君に恋して、U




伸ばした手が空を切る夢を、何度も見た。そのたびに、無力な自分を思い知る。
あんなにも、強くなりたいと願ったはずなのに。



あれから、一週間が経った。相変わらず、彼は暗くなっても電気をつけることをしない。おかげで、帰宅するとと見るも無残な部屋が目の前に広がっている。特に最近では、雨がずっと降っているせいで、部屋干ししていた洗濯物までぐちゃぐちゃになっている始末だ。僕はそれを、ため息をつきたくなるのを我慢して、片付ける。電気をつければいいのに、と思うけれど、今の彼にそれを強要させるのは無理だし、したくはない。少しずつ、ゆっくりと、慣れていけば良い。そう思うから。
ただ、ほんの少し気を許してくれているのか、僕が言わなくても一緒に食事を取るようになった。食事中にもぽつりぽつりではあるが会話もしてくれて、ほんの少しくずぐったい気持ちになる。
こういうの、懐かない動物が懐いてくれたときに似ている。彼は人間だけれど、ときどきじっと僕の動きを見ているときがあって、本当に猫みたいだ。

そういえば、彼の名前は何て言うのだろう? 聞いてなかったな。もう少ししたら、聞いてみようかな。そんなことを考えながら、大学内のベンチに座って本を読んでいると、奥村君! と僕を呼ぶ声が聞こえた。顔を上げると、こちらに走り寄ってくる志摩君が見えた。

「志摩君? どうしたんですか?」
「ここにいはったんですね、ちょっと探しましたよ。えーっと、別に大した用事やないんですけど、今日の夜、一緒にご飯でもどうかと思いまして。坊たちも一緒なんやけど、奥村君もどうですか?」
「あぁ、今日の夜は……ちょっと……」

夜はなるべく早く帰らないと、彼が不安がってしまう。僕が少し笑いながら断りをいれると、志摩君はニヤリ、と性質の悪い笑みを浮かべた。……嫌な予感。

「なんや、奥村君、やっぱり恋人でもできはったん?」
「は?」
「いやぁ、隠さんでもええですよ。この恋愛の達人の目ぇは誤魔化せませんから! ずばり、奥村君、彼女さんでもできはったんでしょう?」
「………どこをどう見たら、そうなるんですか。違いますよ」
「またまたぁ。だってここ最近、講義が終わればそそくさと帰るし、やけに時計を気にしてはるじゃないですか。これは良い人でもできたんやないかって、坊たちとも話してたんですよ」
「はぁ」

何故か自慢げな志摩君に、僕はただただ呆気に取られるしかない。
まぁ、確かにここ最近、講義が終わればすぐに帰るし、時間だって気にしている。それはひとえに、今同居している彼の様子が気になるからで、彼女やら恋人とは違う。
だが、それをわざわざ説明するのは面倒だし、何より、彼の存在を迂闊に外に出すのは得策ではない。彼は【D】で、しかも研究所から逃亡してきた、いわば追われる身だからだ。
黙ったままでいると、志摩君はますます調子づいたらしい。やっぱり! と嬉々として絡んできた。正直鬱陶しいが、彼のこのノリは今に始まったことじゃないので、受け流す。
どこのどんな子なのかとか、色々聞いてきたが、軽く無視する。すると、僕が話す気がないことを悟って、最後には小さく笑っていた。

「でもまぁ、ほんま良かったですわ。奥村君に彼女さんができて。………………ほんまに」
「志摩君………」

懐かしむようなそれに、僕は彼の名を呼ぶことしかできなかった。意図してないとはいえ、彼を少し騙していることに罪悪感を覚えつつ、そっと瞼を閉じる。

…………―――、恋人、か。

僕には、縁の遠い話だ。


それから一つ二つと、とめどない会話をしていたら、志摩君が、そういえば、と思い出したかのように。

「噂のこと、知ってはりますか?」
「噂? なんのことです?」

この大学に関わらず、常に人の間には噂が流れている。それはくだらないものがほとんどで、僕は聞き流すに留めているが、妙に声を潜める志摩君の様子が気になって、僕は首を傾げた。
すると彼は、きょろきょろと周囲を見渡したのち、ひっそりと僕に耳打ちした。

「実は……―――」

その内容に、心臓が跳ね上がるのを覚えた。………まさか。
途端に顔色を悪くした僕に、彼は怪訝そうな顔をした。

「奥村君? どないしたん?」
「いえ…………」

なんでもありません、と答えながら、立ち上がる。

「奥村君?」
「すみません、用事を思い出しました。………失礼します」

えぇっ、と声を上げる彼を無視して、足早に帰路に急ぐ。
早く、早く帰らなければ。脳内でぐるぐると巡る志摩君の言葉が、僕の足を急かせた。

『なんでも、どっかのお偉い研究所から、危険な動物が逃げ出したとかで。この周辺にいるかもしれへんから知りませんかって、その研究所の人が聞きまわってるらしいんや。でも、一部の人間は、それは動物やのうて……………【D】やないやろかって、噂してるんです』





息を切らせて、走る。まさかこんなに早く追っ手の姿がちらつくなんて。ぐっと唇を噛み締めた。もう少し、時間がかかると思っていたのに。苦々しい思いが、込み上げる。
研究所。【D】。思い出したくない、言葉の組み合わせ。ここから連想されるのは、一つしかない。

脳裏に過ぎる、嫌な映像。


『行くな!』

押さえつけられて、僕は自分の無力を知った。自分を拘束する人間に対して、初めて殺意を覚えたほど。そして何より、何もできない弱い自分が、一番、殺したいほどに憎かった。
行くな、行かないで、と叫ぶしかない僕に、振り返ったあの人は、しかし、誰よりも綺麗に笑っていた。

『…………―――』

あの人の唇が、言葉を紡ぐ。忘れたことはない。声も、口調も、全部覚えている。あの人は、あの時………―――。

「っ」

いやだ、と思った。
もう二度と、失くしたくないと思った。

振り返ったあの人の顔が、彼と重なる。もう、あんな想いは、二度と……―――。

脳裏の嫌な映像を振り払い、僕は必死に足を動かす。見慣れたマンションが見えて、慌ててセキュリティシステムに飛びつく。震える指で部屋の番号を押して、ゆっくりと開く自動ドアをこじ開ける。
そのままエレベーターに飛び乗って、半ば祈るような気持ちで、僕は階数の表示された掲示板を睨みつけた。
五階、と表示された瞬間、再びドアをこじ開ける。そのまま走って、部屋の扉に飛びつくと、急いで鍵を取り出した。何度か上手くいかなくて失敗したものの、どうにか部屋の鍵を開けて。

「………ッ!」

部屋に入った瞬間、僕は彼を呼ぶための名を知らないことに気付いた。ぱく、と叫ぼうとした唇が空を切る。こんなことなら、早く名前を聞いておけばよかった。後悔しつつ、僕はそっとリビングに向かって………―――。

「………ぁ?」

ハッと顔を上げた、驚いたような青の瞳。びくっ! と大きく肩を震わせたその姿を見て、僕は言葉を失くす。
彼は、僕が出かける前に干していた洗濯物を手にしていた。よくよく見ると、他の洗濯物も床に散らばっていて、ぐちゃぐちゃになったそれに、一瞬、頭に血が上る。
彼は暗闇が苦手だ。だから、電気もつけていない暗い部屋にいれば、いまだに錯乱してしまう。それはしょうがないことで、ゆっくり治していけばいいと思っていた。そのせいで部屋が散らかろうが、洗濯物が台無しなろうが、それは仕方ないことだと思っていた。
のに。

「なに、してるの」

自然と、声が固くなる。洗濯物を持ったままの彼が、大きく肩を震わせた。そんな仕草でさえ、今は、煩わしくさえ、思えて。

「…………面白かった? 君が散らかしたものを片付けている僕を見て」
「っ、………ち、ちが、」
「さぞ愉快だっただろうね、僕は君が自分の意思でそんなことをしているなんて知らなかったんだから。…………ほんとう、馬鹿みたいだ」

自嘲する。
数分前の自分は、なんて滑稽だったんだろう。あんなに心配して、大学からここまで必死になって帰ってきて。知りたくなかったことを、知るハメになるなんて。

「ほんとうに、」

声が、震えた。自分の馬鹿さ加減に。そして、気付いてしまったのだ。
僕は、目の前の彼のことを、少なからず想っていたのだと。
そうでなければ、こんなに、苦しいわけがない。あの人と彼を重ねるなんて、僕は本当に、切羽詰っていたんだろう。
………―――あの人と彼は、違うのに。

「………―――」

僕はそのまま、彼に背を向けた。これ以上彼を前にしていたら、僕はきっと、彼を傷つけてしまう。たとえ裏切られていたのだとしても、僕はそんなことはしたくなかった。

「ぁ………、」

背後で彼の声がした。だけど、僕は振り返ることなく、マンションの部屋を後にする。
ばたん、と背後で扉の閉じる音が、した。

マンションを出ると、空にはどんよりとした雲がかかっていた。焼けたアスファルトのような匂いが、鼻についた。あぁ、雨が降るな、と空を見上げてぼんやりと思う。
でも、頭を冷やすにはちょうどいいかもしれないな。そんなことを考えて、どこに行く宛もなくふらりと歩き出した。

三十分ほど適当に時間を潰した僕は、さてこれからどうしようかと考えた。正直、彼と今までのように生活するのは無理だ。だが、彼をここで追い出すこともまた、できない。
一体どうすれば、と考え込んでいた僕は、そのとき前から歩いて来た人物に気付かずに、肩をぶつけてしまった。

「あ、すみません」
「いーえーこちらこそ」

間延びした女性の声。ちらりと顔を見やって、見覚えのある顔に、思考が停止する。

「な、」
「よー、ひっさしぶりだにゃあ」

呆然とする僕に、彼女、霧隠シュラはへらりと緩んだ笑顔を見せた。

「あいっかわらず、辛気臭ぇ眼鏡だにゃあ。雨が降りそうだってのに、傘も持たずにお散歩か?」
「……………―――別に、僕の勝手でしょう」
「だな。好き好んで雨に打たれようなんて考える馬鹿のことなんて、アタシにはさっぱりだよ」

ひょいと肩を竦めた彼女は、どこか楽しげな顔をして唇を歪めると、ぽん、と僕の肩を叩いた。そして、馴れ馴れしく僕の方に擦り寄ってきて、ひっそりと耳打ちする。

「んじゃま、とりあえずどっか二人きりになれる場所、行こうぜ。……―――お前んチにいる迷子の子猫ちゃんにも、用があるんでね」

その言葉に、やはり、と手のひらを握り締める。大学内で聞き込みをしていたのは、彼女だ。
彼女は僕から離れると、さっさと歩き始める。ここで逃げたとしても、きっと意味はない。僕はとにかく、彼女についていくしかなかった。





「だからって、なんでここなんですか………」
「えー、いいじゃん別にー。アタシ、日本(コッチ)は久しぶりなんだよ。あっ、お姉さん、ビールお願いー」

にゃはは、と豪快に笑った彼女は、店員の女性にさっそくビールを頼んでいた。
彼女に連れられて入ったのは、一件の居酒屋だった。路地裏にひっそりと佇むこの店は、どうやら彼女の行きつけらしい。店員が彼女の顔を見るなり、さっさと奥の部屋へと案内していた。
僕は昼間からビールを注文する彼女の神経を疑いつつ、お冷を仰ぐ。

「それに、ここじゃ誰かに話を聞かれるんじゃないんですか」
「心配ご無用。ここはちょっとワケありの店でな。………―――【D】の連中が経営してんだ」
「!」

ハッと彼女の顔を見れば、彼女は悪戯が成功した子どものような顔で笑った。
なぜ、どうして。どうして彼女が……―――。

「なんで、って顔してんな。どうしてアタシが、【D】の連中を前に何もしないのかって」
「…………えぇ、そうですね。是非、理由をお聞きしたいですね。貴女が、…………………研究所の構成員である霧隠シュラが、どうして彼らを野放しにしているのか」

答え次第では、絶対に許さない。
鋭く彼女を睨み付ければ、怖い怖い、と苦笑された。全く怖がってもいないくせに。内心で舌打ちする。

「んー、まぁ、ここの連中は【D】の中でも軽症の方でね。研究所ではもう調べつくしたレベルだったから野放しにしてるってのもあるけど。………まぁ、アタシにも、色々あったんだよ」
「………色々、ですか」
「そ、色々。そりゃ、あれからもう三年も経ってるんだ。アタシだって変わることもある。なぁ、雪男。お前、まだアタシを、恨んでいるか」
「…………――――」

真っ直ぐに問いかけてきた彼女に、僕はそっと目を閉じる。

『………―――行くな!』

あの日の自分の声が、蘇る。暴れる僕を押さえつけて、自由を奪ったのは他でもない、彼女だ。
いくらあの時僕が今よりも年が若かったとはいえ、成人に近い男性を一人で抑えこむなんて、女性とは思えない人だ。
だが。

「僕は最初から、貴女を恨んではいませんよ」
「うそこけ。アタシのこと、殺さんばかりに睨んできたくせに」
「………。それは、まぁ、確かに多少は、恨んでいるのかもしれません。ただ、」
「ただ?」
「…………――――、忘れて、と言われました」

彼女が、ハッとしたように目を見開いた。そう、あの日、あの場所に居たのなら知っているはずだ。
あの人の、最後の言葉を。

「自分のことは忘れてほしいと、あの人は言いました。それがあの人の望みならと、僕は何度も忘れようとしました。………―――だけど、三年経った今も、忘れられずにいる」
「雪男………お前………」
「あの人に、そんな言葉を最後に言わせてしまったことが、そしてその言葉を守れない自分が、たぶん僕は何よりも許せないんだと思います」

あの人は、最後まで笑っていた。たぶんそれは僕の為で、………―――僕のせいだった。あの人は最後まで、自分のためには泣かなかった。
そのことが、どうしても、僕自身を許せなくさせていた。

「…………だから、でしょうね。研究所から逃げてきたであろう彼を、守りたいと思ったのも」

小さく震えていた、僕よりもいくらか小さな体。怯えたように体を固くしながらも、決して泣こうとはしない気丈な青の瞳は、あの人によく似ていた。そして、あの人を失ったばかりの僕にも、似ていた。だから、放っておけるはずも、なかったんだ。
苦笑する僕に、彼女は呆れたように眉根を寄せていた。

「……―――お前はつくづく難儀な野郎だよ。自分から厄介なもん拾うなんて、正気とは思えない」
「でしょうね。おかげで、手痛い目に遭いました」

なんのことだ、と首を傾げた彼女に、ことのあらましを話した。拾った猫に手を引っかかれた、と。すると彼女は、きょとりと目を瞬かせたのち。

「そんなこと、アイツがするかねぇ」
「え?」
「アタシはアイツのことは研究所にいたときから良く知ってる。けど、お前の言うようなことができるような、賢い奴とは思えないけどな」
「それは、どういう………?」
「んー、つまり、もう一回、ちゃんと話し合えってこった。お前、アイツの話も聞かずに出てきたんじゃねーの?」

図星だ。彼の言葉を聞きたくなくて、つい逃げるように出てきてしまった。
黙り込む僕に、やっぱりにゃあ、と豪快に笑って。

「アイツは、お前の言うような、人の心を踏みにじって嘲笑うような奴じゃねーよ。ちゃんとアイツの話を聞いてやれ」
「でも、貴女は、」

彼を連れ戻しに来たんじゃないのか。
言外にそう言おうとした僕を、彼女は苦笑交じりに答えた。

「んな野暮なマネできっかよ。それに、言ったろ。アタシも色々あったんだって」

好きにしろよ、と言われて、僕はじっと考え込んだ。本当に、彼女の言うことは正しいのだろうか。もし、もし彼が、何か理由があってあんなことをしていたのだとしたら………?
僕は急に、落ち着かない気持ちになる。そわそわと落ち着きのない僕に、彼女は呆れたように。

「ほら、早く帰れよ。こうしてアタシがお膳立てしてやったんだ。上手くやれよ」
「…………すみません」

一言彼女に礼を言って、立ち上がる。店を飛び出すと、すでに雨が降っていた。激しい雨に、視界は悪い。だが、それでも足を止めることはしなかった。今日で何度目だろう。こんなに、息を切らせて走るのは。
そんなことを頭の片隅で考えながら、僕は再びマンションに向かって走り出した。





「………――――――、上手くやれ、か」

店に残された彼女は独り、呟く。慌てて出て行った男の背中を見送って、小さく、苦笑。

「アタシも、酷なことを言うようになったもんだ」

それでも、と彼女は思わずにはいられない。
あの男が忘れられないと言ったように、自分もまた、彼女の残した最後の遺言を、できれば守ってやりたいのだ、と。

「すまねぇな。………―――、燐」

それは、誰に向かって紡がれた言葉なのか。彼女自身も分からないまま。
ガラにもないことを考えて、ビールを仰ぐ。一気に飲み干して、空のジョッキをテーブルに叩きつける。

「お姉さん、おかわり!」

辛気臭い気分のときは、飲むに限る。彼女は一人で頷いて、今度はあのビビリ眼鏡のおごりで飲もうと決意した。







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