世界一初恋 前

俺は、生まれてこの方、同性しか好きになったことがない。
誰にも告げたことはなかったし、これはもう、自分でもどうしようもないことだと悟るのに、そう時間は掛からなかった。幸い、俺は幼稚園でも小学校でも中学校でも浮いていたし、俺に好んで近づこうとする奴がいなかったから、俺が同性しか好きになれない性癖なのだと周囲に気づかれることはなかった。
でもそんな俺にジジイは気づいていた。だけど、それでも笑って。

『好きになっちまうもんは、しょうがねえよな』

と、聖職者らしくない言葉を言って、俺の肩に手を置いてくれた。気持ち悪いだとか、理に反しているとか、そんなことは一切口にせずに、ただただ、笑ってくれた。
何度もジジイには救われたけれど、この言葉が、俺にとっては一番の救いだった。

だけど。
そんなジジイが、死んだ。
俺を、守るために。
俺が悪魔の王、サタンの子であると告げて。

そして俺は、悪魔として覚醒してしまった。
悪魔で、しかも同性愛者だなんて、とことん俺は神に背いている存在だ。そう自嘲したこともあったけれど、ジジイの言葉がいつまでも俺の心の奥で光っていて、俺はいつからか、自嘲するのを止めた。
同時に、自分はひどく面食いなのだということも理解した。だって、もし面食いじゃなかったら、俺はたぶん、ジジイに惚れていた。それくらい、ジジイはカッコいい男だった。だけどジジイがその対象とならなかったのは、ひとえに俺の好みの顔ではなかったから、ということで。
悪魔で、同性愛者で、しかも面食いと来た。自分でも、可笑しくなって笑ってしまう。
でも面食いゆえに、俺の好みの顔の男があまりいないのは良かったと思う。ただその半面で、一度好みの顔の奴と会ったら自分でも抑えられなくて、色々と失敗した経験は沢山ある。
中学時代は、とにかく自分でもヤバいくらいに色々とヤらかしたから、正直、正十字学園への入学が決まった時には、ホッとした。これで過去の奴らが俺に関わることはない、と。
だけど、俺は今、猛烈に後悔している。何故なら。


「この度、悪魔薬学を教えることになりました。奥村雪男です」


祓魔師となるために通うことになった祓魔塾。その最初の授業を担当したのが、まさかの双子の弟で。
しかも。

「よろしくお願いします」

にっこりと微笑んだその顔に、見慣れた筈だった双子の弟の違う一面を見て、まさか、自分のドストライクな顔をしていることに今更気づいたなんて。
最悪以外の、何物でもないじゃないか。






「それでは、今日の授業を始めます。教科書の、三八ページを開いてください」

淡々と、教科書に目を落とす雪男。
俺は立てた教科書を見るふりして、ちらり、とその顔を見上げる。
黒縁眼鏡の奥の、少したれ目がちの瞳。すっと整った鼻に、薄い唇と、その下にある黒子。顔の輪郭だとか、パーツの配置だとか、本当に、俺好みすぎて。

「奥村君?」

ぼんやりと雪男を見上げていたら、目が合った。ヤベ、と慌てて目線を教科書に落とすけれど、雪男がこっちに近づいてくる気配がして、俺はぎゅっと教科書を持つ手に力を込めた。
どうしよう、雪男が、こっち来る。
どき、どき、と高鳴る心臓をどう誤魔化したらいいだろう?まさか、実の双子の弟の顔に見惚れてました、なんて言えるわけないし。
どうしよう、と混乱していると、雪男は俺の机の前までやって来ていて。

「兄さん?……どうしたの?」

教室ではめったに呼ばない名で俺を呼んで、心配そうな声で大丈夫?と聞いてくる。俺はそれに、大丈夫だ!と勢いよく頷いて、教科書を読むフリをする。
ほんとは、全然、大丈夫なんかじゃ、なくて。
顔、上げられないくらいに、緊張しまくってて。たぶん、顔、真っ赤になってるだろうなって、自分でも分かる。それでも俺は必死だった。必死に、この思いを押し殺そうと思った。

だって、俺と雪男は、双子だ。血の繋がった、兄弟だ。
そんな相手に、こんな感情を抱かれているなんて雪男が知ったら、きっと、嫌われる。
それは、すごく、嫌、だから。

「そう?無理しないでね、兄さん」

教科書を読む俺に、何を思ったのだろう。雪男は何も聞かずに、授業に戻ってしまった。
その様子に、良かった、とホッと肩の力を抜いた。
隣にいたしえみは少し心配そうだったけれど、大丈夫、と告げると、うん、と安心したように笑った。
……そういえば、しえみは雪男のこと、好きなのかな。
俺はその笑顔を見つめて、しえみが初めて塾に来た時のことを思い出す。
雪ちゃん、と雪男をそう呼ぶしえみと、それに返す、しえみさん、という雪男の声。
親しげなその様子に、ずきり、と心臓が傷んで。同時に、すごく、イライラして。
そんな権利なんてないのに、俺は喉の奥まで出かかった言葉を、飲み込んだ。

……―――雪男は、俺のだ、なんて。

兄弟だからって、そんなこと言っちゃ、ダメだよな。
俺は雪男の背中を見つめて、そっと、目を細めた。




その日の授業が終わって、塾の帰り道。
雪男は他の講師やら祓魔師の仕事やらで、俺より早く帰って来たことは少ない。だから俺は塾の帰りにスーパーに寄って、夕飯の材料を買って帰る。
がさがさと乾いた音を立てるレジ袋には、雪男の好きな魚が入っている。今夜は安物だけど刺身にしようと思ったのだ。
でも例え好物じゃなくても、どんな料理でも、雪男はちゃんと食べてくれる。

『美味しいよ、兄さん』

そう言って、目を細めて笑う幸せそうな雪男の笑顔。それが嬉しくて、つい、頑張ってしまう。あいつの好物ばっかり作って、驚かせた時もあったっけ。
俺はくすぐったい気持ちになりながら、ふわふわとした気持ちのまま寮への帰り道を歩いていた。
その時。

「おい、奥村!」

背後で俺を呼ぶ声がして、げ、と思う。俺は振り返らずに、やや速足に歩き出す。すると背後にいた奴が慌てて、俺の腕を掴んできて。
俺は振り向きざまに、その腕を振り払う。
男は払われた手を驚いたように見た後に、眉根を寄せて俺を見つめた。

「なんだよ、俺、お前と別れるつもりはないんだけど」
「別れる?別に付き合ってたわけじゃねーだろ」

俺は鼻で笑う。事実、その通りだったからだ。
この男は、中学時代に出会った男で、顔が好みだったから、ほんの少し、関係を持った。お互い、割り切った関係だと承知の上で。それなのに、しつこつ付きまとって来たり、挙句の果てには教会まで押しかけて来そうになって。
その時はジジイが何とかしてくれたから、雪男にも教会の奴らにも知られることはなかったけれど。
でも、俺が教会を出て、正十字学園に通っていることをどこからか突き止めたのか、こうしてまた付きまとうようになって。しまったな、と舌打ちする。そして、せっかく人が幸せな気分に浸っていたのに、と苛立たしくも思えてきて。

「もう俺はお前には用はない。俺に付きまとうな」
「そんなこと言って、俺の顔は好みなんだろ?だったら」

そう言ってまた俺の腕を掴もうとする男にイライラして、俺は男の胸倉を掴んだ。

「うるせぇよ。一、二回ヤッたくらいで、彼氏面すんな」

そう低い声で囁いて、乱暴に掴んでいた胸倉を突き放す。そして、男に一瞥も向けずに走った。背後で俺を呼ぶ声が聞こえてきたけれど、振り向くことはなかった。





寮に戻ると、やっぱり雪男は帰ってきていなかった。俺は走ったせいで荒い息を整えながら、そっと、雪男が使っている机に近づいた。綺麗に整頓された机は、とても雪男らしい。
俺は小さく笑いながら、そっと目を伏せた。

俺は、同性しか好きになれない。
だから、最初から、誰を好きになっても無駄だと理解していた。
それに、顔が好みだからって軽い関係しか持ってこなくて、俺はいつしか本気で人を好きになることがどういうことなのか、わからなくなっていた。

だから、たぶん。この雪男に対する感情も、ただ、顔が好みだから、というだけで。
双子だけど、俺と正反対の性格で、頭良くて、運動もできて、祓魔師でも天才なんて呼ばれて。
女の子にも、モテまくってて。よく女の子に囲まれているのを、見たことがある。
だから、雪男はきっとストレートだ。男相手なんて、考えたこともないだろう。

「……ほんと、馬鹿だなぁ、俺」

それなのに、なんでよりによって双子の弟の顔に、惚れてしまったんだか。
俺は天国にいるであろうジジイに、ほんの少しだけ、どうしたらいい?と問いかけてしまった。
だけどジジイは呆れたように肩を竦めるだけで、何も答えてはくれなかった。





そうしてしばらくすると、雪男が帰ってきた。

「ただいま、兄さん」
「おう、おかえり、雪男」

祓魔師のコートを脱いで下のネクタイを緩める姿は、同じ年なのにどこか年中サラリーマンみたいな哀愁を漂わせている。大変だなぁ、と俺はその姿をベッドに座って見つめていると、雪男が俺の視線に気づいたのか、何?と問いかけてきて、俺は慌てて視線を逸らせた。

「あ、い、いや、何でもねぇ」
「……。兄さん、今日の授業中も、変だったよね」
「へ?あ、そ、そうか?」
「うん。それに………最近僕の顔、見なくなった」

きし、と床が軋む音がする。雪男がこちらに近づいて来るのが分かって、俺はほんの少し緊張した。

「そんなこと、ねぇよ……。毎日、顔、合わせてんじゃん」
「でも、今だって僕の顔、見てないじゃないか」
「……っ」

俺は俯いたまま、息を呑む。予想外に、雪男の声が近くで聞こえたからだ。は、と顔を上げると、ほんの少し寂しそうな顔をした雪男が、こちらを見下ろしていて。
あ、と思った瞬間。

「やっと、こっち見た」

嬉しそうに、笑うから。
あ、こいつこんな顔で笑うやつだったんだ、って、今更気づいて。
ぼぅ、とその笑顔に見惚れていると、ゆっくりと、その顔が近づいてきて………。

「……、兄さん」

そっと、囁かれたその言葉が、俺の唇の中に、消えた。

俺がその柔らかな感触に硬直していると、唇を離した雪男が、キスをしたその口で僕は、と何かを言いかけた。だけど、俺はすでに混乱状態になっていて。

「あ、ゆ、雪男、もう疲れてるだろ?晩飯も、食べてないし。俺、準備してくるから!」

まともに雪男の顔が見られずに、俺は逃げるようにして部屋を後にした。背後で兄さん!と俺を呼ぶ声がしたけれど、でも、その声を振り切るようにして、部屋の扉を閉めた。

どき、どき、と痛いくらいに高鳴って煩い心臓を押さえて、蹲る。

「……っ、雪男」

泣きそうだ、と俺は固く目を閉じながら、そう思った。







「大丈夫?燐?」
「あ、うん。大丈夫」

あはは、と乾いた笑いを浮かべながらも、俺の脳内はすでにぱんぱんの状態で。あはは、と笑いながら、力なく机に伏した。
ダメだ。あの日から、調子狂いっぱなしだ。
はぁ、とため息を付きながら、そっと自分の唇を指でなぞる。

あの日。雪男はどうして、俺にキスなんかしたんだろう。
考えが、纏まらない。思考回路がぐちゃぐちゃで、どうしようもなくて。

「……っ」

期待、しそうになる。
もしかしたらって、思いたくなる。
絶対に、そんなことないのに。
雪男はどう見てもノーマルだ。ずっと一緒にいたから、よく分かる。だから、絶対、そんなことありえないって分かっているのに。

なんで、あんなことしたんだよ、雪男……ッ。

ぎゅっと唇を噛み締めて、俺は今はいない双子の弟を、盛大に罵っていた。





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