それからも、子どもの監視は続いた。
子どもは、不器用ながらもとても優しい子どもだった。時折、本当にこの子はサタンの仔なのだろうかと疑問に思うほど、子どもは真っ直ぐで、優しい子だった。
それでも、俺にとっては憎むべき敵だった。
無邪気に笑う笑顔を見るたびに、胸が焼け付くように痛んだ。この痛みはきっと、憎しみに焼けた心の火傷のせいだと、思った。
そして、あの日……―――。
俺は珍しく、あの子どもの背中を見つめながら道を歩いていた。いつもは高い木や家の影に隠れて監視していたのだけれど、子どもが何を思い、この道を歩いているのか気になった俺は、あの子と同じように道を歩いていた。
小さな足で歩く子どもの歩幅は小さくて、俺はすぐに追いつきそうになる。ゆっくりと歩幅を合わせて歩いていると、何だか不思議な気持ちになった。
あの子どもは、いつもこんな風にこの道を歩いているのだろうか。
そんなことを考えていると、子どもの足がぴたりと止まった。どうかしたのだろうかと怪訝に思っていると、彼が見つめる視線の先に、ボロボロのダンボール箱があった。子どもがそのダンボールに駆け寄ると、そこから顔を出したのは一匹の犬だった。まだ幼い子犬は、一生懸命子どもを見上げて尻尾を振っていた。
「………」
子どもはじっと犬を見下ろしていた。俺はその犬をどうするのだろうかと子どもの行動を見つめていると、子どもはゆっくりと子犬を抱き上げた。大事そうに、しかし、苦しませないように、そっと、その子犬を抱きしめる。
そして……―――、ダンボールの中を見て、きゅっと唇を噛み締めていた。
「………お前の兄弟がちゃんと眠れる場所を、俺が作ってやるよ」
だから安心しろ、と子どもは笑った。泣きそうに顔を歪めながらも、泣くまいと必死になって。
「………ッ」
俺はその時、何を思ったのか。
今まで何が起きても子どもを監視するだけだったはずなのに、その時、俺は子どもに向かって一歩足を踏み出していた。
「……おい。お前」
犬を抱く子どもに声を掛けると、びく、と子どもは体を震わせた。ゆっくりとこちらを見上げると、その青い瞳を大きく見開いていた。そして、ぎゅう、と子犬を守るように抱きしめて、こちらを睨みつけていた。
「なんだよ、誰だよ、お前」
「……。その犬、拾うのか?」
子どもの質問を無視して、犬をちらりと見やった。すると子どもは、むぅ、と唇を尖らせて、首を横に振った。
「………ダメだ。犬は拾ってきちゃダメだって、ジジイが怒るんだ。前も雪男と犬を拾って、内緒で飼ってたけど見つかって怒られたから。命在るものは、無責任に背負うなってジジイが言ってた。意味はよく、分からないけど」
「じゃあ、どうして拾った?そのまま、見てみぬフリをすればいいものを」
「そんなことできるわけねぇだろ!………せめて飼い主が見つかるまで、俺が世話するんだ」
「見つからなかったら、どうするつもりだ?」
「そんなの、やってみなきゃわかんないだろ!やってもいないことをウジウジ言うな!」
子どもは、俺を見上げて怒鳴った。まるで癇癪を起こしたように。だけどその瞳は、とても真っ直ぐだった。
俺はその真っ直ぐな瞳を、それ以上見ることはできなかった。ふい、と視線を逸らせて、ダンボールを持ち上げる。
何するんだよ!と慌てる子どもに、俺はぼそりと呟く。
「墓、作ってやるんだろ?」
「……ッ、うん!」
俺が問いかけると、子どもは少し嬉しそうに笑った。
ダンボールの中にいたのは、子犬の兄弟たちだった。四匹いるうち、三匹は死んでしまったのだろう。その日、俺と子どもは近くの広場の木の根元に、子犬の死骸を埋めた。
二人とも、会話らしい会話はなかった。子犬を埋め終わって、両手を合わせる。
俺はそっと、瞼を閉じて冥福を祈る子どもの横顔を見た。彼は今、何を思っているのだろう?
それが、無性に気になった。
子どもは顔をあげると、俺に向かってニッと笑いかけた。
「……―――ありがとな、兄ちゃん」
「……別に、たまたま通りかかっただけだ」
「それでも、ありがとな。兄ちゃん、優しいんだな」
「……―――」
俺はその時、何も言えなかった。
俺は子どもの言うような優しい人間ではないし、むしろ子どもにとって俺は、命を狙う敵なのだから。
関わらなければ、良かった。
俺は子どもと別れて、そう思った。
言葉を交わさなければ、こんな想いはしなくて済んだのに。それでも、俺はいつかあの子どもを殺さなければならない。
俺の、大切な兄弟のために。
それから、子どもは子犬の飼い主探しを始めた。なかなか飼い主は見つからないらしく、ひどく落胆しながらも、それでも諦めずに探していた。
そうしてやっと、子犬の飼い主が見つかった、その日の夜。
寒い、寒い雪の降る夜。子犬が、教会から姿を消した。
子どもは焦った。そして、冷たい雪の降る中、一人で子犬を探しに夜の町へ飛び出した。名前を付けたら情が移るからと、子犬の名を付けなかった子どもは、呼ぶ名さえないことに唇を噛んでいた。
そして、教会から少し離れたあの広場の前の道で、子犬は見つかった。
何も言わない、ただの死体として。
「……―――――」
子どもは、泣かなかった。
ただ、黙って子犬を抱きしめていた。
冷たくなった子犬を抱いて、震えていた。
子どもはしばらくの間そうして子犬を抱きしめていたが、やがて顔を上げると、子犬の兄弟が眠る場所の隣に座って、穴を掘り始めた。掘る物がないせいか、素手で土を掘る小さな手のひらは、泥で汚れて、雪混じりの冷たい土のせいで、真っ赤になっていた。
それでも、子どもは掘るのを止めない。そうしてできた小さな穴に子犬を埋めて、土を被せた。
子どもは、一度も泣かなかった。
「………死んだのか」
俺は、その背中にぽつりと呟いた。子どもは、うん、とひとつ頷いた。
「明日、新しい人に飼われるはずだったんだけどな……」
あの人たちには、ごめんって言わないと。彼はそう言って、寂しそうに笑った。
俺はその笑顔に、今まで溜め込んでいた苛立ちが爆発した。
「どうして、笑っている?」
「え?」
「どうして、笑ってる?なんで、笑える?悲しくないのか?悔しくないのか?どうして……!」
どうして、そんな顔をするんだ!?
子どもの肩を掴んで、その場にぐっと押し倒した。倒れこんだ青い瞳が、こちらを真っ直ぐに見上げていた。その綺麗な青い瞳を向けられるのが嫌で、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
「お前は、自分という存在が怖くはないのか!?人間じゃない力を持った自分が、怖くないのか!そんな自分を受け入れてくれない周囲が、憎くないのか!どうして、お前は笑える!?」
どうして、と俺は子どもに問う。
すると子どもは、目をぱちりと一つ、瞬きをして。
「何でって、そんなの自分だって分かんねーよ。ただ……笑いたいから、笑うんじゃねーの?」
「………―――笑いたいから、笑う……だと?」
「そう」
何を当然、とばかりに、子どもは言う。
俺はその時、愕然とした。笑いたいから笑うと言った子どもを見下ろして、再び、驚く。
子どもは、もう子どもと言うには大人びた顔をしていた。子どもだと思っていた彼は、いつの間にか少年へと成長していたのに、ようやく気づいたからだ。
「昔は、なんで俺はこんな力持ってんだろって思ってた。どうして、皆俺のこと見てくれないんだって。でも……―――そんなの、俺だって同じことじゃないのかって、気づいたんだ」
「……―――」
「アンタが何を思ってるのかなんて知らねーけどさ。そんな泣きそうな顔で、俺を見ないでくれよ。俺まで、泣きたくなっちゃうじゃんか」
なぁ、とこちらに伸ばされた手のひらを、俺は避けられなかった。
ただ……―――、頬に触れた手は、ひどく冷たくて。
「温かいな、お前」
でも、そう言って笑う彼は、とてもとても、暖かかった。
暖かくて、自分が泣いているのだと気づいた。
緩んだ視界の中、俺はそっと目を閉じる。とくん、と手のひらから伝わる彼の心臓の音が、やけに心地よくて。
俺はその温かな青い瞳に……―――恋をした。
サタンの息子であり、憎むべき敵の仔。
そして、いつか俺たちに牙を向くであろうその人に、俺は心を奪われてしまった。
彼を、守りたい。そう思った。
あの無邪気な笑顔を、守りたいと。
……―――だから俺は、ある決意をした。
「……。正気なの、ヨハネ」
俺の話を聞いたユダが、静かにそう問いかけた。俺は頷いて、正気だ、と答えた。
「サタンの仔に僕達のことを話して、どうするつもりなのさ。お情けでもかけてもらおうって?」
「違う。話して、俺たちはただ静かに暮らしたいだけなんだって伝える。そうすれば、きっとあの人なら分かってくれる。俺たちに手を出すようなことはしないはずだ」
「……本当に、そう思うの」
神妙な顔をするユダに、俺は頷いた。大丈夫だ、と。彼ならきっと、分かってくれる。俺たちと敵対することなど、絶対にしない。
「今はまだ、悪魔として覚醒はしていないが。もう炎の気配も強くなってきている。恐らく、覚醒までそう遠くはないだろう。覚醒したあの人がどうなるのかは分からないが、少なくとも今まで生かしておいたんだ。正十字騎士団にも何か考えがあるんだろう」
「……ふん。あの表面は厚い正義の仮面を被った奴らが何を考えていようが知らないけど、でも……ヨハネがそう言うのなら、仕方ないね」
ユダはひょいと肩を竦めて、それ以上何も言わなかった。
ただ、それまで黙って聞いていたペテロが、待てよ、と待ったをかけた。
「兄貴たち、本気でそれ言ってんの?相手はあの青い下衆野郎の息子だぜ?覚醒しちまったら、あの悪魔みたいに豹変すんじゃねーの?だったら、今からでも遅くない、殺してしまおうぜ」
「……ペテロ。あの人は、むやみやたらと人を傷つけるような、そんな人じゃない。だから、大丈夫だ」
「何が大丈夫なんだよ!?兄貴おかしいぜ?アイツの監視をしてからずっと!……まさか……監視をしてる間に、情でも湧いたのかよ!?」
「……―――」
否定は、しなかった。
黙り込んだ俺に、ペテロは顔色を変えていた。冗談だろ、と吐き捨てる。
「兄貴、それは騙されてるんだよ。サタンが聖人君子じゃねぇのを、俺たちが誰よりも知っているはずだ。だったら、その息子だってその血を継いでいるのは明白じゃねぇか!ずる賢い王のことだ。実はあの息子はすでに悪魔として覚醒していて、それを隠してるって場合だってあるんだ。アイツを信用するのは、危険すぎる!」
「ペテロ」
「兄貴、正気に戻れよ。アンタはお人よしなところがあるから、そこに付け込まれてるんだ。思い出してもみろよ。俺たちが今までされてきた仕打ちを!」
ペテロの叫びに、他の兄弟たちがびくりと体を震わせた。
「俺たちは、泥水啜ってここまで生きてきた!兄弟だけが唯一だった!それなのに、今更、あの青い外道を許すことなんてできない。ましてやあの悪魔の息子を、引き入れる真似なんて絶対にごめんだ!」
「……―――」
見渡した兄弟たちは皆、恐怖で震えていた。青い夜の惨劇から、これまでに受けてきた暴力、痛み、苦しみ。それらはすぐに癒えるものではない。忘れることなど、できないのだろう。
だとしたら、そんな彼らにあの人を受け入れろというのは、酷な話だろう。
俺だって、迷っている。今までの苦しみを思えば、青い炎を纏う彼を見た瞬間、自分でもどうなるのか不安で堪らない。
だけど……―――それでも。
俺は守りたい。
兄弟たちを。
そして……―――あの人を。
「……―――、それでも、話してみる価値はある」
だから、俺は賭けたい。
あの、青い瞳に。
綺麗で純粋な、あの、青に。
「これは俺のわがままだ。だけど……、俺はあの人を信じてる。だから、行かせてくれ」
すまない、と俺は兄弟たちに頭を下げると、くるりと踵を返した。
背後で、俺を呼ぶ兄弟たちの声が聞こえたけれど、振り返ることはなかった。
思えば、これが俺にとって、いや、「
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