大人になる僕ら 前

兄さんは、僕というものを少し勘違いしているように思う。いや、僕というより、「弟」というものを、あまり理解していないんだと思う。例えば、朝学校に行こうとすれば。

「雪男!忘れ物ないか?」
「雪男!ほら、ネクタイ曲がってる!」
「雪男!今日の弁当、雪男の好きなやつ、入れといたからな!」

お母さんか。
こんな具合に、毎朝のように僕の世話を焼いているせいで、自分の準備が間に合わずにいつも遅刻する羽目になる。それが朝だけじゃなくて常にこんな感じで、いつも僕の世話を焼きたがる。
たぶん、僕が小さな頃は体が弱くて苛められていたし、兄さんの後ろを付いて回っていたからだ。だから兄さんは、「弟は守らなきゃいけないもの」っていう風に、勘違いをしたんだと思う。というか、双子なんだから年は変わらないのに、「守らなきゃいけない」って考えること自体、どうかなって思うけれど、そこは兄さん。何の疑問も抱いてはいない。
僕が正十字学園に入学して、寮生活になるって決まったときだって、「雪男は俺がいないとダメなんだ!」とか言ってしばらくの間反対していたし。神父さんが死んで一緒に正十字学園に行けるってなったときも、「雪男の世話は俺がするから!」って言ってたし。
本当、困った兄さんだ。だけど、それが嫌なわけじゃない僕も、相当だと思う。

そんなある日のこと。
学校の廊下を歩いていると、クラスメイトの女の子から声を掛けられた。

「ねぇ、奥村君」
「あ、はい、なんでしょう?」
「あ、あのね、今日は奥村君、お昼はお弁当持ってきてるの?」
「え?いえ、今日は持ってきていませんが」

兄さんが珍しく、お弁当を作る余裕がなかったらしく、申し訳なさそうにしていたのを思い出す。確かに、お弁当のことを持ち出したのは僕だし(※アニメ6話参照)、お互いに得だからと言ったのも事実だけど、でも無理をして欲しいわけじゃない。それに前の日は課題を解いててお弁当の準備をする余裕がなかったってちゃんと知っているし、いいよって僕は言ったんだけど、どうやら兄さんは責任を感じてしまったらしい。まぁ、確かに兄さんのお弁当を食べられないのは残念だけど、購買で何か買えば済む話だからそんなに気にしなくていいのに。
そんなことをぼんやりと考えていると、女の子はさっと頬を赤らめると、手に持っていたものを差し出した。嫌な予感。

「あ、あの、だったら、これ、食べていいよ!私、料理得意だから、作ってきたの」
「えっ、あ、や、その………」

差し出された可愛らしい包みに、しかし僕は顔を引き攣らせた。お弁当に関しては、嫌な思い出しかない。今でも少しトラウマになってるくらいだ。本当なら、断りたい。だけど、前回も断って大変なことになったんだ。どうしよう。包みを見て、心底困る僕。女の子の期待する視線と、妙な圧力を感じる弁当の包み。ひやり、と冷や汗が背中を伝った、その時。

「雪男っ!」

鋭い声が響いて、ハッと振り返る。そこには兄さんがむっとした顔で仁王立ちしていた。

「に、兄さん?どうし、」
「あのさ!俺、これから雪男と飯食うんで!」

弁当はあるから!と兄さんは言いながら、僕の腕を取る。そしてずんずんと歩き出した。お弁当を差し出したまま呆然としていた女の子が、むっと唇を尖らせてこちらを睨んでいるのを見ながら、僕は兄さんに引きずられるようにしてその場を後にした。
前を歩く兄さんの顔を見て、生徒たちが怯えたように道を開ける。元々目つきが悪いせいか、今の兄さんがひどく怒っているように見えるようだ。だけど、僕には分かる。兄さんは怒ってるんじゃなくて、拗ねているんだ。
何となく理由を察しているから、僕は大人しく兄さんに腕を引かれる。もし僕たちが兄弟じゃなかったら、大人しそうな生徒を引っ張る不良生徒の図に見えるだろう。僕たちを知らない何人かの、憐れむような視線が突き刺さる。
そのまま人気のない場所まで歩いた兄さんは、ぴたりと足を止めた。そして、唇を尖らせた顔で振り返ってきた。

「あのさ、雪男」
「うん、兄さん」
「この前も思ったんだけど!ああいうの、ちゃんと断れよな!お前が優しくて、断れないヤツだって知ってるけど、嫌なもんは嫌ってハッキリ言わねぇと、ダメなんだからな!」
「あー、うん、ごめんね、兄さん」
「ったく、これだから目が離せないんだよお前は!」

ぷすぷす言いながら、兄さんはしょうがないなって顔をする。兄ちゃんは心配だ!っていういつもの台詞を言いながら、はい!と紙袋を僕に手渡す。

「これは?」
「購買で買ってきた。今日は弁当準備できなかったろ?だから、早めに行っておいたんだよ」
「そっか、ごめんね。ありがとう」
「っ、別に、これくらい!俺は、お前の兄ちゃんなんだし!」

嬉しくて、照れているのを誤魔化すようにそっぽを向いた兄さんの、ちょっと赤い頬を眺めながら、僕はそっと目を細める。
昔は、兄さんがとても大きく見えた。大きくて、カッコよくて、憧れだった。僕にできないことをやってのける、スーパーマンみたいに思ってた。僕が頑張ったって敵わない人だって。
それは、今でも変わらない。この人には、色んな意味で僕は敵わない。だけど、大きく見えた兄さんの肩が、意外と細くて小さいことに気付いたとき、僕は思った。
あぁ、兄さんを守らなきゃって。
精一杯腕を伸ばして、僕を傷つけようとするものから守ろうとするこの人を、守りたいって。
祓魔師を目指すようになったとき、そう誓った。

そしてたぶん、そのときからだ。
僕が、この人のことを………―――。

「雪男?どうした?ぼーっとして」
「ん?なんでもないよ」

少し思考を飛ばしていた僕は、兄さんの声で我に返った。誤魔化すように笑うと、兄さんは首を傾げながらも、昼飯食おうぜ!と手短なベンチに座った。僕もその隣に座りながら、ゆっくりと兄さんとのお昼を楽しんだ。




そんなことがあった、数日後。相変わらず、兄さんの僕に対する「過保護」は続いた。何かがあれば心配そうな顔をして、大丈夫って笑えば安心する。単純だなって思うけど、そんな兄さんの笑った顔が僕には何よりも大事だった。
そんなある時、放課後のことだ。僕は職員室に呼ばれていて、その帰り道のことだった。放課後でいつもよりも人の少ない廊下を歩いていると、ふと窓の外に見知った顔を見つけた。兄さんだ。兄さんは少し俯いていて、ぼんやりと庭の隅に佇んでいた。どうしたんだろう?不思議に思って、窓を開けて声を掛けた。

「兄さん?」
「っ、あ、雪男っ?」

は、と顔を上げた兄さんの髪は、不自然に濡れていた。よくよく見れば、全身がびしょ濡れになっていた。周りを見渡してみても水場なんてどこにもなくて、僕はきゅっと眉根を寄せる。

「どうしたの兄さん。びしょ濡れじゃない」
「え?あっ、これ?実はさぁ、さっき中庭の噴水んとこいたら、滑って落ちちまってさ。結構人いたのに、恥ずかしいのなんのって!」
「…………」

あはは、と照れたように笑う兄さんに、僕の眉間に益々皺が寄るのを感じた。明らかに、何かを隠された。兄さんは単純だから、嘘を付いたらすぐに分かる。僕はちょっとイライラしつつ、窓枠に手をかけた。

「えっ、ちょ、雪男っ?あ、あぶな、」
「いいから、兄さんは黙ってて」

心配する兄さんを無視して、窓枠に足を掛けると、外へと飛び出した。一階なので、衝撃は軽い。そのままずんずんと兄さんの傍まで歩いて、その腕を取る。ひやり、と冷たい肌に、ぴくりと眉をひそめる。
機嫌の悪い僕を察したのか、兄さんは大人しい。普段は空気が読めないくせに、こういう時の兄さんは敏感だ。

「ゆ、雪男?なんか、怒ってる?」
「………別に。ほら、ちゃんと頭拭いて。風邪引いたらどうするの?」
「え、あ、うん……」

カバンからタオルを取り出して、兄さんの頭に被せる。タオル越しに、兄さんが頷くのを感じた。そのまま、くしゃくしゃと頭を拭いてあげる。されるがままになっていた兄さんは、しばらくの間そうしていたけれど、急に顔を上げるとニッと笑った。

「ありがとな、雪男。心配してくれたのか?」
「…………」

僕が怒っていた理由を、ずっと考えていたのだろうか。黙ったままでいると、兄さんは嬉しそうな顔をした。そして、頭を拭く僕の手にそっと手を重ね合わせて。

「でも、大丈夫だ!俺はお前の兄ちゃんだからな」
「っ」

ほら、そうやって。いつも、いつも。
俺は大丈夫だって言う。お前の兄ちゃんだからと言う。お前を守るんだって言う。
そう言われて、強がられて、嘘をつかれる僕のことなんか、何一つ考えずに。
兄さんを守りたいという僕を、いつだって突き放す。僕は………―――!

「兄さんなんかに守ってもらわなくても、いいよ」
「………え?」

思わず、口に出ていた。いつも飲み込んでいた、その言葉が。
は、と我に返ったときに見たのは、揺れる青い瞳と呆然とした兄さんの顔で。しまった、と思ったけれど、もう、これが潮時なのかもしれないと思った。いつだって兄さんは僕に対して過保護で、僕のことを守るべきものとしてしか見てくれない。そのことが、僕にとっては限界で。

「もう僕も、子供じゃないんだ。兄さんに守ってもらわなくても、僕はちゃんとやっていける」
「ゆ、きお………?」
「兄さん、僕は、兄さんに守られたいんじゃないんだ。僕は、」

兄さんを、守りたいんだ。

その言葉はあまりにも重く苦しくて、声にはならなかった。だけどその想いだけは伝えたくて、そっと兄さんの唇に自分のそれを重ねようとして。

「っ、い、やだっ!」

ぐい、と腕を突っ放されて、引き離された。あまりにも強く突き飛ばされて、つい、尻餅をついてしまった。その瞬間、兄さんのひどく傷ついた顔が目に焼き付いて。
「っ、ごめん!」
「、あ、兄さん!」

慌てて立ち去ってしまった兄さんを追おうとして、足が立たないことに気付いた。小さく震える自分の足に、はは、と自嘲する。
兄さんに突き飛ばされたからじゃない。兄さんに拒絶されて、そして、傷つけてしまったことに、僕は動揺しているようだ。
足に力が入らない。小さく震えるそれを見て、ぎりっと奥歯を噛みしめる。

「なにが、守りたい、だ」

そんな相手を傷つけたら、本末転倒じゃないか。

吐き捨てて、去っていた兄さんを想う。きっと、とてもびっくりさせた。とっさに自分の力の制御を忘れるくらいだ。びっくりさせたし、怖がらせたと思う。だから、僕が傷つくことなんてないはずなのに。あのときの兄さんの声と、瞳が、焼き付いて離れない。

「………―――っ、兄さん………っ」

兄として、あの人を好きになればよかった。
ただの兄弟として、あの人を守りたいと思えればよかった。
そうしたらこんな苦しい想いも、あんなに傷つけることもなかった。

だけど………、ごめん、兄さん。


「………――――――すきだ」


この想いは、捨てきれない。


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