理由なんて、なかった。とにかく息苦しくて仕方なくて、何かに追われているみたいに、必死になって走った。背後には誰もいないのに、得体の知れない何かがずっと俺の後ろで囁いている。
思い通りにならないのなら。
壊してしまえばいい。
怖い、と思った。
その声が、無性に怖い。だけど同時に、簡単に身を委ねてしまいたくなる、甘さがあった。
怖い。だけど、耳を塞ぐことができない。背後の声はずっと聞こえていて、それから逃げているはずなのに、俺はその声にずっと耳を傾けていた。
壊せ。何もかも。
そうすれば、お前は欲しいものが手に入る。
欲しいもの。
欲しいものって、なんだろう。
俺の、欲しいものって、なんだろう。
………―――、そんなの、分かってる。
「………、ゆきお」
ぽつり、と呟く。声は、また少し近くなったような気がする。
ぱたり、と立ち止まる。自分の息をする音だけが、響いていた。声は、耳の奥にこびりついて離れない。
アイツが、欲しいんだろう。
アイツをお前から奪うものが、憎いんだろう。
だったら、それを全部壊せばいい。
そうすれば、アイツはお前のものだ。
囁く声は甘く、奥の奥に入り込んでくる。それはじわりじわりと俺に染み込んで、浸透していく。
頭上を仰ぐ。真っ暗な空。どこか遠くで、祭り囃子の音がする。だけどここには、何も無い。
俺には、何も、ない。
「…………ッ」
声が、さらに大きくなる。囁くようなそれから、怒鳴るようなそれに。
壊せ!
壊してしまえ!
さぁ!
「………、こわして、」
声につられるがまま囁くと、声は甲高く笑った。とてもとても、楽しそうに。
あぁ、口元が歪む。どうしよう、楽しい。楽しくて、声を上げて笑いたい気分だ。
「あは、は………、」
笑う。歪に、笑う。きゃはは!と声も笑う。
そうだ。どうせ、離れていってしまうなら、壊してしまえばいいんだ。
全部。そう、全部……―――。
「こわして、」
しまえ。と、そう言い掛けて。
にやり、と声が口元を吊り上げたような気がした、その時。
ドン! と。
地面を這うような爆音。
飛び散る閃光。
黒い空に咲く、虹色の華。
「………、あ」
声を、無くした。
声が、消えた。
ただ目の前には、咲いては消える、大輪の華。
どん、どん、と命を散らせる音と、光。
ただただ、その姿は壮大で、儚い。
「………、きれいだ」
呟く。
声はもう、聞こえない。
そのまま、ぼんやりと空を見上げていると、兄さん!と呼ぶ声が聞こえた。俺のことをその名で呼ぶのは、この世界でただ一人。
「雪男………?」
振り返ると、思っていた通りの姿が走ってくるのが見えた。だけど、何だか信じられなくて、呆然とその姿が近づいてくるのを見つめていた。
なんで?どうして?
だって雪男は、あの子と一緒じゃなかったのか?あの子と一緒に、花火を見ているんじゃないのか?
ツキリ、と胸が痛んだ。同時に、額に汗を滲ませた雪男が、俺の目の前で立ち止まって。
「よかった……、大丈夫みたいだね」
心底ホッとしたように笑った。なんで、どうして。混乱したままの俺を置いて、雪男は空を見上げると。
「兄さん。僕はね。………兄さんと一緒に花火が見たかったんだ」
ぽつり、とそう呟いた。同時に、バァン!と一際大きな花が夜空に散って。
「だから、間に合って、良かった」
嬉しい、と。雪男は笑う。こちらを見ることもなく。花火を見上げて、ただ、笑う。閃光で照らされた横顔は、いつも通りの雪男の顔で。
きれいだね、というその言葉に、そうだな、と返した俺の声は、花火の音に紛れて、消えた。
嬉しくて泣きそうなのを、全部、花火の眩しさのせいに、して。
夏祭りの約一週間前から、僕は兄さんをどう夏祭りに誘うかを考えていた。
会話のシュミレーションもして、とにかく自然に、兄さんを夏祭りに誘えるよう何度も何度も考えた。その時、ふと気づく。もし、僕が兄さんを夏祭りに誘ったとする。すると兄さんのことだから、いか焼き!やら、りんご飴!やら、そんなことを言い出すのは目に見えている。甘やかすつもりはないけれど、兄さんが欲しいというのなら、それくらい買ったところでなんら支障はない。
だが、それだけならまだしも。
それなら、皆で行こうぜ!
これだ。この言葉が僕には一番恐ろしい。そして一番、兄さんの口から飛び出しやすい言葉でもある。僕は恐ろしさのあまり、ぶるりと体を震わせた。
兄さんと塾生たちの間柄を考えると、まず誘うのは間違いない。いや、もしかしたら逆に誘われる可能性だってある。兄さんにとって彼らが、本当の意味で初めてできた友達だろうから、その仲を邪魔する気はないし、塾生たちが兄さんに変な気を起さなければ、僕は彼らの仲を見守るつもりでいた。
だけど、今回ばかりは譲れない。この夏祭りだけは、なんとしても兄さんと二人きりで過ごしたい。僕は固く拳を握り締める。
そもそも、なぜ僕がこんなに気合を入れているのかと言うと、フェレス卿から聞いた話が原因だった。
この夏祭りを企画したのがフェレス卿で、彼いわく、毎年この夏祭りがある夜は、悪魔たちにとっても血が騒ぐ日らしく、妙に興奮したり、気分の浮き沈みが激しい日でもあるらしい。
まぁ、女性でいうなら生理の日みたいなものですよ。
フェレス卿はなんでもないことのように笑いながら、しかし絶対に面白がっている風体で。
悪魔に覚醒したての奥村君がこの日にぶち当たったら、どうなるんでしょうねぇ。
まぁ、誰彼構わず襲い掛かるなんてことはないでしょうが。
冗談じゃない。
明らかに、「襲い掛かる」の意が違っているように聞こえた。暴力でなく、そう、単刀直入に言えば性欲的な意味で、と。
冗談じゃない。僕は何度目かになる呟きを吐く。
そんな(色々な意味で)危ない日に、兄さんを一人にはしておけない。だが、あのイベント好きの兄さんが、夏祭りに行かないなんていうことは絶対にありえない。となれば、僕が兄さんと一緒に夏祭りに行くのが妥当だ。
決意を新たに、何とか兄さんと二人きりになる算段を取り付けた。一番の難関である塾生たちには、兄さんを夏祭りに誘わないよう、頼み込んだ。その時に頼んだのが勝呂君だったのが、きっとすべてのことの発端だったに違いない。このとき、勝呂君だけでなく他の塾生にも頼んでいたら、きっとこんなことにはならなかった。
そう。すべてのことの発端がなんなのか、僕はちゃんと分かっている。毎度毎度毎度毎度、色んな意味で邪魔をしてくるのは、決まってあのピンク頭だけだからだ。
勝呂君たちと夏祭りに行くことにしたから、と言われて、頭が真っ白になった僕は、すぐさま勝呂君に電話を掛けた。どういうことだ、と。兄さんを夏祭りに誘うなと、約束したはずだ、と。
しかし電話口の彼は、どういうことだと逆に聞き返してきた。自分は、兄さんを誘っていない、と。
そこですぐに、ピンと来た。兄さんは、嘘をついた。そしてそこにどんな理由があったのか、僕は何となく理解した。おおかたあのピンク野郎に、夏祭り=花火=恋人たちの夜、とでも吹き込まれたに違いない。
僕は頭を抱えた。誤解を解こうにも、これからすぐに任務だ。そして夏祭りの日まで、兄さんと話す機会がない。
だったら早く帰ってきて、兄さんと一緒に夏祭りに行けばいい。そう思って、シュラさんのニヤニヤとした笑みや、フェレス卿の「まぁ頑張って下さいね」という激励の言葉も無視して、寮の部屋に飛び込んだ僕は、机の上にポツリと置かれた浴衣を見て、ただただ、呆然とした。
綺麗にたたまれた緑色のそれを、手に取る。
どんな気持ちで。
どんなことを思って、この浴衣をここに置いたのだろう。
誰にも誘われず、かといって、あんな楽しそうな明かりを見てしまえば、ここがいかに暗くて冷たいかなんて想像がつく。
………、兄さん。
そっと頬を寄せた浴衣は、ほんのりと暖かい気がした。
そんなわけで、どうしても諦めの付かない僕は、会場で兄さんを探すことにした。きっと兄さんは、ここにいる。そう思って見渡すものの、人が多すぎて探せない。内心で、舌打ちする。兄さんは携帯の電源を切っているのか、何度かけても「おかけになった電話は、」のアナウンスだけが響く。
この人数の中、兄さんを探すのは無理だろう。どうすれば、と途方に暮れたその時、携帯が震える。メールだ。相手は、勝呂君。
『From:勝呂 竜二
Title:報告です
奥村は俺たちと一緒です 偶然見つけて、一緒に行動しています
何があったとか聞きませんけど、奥村、落ち込んでますよ 』
彼らしいメールに、小さく笑みを零す。そして、とにかく彼らが今どこにいるのかを聞こうとした、その時。
「奥村くーん!」
知った声が聞こえてきて、振り返る。可愛らしい花柄の浴衣を着たクラスメイトが、やっぱり奥村君だ、と表情を明るくさせた。内心で、弱ったな、と思いつつも、どうも、と笑顔で返す。
「奥村君も夏祭り来てたんだね」
「えぇ、まぁ」
「あ、もしかしてお兄さんと一緒?」
「え?」
「向こうの出店で見かけたんだよ。だから、一緒に来たのかなって思って」
「どこで?どこで兄を見かけたんですか?」
彼女の言葉に、僕はつい問い詰めるような言い方をしてしまった。だが、そんなこと気にした風でもなく、あっちだよ、と彼女は人ごみの中を指差す。
良かった。すぐに見つけられそうだ。安堵のあまり、表情が緩む。
「すみませんが、案内してもらえませんか?」
「え?」
「実は、兄とはぐれてしまって……。今、探していたところなんです」
「そうなんだ?じゃあ、案内するよ!」
こっち、と彼女は案内を始めた。僕は頷きつつ、彼女に続いた。
………結局、案内してくれた場所に兄さんはいなかった。どうやら、移動してしまった後だったらしい。案内してくれた彼女も、少し申し訳なさそうにしていた。だが、彼女は悪くない。一言礼を言って、兄さんを見つけたら携帯に連絡するように伝えて欲しい、と伝言を頼んだ。
さて、ここからどうしよう。もうすぐ、花火が始まってしまう。どうする。焦りに額に汗が滲んだ。その時、携帯に着信。相手はフェレス卿。嫌な予感がしたものの、出ないわけにはいかずに、しぶしぶ電話に出た。
「はい、奥村です」
僕はこっそり、兄さんの横顔を盗み見る。兄さんは花火に夢中で、その青い瞳がキラキラと輝いていた。
フェレス卿に、居場所を教えてもらってよかった。ただ、後がものすごく恐ろしいけれど。
内心で乾いた笑みを零しながらも、それでも今この瞬間、一緒にいられるのだからよしとしようと思った。
そうだ。花火が終わったら、ちゃんと誤解を解かないと。クリスマスのときも、バレンタインのときも、何度も言い聞かせた言葉を、もう一度。
………―――、兄さんじゃないと、ダメなんだ、と。
「――――まったく、世話のかける弟たちだ」
ピンク色の携帯を綴じた悪魔は、言葉とは裏腹に、楽しげに笑った。
「しかし、まさかあんな嘘に引っかかるとは、奥村先生もまだまだですねぇ」
若いな、と思う。そしてだからこそ、面白い、と。
「さて、私もそろそろ行きましょうか」
楽しい楽しい、Festivalに。
おわり
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