SUPER IDOL?   前

いつもの日常。いつもの昼休み。暖かな日差しが差し込む中庭で、うとうととまどろんでいた俺の耳に、甲高い声が入り込んできた。
なんだ、と僅かに顔を上げると、芝生の横を通り過ぎる女子生徒数名が見えた。あぁ、あの子達か。俺の興味はすぐに失せた。二度寝しようと寝転がった矢先、再び甲高い声。

「ねぇねぇ! 昨日の見た!? マジでカッコ良かったよね!」
「そうそう、もうたまらんって感じだった!」

きゃいきゃいと騒がしい彼女たちは、目がハートだ。声もどこか甘ったるい。うわぁ、なんて引いている俺を他所に、彼女たちの話はヒートアップしていき。

「ほんと、今一番人気だよね、YUKIは!」

あぁ、やっぱり。
俺はごろりと寝返りをうつフリをして、彼女たちから顔を背けた。







「ただいまー」

学校から帰ると、家には誰もいなかった。当然だ。弟は仕事で遅くなるって、昨日メールが来ていたから。相変わらず多忙のようだ。
鞄を降ろし、制服を脱ぐと、飼い猫のクロが足元にすり寄ってきた。にゃあん、と懐いてくるクロに、自然と笑みが零れる。その真っ黒な体を抱き上げながら、ただいま、と頬すりをする。

「腹減っただろ? 飯にしようぜ」

クロを抱いたまま、冷蔵庫へ向かう。見事に何にもない。しまった。帰りに買い物してくるのを忘れてた。どうすっかなぁ、とリビングをうろつく。今帰って来たばっかりなのに、また出て行くのは面倒だ。時計を見ると、午後四時三十過ぎ。もう少ししたら、買い物に出かけることにしよう。俺はそう結論づけて、ソファーに腰を落ち着けた。そうだ、テレビでも見よう。
テレビの電源を、オン。途端に飛び込んできたのは、眼鏡を掛けた笑顔の男。

「…………」

どうやら旅番組のようで、行き先は北海道。蟹食べ放題だ。美味そう。途端に腹の虫が鳴りだして、なんだか惨めな気持ちになる。テレビの向こうで、笑顔の男は蟹を食っているというのに、俺はこのとおりだ。

「ちくしょ、いいもん食いやがって」

八つ当たりにクッションを握りつぶす。なんだよちくしょう。俺だって蟹食いたい。っていうか、北海道に行ってたことすら知らなかったっていうのに。悔しさは倍増だ。
苛立ちまぎれにテレビを乱暴に切った、そのとき。

「ただいま」

消えたテレビと同時に、画面の向こうにいたはずの人間が、リビングに顔を出した。俺はその顔を呆然と見上げて、しかしすぐに我に返ると、キッとソイツをにらみつけた。

「っ、蟹!」
「は?」

呆気にとられたようにぽかん、と口を開けるソイツ。今絶賛大人気中のアイドル、YUKがそこにいた。



ぐつぐつ、と真っ赤な蟹が鍋の中で茹っている。俺はそれを上機嫌で眺めていると、対面に座っていたYUKI、いや、雪男は、そんなに嬉しかったの? なんて呆れている。

「たかが蟹じゃない」
「なんだと! お前、蟹舐めてんな! 蟹の恐ろしさを味わったことねぇからそんなこと言えるんだ!」
「蟹の恐ろしさって……。まぁ、喜んでくれてるようで、安心したよ」
「おう、ありがとな」

礼を言えば、どういたしまして、なんて眼鏡の奥の瞳を細めて、雪男は笑う。その顔はテレビでよく見る顔とは少し違っていて、ちょっとだけ複雑な気持ちになる。
そんな俺に気づくことなく、雪男は自分の皿と箸を準備し始めて、首を傾げる。

「お前も食うのか?」
「うん。お腹すいたからね。それに、蟹の恐ろしさってやつも体験しないと」
「なんだよ。お前さっき食ってたじゃん、テレビで」

取り分が減る、とぼやけば。

「あぁ、あれ。実は食べてないんだよ。食べるフリ」
「……お前、それでよくグルメ番組に出るよなぁ」

さらりと言ってのけた雪男に、俺は呆れた。
雪男は、外食を嫌う。理由はよく分からないけれど、自分が信用できる人が作ったものじゃなければ、ほとんど食べない。そのせいでよくメフィストに叱られているみたいなんだけど、それでも雪男の外食嫌いは治らなかった。一回、無理やり食べさせて吐きそうになったことがあったので、メフィストも諦めているみたいだけれど。

そのくせ、グルメ番組やら料理番組には出るのだから、芸能人ってよく分からない。

「でも、こうしてお土産にちゃんと蟹買ってきたんだから、いいじゃない。お店の人も、またどうぞって行ってくれたし」
「……そりゃあな」

人気アイドルのYUKIが常連になってくれたら、店としてもありがたいだろうな。
そんなことを考えながら、なんだかなぁ、とやっぱり複雑な気分になった。

鍋の中の蟹が、じっとこちらを見上げている。そのつぶらな目を見返して、雪男に気づかれないように、ため息を一つ。



もともと雪男は、進んで外に出るような人間ではなかった。むしろ、家の中で本を読むことが一番好きな、インドア派の人間だった。
それがアイドルなんていう正反対な仕事をするようになったのは、ひとえに、俺のせいでもあった。

俺と雪男は、公にはなっていないが、双子の兄弟だ。似ていないから誰も気付かないけれど、ちゃんと血の繋がった、双子だ。俺が兄で、雪男が弟。俺たちは生まれた時からずっと一緒に育ってきた。
両親はいない。親戚もいない。完全な孤児だった。そんな俺たちを育ててくれたのは、両親の知り合いだという教会の神父であるジジイ、っと、藤本神父で、オンボロ教会に俺たち双子を抱えて、とても大変だったと思う。今になって、しみじみと思う。
そのジジイが、俺たちが中学の頃に死んだ。理由は事故。突然の死だった。
元々苦しかった生活が、ジジイが死んだことで更に苦しくなった。生活もそうだが、ジジイが残した教会の維持費にも、金が掛かる。ジジイが俺たちにと密かに溜めてくれていた金を維持費に回して、どうにかやりくりしていたけれど、それもどこまで持つか分からない。とにかく、金が必要だった。
だから俺は、金を稼ぐためにバイトを始めた。まだ中学生だった俺がバイトをするのにも限界があったけれど、それでも必要最低限の金が手に入る。何もしないよりはマシだった。
そのバイトの一つであるビラ配りをしていた最中に出会ったのが、変態ピンク野郎、いや、メフィスト・フェレスだった。
メフィストはビラ配りをしていた俺の手をがっちりと掴んで、こう言った。

『貴方、アイドルとかには興味がありますか?』

最初は、いきなりなんだこの変人、と相手にしなかった俺だが、どこをどう調べたのか教会までやってきたメフィストは、得意げに名刺を差し出した。正十字プロダクション名誉顧問、メフィスト・フェレス。
胡散臭い奴だが、どうやら芸能界の関係者らしい。そんな男が俺に何の用かと思えば。

『貴方、アイドルになりませんか?』

ときた。正直、正気を疑った。俺が、アイドル? んな馬鹿な。即刻断ろうとすると、メフィストは見透かしたように笑った。

『アイドルになれば、大金が手に入りますよ。弟さんと二人では、何かと大変でしょう? 貴方がアイドルとして当事務所と契約してくれるのであれば、最低でこれくらいは出しましょう』

俺の置かれた現状を分かった上での言葉だ。分かっていても、提示された金額に、心はぐらついた。アイドルになんて興味はないけれど、金はいる。俺はともかく、弟の雪男だけでも、高校に入学させてやりたい。
俺は悩んだ。悩んだけど、心はもう決まっていた。俺が大勢の前で愛想を振りまけるかどうかは怪しいけれど、それでも、金のため、弟のためならなんだってできる。

そうと決めた俺は、雪男に全てを話した。芸能界に入ってアイドルになる、と。すると雪男は、難しい顔をしていた。兄さんには無理だよ、と。何度も止めるように言った。それでも引き下がらない俺に、雪男は難しい顔のまま、メフィストに会わせろと言った。本当は嫌だったけれど、しょうがなくメフィストと雪男を引き合わせると、雪男はメフィストに頭を下げた。慌てる俺を無視して、雪男は真っ直ぐにメフィストを見つめると、固い決意を宿した目で、こう言った。

『兄の代わりに、僕が芸能界に入ります』

それが、人気アイドル、YUKIの誕生のきっかけだった。


ピルル、と軽快な音で我に返った。はい、YUKIです、と雪男の話し声がする。どうやら、雪男の携帯が鳴った音だったようだ。
俺は少し離れた場所で話す弟の背中を、じっと見つめる。小さな頃は俺よりも背が低くて、泣き虫で、俺の後ろについて回るような弟が、今ではすっかり俺を追い越して、しっかり働いている。兄としてふがいないような、誇らしいような。そんな気分にさせる。

「えぇ、分かってますよ。それはまた今度ということで。………え? 本当ですよ。嘘じゃありませんから。ええ」

雪男の電話の相手は、誰だろう。いつもより、長い。それに口調も、どことなく軽いような気がして、気になる。雪男の友好関係はよく知らないけれど、少なくとも芸能界でそれほど親しい友人がいなかったように思う。だけど、あの携帯は仕事用のだから、もしかしたら相手は仕事で仲良くなった人だろうか。
俺がじっと見ていることに気付いたのか、雪男が振り返った。目が合って、俺は慌てて視線を逸らす。雪男が怪訝そうな顔をしているのが、見なくても分かった。

「え、あ、いや、なんでもありません。じゃあ、また」

やや早口で電話を切った雪男が、こちらに戻ってくる。俺が視線を逸らしたままでいると、正面の椅子に雪男が腰を降ろすのが分かって。

「さっき、じっとこっち見てたけど、何かあった? あ、もしかして、電話が煩かったとか?」
「………そんなんじゃ、ねぇ」

そんなんじゃない。そうじゃない。それよりも、もっと性質が悪くて、もっと陰湿だ。

そう? なんて笑う雪男は、アイドルになって少し変わった気がする。でもそれは、もしかしたら雪男が最初から持っていたもので、俺が気づかなかっただけなのかもしれない。
人当たりのいい話し方だとか、笑顔だとか。年の割りに落ち着いた雰囲気だとか、そんなもの、俺の知っている雪男は、持っていなかったような気がする。
だけど、今の雪男はそれを持ってる。それを武器に、猛者たちがたくさんいる芸能界で、頑張っている。それがとても、とても誇らしいはずなのに。

…………―――、雪男は、俺の弟だ、なんて。

そんなこと、とてもじゃないが、言えなくて。

「っ、か、蟹できたから、食おう!」
「う、うん…………」

無理やり笑顔を見せると、雪男は戸惑った顔をしながらも、頷いた。つぶらな瞳の蟹は、鍋の中で真っ赤に染まっていた。


また仕事が入っているからと、それから雪男は出て行った。本当に忙しいみたいで、だけど俺は、そのスケジュールのほとんどを知らない。雪男が教えてくれないのだ。メフィストにも固く口止めしているほどで、だから俺は、雪男がどんな番組に出ているのかさえもよく知らない。雪男にその理由を聞いても、別に見なくても良いでしょ? なんて誤魔化される。たまたま見た番組に雪男が出ていて、びっくりすることなんて日常茶飯事だ。
頑張っている雪男のために、せめて応援くらいさせて欲しいのに。そう思うけれど、俺が雪男の出ている番組を見ることを、どことなく嫌がっているようにも見える。だから、何も言わない。何も聞かない。ただ雪男がここに帰ってきてくれることだけが、俺の救いだった。





翌日。遅刻ギリギリまで寝ていた俺は、鐘が鳴ると同時に教室に入る。誰も俺のことなんて気にしない。担任の教師にいたっては、ギリギリにしか入ってこない俺を睨むばかり。俺はただその視線を受け流して、机に座る。一番奥の、窓際の席。まるで追いやられたみたいに、俺の席はいつもここだ。

窓の外を眺めながら、雪男のことを考える。今、何してるんだろう。何かの番組の収録でもしているのだろうか。俺は青い空を見上げて、眠たい教師の話をBGMに切り替える。

………結局、雪男は高校には行かなかった。入学する前にアイドルとしてデビューした雪男は、その頃からすでに人気が出てしまっていて、どの番組にも引っ張りダコで、入試どころではなかったからだ。
勿論、俺は反対した。何のために、俺が芸能界に入ろうとしたのか。それは雪男を高校にやるためだった。それなのに、当の雪男が高校に行かないなんて、そんなの絶対に反対だった。
だけど、雪男も譲らなかった。兄さんこそ高校に行きなよ、なんて返される始末。三日間の話し合いの結果、俺が折れることになった。その代わり、決して無理はしないことを条件に。

だけど、俺からすれば、学校なんて退屈なだけだった。昔から、こういう集団生活に馴染めない俺は、高校に入ってもクラスから浮いていたし、この目つきのせいで不良と思われて、先生の覚えも悪い。学校に、俺の居場所なんてどこにもなかった。でも、俺のために頑張っている雪男に、学校に行きたくないなんて言えるわけもなく。

やっぱり、俺が芸能界に入ったほうが良かった、と思わない日々はない。俺と違って、雪男は学校に友達もいたし、先生にだって覚えは良かった。頭が良かったから、将来が楽しみだ、なんて言われて、期待されていた。
それなのに、俺のためにそれらを全部振り切って芸能人になった雪男。そのことが、いつまでも俺の心にシコリとして残っていた。


教室にいなくてもいい昼休みは、至福のときだ。俺は人の通りが少ない中庭で、昼食を取っている。今日もそこへ向かおうとして、視界の端に映りこんだ光景に、足を止める。
校舎の影に隠れるように、男子生徒がたむろしている。見た目は普通の生徒だが、その手には煙草が握られている。
なんだ、アイツら。俺はこんな真昼間から堂々と校舎で煙草を吸う神経を疑った。だが、俺には関係ないか、と歩を進めようとして。

「最悪だよな。あんな女、こっちから願い下げだっての。なにが、YUKIみたいな人じゃないとだめなの、だ」

聞こえてきた声に、再び足が止まる。
よくよく見れば、煙草を持つ生徒の一人は、雑誌を持っているようで。表紙には、見覚えのある顔が笑顔を浮かべていた。
男子生徒は、ひらひらと雑誌を振って、吐き捨てるように。

「だいたい、こんな男のどこがいいんだよ? ひ弱そうな野郎じゃん。こういうのに限って、顔だけはいいからな。この前、クイズに出てたんだけどさ。あれ、ぜってぇヤラセだぜ。あんな問題解けるとか、ヤラセに決まってんじゃん」
「えー、マジで? 朝クラスの女子たちがすっげぇ騒いでたぜ。YUKIって頭もいいんだね、とかなんとか。うっわーヤラセとかマジ最悪」
「YUKIが好きだっていう女子、マジないわ」
「だろ? それなのにすかした顔しやがって、マジムカつく」

男子生徒は苛立たしげに、雑誌に煙草を押し付けた。じゅう、と焼ける音が、やけに、大きく響いて。

「――――――――、」

視界が、赤く染まる。
気付けば足はそいつらに向かっていた。自分でも意図しないほどのスピードを持って駆けたその足は、雑誌を握っていた男子生徒に向かっていて。

「あ? 誰だよ、おま」

駆けてきた俺を見るその横っ面を、思いっきり、殴っていた。吹き飛ぶ男子生徒。呆然とするその周りの連中。だが、俺の目にはその男が握っている雑誌にしかいっていない。ひったくるようにその雑誌を奪い、持っていた手を踏みつける。

「っ、ぎ!」
「触るな」

その汚ねぇ手で、これに触るな。
手を踏みつける足に、力が篭る。

お前らは、何も知らねぇだろ。YUKIが、雪男が、どれだけの思いでここまでやってきたのか。この雑誌の表紙を飾るために、たった一時間の番組に出るために、どれだけのことをしてきたのか。
知らねぇだろ。ヘロヘロになって帰ってきて、死んだようにソファーで眠るその横顔を。
知らねぇだろ。先輩たちから嫌味を言われて、ストーカーにも遭って、それでも、兄さんは大丈夫なの? なんて心配してくれる、その優しさを。
知らねぇだろ。今度の番組で活躍すれば、また良い話がもらえるんだって、何倍も努力するその姿を。
何にも、何にも知らねぇくせに、 知った風な口でアイツを語るな!

視界が滲む。瞼が熱い。こんなにも激しい感情を抱えているのに、あまりにも高ぶりすぎて、声にならない。

「っ、マジでやべぇぞコイツ!」

誰かが叫ぶ。騒がしい。鋭い怒鳴り声がする。そこで何をやっているんだ! 先生、コイツがいきなり! そのどれもが、俺の耳には遠くのことのように響いて。
ただ、焼け付いたような焦げ臭い匂いと、抱えた雑誌の重さだけが、今の俺のすべてだった。



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