君に恋して、T




ある雨の日、拾いものをした。
ボロボロで汚い、まるで雑巾みたいな、拾い物。どうしてそんなものを拾ってしまったのか、自分でもよく分からない。だけど、たぶん。まるで世界の全てが敵みたいな目をした彼が、いつかの自分に似ていたから、放っておけなかったんだと思う。


君に恋して、



「ただいま」

大学から自宅に帰ると、真っ暗な部屋が僕を出迎えた。小さく、ため息。ちらりと見やった腕時計は午後七時を指していて、立派に夜も更けている時間帯だ。僕は再びため息を吐きながら、リビングへと足を運ぶ。扉のすぐ脇にある電気を付けると、眩しさに一瞬目が眩んだ。
やや目を細めてそれに耐えると、途端に視界に飛び込んで来たのは、ぐちゃぐちゃに散らかったリビングと、それから、部屋の一番隅っこに真ん丸になった毛布が、一つ。
僕が帰って来たことには気付いているはずなのに、その毛布はぴくりとも動かない。僕は内心でやれやれと呆れつつ、そこかしこに散らかっているクッションやらタオルやらティッシュの残骸やらを片付け始めた。

「また電気もつけないでいたの? 暗くなったら付けていいよって言ってるのに」

無言。返事が返ってくることはほぼ皆無に近い。それはここ数日で理解しているので、気にしない。

「それから、」

大幅リビングを片付けた僕は、次に冷蔵庫へと足を向ける。扉を開くと、冷気が頬を撫でた。中を確かめて、やっぱり、と肩を落とす。

「冷蔵庫の中、ご飯を用意してるから食べていいよっても、言ってるよね? ちゃんと食べないと」

無言。ここまで返事がないといっそ清々しい。だが、ここで引いてしまったら、きっと互いのためにはならない。僕は小さくため息を吐いて、ずんずんと真ん丸の毛布に近づくと、一気に毛布を引き剥がした。現れる、真っ黒な人間。

「っ、あ! テメ、なにすんだ!」

真っ黒な人間は、僕と目が合うと途端に噛み付いてくる。鋭い犬歯が、ちらりと覗いた。

「何もなにも、ご飯だよ。ご、は、ん。今日もまた何も食べてないじゃないの」
「………いらねぇ」

ぶす、と頬を膨らませて、彼はふいっと視線を逸らせた。途端に、ぐぅ、と彼の腹が音を上げる。ハッと大きく目を見開いた彼は、慌てて自分の腹を押えた。それでも鳴り続ける腹の音。
僕は小さく苦笑しつつ。

「ほら、お腹は正直みたいだよ? どうせなら、これから一緒に食べよう」
「いらねぇって、いってんじゃん」
「ふぅん? まぁ別に、食べたくないなら食べたくないでいいよ」

唇を尖らせてあくまでも強気な彼に、僕はそれまで攻めの一手だったのを引いてみせた。くるりと踵を返して、買ってきた惣菜をテーブルに広げる。
その間も、彼は視線を逸らせたままだった。だけど意識はこっちに向いているのが分かる。内心でほくそ笑みながら、僕は準備を済ませ、テーブルに付くと手を合わせた。

「いただきます」

ほかほかのご飯に、インスタントの味噌汁。野菜サラダと、魚の煮付け。簡素ではあるが、男の一人暮らしなんてこんなものだ。
魚の煮付けに箸を伸ばす。うん。甘辛く煮込んだ白身は、まぁまぁの味だった。惣菜なんてこんなものだ。
淡々と食事を進めていると、彼がじっとこちらを見ているのが分かった。ごくん、と唾を呑む音さえ聞こえてきそうだ。
あと、もう少し。
僕は少し見せ付けるように煮付けをご飯の上に乗せて、掻き込んだ。本当はこういう食べ方はしないのだけれど、不可抗力という奴だ。
案の定、彼はそろり、とこちらに近づいて来た。両手両足で這うように、そろ、そろ、とまるで僕の動きを伺う猫みたいだ。全神経を集中させて、近づいて来る。そして、テーブルの前まで来ると。

「……………」

無言。まぁ、ここまで近づいて来れただけでも、よしとしようかな。
僕はそっと笑いながら、テーブルを立つ。びく! と大袈裟なほど肩を震わせた彼は、じり、と一歩後ずさりをした。が、僕はそれを許さずに、すぐさま用意していたものをテーブルの上に置いた。
ほかほかのおじや。レトルトだけどね。

「はい、どうぞ」

熱くないようプラスチックのスプーンを置いて、テーブルにつく。彼は僕とテーブルの上の皿を見上げたあと、やっぱりそっぽを向いたまま、無言でテーブルについた。僕とは決して目を合わせようとしないものの、向き合って座る。僕は微笑んだまま。

「はい、じゃあ、改めて。………いただきます」
「………………………、ます」

ぶすっとした表情のまま、しかしぼそりと僕に習って呟いた彼に、ほんの少し嬉しくなる。
拙い動きでスプーンを持って、口の周りをベタベタに汚しながら、それでも僕と同じテーブルについて、食事をする。
僕はしみじみと、目の前の彼を見つめる。
真っ黒な短髪に、吊り上がった青い瞳、幼い顔立ちに似合わない、鋭い犬歯。少しだぼついた真っ黒なシャツとズボンからは、ガリガリの痩せた白い体が覗いていた。
そして。
椅子にだらりと垂れ下がるのは、真っ黒な尻尾。今は見えないが、痩せた右足には足枷が残っていた。

「………」

僕も彼と同じように食事を取りながら、彼と一緒に暮らし始めた日のことを思い出していた。





雨の降る、夕暮れ時。僕はその日、図書館に寄って帰宅する途中だった。朝から曇り空だったけれど、夕方になってとうとう降り出した雨に、借りた本が濡れないよう、やや足早に自宅であるマンションを目指していた。
もうすぐでマンションにつく、というところまで来て、不意に、チリン、という固い音を聞いた気がして、立ち止まる。何の音だ、と周囲に視線を巡らせて、ビルとビルの隙間の小さな路地裏に、黒い陰が見えた。よく目を凝らすとそれは人で、まるでビルの陰に隠れるように小さく蹲っていた。
もしかして、具合でも悪いのだろうか。僕は心配になって、ゆっくりと近づいた。ジャリ、と地面を踏む音が響いて、その人はハッと顔を上げた。瞬間、目が、合う。
青い、瞳。綺麗なその色に、一瞬、息を呑んで。
幼い顔立ちの少年は、膝を抱えて蹲ったまま、キッとこちらを睨みつけてきた。まるで仇でも見るかのようなその目の強さに、再び息を呑む。なんでそんな目を向けられなければならないのか、戸惑っていると、不意に彼の体が揺らいだ。地面に倒れこみそうになったので、僕は慌てて彼の肩を支える。その細さに、また驚いた。そして、異様に熱い。もしかして、熱でもあるのかもしれない。

「あの、大丈夫ですか?」
「…………は、」

覗き込んだ顔は苦しそうで、しかしそれを隠すように、体を丸めていた。僕は一瞬躊躇したものの、徐々に悪くなる顔色に迷ってはいられないと、救急車を呼ぼうと携帯に手を伸ばして、気付く。
彼の尻当たりから生えた、黒いモノ。そして、傷だらけの裸足には、銀色の重たい足枷。

「これは………―――」

僕は再び彼の顔を覗きこむ。苦しげで、真っ青な顔。僕は少し考えたあと、携帯をそのまま懐にしまって、彼を抱えた。驚くほど、軽い。まるで羽みたいに重さを感じさせない熱い体を、僕は強く抱きしめて、再び足早に自宅であるマンションへと向かった。


マンションに戻ってすぐに、僕は濡れた彼の体を拭いた。やはり熱があるのか、だらりと意識を失ったままの彼を、何とか着替えさせる。その時、彼の体に刻まれた無数の傷跡に、眉根を寄せた。
白い肌に浮き上がる、青い打撲痕や赤い切り傷。焼け爛れた跡もあり、あまりの多さに目を逸らしたくなった。だが、なんとかそれらの治療を終え、彼をベッドに寝かしつけた頃には、僕はぐったりと疲れ切っていた。

「…………疲れたな………」

リビングのソファーに深くもたれかかりながら、天井をぼんやりと見上げる。脳裏には、今自分のベッドで眠っている、彼の姿。
ボロボロの体、尻尾、そして、足枷。それらから弾きだされるのは、たった一つ。

「…………【D】、か」

ぽつり、と呟いて、ずきり、と胸が痛んだ。
さて、厄介なことになったな、と重たいため息を吐いた、その時。

「あ、ああああああああッ!」
「!」

寝室から、耳を突くような悲鳴。僕は弾かれるように、寝室に飛び込んだ。そして、飛び込んで来た光景に、息を呑む。

「あ、あああっ、ああああ!」

ベッドの上、彼はまるで何かに取り付かれたように、自分の腕を引っかいていた。力任せに引っかいているのか、腕は真っ赤に染まっている。それでも、彼は自分の腕を引っかくのを止めない。僕は慌てて、彼の腕を掴んだ。

「やめろ!」
「っ、あ、が、はな、はなせ………ッ!」

暴れる彼は、抵抗するように僕の腕に噛み付いた。ぎり、と犬歯が腕に食い込んで、痛い。顔をしかめる僕に、しかし彼は噛み付いたまま、半ば狂乱しているようだった。
このままじゃ、埒が明かない。僕はとっさに、彼の首筋に手刀を叩き込む。ぐ、と軽い悲鳴を上げたのち、彼はぐったりと動かなくなった。

「っ、はぁ、……………これは、ますます、」

気を失った彼をベッドに寝かせつつ、僕は深く、ため息を吐く。
厄介なことになったな、と内心で苦く思いながら。



【D】とは、【DEMON】の略称であり、悪魔を意味している。
昔から聖書や物語に登場する悪魔たちは、元は別の世界の住人だった。しかし、悪魔たちの王である悪魔が人間の住む世界、昔は【物質界】と呼んでいたらしいのだが、を手に入れたいと思いはじめたのが、そもそもの始まりだった。
以降、悪魔たちは人間の世界に出没しては、人間にとり憑き、悪さをするようになった。その悪さは次第にエスカレートし、とうとう死人が出るようになった。
そこで人間側は、対悪魔組織として、正十字騎士団を立ち上げた。悪魔と彼らの戦いは数千年に渡り、年数を追うごとに苛烈になっていった。
そして、百年ほど前のこと。
両者の戦いは、ある夜を境に決着を見せた。世界中が青い炎に包まれ、蔓延っていた悪魔は消え、王でさえも消えた。後にその夜のことを、【青い夜】と呼び、今でも終戦記念日として残っている。
その夜、どんな戦いがあったのかは分からない。ただ、人間側である正十字騎士団が勝利したのは、間違いなかった。
だが、人間が勝利したことで、ある問題が発生した。それが、【D】。【Demon Infectious Disease】と呼ばれる、一種の感染症が流行りだしたのだ。
この病気は、感染すると一〇〇%の確立で発病し、未だに抗体もできていない難病だ。発病したら、人間の体でありながら悪魔の力を宿し、驚異的な身体能力を持つことができる。これだけを聞けば聞こえはいいかもしれないが、普通の人間とは違う能力を持った人間が現れることを、他の人間たちは良しとしなかった。
そして、いつしか感染症は、その感染者を含め蔑みと侮蔑を込めて、【D】と呼ばれるようになる。
そしてこの【D】は、感染したら身体的にも変化が訪れる。尻尾、というのは良い例だ。まさに【D】感染者の特徴とも言える。つまり、彼もまた、【D】の感染者ということになる。
さらに、あの体の傷。足枷。想像したくはないが、【D】はその身体能力を理由に、研究対象として見られることが多々ある。今は規制されているが、昔は人体実験なんてものをしていたらしいし、恐らく今でも、水面下では行われているに決まっている。

「…………」

苦々しい思いが込み上げる。反吐が出そうだ。
僕は幼い顔をして眠るその横顔を眺めて、ぐっと手のひらを握り締めた。



それからというもの、彼は起きては悲鳴を上げ、自傷行為を続けた。それを辛抱強く止めて、なだめながら接していくうちに、あることに気付いた。
どうやら彼は、暗闇が苦手のようだ。彼がいつも自傷行為に走るのは夜だ。それも、深夜の一時・二時頃に飛び起きる。
その時間帯までは普通に起きてはいるけど、さすがに毎日のように悲鳴を上げて暴れられたら、精神的にクるものがある。打開策のため、試しに寝室の電気を付けたままにして一夜を過ごしてみると、彼は驚くほど朝まで目覚めることはなかった。

やはり、暗闇が苦手のようだ。それからというもの、とにかく夜は電気を付けることにした。
が、問題なのは夕方から夜に掛けての時間帯だ。こればっかりは、大学などで帰りが遅くなることが多いので、彼と一緒にいることはできない。
だから、彼には暗くなり始めたら電気を付けて良い、と教えたのだけれど、彼は一度も電気をつけなかった。

さらに、食事についても問題があった。というのが、僕が用意したものを食べようとしないのだ。これは、何となく想像はできていた。
彼は恐らく、人体実験のモルモットとしてどこかの施設に飼われていたのだろう。モルモットが死なない程度には食事を与えるのが普通だが、まれに、どこまで絶食に耐えられるのかという実験を行うと聞いたことがある。また、食事に薬物を混ぜて反応を見る、など。人間を人間として扱っていないその実験には眉根を潜めるしかないが、恐らく彼もそれをされたに違いない。痩せた体が、それを証明していた。
だから、彼は信用のできないものは口にしないようにしているのだろう。僕はそれに気づいて、彼の目の前で料理を食べて見せて、薬物が入っていないことを自ら示した。
すると、ぽつりぽつりではあるが食事をするようになり、今ではこうして同じテーブルに座って食事ができるようになるまでになった。
彼がここに来て、約半月。長かったような、短かったような。幼い子どものような彼の食事姿を見て、目を細める。
箸はまだ使えないらしく、いつもスプーンで掬って食べる。最初は口で直接食べようとしていたから、慌てて使い方を教えた。こういう場面でも、彼の今まで受けてきた数々の所業が明らかになる。その度に、僕は言いようのない吐き気を覚えた。
…………どこまで、人間という生き物は。
苦々しい想いを食事と一緒に飲み下す。食事を終え、一息ついていると、じっとこちらを見つめる青い瞳と目があった。瞬きもせずにこちらを見る目に、何? と問いかける。すると、彼は少し逡巡したのち。

「……………、なぁ、なんで、たすけてくれたんだ?」
「え?」

初めて、彼が自分から僕に声を掛けた。そのことに驚きつつも、不安そうな青の瞳に、そっと微笑んだ。

「だって、人が倒れていたら、助けるのが普通でしょ?」
「でも、おれは…………ッ! …………ふつうとは、ちがう。おれ、こんなだし、それに、」
「違わないよ」

自然と、声が固くなった。それに気付いたのか、彼がびくりと肩を震わせた。怯えたような仕草に、少し、反省する。彼は何も悪くないのに、つい、責めるような口調になってしまった。

「ごめん。だけど、僕は意見を変えるつもりはないよ。君、いや、君たちは、僕たちと同じ、人間だよ」
「……………―――でも、」
「それが信じられないって言うのなら、」

僕は立ち上がって、テーブル越しに彼の腕を掴んだ。途端、怯えた顔をする彼を、真っ直ぐに見つめて。

「見て」

彼の細い手を、自分の手と重ねる。何も変わらない、暖かな手のひらを。

「ほら、何も変わらない。僕と同じ、人間の手だ」

ハッと目を見開いた彼は、唇を噛むと俯いてしまった。小さく、細い肩が震えている。もしかしたら、泣いているのかもしれない。だけどそれに気付かないフリをして、僕は言う。

「大丈夫。…………君は、人間だよ」

何度も、言い聞かせるように。







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