君に恋して、V




ここには、だれも、いない。




………―――あいつ、なきそうなかお、してた。

呆然と、閉められた扉を見つめる。少し前にあいつが帰ってきて、また出て行った扉。ここを出て行くとき、あいつはなんだか泣きそうな顔をしていて、それはおれが傷つけたせいなのだと、きづいていた。
………―――やっぱり、いや、だったんだな。おれが、これにさわるの。
手の中のものを見つめる。これはいつもあいつが出かける前に部屋に干していくもので、帰ってきたらすぐに干していたものを畳んで、どこかに持っていく。
その間、自分が散らかしてしまったものを片付けたり、飯を作ったり、とにかく帰ってきてからのあいつは忙しく動き回っていて、時折、疲れたようにため息を吐いている姿を見たことがある。その姿に、いつしか胸の奥が苦しくなるようになった。

………―――あいつは、おなじだって、いってくれた。

化け物だと言われ、化け物は化け物らしくしていろと鎖で繋がれて、痛い思いも沢山した。だけど普通の人間なら死んでしまう怪我も、おれは一瞬で治る。その姿を見て、誰もがまた、化け物だとおれを呼ぶ。
かなしい、とは思わなかった。ただ、やっぱりおれは化け物で、たとえ姿や容は同じでも、人間にはなれないんだって、それだけが、胸の奥で鉛のように沈んでいた。
それなのに、あいつは自分と同じ人間だと言い、温かいご飯をくれた。苦い、薬のにおいのするご飯じゃなくて、温かくて、美味しいごはんを食べさせてくれた。
一緒に食べよう、って言って、同じテーブルに座らせてくれた。ご飯は手で食べるんじゃなくて、こうして食べるんだよ、とすぷーんをくれた。
暗闇が怖いおれに、暗くなったら電気を付けていいんだよ、とあいつは笑う。だけど、電気を付けたら金が掛かるって、施設の連中が言っているのを聞いたことがある。化け物の為に鐘を使うなんて、資源の無駄だよな、と。だから化け物のおれは、どんなに怖くても電気はつけないでおこうと思った。………きらわれたく、なかった。
だってあいつは、はじめておれを、人間だと言ってくれた。そんなあいつの負担になることだけは、したくない。何か、できることはしてあげたい。おれは何にも持っていないけれど、簡単なことなら、きっとできるはずだ。
そう思って、太陽が明るいうちに、部屋の中をうろついてあいつのためにできることを探してみた。そして、気付く。あの干してあるものを、あいつみたいにキレイに畳んでおけば、きっとあいつの負担は減るだろう。
そうしたら、少しは喜んでくれるだろうか。あの優しい笑顔で、笑ってくれるだろうか。
おれはあいつがやっているのを見よう見まねでやってみた。けど、結局いつも上手くいかなくて、失敗する。
ぐちゃぐちゃになったものを前に、おれはいつも苦しくなる。どうして上手くできないんだろう。これじゃあ、またあいつに迷惑をかけてしまう。優しいあいつの力に、なりたいのに。たったこれだけのことができないなんて、やっぱりおれは化け物なんだ。

「…………っ」

苦しい。胸の奥が、苦しい。こんなこと、初めてだった。苦い薬を飲んだ時も、鎖で繋がれて殴られたときも、こんなに痛い想いをしたことはなかったのに。
もしかしたらおれ、死ぬんだろうか。このまま、死んでしまうんだろうか。
あぁ、でも、役立たずなおれが死んだら、もうあいつが帰ってきてため息を吐くことも、あんな風に苦しそうな顔をすることも、なくなるのかな。

だったら、そのほうが、ずっと、ずっとマシだ………―――。

胸の苦しさに、うずくまる。冷たい床の感触が、頬から伝わってくる。あぁ、ここにはだれもいない。
だれも、いない………―――。
そっと、目を閉じる。

「…………―――、」

唇が、何かの言葉を呟く。けど、おれは自分がなにを言っているのか、分からなかった。誰かを呼んでいることだけは、分かる。でも、だれを?

「……―――、お」

手が、無意識のうちに持ちあがる。必死に手を伸ばして、何かを求めている。誰かの名を呼んで。でも、だれを? 何を求めてる? おれには、なにもないのに。

「………―――、きお」

意識が遠のく。あぁでもおれはまだ、手を伸ばしたままだ。けど、伸ばしたその手を、掴む人がいないこともまた、おれは知っていた。むだ、なのに。だれも、ここには、いないのに。
どうして………?

「………―――、ゆきお」

おれは、知らない人間の名を呼んで、そのまま意識を失った。誰かがおれを呼んでいたような、そんな気がしたのだけれど、でもきっとそれは、気のせいだ。

だってここには、だれも、いない。





「………―――くそっ」

僕は一人、寝室に座り込んで悪態をつく。ベッドの上には顔色の悪い彼がいて、苦しそうに息を吐いていた。その横顔に、苦々しい想いが込み上げてくる。

「僕はいったい、何をやっているんだ………!」

急いで帰ったマンションの部屋で、ぐったりと倒れている彼を見たときに、心臓が止まるような想いがした。慌てて近づいた彼は顔色が悪く、呼吸も浅い。抱き起した体は異様なほど冷たくて、まるで氷を抱いているみたいだった。
【D】であり、研究所から逃げ出してきた彼を病院に連れて行くわけにはいかない。かといって、このままにしておけば命が危ない。せめて、治療器具さえあれば、と苦虫を潰した思いでいると、携帯が鳴った。知らない番号。こんな時に、と思ったものの、僕はもしかしたら、とその電話に出た。相手は、思った通りの人物。

『………―――お久しぶりですねぇ、奥村くん☆』
「――――――、そうですね、お久しぶりです。………メフィスト・フェレス卿」

苦々しく返事を返せば、何が楽しいのか、電話の相手は喉を鳴らして笑う。シュラさんは、三年もあれば人は変わるというが、この人だけはいつも変わらない。飄々として、掴みどころがない。もしかしたら年を取っていないのでは、と思うこともあるくらいだ。

『さて、久しぶりの再会を祝いたいところですが。残念ながらそれはまた今度にしましょう。………彼、生きてますか?』
「どうにか、と言ったところでしょうか。一時間くらい前までは元気そうだったんですが、帰ったら倒れていて。脈は浅いし、体温も低い」
『ふむ、なるほど。……………となると、やはり、そうか。…………分かりました。奥村君、大丈夫ですよ。彼はその程度では死にません』
「っ」

きっぱりと告げられて、怯む。何が、大丈夫なんだ。こんなに苦しそうで、顔色もなくて、今にも呼吸が止まってしまいそうなのに……!
ぎり、と携帯を持つ手に力が入る。怒鳴りつけてしまいそうな僕を、しかし彼は分かっているかのようで。

『まぁそう怒らないで下さいよ。私としても、貴重な存在である彼を失うわけにはいきませんからね。それに、彼のその症状なら、すぐに治まるはずです。………貴方がいるから、ね』
「…………? どういう意味ですか、それは」
『ほら、人間の言葉にもよくあるじゃないですか。病は気から、と』
「ふざけないでください」
『ふざけてなど。現に、ほら、彼、少し良くなっていませんか?』
「そんなわけ……―――」

何を言うんだ、と呆れつつ、抱き込んだ彼を見下ろす。そして、違和感。心なしか、さっきよりも呼吸が戻っているような、そんな気がするのだ。

「………これは、」
『ね☆ 言った通りでしょう?』

クスクス、と電話口で笑った彼は、驚く僕を無視して。

『まぁ、このまま休ませておけばすぐに良くなるでしょう。私ももう少ししたら様子を見に伺いますから。……あぁ、そうそう、お茶菓子は貴方のマンションの近くにあるケーキ屋の「季節限定フルーツたっぷりとろとろタルト」でかまいませ』

電話口の向こうで相手が何か言っていたような気がしたが、僕は無視して電話を切った。余計に疲れたような気がして、がくりと肩を落とす。

「相変わらずだな、あの人は……」

頭が痛い。だが、今はそれよりも彼のことだ。僕は抱えた体をそっと抱きしめて、ベットへ運んだ。心なしか、また顔色が戻っているように思う。フェレス卿の言葉を信じるわけではないが、もしかしたら本当に、治ってきているのかもしれない。

「…………、」

よかった、とホッとするよりも前に、どうして彼がこんなになるまで放っておいたんだと、自分が嫌になる。もしかしたら、僕が知らないだけで、【D】である彼には食べてはいけないものでもあったのかもしれない。普通の人間にだってアレルギーはある。それに、【D】は感染症の一種だ。つまり、病気である。もしかしたら、投与しなければならない薬があるのかもしれない。

悔しい。僕は【D】について、いや、彼らについて、何も知らない。
彼らのことを知るためには、医師免許を取得したうえ、さらに専門の国家試験に合格しなければならない。そこで初めて、基本的な【D】についての情報を得ることができる。
【D】はそこまでしなければならないほど、情報を制限されている。それは逆に、ごく普通の民間人に【D】の正しい情報を与えず、両者の間に決定的な亀裂を生んでいることにもつながっている。
なぜここまで、情報を制御しなければならないのか。その理由は、未だに分からない。だが、それでも分かっていることがある。彼にも言ったことだが、【D】は。

「………ッ」

深く考え事をしていた僕は、彼がわずかに呻く声で我に返る。慌ててベッドを覗き込めば、額に汗を滲ませた彼が、虚空に向かって手を伸ばしていた。必死に、まるで、何かを求めるように。

「っ…………あ、………・・・っ」

色を失くした唇が、何かを紡ぐ。うまく聞き取れないが、空を掴むその細い手のひらがなんだか寂しげで、僕は思わずその手を取る。冷たい指先に、力を込めてぎゅっと握りしめる。少しでも、暖かさが伝わるように。
すると、彼は苦しげに歪めていた顔をホッとしたように緩ませて。その穏やかな安心しきった顔に、胸の奥が苦しくなる。

「………ッ」

ぎゅ、と強く手を握りしめれば、もぞり、と彼がベッドの上で動くのを感じた。す、とわずかに瞼が開いて、青い色の瞳が、現れる。

「あ、………―――、だいじょうぶ?」

名を呼ぼうとして、失敗する。やはり、名前は聞いておくべきだったな、と何度目かになる後悔をする。そっと覗き込んだ青の瞳は、僕を映してゆらりと揺れて、次の瞬間、大きく見開いた。

「あ、あ………っ! っ…………、」

今にも泣き出しそうに、青の瞳が切なく揺れる。え、と戸惑った僕は、一瞬、彼の手を離しそうになって、彼は慌てて、僕の手に縋り付いた。そして。

「………っ、いやだ、っ、はなすな………――――――――――、雪男っ」
「!」

切なく、まるで、身体が切り裂くような声で、僕の名を彼が呼ぶ。でも、どうして、彼が僕の名を知っている? 僕は、彼に名乗っただろうか? そういえば僕自身も、彼に名を告げていなかったような………。
戸惑いが顔に出ていたのだろう、僕の手を握りしめていた彼が、怪訝そうな顔をする。なぜ、そんな顔をするんだ、と言わんばかりに。しかし、それは僕の台詞でお互いにお互いの顔を見合わせて、なんだか不思議な空気が流れた。そのとき、彼が急に頭を押さえて蹲った。

「うっ、………あ?」
「え、あっ、だ、大丈夫っ?」

慌てて彼の背中をさすると、彼はハッと顔を上げた。その青い瞳には、先ほどまでの切ない色はなく、僕を認めて、そして自分が僕の手を握りしめていると分かると、慌てて手を離そうとした。
先ほどとは打って変わった態度に戸惑いつつも、僕は彼の手を離すつもりはなく、逆に強く握りしめると、困惑したような顔をした。

「あ、え、あ、」
「………体、大丈夫? どこまで覚えてる?」
「お、れ………?」

記憶が混乱しているのか、彼はうろうろと視線を彷徨わせた。その内、じわじわと思いだしてきたようで、彼は体を強張らせたあと、僕と距離を取ろうとした。だけどそれを許さずにいると、彼は視線を逸らせて。

「ご、ごめんなさ……っ、お、おれっ、おまえ、おこらせ、て………っ。ごめ、ごめんなさいっ……、おれ、ただ、おまえが、よろこぶかとおもって、………っ、」
「………え?」
「おれ、いつも………おまえがためいきついてんの、くるしくて……っ、だから、おまえがしてること、すれば、………おまえが、らく、できるかと思って、………でも、ぜんぜん、うまくできなくて………っ、ごめ、ごめんなさ、い」
「っ!」

息が、止まるような思いだった。
小さく震えながら、ごめんなさいと繰り返す彼を、僕は呆然と見下ろす。
彼は今、なんて言った? 僕が、喜ぶかと思って? 僕が、帰るとため息をついているのに気づいて、だから、楽ができるように………―――、?
何も言えずにいる僕を、彼は僕が怒っていると勘違いしたようで、くしゃりと顔を歪めると。

「こ、こんな、化け物が人間みたいにできるだなんて、おもって、ほんと、ごめんなさ、」
「っ、ちがう!」

とっさに僕は、震える彼の手を引き寄せて、抱き締めた。びくりと大きく体を震わせる彼を、強く、抱き締める。

胸が、苦しくて仕方ない。
……………いったい、だれが、言えただろう。

「それは、違う。違うんだ。………僕は、……僕の方こそ、ごめん。勝手に勘違いして、勝手に傷ついたと思って、勝手に、君を、悪者にしていた」
「っ、ふ、」
「ごめん、本当に、ごめん。…………でも、お願いだから、自分のことを化け物だなんて、言わないで。言ったでしょ、君たちは、」

…………―――誰かのために何かをしようとするその優しさを、化け物だと。

「………僕たちと同じ、人間だよ」

誰が、言えただろう。





電話を切った彼は、さて、と腰を上げる。彼が座っていたものは、今や物言わぬ屍と化していた。それはヒトの形をした、しかしヒトではないモノ。悪魔とは似て異なる、彼からすれば玩具にもならない、ただのガラクタ。
彼は壊れて動かなくなったそれを一瞥して、クク、と喉を鳴らす。

「人間とは愚かな生き物だな。………―――悪魔(私たち)に近づこうなどと、それこそ、白鳥の子が白鳥にしかならないように、醜いアヒルの子は、醜いアヒルでしかないというのに」

楽しげに笑いながら、しかし、彼の目は温度というものがなかった。

「………―――貴方は、こんな愚かで愛しい存在が、そんなに大切だったのですか」

だとしたら、嗚呼、なんと嘆かわしいことよ、末の弟。
お前の守った愚かで愛しい者たちが、人はおろか、悪魔でさえも脅かそうとしている。
そのことをお前が知ったら、はてさて、どうなるのだろう。

「やはり貴方は、私を退屈させない」

楽しげに彼は笑う。
そして、闇に溶けるようにして、彼はそっと姿を消した。残されたのは、人とも悪魔ともつかぬ、曖昧な生き物のなれの果てだけだった。








BACK TOP NEXT