世界一初恋 後

塾が終わって、気は重いけれど寮に帰る支度をしていた。本当は雪男と顔を合わせるのが気まずい。あの日以来、雪男は長期の任務に入ってしまって、今日の夕方帰ってくる予定になっていた。つまり必然的に顔を合わせることは必須で。
帰りたくない。何て顔をして話せばいいのか分からないし、雪男があの日のことをどう思っているのか、知るのが怖い。
でも、帰らないわけにはいかなくて。俺は少し肩を落として、重たい足を引きずるようにして寮へと歩き出した。
すると、背後でたたた、と駆け寄ってくる足音がして。

「奥村!」
「勝呂?」

振り返ると、勝呂が少し慌てた様子で駆け寄って来た。何だろう?と首を傾げていると、勝呂はいつものしかめっ面のまま。

「お前、気づいとんのか?」
「?何が?」
「この前、変な男がお前の後を付けとんのを見た」
「!」

あの男だ。俺は反射的にそう感じ取った。まだ諦めていなかったらしい。しつこい野郎だ。
俺がハッとした顔をすると、やっぱりな、と勝呂は嘆息して。

「今、奥村先生おらへんのやろ?一人で大丈夫なんか?」
「へ?」

一瞬何を言われたのか理解できなくて、俺は呆気に取られてしまった。勝呂はそんな俺に少しイラついたように眉根を寄せて。

「だから!あんなあからさまに危なさそうな男がうろついとるのに、お前は一人で大丈夫なんかって聞いとるんや!絶対危ないやろ!」
「あー、そう、だよなぁ……」

何というか。
危ないだとかそういうのを全く感じていなかったので、思いもしなかった。でも普通なら危ないって感じるのが本当だ。でも実際、襲われそうになったとしても退けることは簡単だし、あまり俺自身、危機感を抱いていなかった。だけど、心配してくれているらしいクラスメイトの存在が、少しだけ嬉しくて。
俺はニッと笑って、勝呂の肩に腕を回す。

「心配、してくれてんのか?」
「っ、そ、そうや」
「ありがとな、勝呂。でも、俺は大丈夫だよ」
「……」

嬉しくてニコニコと笑っていると、勝呂は少し照れたように、大丈夫じゃないやろ、送るわ、と呟くように言った。俺はその横顔を見つめて、しみじみと思う。
ほんと、勝呂はいい奴だよなぁ。もう少し顔が好みだったら、勝呂を好きになっていたかもしれない。俺は心の底から、そう思った。
そんな風にじっと勝呂を見つめていたら、何や、と勝呂が顔を覗き込んで来て。

「……、あのさぁ」
「ん?」
「お前……―――、」

同性を好きになる奴って、どう思う?そう、尋ねようとして。

「奥村!」

鋭い呼び声が聞こえて、俺はビクリと肩を震わせる。慌てて振り返ると、案の定、アイツがじっとこちらを見つめて佇んでいた。

「奥村、その男、誰だよ?」
「……誰だっていいだろ。……勝呂、行こう」

男は勝呂を睨みつけながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。俺は無視して勝呂を促す。だけど男は、何でだよ!と怒ったような口調で走り寄ってきて。

「俺は諦めるつもりはない!奥村ッ」

俺の腕を掴もうと伸ばされた手を、また振り払おうとして。

「止めてもらえますか?奥村、迷惑しとるみたいですけど」

ぱし、とその手を勝呂が掴んだ。キッと男を睨むその目は、見た目からしてヤンキー然としている故にその威力は大きく、男は少したじろいた。だがすぐに睨み返して、掴まれた手を振りほどいていた。

「な、何だよ、お前」
「それはこっちの台詞や。アンタ、この前から奥村のこと付けとったやろ。このままエスカレートするんやったら、色々とヤバイんちゃうんか」
「……ッ、お前には関係ないだろ!」
「いいや、ある。奥村は俺の大事な仲間や。これ以上付きまとうようやったら、警察呼ぶ」
「……勝呂」

真っ直ぐに、男に向かって言ったはずの言葉が、俺の胸に鋭く突き刺さる。だけど感じるのは痛みではなくて、ただ、ただ、嬉しいという感情で。
俺が感動していると、男は何だよソレ、と半笑いの顔をして。

「ソイツが好きなのか?」
「は?」
「ソイツを好きになったから、俺と別れたのか?」
「な、何言ってんだよ!そんなわけないだろ!」
「じゃあ!他に好きな奴でもいるのかよ!」
「ッ」

脳裏に浮かぶ、双子の弟の顔。兄さん、と俺を呼ぶ声を思い出して一瞬、言葉に詰まった。すると男は俺の顔を見て何かを悟ったのか、キッとこちらを睨みつけてきた。

「……ふざけんな!俺は、本気でお前のことが……!」

もう止めてくれ!と食い下がる男に怒鳴ろうと口を開いた、その瞬間。
ぱぁん!と乾いた破裂音が、響いて。
俺はハッと後ろを振り返った。そこには祓魔師の黒いコートを来た雪男が立っていて、上空に銃を向けていた。
呆然と俺が雪男を見つめると、雪男はゆっくりと銃を下ろしてにっこりと微笑んだ。

「……僕の兄が何かご迷惑でもお掛けしたんですか?」

揉めているようですが、と言いながら、こちらに近づいてくる。俺の横を通りすぎて、男の前へと立った雪男は、ちらりと勝呂を見た。勝呂はその視線に小さく頷いていて、俺は首を傾げた。
すると雪男は、なるほど、と呟いて。

「貴方は数日前から兄さんに付き纏っていたそうですね」
「!、そ、それは違う!」
「何が違うんですか?現に勝呂君は貴方が兄さんの後を付けているのを見たそうですよ。そして、今もこうやって兄さんを困らせている。これは立派な犯罪ですよ」
「ッ!」

クス、と小さく笑った雪男は、ですが、と話を続けて。

「もう兄さんと関わらないというのであれば、表沙汰にはせずに穏便に終わらせましょう。どうです?悪い話ではないでしょう?」
「でも、俺は……!」

納得がいかないのか、男がなおも食い下がろうとした、その時。

「いいから、兄さんの前から消えろって言ってんだ」

低い、唸るような声で雪男がそう言い放った。全く温度の感じられない、ひやりと冷たい声。
背を向けた雪男の表情は分からなかったけれど、男は雪男の顔を見てグッと唇を噛み締めると、何も言わずに逃げるように去って行った。

「……―――兄さん」

男を見送った雪男は、こちらを振り返った。ほんの少し怒ったような顔で。

「全く、僕が留守の間くらい大人しくできないの?」
「お、俺のせいじゃねーよ!」
「勝呂君が教えてくれたから良かったものの。もしものことがあってからじゃ遅いんだからね」
「勝呂が?」

俺が勝呂を振り返ると、勝呂は一つ肩を竦めた。

「アイツの姿を二、三回見かけたときに、奥村先生に電話したんや。どうせお前のことやから、大丈夫って言うやろ思ってな。連絡して正解やったわ」
「勝呂、お前……っ」

さすが坊!と俺が感動していると、兄さん?と背後で声がして、嫌な予感がしつつも振り返れば。

「とにかくもう帰るよ。家に着いたら色々と話したいことがあるからね」
「……はい」

俺が項垂れて返事をすれば、勝呂はご愁傷様、と他人事のように呟いていた。




旧男子寮の自分たちの部屋に着くと、雪男はコートを脱いでいつもの部屋着に着替え始めた。ばさり、と重たそうなコートが音を立てて脱ぎ捨てられると、下の白いシャツ姿の背中が露になる。薄いシャツ越しでも分かる、鍛えられたその背中に、俺は少しどきり、とした。
体の弱かった雪男は、身長も高くなって、俺よりも筋肉の付いた男の体へと成長していて。見慣れているはずの雪男の着替えを正視できなくなって、俺は大きく高鳴る心臓を何とか宥めようとした。
すると、兄さん?と不思議そうな声で雪男が俺を呼んだ。俺は少し肩を震わせながらも、いつものように何だ?と返事をすると。

「……、どうしたの?顔、真っ赤だけど」
「え?あ、そう、か……?」
「うん。それに、また僕の顔、見てないし」
「っ」

ぐっと言葉に詰まって、でもそれでも顔を上げられずにいる。今顔を上げたら、雪男の顔を見てしまったら、きっと、バレてしまう。
それだけはイヤだ、と手のひらを握り締めていると、雪男は、はぁ、とため息をついて。

「兄さん、僕、知ってたよ。兄さんが同性しか好きになれないことも。僕のこと、ずっと見てたことも、全部」
「は?」

言われた言葉の意味が、理解できない。
頭が真っ白になって、俺は呆然とすることしかできなくて。
ちょっと、待て。何だって?雪男が、全部知ってた?
俺が同性しか好きになれないのも?
雪男の顔に惚れていることも?
全部?全部って、全部?

俺はようやく言葉の意味を理解して、カッと頭に血が上るのを感じた。顔が急激に熱を思って、熱い。

「な、んっ」
「兄さんがそうだって知ったのは偶然だけど。でも、僕のこと見てたのは、バレバレだったよ。授業中なんてあんな顔をして僕のこと見て。……気づかないほうがおかしいよ」
「……あ、んな顔って……」

苦笑交じりに話す雪男に、俺は居た堪れなくなる。そんなに分かりやすい顔をしていたのだろうか。

「この前だって、あんな顔して僕のこと見上げてきて。誰だってあんな顔されれば、我慢できないと思うよ。誰だって、兄さんに手を伸ばしたくなるに決まってる」
「そんなこと、ねぇよ」
「そんなことあるの。兄さんはもう少し自覚するべきだ。さっきの男だって、いい例だよ。そんなだから、目が離せない」

ねぇ、兄さん、と雪男は俺の方へと近づいて来た。そんなに離れているわけじゃないのに、やけにゆっくりと近づいてくるように感じられて、俺の心臓は痛いくらいに動いていて。


「兄さん。僕は、兄さんのことが好きだよ」


心臓の音に紛れて、その言葉はやけに大きく俺の耳に届いた。だけどすぐに、我に返って。

「あー、その、ありがとう?……俺のこと、兄弟として好きなんだろ?」
「え?兄さん?」
「うん。だよな。普通はそうなんだよな。だって、俺たち兄弟だし、双子だし。兄貴がこんなで、お前も困るよな。気持ち悪い、だろうし」
「ちょ、待って、兄さん。僕は」
「この前のだって、俺がそうだから流されただけだろ?お前はノーマルだって、俺知ってるし。俺、全然気にしてないし!」

だからもういいだろ、と俺が思い切って顔を上げようとすると。

「どうして気にしてないの!」

滅多なことでは声を上げない雪男が、そう怒鳴ってきて、俺はぽかんと呆けたように雪男を見上げた。雪男はきゅっと眉根を寄せて、少し怒ったような顔をしていた。

「僕は、すごく気にしたのに。なのに兄さんはさっさと話題を変えるし、その後また僕の顔を見ようとしなくなるし。急にキスして嫌になったのかな、ってちょっと落ち込んでたのに!」
「や、その、それは……!」

お前がどうしてキスをしたのか、分からなくて。
焦ってパニックになって、思考がめちゃくちゃになって、それなのに、ずっとそのことばっか考えてしまって。
そんな状態でお前の顔なんて、見れるわけなくて。

「兄さん、ちゃんと聞いて。僕は兄弟としてじゃなくて、一人の男として、兄さんが好きなんだ」
「あ……」

真っ直ぐに、こちらを見つめる雪男の瞳。逸らしたいのに、目が逸らせない。
あぁ、でも……―――。

「ゴメン、無理だ……―――」
「……どうして?」

どうして?そんなの、決まってる。

「お前だって、もう知ってるんだろ?……俺、好きとかほんとよくわかんねーし。お前のことだって、顔が好みってだけで……」
「僕はそれでも構わないけど?兄さんに意識してもらえるんだったら、この顔に生まれて良かったって思うし」
「っ、でも!」

顔だけをすきになって、色々と失敗してきた。
さっきの男だって、そう。
でも、雪男のことはそんな風に軽んじたくない。大切な双子の弟を無下にしたくないし、それに。

「嫌われるのが、怖いんだよ!」
「にいさ……」
「お前に嫌われるのが怖い。俺から離れていくのが怖い。俺は……!」

お前を失いたくない、と。
その言葉は、今度は雪男の口の中に、消えて。
唇が離れると、雪男は俺の頬に手を伸ばした。少し大きめの手が、触れて。

「兄さん。それって、僕のこと、本気ですきってことだよね」
「……」
「僕がすきだから、離れたくないって思ってくれてるんだよね?でも、それでも好きがどういうことなのか分からないって言うのなら、今はそれでいいよ。僕が……―――」

兄さんを、本気にさせればいいだけのことだから。


雪男はそう囁いて、そっと俺の手を握りしめた。
どき、どき、と触れられた手と頬が熱を持つ。逃げ出したいくらいに熱くて、でも、振り払えなくて。

「兄さん」

確かめるように呼ぶ、声。
ダメだ。どうしよう。もっと触れてほしいなんて、思ってしまう。
俺が唇を震わせていると、雪男は握った俺の手を持ち上げて。

「兄さん、すき」

ちゅ、と俺の人差し指に、唇を落とすから。
触れた柔らかな感触に、たまらなくなって。

あぁ、これがほんとにすきってことなのかな。

そう、思った。




「……っ、兄さん」
「ふ、あ、……ゆき、」

ちゅ、ちゅ、と雪男がキスを繰り返す。唇に、頬に、何度も唇を落としては、確かめるように俺の名を呼ぶ。

「ん、んんっ、……あぅっ……」

きゅ、と胸の突起を軽く弄られて、声が上がる。そんな俺の反応に気をよくしたのか、雪男はいやらしく唇を舐めると、そのまま胸へと唇を落とした。ちゅう、と濡れた音が響いて、ぺろりと舐められる感触に、たまらなくなる。

「ひゃ、っ、も、ぅ、ゆき……っ、そこ、や……っ」

右を唇で、左を手のひらで弄られて、慣れた体は素直に反応を示す。それを雪男に知られるのが嫌で、俺はふるふると首を横に振る。

「も、いいから早く……っ」

そのくせ、『早く』なんてせがんでしまう。
自分でも節操がなくて呆れてしまうけれど、どうしようもなくて。

「っ、も、知らないからね」

どうなっても、と言いつつ雪男は俺の熱へと手を伸ばす。余裕のない顔、汗のにじんだその表情に、熱は上がる一方で。
ぐっと押しつけられた腰に、心臓が痛いくらいで。

「っあ!や、ゆきっ!」
「は……っ、すご、兄さんの中っ……」

気持ちいい、とうっとりとした声音で囁かれて、どくん!と心臓が一際大きく高鳴った。そのまま腰を動かされて、もうめちゃくちゃで。

「あ、だめ、だ。もうっ……雪男っ」
「うん、兄さん……」

切羽詰まったように俺の体を抱きしめて、すきだよ、なんて囁くから。
また、心臓が音を立てて。
俺はお前といると、心臓がいくつあっても足りない、なんて、贅沢な悪態をついていた。




「……ヤッ、ちまったなー……」

はは、と乾いた笑みをこぼしながら、俺は枕に伏した。その枕に微かに雪男の匂いが残っていて、俺はカッと頭に血が上る。
当の雪男本人は、早朝に任務があるとかで出て行ってしまった。俺としてはちょっと居た堪れなかったから、顔をあまり合わせずに済んでホッとしたけれど。それよりもほんのちょっとさみしいとか思ったけど。
でも、こうして雪男の残り香があるっていうのはなんだか安心できて、俺は枕に顔を埋めてめいいっぱいその匂いを嗅いだ。
だけど。

「っ、俺は変態か!」

慌ててがばりと起き上がるものの、ずきりと腰が痛んで再び枕に顔を埋める。というか、散々色々としてきた俺が腰立たないとかアイツ実は慣れてんじゃねーの?と自分でも訳の分からない感情がよぎって、ハッと我に返る。
なんだ今の!なんなんだ俺!どうしちまったの俺!

ぐるぐるとパニックになりながらパタパタとベッドの上で悶えていた俺は、ぶるる、と枕の横で振動した携帯に気づいて、画面を開く。
あ、雪男からだ。


『From:雪男

おはよう
兄さん、ちゃんと起きてる?二度寝して遅刻しないようにね 』


てめぇ、散々好き勝手ヤッておいてそれだけかよ。
それに、遅刻する以前に起き上がれないんだけど!どうすんのこれ!

俺はむっとしつつ、カチカチと返事を打つ。


『おはよう
誰かさんのせいで爽やかな目覚めでしたー
ていうか、起き上がれないんだけど、この場合は誰かさんのせいだから休んでもいいよな! 』



俺がイライラしつつ送信ボタンを押すと、数秒もしないうちに返信が返ってきた。やけに早いなと身構えつつ、画面を開く。

『From:雪男
Re:Re

 お褒めに預かり光栄です。
 でもそれを言うなら、僕だけのせいじゃないよ
 兄さんがもっと、なんて強請るからだよ 』


「ね、強請ってねーし!えろほくろ眼鏡っ!」

ちくしょう、ちくしょう、なんだアイツ調子に乗ってんじゃねーぞ!
俺は乱暴に返信を送ろうとボタンを押していると、再びメールの着信を知らせてきた。差出人は、やっぱり雪男で。
なんだよ、言いたいことがあるならいっぺんに送れっつーの!と言いつつ画面を見て。


『From:雪男
Re:Re:Re:兄さん

好きだよ 』


一瞬、ほんきで、息が止まった。
そんな自分に、なんだかほんとに居た堪れなくて。

「ばっ、ばかじゃねーの!?き、気障すぎるだろ!」

俺は誤魔化すように怒鳴って携帯をベッドに投げつけた。ぼふっと枕に伏して、でもやっぱり、気になって、俺は携帯に手を伸ばす。
開いた画面は、さっきのままになっていて。

『 好きだよ 』

たった四文字しかないメール。
なのに、やたらとキラキラと輝いて見えて、心臓なんて、本人がいないのにどきどきしっぱなしで。

あぁ、そっか。

多分
きっと
これが


初恋、というやつなのだろうか。




END.

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