大人になる僕ら   中

どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。

頭の中はぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで。自分でもどこをどう走っているのか、どこに向かっているのか、何も考えずに、とにかく俺は走っていた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。

双子の弟に、…………、されそうになった。

びっくりして、つい、突き飛ばしてしまった。悪魔の力を持つ俺が、思いっきり。そしてアイツは後ろに尻餅をついてしまって、呆然と俺を見上げていた。
傷つけた。俺は怖くなって、それ以上その場にいることができなくて、逃げてきてしまった。
雪男は大丈夫だろうか。怪我してないだろうか。心配ばかりが頭を過ぎるけれど、戻るのも怖かった。

『兄さんなんかに守ってもらわなくても、いいよ』

ひどく苦しげな、雪男の声が響く。そして掴まれた両腕と、近づいてくる端正な顔。思い出して、また、動揺する。
………―――怖い。雪男が、どうしようもなく、怖い。
あんな風に、真っ直ぐな瞳をするようなヤツだっただろうか。いいや、俺の知ってる雪男は、いつも俯いていて、不安そうな顔をしてこちらの顔色を窺うようなヤツだった。あんな、見ているこっちが苦しくなるくらい真っ直ぐに、熱く、見つめてくるようなヤツじゃ、なかった。
だから、急に怖くなった。雪男が、全然知らないヤツみたいに見えて。だから、つい、突っぱねてしまった。

「っ…………、雪男っ」

苦しくて、足を止める。喘ぐようにその名を呼んで、また、苦しくなる。
脳裏で、小さな頃の雪男が、無邪気に俺の名を呼んでいた。

俺の弟は、小さな頃から体が弱くて、気も小さいヤツだった。いつも誰かに苛められてて、そのたびに泣いて帰ってきた。だから俺はそんな雪男を守りたくて、苛めたヤツらに仕返しをしていた。
そしてもう大丈夫だ!と笑えば、雪男も安心したように笑って。俺はその顔が、大好きだった。だから、雪男は俺が守るんだって、まるで約束みたいに、ずっと思っていた。だけど、でも、もしかしたら雪男は、そんな俺を、本当は邪魔に思っていたのだろうか?鬱陶しいとか?
思い返して、ずきりと胸が痛んだ。そう、だよな。鬱陶しいよな。雪男の言うように、もう子供じゃないんだ。いつまでも兄貴に付きまとわれてたら、そりゃ、邪魔に思うに決まってる。
だから、あんな風に怒ったんだ。

「………ほ、んと、俺ってバカ………」

雪男の為だって、ずっと思ってたことが、雪男にとっては邪魔以外の何ものでもなかっただなんて。惨めだ。惨めで、みっともねぇ。
あ、どうしよう、ちょっと泣けて来たかも。被ったタオルに顔を伏せて、ちょっとだけ、潤んだ視界を誤魔化した。
真っ暗な視界と、熱くなる瞼。ぐるぐる回っていた思考が、ちょっと落ち着いてきた。その時。

「奥村君?」

怪訝そうな声に、あっと思う。聞き慣れた声は、近くで聞こえて。ヤバい。顔、上げられない。タオルに伏せたままでいると、相手が近づいてくるのが分かった。

「どないしたん?目、痛むん?」
「っ、な、なんでもねぇ!」

心配そうな声に、ふるふると頭を振る。大丈夫、と言った声が震えてしまって、泣いているのが丸分かりだ。げ、と思うと、相手………志摩も気づいたらしく、声の調子を変えた。

「奥村君、いったん座らへん?道の真ん中で突っ立っとったら、目立つよ?」
「…………」

小さく肩を叩かれて、ゆっくりと促される。わずかに顔を上げると、志摩の瞳がゆるりと緩いたのが分かった。

「ほら、座って」
「………ん」

志摩の隣に座ると、だいぶ落ち着いたのを自覚する。涙も引っ込んだので顔を上げると、ちょっと瞼が重かった。ぼんやりと志摩を見上げると、志摩はいつものように緩く笑った。

「奥村君に、二つ、選択肢や。一つはこのまま、何も聞かずにおる沈黙コースと、もう一つは事情を聞いて慰めるコースや。どっちがええ?」
「え?」
「奥村君が好きな方、選んでええよ」

な、と優しくそう言われて、しばらく考えた俺は、ゆっくりと口を開いた。

「………ゆき、お、が、その、守らなくて、いいって、言って」
「うん」
「おれ、雪男のこと、大事で、ずっと、守りたいって、思ってて、それで、でも、雪男は、いらないって言って、だから、おれ、も、いらな、のかなって、思って、だから……」
「…………」
「雪男、なんか、知らないやつみたいに、なってて、怖くなって、それで、突き飛ばして、きっと雪男、傷ついたと思うんだ。だから、おれ、も、分かんなくて」

支離滅裂で、たぶん、俺の言いたいことの半分は志摩には伝わっていないだろう。そう思ったけれど、唇は止まらなかった。とにかくこの苦しさを吐きだしたくて、しょうがなかった。

「雪男のこと、すっごく、大事なのに。おれ、おれは、雪男のこと………」

どう思いたいのだろう。どう思っているのだろう。よく、分からなくなった。
だって、初めてだったんだ。あんな風な雪男を見たのは。そう言えば、志摩は小さく、苦笑していた。

「そりゃ、若先生が怒るのも無理ないわ」
「え………」

さらりと寄越された志摩の言葉に、俺はびっくりした。どういうことだろう。もしかして志摩には、雪男の気持ちが分かるのだろうか?

「あんな、奥村君はお兄さんやから分からんやろうけどな、俺は弟やから分かるんや。なんちゅーか、『兄』って存在に対する一種のコンプレックスみたいなの」
「昆布レックス?」
「コンプレックス、な。うーん、分かり易う言えば、羨ましさ、みたいなもんかな。『兄』って存在は、同じ男で兄弟なのに全然違うイキモンみたいに思えて、自分にないモンを持っているように見えて、羨ましく思えるんよ。特に奥村君たちは双子やろ?奥村先生は、きっと奥村君に自分にないものを見て、羨ましく思ってはるんよ」
「そ、そうなのか?でも、雪男の方が、俺よりも器用だし、頭いいし……」
「あはは、奥村君はそう思っとっても、先生本人がそうは思っとらんやろ、きっと。そんで、そんな風に羨ましい、追いつきたいって思ってる相手から、「守ってやる!」なんて言われたら、そりゃ怒るわな。若先生の場合は、特に、な」
「?」

どうして、雪男の場合は「特に」なんだ?首を傾げると、志摩は笑って。

「こっから先は、先生本人が言うもんや。他人が口出しするなんて、野暮やからな。ただ………先生は奥村君の邪魔やとか、鬱陶しいとか、そんなことは思ってへんと思うよ。それは、絶対や」
「なんで、分かるんだよ?」
「そりゃ、俺が恋愛の達人やからや」

胸を張って自慢げに言われたけれど、どうして雪男のことと志摩が恋愛の達人だということが関わるのか分からなくて、でもとりあえず、雪男に嫌われているわけではなさそうだという言葉に、ホッとした。
そっか、雪男は俺に昆布レックスっていうのを、持ってただけなんだ。そっか、そうなんだ。

「あの、奥村君?コンプレックス、やからな?っていうか、俺の話ほんとに分かって………ないな、これは」

若先生もご愁傷様やね、と志摩が両手を合わせていた。




そんなことがあって、俺は一つ失念していたことがある。それは、俺が濡れていた本当の理由だ。
それは、少し前からどうも俺の周りをウロウロしている野郎たちがいるらしく、ソイツらが何かと俺にちょっかいをかけてきていることが原因だった。例えば廊下でやけに肩をぶつけられたりとか、階段から突き飛ばされそうになったりとか、そんな具合だ。濡れていたのも、中庭にいたときに噴水に突き飛ばされた。だけどそんなことを続けられていたせいか、いい加減相手の顔はだいたい覚えた。どうやら男が三人、それぞれに俺にちょっかいをかけてきているようだ。
まぁ、そういうことは中学でもあったし、あからさまに喧嘩を吹っかけられることもあったけれど、どうやらそこまでするには至らないらしい。だったら別に、無視すればいいだけの話だ。俺は人間とは違う、悪魔の力を持っている。下手をすれば相手を傷つけてしまうから、それだけは絶対に避けなければならない。メフィストにも、一般生徒には極力手を上げるな、とかなりきつく言い渡されているし。俺だって、上げるつもりはない。
だからソイツらのことは、軽く無視して流していた。まぁ、まさか噴水に落とされるなんて思わなかったし、その後を雪男に見られるなんて予想外もいいところだったけれど。
そしてその後も、ちょくちょく小さな嫌がらせは続いた。よくやるよな、と思う。こんだけ俺に相手にされてなくて、よく飽きないな、と。
そして、そんなある日のことだ。
俺たちのクラスと、雪男の特進クラスが、珍しく合同授業となった。科目は体育。どうやら担当の先生が不在で、仕方なく合同になったらしい。そうでなければ特進科と合同なんてことにはならないだろう。
そんなわけで、めったにない特進科との合同体育は、サッカーになった。もちろん、クラス対抗だ。滅多にないことだからお互いにとても張り切っていたし、ギラギラと闘志を燃やしていた。女子は女子で別の内容があっているはずなのに、気が付けばグラウンドの隅で黄色い声で応援していた。その内容のほとんどが、雪男のことだった。

「きゃあっ、奥村君、かっこいいっ!」
「ちょ、ヤバい、頭が良くてスポーツもできるなんて、弱点なしなのっ!?」
「惚れるっ!絶対惚れるって!」

女の子たちは肉食獣みたいにギラギラとした目で雪男を目で追っていた。こ、怖。だけどそんな視線をもろともせず、雪男はグランドを駆けていた。俺はそれを、目で追う。
俺のクラスにはサッカー部員が結構いたから、もしかしたら俺の出番はないかもしれない。だから外野で、雪男の動きをずっと見つめていた。
身体の弱かった雪男は、でも今は、他の奴らと同じようにグラウンドを元気に駆けている。同じボールを追って、時には相手選手からボールを奪って、パスをつなぐ。その動きは軽やかで、ほんの少しの余裕を見せていた。たぶん、祓魔師として普段は悪魔を相手にしている雪男からすれば、こんな人間相手のスポーツなんて余裕なのかもしれない。
立派になったなぁ、なんてぼんやりと雪男の動きにしみじみしていると、丁度前半が終わった。点数は0‐0。同点だ。結構いい勝負してんなぁ、なんて思っていると、グランドを駆けていたクラスの一人が、こっちに走ってきた。どうしたんだろう、とソイツを見上げると、汗を上着で拭きながら。

「奥村、お前、出れるか?」
「え?俺?でも、サッカー部が入ってるし、点数も入られてねぇじゃん」
「馬鹿。こっちだって点数入れてねぇだろ。サッカー部が入ってるっていうのに。……くそ、お前の弟、ちょっと厄介だな」
「え?どういう意味だよ?」
「まなじ頭いいからな。アイツ、素人連中を上手く動かして、俺たちの動きを封じてんだ。だから、点数が入れられねぇ空気になってやがる。だから、お前に入ってもらって、その流れを変えて欲しいんだよ」
「……ふぅん?」

悔しげに言っているそいつは、サッカー部の次期キャプテンと言われている奴だ。そんなヤツから厄介者扱いされる雪男に、鼻が高くなる。だけど。

「でも、俺でいいのかよ?」
「あぁ。奥村には、奥村ってな」

ニッと笑って見せたクラスメイトに、なんだそりゃ、と笑い返して。

「任せとけ!アイツの好きには、させねぇよ」
「あぁ、頼んだ!」

ぱぁん、と一つハイタッチをして、グランドに駆けた。
グランドに行くと、クラスの連中が俺を見て頷いた。そして入ってきた俺を見て、雪男がわずかに眼鏡の奥の瞳を見開く。だけどすぐに、小さく苦笑しているのが見えた。ふぅん、余裕だな。だけどその余裕、すぐにぶっ壊してやる。
メラメラと沸き起こる闘争心。それが最高潮に達したとき、キックオフのホイッスルが鳴り響いた。






…………おかしい。

異変を感じたのは、キックオフ後、数分が経ってからだった。
どうも、俺に対するマークが厳しすぎるような気がする。他にサッカー部員がいて、うまいヤツだって大勢いるはずなのに、だ。それなのに、俺にボールと取らせまいという動きが激しいような気がする。それに何より、マークするヤツらの鋭い視線。これは敵選手に対するというよりも、むしろ、俺自身に敵意を感じているような。
そこまで考えて、ハッとする。よくよく顔を見れば、俺をマークしている選手は例の嫌がらせをしてくる奴らだったのだ。アイツら、特進科の奴らだったのか。内心で舌打ちする。
ちらりと雪男を見やれば、雪男も怪訝そうな顔をしていた。どうやら奴らの不審な動きに、雪男も気づいたらしい。
弱ったな。ここまであからさまに、しかも堂々と仕掛けてくるなんて。内心で舌打ちしつつも、俺にマークが向いているとなれば、好都合だ。クラスの連中も、俺にマークが過剰についていることに気付いて、攻めの体制に入っている。さすが、サッカー部員。俺に寄せられたマークを利用してボールを奪い、そして………。

バシィ!とボールがゴールに吸い込まれる。1‐0。俺たちが先行した。俺はガッツポーズをとり、クラスメイト達に駆け寄る。

「やったな!」
「おう!奥村のおかげだ!」
「んなわけあるか!」

がし、と肩に腕を回されて、回して、喜びに浸っていると。その横を通った特進科の生徒が。

「馬鹿な連中がこれだけのことで騒いでやがる」

は、と鼻で笑って。
それを聞いたサッカー部員が、ギッとソイツを睨みつけた。ちょうど俺の肩に腕を回していた一人だ。

「はぁ?テメェこそ何言ってんだ?」
「だから、たった一回のゴールで浮かれんなって言ってんだ。前半、俺たちに苦戦してたくせによ」
「っ、テメ………!」

ソイツはカッと頬を紅潮させて、怒りをあらわにした。ソイツに向かっていきそうな勢いだったので、慌てて止めに入る。

「ちょ、落ち着けって!」
「………っ、ごめん」

俺の制止で我に返ったのか、ソイツは怒りを治めた。そんなクラスメイトを、しかし馬鹿にしたように見る特進科の野郎に、今度は俺が前に出た。

「あのさ、お前さ、サッカーを知らねぇからそんなこと言えるんだ」
「は?何言ってんの?」
「こんな広い場所で、たった一個のボールの為に必死に駆けまわることの大変さとか、一点の大切さとか、そんなこと知らねぇから馬鹿にできるんだ。………だから、そんなお前らにはもう、俺たちは一点もやらねぇよ」
「っ、ば、バカにすんじゃねぇ!」

真っ直ぐに言い返せば、ソイツは怯んだように後ずさって、自分のクラスメイトたちの方に駆けて行った。その背中を見送っていると、がし、と肩を掴まれて、振り返ると、やけに真剣な顔をしたクラスメイトたちがいた。

「奥村、ありがとうな」
「え?」
「さっきの言葉、嬉しかった。俺たちサッカー馬鹿だから、あんな風に言ってくれて、マジで嬉しかったんだ。だから、お前の言うように、アイツらには一点もやらねぇよ」
「あぁ、そうだ!あんな奴らにやるボールなんてねぇよ!」
「やってやろうぜ、奥村!」

サッカー部員たちの熱意が、じわりと胸に響く。あぁ、どうしよう。俺もその熱に、浮かされそうだ。こみ上げてくるそれらをぐっと押し込めて、一つ、力強く、頷く。

「あぁ!見せてやろうぜ、サッカーの心酔を!」
「それを言うなら、真髄、な」


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