三月九日。14




雨が、降っていた。
俺はその中を、ただ一人、傘も差さずに佇んでいた。
冷たい雨が全身を叩いたけれど、構うこともなく。
視界は零。ぼやけた世界の中で、俺はぽつり、と呟く。

ひじかた。

ただ、きつく手のひらを握り締めながら。



土方の異変に、俺たちは呆然としたものの、すぐに医者の男を呼んだ。俺たちの慌てぶりに何かを察したのか、先生は真剣な顔をして現れた。
声の出ていない土方を見て、わずかに目を見開いた先生は、すぐに土方の喉を調べた。

『精密検査をしないと何とも言えませんが、声帯に問題は無さそうですから、恐らく一時的なものでしょうね』
『それなら、土方の声は元に戻るんですか!』

俺が縋るようにそう聞くと、医者は小さく頷いて、しかし、と険しい顔で続ける。

『それがいつになるのかは、分かりません。明日かもしれないし、もしかしたら、一年後かもしれません』
『そんな……』

重たい沈黙が、俺たちの間に下りる。そんな中、土方はくいっと俺の手を引いた。そして、俺の手のひらに指を走らせて。

『だ い じ よ う ぶ だ』

大丈夫だ。

確かに、指がその文字を刻んで。
俺が驚いて土方を見ると、土方は小さく頷いた。心配すんな、と声にならない唇が、そう動いて。俺は堪らずに、土方の指を握り締めていた。
どうして、コイツばかりがこんな風になってしまうんだろう。俺は何故か悔しくて、唇を噛み締めた。

それから、目覚めたばかりの土方は、まだ体力が戻っていないのか、すぐに眠ってしまった。俺はその寝顔を見届けて、部屋を後にする。廊下には神妙な顔をした、ヅラや沖田君、ゴリラが居て。ゴリラが心配そうに診察室の扉を見た。

『トシ、大丈夫かな』
『……まぁ、命に別状はないみたいですしねィ。ただ、』

声が、出ないだけで。沖田君は、声を潜めてそう言った。
だけど、それは土方にとって、とてもショックなことだったに違いない。大丈夫だ、と言っていたけれど。きっとそれは強がりでしかないのだろう。そう俺の手のひらに走らせた指が、微かに震えていたから。

『……ッ』

俺はそれを思い出して息を詰める。
自分が、あまりも無力で。
何もできない自分が、無性に腹立たしかった。



とりあえず、今日のところは解散しよう、とヅラが言った。俺たちのデビューも近いし、先生だって油断ならない状態だ。少しでも休めるときに休んでおこう、と。
誰もそれに反対はしなかった。皆深夜遅くまで緊張状態を強いられていたワケだし。明日は休みだから、また明日集まろう、と約束して、解散した。
俺はその足で、先生の病室に向かう。先生は眠ったままで、かすかに毛布が上下しているのを見て、ホッと息をついた。
備え付けの椅子に座って、ぼんやりと先生の横顔を見つめる。そして、ベッドの端に伏した。

「先生、俺……、どうしたらいいんだろ……」

随分と、情けない声が出たと思う。こんな風に先生に縋るのは随分と久しぶりで、何となく懐かしい気分になった。

「大切な奴、守れなかった。それどころか、俺のせいで傷つけた」

ぎゅ、と布団を握り締める。まだ土方の指先の感触が残る、手のひらで。

「先生」

どうしよう、と俺は問いかけたけれど、先生は眠ったまま、答えなかった。



病院からの帰り道。いつの間にか降り出した雨の中、俺は傘も差さずに歩いている。
コンビニ寄れば傘なんていくらでも調達できたけれど、今夜だけはそうしたくなかった。何となく、雨に打たれたかったからだ。

「……―――」

土方は、俺を責めなかった。だから、せめて雨だけでも俺を責めて欲しかった。

『だいじょうぶだ』

そう言った土方。本当は、全然大丈夫じゃないはずなのに。大変なのは、土方の方なのに。
大丈夫じゃないよ、土方。そう言って欲しいんじゃない。本当は、全部を晒け出して責めて欲しかった。
そうすれば、俺はごめんねって言えたのに。

「……ッ」

だけど、土方は俺を責めなくて。それが逆に、俺を責めていた。

「……ごめん、土方、ごめん……」

何度言っても、足りないと思った。
俺が呟くようにごめん、と何度も繰り返していると、背後からバシャリ、という水の跳ねる音がして、ハッと体を硬直させた。
ボタボタと頭上で、雨の跳ねる音がする。雨に打たれていた体は、何かによって雨から遮られた。

「……濡れるぞ」

青い傘を差し出して、ソイツは―――……近藤は、ぽつりとそう言った。
俺は何も答えずに、歩き出す。また全身を雨が叩いたけれど、俺を追いかけて来た近藤によってすぐに傘の中へと戻された。
俺は軽い苛立ちを覚えた。俺は、今、雨に打たれたい気分なのに。どうして邪魔するんだ。
小さく舌打ちして、何だよ、と呟く。近藤は黙ったままで、それが更に苛立った。

「どうして、放っておいてくれねぇんだ。俺は、テメェに同情されるほど落ちぶれちゃいねぇよ」

苛々とした気分をそのままに、近藤にぶつけた。初対面の相手に対してそんな言葉を吐いたのは初めてで、言葉にした瞬間自分でも驚いた。
近藤は、そんな俺に淡々と。

「俺は、お前に対して同情なんてしてねぇよ」
「ッ」
「だけど、雨に濡れている奴が居たから、傘を差し出してるだけだ」

ただ、それだけだ、と近藤は言う。
その言葉に、コイツは凄いな、と単純に思う。俺が小さく、テメェは馬鹿ゴリラなんだな、と言うと、近藤はきょとん、とした後、声を上げて笑った。

「昔、トシにも同じことを言われたよ。『アンタは大馬鹿野郎だな』って」
「……、」
「トシは、意地っ張りで素直じゃないし、負けず嫌いだ。多分、今回のことだって、強がってるんだろうなって分かる。だけど俺ァ、それを見ていることしかできねぇ。トシが頭抱えて悩んでいる間も、俺は見守ることしかできねぇ。トシ自身が、そう望んでいるからな。……だけど、テメェは違うだろ?テメェは、トシと一緒に悩んでやってくれよ」

頼む、とゴリラはやけに真剣な顔でそう言った。俺はその言葉に、半分頬を叩かれたような気がした。
こんなところで一人で悩むな、と。一番苦しんで、悩んでいるのは土方なんだよ、と言われたような、そんな気がして。

「……ゴリラに指図されるまでもねーよ」

ふい、とそっぽを向くと、ゴリラはまた、声を上げて、そうかそうか、と笑った。
零だった視界が、その笑い声で少しだけ晴れたような気がした。悔しいから、絶対に礼なんて言わないけれど。




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