恥ずかしくなり、そっと視線を逸らせて頬を掻いた。

「えーっと、その、笑わないで、聞いてくれる?………僕はあの日、蛍を追いかけて湖に行ったんだ。そこで、君に出会った。沢山の蛍に囲まれて笑う燐を見て、燐のこと蛍の妖精だって思った。だから、あの湖が埋め立てられちゃったから、もう一生会えないって思ってて……。えーっと、その、僕、何言ってるんだろ……」

口に出してみると、自分でも自分が可笑しくなってきた。湖の畔にいた、蛍と共に戯れる少年を見て、どうして蛍の妖精だなんて思ったんだろう?
でも、そう思わせるには十分すぎるほど、あの光景は幻想的だったんだ。

苦笑する僕を、だけど燐は笑わなかった。ただ、こくりと一つ、頷いてくれた。

「笑ったりしねぇよ。ただ………それを言うなら俺だって、同じだ」
「え?」
「ゆきおと最初に会ったとき、俺の方こそ、ゆきおのことを蛍の妖精だって思ってたんだからさ」

可笑しいだろ?と小さく笑う燐を、僕はやっぱり笑わなかった。
ザァ、と降っていた雨が小さくなっていく。ぽつりぽつりと落ちてくる雫は、やがて止まって。
びしょ濡れになった僕たちだけが、取り残された。

「………―――また、会えてよかった」
「うん、僕も」

伸ばした手は、ちゃんと燐に届く。きゅう、と手のひらを握り締めると、じわりと温もりが伝わってきた。
あぁ、なんて、温かい。

僕はその温もりを、ただただ握りしめて、離せないでいた。












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