君に恋して、W






愛を知る人間は、二度と、愛を知らない人間には戻れない。





「あ、どうも☆ お邪魔していますよ」
「………」

寝室から出てリビングに戻ると、自分の家でくつろいでいるような顔で、一人の男がソファーに座って呑気に紅茶を啜っていた。気が違っているのかと思いたくなるような、どキツイピンクの正装に身を包んだおっさ、………男だ。頭痛を覚えて、とっさに頭を押さえる。いつの間に、だとか、どうやって入った、とか、言いたいことは山ほどあったが、経験上、この男には無意味な質問だということも理解していた。
男、メフィスト・フェレスは、お元気そうで、と嫌そうな顔をする僕を見て笑った。

「相変わらず、仕事に疲れたサラリーマンのような顔をしていますね、貴方は」
「それで、用件はなんですか」
「おや、つれない」

ひょい、と肩を竦めたフェレス卿は、しかし次の瞬間、にぃ、と笑みを深めた。

「彼の様子はいかがですか? 彼が研究所から離れて、約一ヶ月になりますからね。大丈夫なのだろうかと心配していたところだったんですよ」
「ご冗談を。貴方、いや、貴方がたは、彼らのことをなんとも思っていない。……心配なんて、するはずもない」

吐き捨てる。
眼の前の男が戯れに口にしたのだとしても、反吐が出そうだった。すると彼は、その得体の知れない光を宿した目を細めて。

「あぁ、【D】と呼ばれる欠陥品のことなら、私は一切興味はありませんよ。アレは、ただのガラクタです。ですが、彼は、」

瞬間。
僕は、懐に隠し持っていたそれを、目の前の男に向けていた。黒く鈍く光る、その銃口を。
かちり、と安全装置を外して見せれば、彼は目をぱちくりさせたあと、楽しげに両手を上げた。

「おやおや、怖い人ですね。このご時世にそのような物を持ち出すなんて。銃刀法違反ですよ」
「……―――黙れ」

低く、唸る。身体の奥底から、沸騰してしまいそうなほどの怒りが、こみ上げる。
許せない。目の前の男が、どうしても、許せない。今すぐにでもトリガーを引きそうな指を、しかし残った理性で必死に押しとどめる。
ぎ、と奥歯を噛みしめると、鉄錆の味が口の中に広がった。その痛みで、わずかに理性を取り戻す。それでも、頑なに銃口を向けたままの僕を、彼はじっと見上げていた。

「やはり、貴方はまだ引きずっているのですね。……三年前のことを」
「………」
「ですが、感情に任せて銃を向けるなど。…………―――まるで、あの頃の貴方にそっくりだ」
「………?」

ふ、とどこか懐かしむような目をした彼は、しかし次の瞬間、その姿が消えていた。銃口の先が、目標を失い、揺れる。

「っ!?」
「しかし、銃口を向ける相手は、慎重に選ばなければなりませんよ。向けた先が狩られる側だと決まったわけではないのですから」

低く笑う男の囁く声が、背後から聞こえる。僕はその時、ぞくり、と言いようのない寒気が背筋を駆け抜けるのを感じた。
何か。得体の知れない何かが、後ろに、いる。聞こえてくるのは確かに、あの男の声なのに。
ごくり、と唾を飲み込む。前にも後ろにも行けずただ佇む僕に、背後の男は。

「と、いうわけで。これは没収です。―――……1、2、3☆」
「えっ」

ぼふん、と煙を上げて、手の中の銃が消える。

「えっ、あ………!」
「こんなところでぶっ放されても迷惑ですしね。これは、来るべき時が来たらお返ししますよ」

空になった手を、呆然と見やる。そんな僕を無視して、フェレス卿は再びソファーに座ると、何事もなかったかのようにカップに手を伸ばしていた。銃はどこにも見当たらない。僕は得物である銃を奪われ、毒気も抜かれてしまい、力なくソファーに沈んだ。頭が、痛い。

「フェレス卿、貴方、本当に人間なんですか? どうにも、人間離れしすぎているような気がするんですが」
「ええ、もちろん。私はあくまで、――――っと、これはパクリですね。危ない危ない。現代は二次元でさえ著作権がどうの、喫煙がどうのという時代ですからね。気を付けなければ。………おっと、話が逸れました。私は人間ですよ。………この時、は、ね」

にやり、と悪魔よりも悪魔らしい笑みで、フェレス卿は嗤った。その笑みに、明確な答えをくれたわけではないことを知って、再び、ソファーに沈む。
それで、とソファーに沈んでいる僕の前に座り直したフェレス卿は、ちらりと寝室の扉を見やった。

「彼の具合はどうですか? 私の言った通り、良くなったでしょう?」
「………えぇ」
「やはり、ね」

ふふ、と心底楽しいと言わんばかりにフェレス卿は口元を緩める。分かり易いですねぇ、と呟いて、ティーカップを置く。
その仕草に、僕はふと、疑問に思った。先ほどは頭に血が上っていて気付かなかったが、冷静に考えてみれば、可笑しい。フェレス卿は、【D】たちのことには興味がないと言った。欠陥品、と蔑みさえした。それなのに、【D】である彼のことは、体調を心配し、こうして自ら出向いてみせた。
………ということは、彼には、そうするだけの何かがある、ということで。

「………フェレス卿。……彼は、」

……―――いったい、何者なのか。

問いかけようとした僕に、フェレス卿は、おや、という顔をした。

「何か、気になることでも?」
「いえ………、ただ、」

僕は、思い出す。必死にこちらに手を伸ばす、青の瞳を。

『………っ、いやだ、っ、はなすな………――――――――――、雪男っ』

苦しげに、切なく、ただ僕だけを見上げる、その瞳。ゆらゆらと揺れて、それはとても綺麗で。
………―――胸が、くるしくなる。何か、大切な何かが、あるような気がして。だけどそれは、手を伸ばせば伸ばすほど、遠くなる。

「、っ、………彼は、」

知りたい、と思った。彼が何者で、どうしてこんなにも、僕の心を揺さぶるのか。知らなければ、と。
しかし、そんな僕の様子を眺めていたフェレス卿は、にやにやと笑うだけで答えをくれない。苛立ちに内心で舌打ちしていると、まぁ落ち着いて、とフェレス卿は何もかも見透かしたように僕を宥めた。

「………―――昔話を、しましょうか」
「昔話には興味はありません」
「まぁそう言わずに。聞いて損はないと思いますよ? なにせこの話は、研究所内でも滅多に聞けない話なのですから」

ハッと僅かに目を見開く。研究所内でも滅多に聞けない話。つまり、国家規模で秘匿されているもの。それはこの流れから言って【D】関連であることには間違いない。

「どうです? 興味が出てきたでしょう?」
「………ええ」

僕の関心が向いたことを見透かしたように、フェレス卿はにやりと笑って、いいでしょう、と頷いた。

「さぁ、お涙頂戴の物語の開幕です☆」





昔、昔、今よりもずっと昔。悪魔の王様は言いました。

『合わせ鏡の向こう側が、ほしい』

自分の思うがまま、どんなものでも手に入れてきた悪魔の王様が欲しがったものは、悪魔の世界と合わせ鏡のように存在するもう一つの世界でした。その世界はとても美しく、王様はその世界が欲しくてたまりませんでした。
ですが、合わせ鏡の世界は美しいあまりに脆く、王様が触れると一瞬で灰になってしまうものばかり。王様は考えました。どうにかして、あの世界を手に入れられないものか。

そうして考え付いたのが、その世界の住人との間に子どもを作り、その子どもの体が大きくなるまで待つことでした。自分の血を持つ、その世界の住人の子。その体が手に入れば、壊れることもないだろう、と。
そして生まれた王様の子どもは、その世界の住人として育てられました。自分が悪魔の王様の子であることを知らずに。しかしある日、王様の子どもは悪魔の息子として目覚めてしまい、自分が何者であるのかを知りました。

知って、自らを生み出した父親を、倒そうと決意します。王様の子どもは、合わせ鏡の世界が大好きでした。だから、その世界をめちゃくちゃにしようとしている王様から、世界を守ろうと決意したのです。

王様の子どもは、それから必死に戦いました。仲間を増やし、悪魔の王様から世界を守ろうとしたのです。
そうしてとうとう、悪魔の王様と対決することになりました。王様の子どもは、必死に戦いました。ですが、王様の力は強く、仲間達もたくさん傷ついて、倒れていきます。
このままでは仲間達はおろか、この世界も危険に晒されてしまう。そう考えた王様の子どもは、王様に向かってこう言いました。

『この体を差し出すかわりに、仲間達を、この世界を壊さないと約束してほしい』

王様の子どもは、自分の体を王様に差し出すことで、仲間を、世界を救おうとしたのです。
王様は彼の提案に頷き、その体に乗り移りました。ですが、悪魔の王様はもとから約束を守る気などなく、彼の体を使って世界をめちゃくちゃにしてやろうと考えていました。
そのことを知った王様の子どもは………―――。


…………どくん、と。


そのとき、僕の心臓が大きく高鳴った。
嫌な、予感。それ以上、この話を聞いてはいけないという、予感。それはじりじりと大きくなって、じわりと嫌な汗が全身から吹き出すのを感じた。
僕は、知っている。この物語の、続きを。だけど、どうして。どうして知っている。分からない。だけど、酷く嫌な予感だけは、ひしひしと伝わってくる。まるで、得体の知れない何かが、背後から近づいてくるような、そんな、予感。
思わず、手のひらに力がこもる。フェレス卿は一度言葉を止め、僕の様子を楽しげに見やったあと、歌うように続きを口にした。

「『――――……持っていた剣で、己の心臓を貫いたのです』」


どくん、とまた、心臓が嫌な音を立てる。





ふ、と何かに呼ばれたような気がして、目を覚ました。
夢を、見ていたような気がした。とてもしあわせで、あたたかな夢。その中の『俺』はいつも笑っていて、隣にいる誰かに向かって、怒ったり笑ったり、くるくると表情が変わって忙しかった。隣にいたのは、誰だったんだろう。顔がよく見えなかったけれど、しあわせそうに、大切そうに『俺』の名を呼んでいたことだけは、分かった。
もし、この世界に幸福というものがあるとするなら、きっと、あの二人の間にこそあったんじゃないだろうか。そんなことを思うくらいに、見ていた夢はあたたかくて、………だけどとても。

「………っ、なん、だ、これ………?」

ゆら、と視界が揺らいで、びっくりして手をやると、濡れていた。どうしてこんなところが濡れているんだろう。不思議で、びっくりして、俺はじっと自分の濡れた指先を眺めた。
つん、と鼻の奥がいたい。なんだろう、病気かな。でも俺は病気になってもすぐに治るから、きっとこの鼻の奥の痛みも、胸の奥がひりひりするのも、すぐによくなるはずだ。

「………ぅ」

じり、と心臓辺りが傷む。どうしたんだろう。不思議に思って、着ていたシャツのボタンをどうにか外す。そういえば、ボタンの外し方も、あいつが教えてくれたんだっけ。ふわり、と少し心臓の痛みがひいたような気がした。
ホッと息をつきつつ、そっと心臓辺りに指を這わせて、気付く。

「………? これ………?」

心臓のド真ん中に、長細い傷ができていた。こんな傷、今まであったっけ? よくよく思い出そうとしても、上手く思い出せない。あったかもしれないし、なかったかもしれない。
よく分からなくて、俺は考えることを止めた。心臓の痛みはひいていて、ゆっくりとシャツのボタンをかけ直す。何度か失敗したけど、じょうずにできたと思う。あいつに言ったら、褒めてくれるのかな。こんなことできて当たり前だよ、って呆れるかな。でも、どっちでもいい。あいつが、俺に目を向けてくれるなら、どっちでも。
だから………―――。


「っ、ちがう!」


悲鳴のような声が聞こえて、びくっ、と体が震えた。初めて聞いた、あいつの大きな声。俺はどきどきと大きく高鳴る心臓を押えて、そっとべっどから抜け出した。裸足のまま、ぺたぺたと扉まで歩いて、そっと耳を澄ます。

「どこが違うというのです? これは私の知る全てであり、事実です」
「違う! それは違う! だとしたら、どうして彼らは人間との間に生まれるのですか! 色々と可笑しいじゃないですか!」
「可笑しくなどありませんよ。人間が人智を超えた力を手に入れようとした結果です。……まぁ私からすれば、何の利も生まない、ただの玩具が出来上がっただけにすぎないと思いますがね」
「っ、だ、としても! 貴方の話が本当だったとしても、僕は認めるわけにはいきません! まさか―――………【D】が本当は人間ではなく、悪魔だった、なんて!」

………―――、あくま。

扉越しに聞こえて来た言葉に、俺の頭の中が真っ白になった。
【D】が、本当は、人間じゃ、ない。悪魔。人間じゃない、悪魔。化け物。

あぁ、そうか。
おれはやっぱり、ばけもの、なんだな。

体の力が上手く入らなくなって、その場にへたりこむ。あ、また、視界がゆれる。ぽた、ぽた、と目から水が流れてくる。瞼と鼻の奥が痛い。だけど、どうしようもなく、……むねのおくが、いたい。

「っ、そ、か、おれ………、ばけもの、なんだ」

人間じゃ、ない。
あいつが言ってくれた人間じゃ、なかった。
あぁ、そっか、だから目から水なんて流れるんだ。化け物だから。だから変な所から水が出てくるんだ。
そう思うと苦しくて、なんとか水を止めたいのに、ますます溢れてきて止まらなくて。それが、俺が人間ではないという事実を突きつけているような気がして、苦しかった。

俺が、人間じゃないというのなら。
あいつの言ってくれた人間じゃないというのなら。

もう、ここにはいられない。
あたたかくて、やさしくて、だから、もう、ここにはいられない。

だって俺は、ばけもの、だから。

「っ、ごめ、ごめん、なさい。………人間じゃなくて、ごめんなさい」

ばけものなのに、あの夢みたいにしあわせになりたい、だなんて。
それこそ、夢、だったんだ。


つづく






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