シャングリ・ら 前




「いっそ、死んでくれ」

向けた銃口の先、彼は一体、何を思ったのだろう。




全国各地に支部を持つ正十字騎士団に一通の便りが届いたのは、約一週間前。チベットの奥地にある聖地に、祓魔師を一人送り込んで欲しい、というものだ。
その聖地はキリスト教信者の村があり、理想郷と呼ばれるほど美しいのだという。故に聖地として崇められ、尊い場所として全国でも有名な場所だ。
そして、その場所に行く祓魔師として指名されたのが、僕、奥村雪男だった。日本支部長、フェレス卿いわく、まだ年若い内に何でも経験しておくべきだ、ということだが、真意は単なる人手不足というだけだろうと僕は睨んでいる。
聖地の滞在日数は、三日間。その間の僕の仕事は、聖地周辺の結界の確認と、補正。聖地には悪魔の好む草木が生えている為、結界が無ければ数分で悪魔の巣窟と化してしまうらしい。それを防ぐ為の結界が、聖地を囲むようして張り巡らされているのだという。その点検をするのが、今回の任務、というわけだ。

僕は三日間という遠出の出張ということで、いつもよりも少し大きめの鞄に荷物を詰めて出発した。その時に偶然シュラさんに会って、そんな小荷物で大丈夫なのか?と言われたけれど、僕にとってはこれくらいで丁度いい。必要最低限のものえあれば、事足りるのだから。



飛行機と電車、バスを乗り継いで、ようやく聖地が見える場所までたどり着いた。遥か遠くの方、川に挟まれた向こう側に村が見える。
僕はその村を見つめて、目を細める。

「あれが、シャングリラ……―――」

聖地、理想郷、その名で呼ばれて親しい地が、目の前に広がっていた。


僕はやや早足になって村を目指した。予定よりも少し早いけれど、遅刻するよりはマシだ。
そう思いつつ舗装されていない道を歩いていると、向こうの方から一人の老人が歩いてくるのが見えた。ゆったりゆったりと歩を進めるその老人は、僕に気づくと少し驚いた顔をしたものの、すぐに笑みを浮かべて頭を下げた。僕も頭を下げ返すと、老人は僕の方へと近づいて来て。

「こんにちは。……見かけない顔だが、どちらへ行かれるのかな?」
「……、シャングリラへ」
「ほう……あの村へ」

老人は僕を上から下へと、まるで品定めをするかのように眺めた後、なるほど、と一つ頷いた。

「お前さん、祓魔師エクソシストだろう?だったら、気を付けるといい。この先に渡れない川がある。そこでお前さんは『光る稲妻』という悪魔に会うだろう。その悪魔は正直者にしか川を渡らせない。だから、一つでも嘘を付けば、忽ちその悪魔の餌食となるだろう」
「『光る稲妻』ですか……。分かりました、ご忠告、ありがとうございます。でも、その悪魔は、一体なんの為に川を……?」
「さぁ、そこまでは私の知るところではないな。だが、忠告はしたぞ」

老人はよくよく僕にそう言い聞かせて、去って行った。その背中を見送って、川を守っているというその悪魔が、一体どんなものなのか、想いを馳せていた。

「『光る稲妻』、か」





老人の言うとおり、村への道のりの途中。巨大な川に行く手を阻まれた。川の向こう岸には、目指す村、シャングリラが見える。
さて、どうしたものか、と思案していると、どこからかバシャバシャという水の跳ねる音が聞こえてきた。
何だろう、と周囲を見渡すと、川の中で必死に両手をもがいている人がいた。川の中心に近いその場所は、足が付かないほど深いのだろう。僕は慌てて川に飛び込むと、その人へと泳ぎを進めた。

「……だ、大丈夫ですか!?」

よほどパニックになっているのか、近づいて声を掛ける僕に気づかずに、必死に両手でもがいている。これでは、埒が明かないと思い、僕はその両手を掴んだ。

「落ち着いて!岸まで運びますから」

両手を掴まれたその人は、それまで暴れていたのを一転、急に落ち着いた態度で僕を見上げた。僕はその人の顔を改めて見て、息を呑む。

しっとりと水に塗れた黒髪、勝気そうなつり上がった瞳は髪と同色だったが、良く見ると淡い青色を放っている。
まだ幼さを残しながらも、すっきりとした顔立ちをしているその人は、少年と呼ぶには大人びていて、しかし青年と呼ぶには幼すぎるような気がした。
彼はじっと僕を見上げた後、ニッと無邪気に笑って。

「お前、祓魔師エクソシストのくせに悪魔を助けるんだな」
「え?」

僕が呆気に取られていると、彼は一人で納得したようにうんうん、と頷いて。

「お前みたいな奴、俺は嫌いじゃねーよ」

そう言いながら、彼は助けに来た僕の手を引いて、岸まで泳ぎ始めた。冷たい水の中、しっかりと繋がれた手のひらが、妙に温かい。
僕はそれを感じながらも、脳内では冷静に、あぁ、彼が『光る稲妻』と呼ばれる悪魔なのだと、悟っていた。


岸までたどり着くと、彼はふるふると顔を横に振って水を切った。そして僕を見ると、やけに真剣な顔で。

「お前、何故ここに来た。お前の望みは、何だ」

そう問いかけてきた。だから僕はそれに答えるように。

「僕はあの村に依頼をされてやって来た祓魔師エクソシストだ。……僕の望みは、あの村に行くことだ」

僕がそう答えると、じっと僕を見つめた彼は満足そうに一つ頷いて。

「うん、嘘は付いてないみたいだな。それに、その服装は紛れもなく祓魔師エクソシストのものだし。……悪かったな、服をダメにしてしまって」

彼は少し申し訳なさそうにそう言うと、僕に向かって手を翳した。何を、と僕が構える前に、彼は翳した手をふっと横に払って。

「さ、これで服は乾いたと思うけど?」
「え?」

彼の言葉に慌てて自分の服を見下ろせば、言葉通りに服が乾いていて。靴の中まで濡れていないことに、軽く驚いた。
……いつの間に。
僕が彼を見ると、彼はほんの少し照れくさそうに笑って。

「助けてくれようとしてくれた礼だ。……ありがとな」

そう言うと、くるりと背を向けてしまった。僕はその細い肩を見つめて、小さく跳ねた心臓を誤魔化した。まさか、『光る稲妻』と呼ばれる悪魔が、こんなにも人間臭い悪魔だったなんて思いもしなかったし、それに。
……笑った顔が可愛い、だなんて。僕は一体何を考えているんだろう。

そんなことを考えていると、背を向けた彼がこちらを振り返って。

「とにかく、お前の望みをかなえてやるよ。この川、通りたいんだろ?」
「え?あ、そう、だけど」
「それなら、俺に任せとけって」

彼はそう言うと、川に向かって手を翳した。その、瞬間。
ごォッ!という爆音が響いて、青い閃光のような光がこちらから向こう岸まで一直線に走ったかと思うと、その線を中心に、川が二つに割れた・・・

「さ、これで渡れるだろ」

川が割れたのを見守った彼は、満足そうにそう言った。僕は礼を言って良いものか迷ったけれど、取りあえず、ありがとう、とだけ告げる。すると彼は凄く嬉しそうな顔をして笑ったから、僕もつられて笑ってしまった。



川を文字通り渡って、僕はようやく村に着くことが出来た。早めに到着した僕を、村人たちは喜んで迎え入れてくれて。盛大な歓迎会が開かれようとしていたので、それは丁重にお断りした。僕の仕事はあくまでも祓魔師エクソシストとして、この村の結界を調整するだけだからだ。
僕はようやく宿にたどり着いて、一つ息を付いた。もう少ししたら、村の結界を見に行こうと思いつつ、窓の外を見る。
聖地、と呼ばれるだけあって、この村はとても美しい姿をしていた。花々が咲き乱れ、凛と澄んだ空気を漂わせるこの場所は、確かに理想郷の名に相応しい。
僕はその姿を見下ろしながら、ふいに、あの川の向こうで出会った悪魔を思い出した。
……彼は何故、あの川にいるのだろう。
そんな疑問が頭を過ぎって、僕は頭を振る。いけない、任務以外のことに気を取られるなんて。そう自分を戒めるものの、やっぱり頭の片隅に浮かぶあの青い瞳が、忘れられそうになかった。


僕は気分を変えるために外に出た。それに、この村の結界の数は百以上はあるというのだから、もうそろそろ作業に入らないと三日間では終わらないだろう。
取りあえず、北の方から回って行こうと思い、僕は村の北側を目指して歩いた。時折村人に呼び止められては、感謝の印に、と食べ物などを差し出されて。だけど僕は受け取るワケにはいかなかったので、その都度断った。
そんなことがありつつも、ようやく北の結果の場所にたどり着くことができた。北の結界には大きな滝があって、澄んだ水が流れ込んで来ていた。どうやら、この村の水はココから来ているらしい。滝から流れていた水は川となって村へと伸びていた。
僕はぐるりと滝を見渡した。滝の岸に、真っ白な円が描かれている。複雑な式が絡み合ったその円は、この村を守る結界だ。円を踏まないようにしながら、見下ろす。結界に綻びはないようだ。
僕はホッとしつつ、次の結界へと向かう。この作業を、後三日はしないといけないのだ。
そう思いつつ足を進めると、滝から流れて来た川辺に、一人の少女が座り込んでいるのが見えた。足を川に浸からせた少女は俯いていて、どこか元気がない。
どうしたのだろうと思って近づくと、僕の足音に気づいたのか、ハッと少女は顔を上げた。その瞳に怯えの色が見えて、僕は安心させるように笑った。

「大丈夫。僕は怪しい者ではありません。正十字騎士団からやって来た、祓魔師エクソシストですよ」
「……祓魔師エクソシスト、さん?」

少女はその大きな目をぱちくりとさせた。そして、少し考える素振りをした後に。

「あの、もしかして、今日から来て頂いている、神の御使いさまですか?」

少女の問いに、僕は苦笑する。確かに、祓魔師エクソシストは悪魔を祓う生業だが、神の使いというわけではない。
だが、それを言うわけにもいかずに黙っていると、少女は俯いた。その手のひらには、もぞもぞと動く何かがいて。僕がその手元に目線をやると、少女の手のひらに懐くようにして、小さな緑色の苔の塊みたいな人形が動いていた。

「それは……緑男グリーンマンの幼生ですね」
「え?ニーちゃんのこと、視えるんですか!?」

少女は僕の言葉を聞いて驚いたように顔を上げた。僕は頷いて、祓魔師エクソシストですから、と言えば、少女はとても感動したように、さすが神の御使いさま、と呟いた。

「ニーちゃんは、私の友達なんです。私、昔から人付き合いが苦手で、そんな私の傍にいつもニーちゃんが居てくれました。でも、ニーちゃんはこの村では私しか視えていないみたいで。以前、この村に来てくださった神の御使いさまが、視えることは誰にも言わない方がいいって、教えてくださって……」
「そう、ですか」

その前の神の御使い、というのは、僕と同じようにこの村の結界を調整に来た祓魔師だろう。その人も彼女とこの緑男の存在を知って、彼女に忠告したのだ。この聖地と呼ばれる村で、悪魔が視えることは異端だと言われ、最悪の場合村から追い出される可能性だってある。
正しい判断だな、と納得した。見たところ、この緑男はこの少女に懐いているみたいだし、他の人間に危害を加えるわけでもなさそうだ。
そう思っていると、少女はそういえば、と声を上げて。

「あの、ニーちゃんが視えるのなら、あの人も視えるんですか?」
「あの人?」
「はい。その人、この村の出入り口に時々立っているんですけど、すごく寂しそうな顔をしているんです。だから私、ある日話しかけてみたんです。どうして村に入らないのかって。そしたら、すごくびっくりした顔をした後に、ありがとな、って笑って、でもこの村に自分は入れないからって言うんです。どうして?って聞いたんですけど、答えてくれなくて……」
「……」

僕は話を聞きながら、彼だ、と思った。あの、川の向こうで出会った、青い瞳の悪魔。
彼は悪魔だから、結界のせいで村には入れない。

「その人は、黒い髪の男の人でしたか?こう、青い瞳の」
「あ、はい!そうです。綺麗な青い瞳をした、男の人でした」

やっぱり視えるんですね、と嬉しそうに笑った少女は、その瞳を少し伏せて。

「あの人、すごく寂しそうだったんです。だから、何とかしてあげたい。でも、私には何も出来ないから……」
「……そんなことは、ありませんよ」
「え?」
「貴女はそうやって、彼のことを思いやっている。その心だけでも、彼は嬉しいはずですよ」

そう言って笑うと、彼女は驚いた顔をしていたけれど、すぐにそっと微笑んだ。




そんなことがあって、僕は結界をある程度見て回った後、村の出入り口に向かった。夜もだいぶ更けた、明るい月が輝く闇の中。村の出入り口の向こう、ぽつりと佇む彼を見つけた。
その背中はどこか寂しげで、消えそうなくらい儚い。声を掛けなければと思うのに、触れた瞬間、ふらりとどこかに行ってしまいそうな雰囲気を漂わせていて。
悪魔とは思えないその顔に、僕はしばらく見蕩れていた。

そのうち、彼は僕に気づいたのだろう。振り返って、小さく手を振った。

「よぉ、また会ったな。無事に村に来られたみたいで、良かった」
「おかげさまで」

彼は僕に向かって歩いて来たけれど、ふいに立ち止まった。たぶん、それよりもこちらには来れないのだろう。手を伸ばせば届きそうで、でもお互いに手を伸ばさなければ届かない、距離。

「……、今夜は、月が綺麗だな」

ぽつり、と彼は月を見上げてそう言った。僕もつられるようにして空を見上げて、そうだね、と答える。
彼はどこか遠くを見るような顔をして、小さく笑った。

「こんな月の夜には、あの人のことを思い出す」
「あの人?」
「そう。お前と同じ、祓魔師エクソシストの男だ。数年前にこの村にやって来たその男は、俺を救ってくれた」

悪魔の俺をだぜ?笑っちまうだろ?と彼は言う。でもその横顔は、どこか嬉しそうで。
僕はその顔に、少しムッとした。すると彼は目敏く僕を見て眉根を寄せると。

「……何か、怒ってるのか?」
「……―――」

恐る恐る、と聞いてくる彼に、僕は違う、と言いかけて口を閉じる。彼に嘘をついてはいけない、という老人の言葉を思い出したからだ。
僕が押し黙っていると彼は、なぁ、怒ってる?としつこく聞いてくる。あまりのしつこさに少しイラ、と来て、怒ってないよ、と口を付いてしまった。

「……」
「……」

きょとん、と僕を見る彼に、しまった、と口を閉じた瞬間、彼はあはは!と笑い出した。

「嘘つき」

怒ってるくせに、とそう言いながらも、何が可笑しいのか声を上げて笑う彼に、今度は僕が呆気に取られた。ひーひーとお腹を抱えてひとしきり笑った彼は、目じりに浮かんだ涙を拭って。

「お前、大人しそうに見えて意外と短気なんだな。……でも、そっちの方が、俺は好きだな」
「な……!」

にっこりと微笑みながらそう言われて、僕は言葉を失った。
あまりにも無邪気に、真っ直ぐにそんなことを言われたのは、初めてで。
どくん、と大きく跳ねた心臓の音を、僕はどうやって誤魔化そうかと考えていた。





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