穏やかな日差しが眠気を誘う、春の昼下がり。俺はあくびを噛み殺しながら、のろのろと高等部の廊下を歩いていた。まだ祓魔塾が始まるまで、時間がある。どこで暇を潰そうかな、と思っていると、ふいに視界に飛び込んできたそれに目を奪われた。
俺はしばらく呆然としていたけれど、すぐに我に返って走り出した。カチャリ、と背負った剣が、小さな音を立てた。
「すっげーな、この木!」
高等部の廊下から見えたのは、一本の桜の木。高等部の校舎から少しだけ離れた場所に立つソレを見上げて、感嘆の声を上げる。
俺の身長の数十倍はあるだろう桜の木が、満開の花を咲かせて、誇らしげに枝を伸ばしている。
ひらり、ひらり、と。
桜の花びらが目の前を舞う。校舎の裏側にあるし、少し距離もあるから、きっとこの場所には誰も近づかないのだろう。こんなに綺麗なのに、人が一人もいないからだ。
「いい場所見つけたなぁ。花見とかしたら、きっとすげー良い場所だよな」
その時は、雪男やしえみ、塾の皆を誘ったらどうだろう?皆、来てくれるだろうか?何やかんやでノリの良い奴らだから、きっと来てくれる。
そうしたら、重箱とか用意しないとな。
そんな風に考えて、小さく笑う。ごろり、と木の根元に寝転がって、青空に舞い上がる桜の花びらを見つめた。
……こんな風に、自然と友達のことを考える。少し前の自分では、考えもつかないことだ。
ジジイと雪男。そして教会の連中。それだけが俺にとっての世界で、それ以外の奴らなんて関わろうとも思わなかったのに。
……変われば、変わるもんだよな。
ほんの少しくすぐったくて、肩を揺らして笑う。同時に風が吹いて、さわ、と桜の花びらが舞い上がって。
「……、あの……」
小さな、聞き流してしまいそうな声が聞こえて、俺はゆっくりと起き上がる。誰だ?と思っていると、桜の花びらが舞う向こう側に、一人の女の子が立っていた。
高等部の制服を着て、真っ黒な長い黒髪を風に揺らして、少し戸惑ったように俺を見ていた。
「?お前、誰だ?」
「あ、あの、私……、その、えっと……」
オロオロと俺を見ながら、盛大にどもる女の子。俺はその様子に首を傾げていたものの、その手に持っているモノに気づいて、アッと声を上げた。
「スケッチブック……?」
大事そうに抱えられたソレに目をやると、女の子は顔を真っ赤にして頷いた。
「その、私、絵が好きで……。この桜を描こうと思ってたん、だけど……」
「あー、それなら俺がいたら邪魔だよな」
ごめんごめん、とその場を移動しようとしたけれど、何故か女の子は慌てて。
「あ!いいの!気にしないで、そのままでいても大丈夫、だから!」
「へ、いいの?」
「……ッ」
こくこく、と頷いて、女の子はその場に座り込んだ。ふわ、とほんの少し笑った顔に、どき、とする。
はら、と彼女の髪が揺れて、桜の花びらに生えて、すごく綺麗だった。
「奥村君!」
は、と自分を呼ぶ声で我に返った。目の前には、かなり不機嫌そうに俺を見下ろす雪男。
俺は一瞬、ここがどこか分からなくて、きょとんとしていたけれど、すぐに祓魔塾だと分かり、血の気がサッと引くのを感じた。おずおずと、弟を見上げて。
「え、っと……奥村、先生……?」
「なんですか、奥村君」
「その、俺、もしかして寝てました……?」
その瞬間、びき、と聞こえないはずの、血管の切れる音が聞こえて。
「……奥村君には、僕から眠くならないように課題をたっぷり出してあげましょうね」
にっこりと満面の笑みを浮かべた雪男が、くいっと眼鏡を押し上げて、そう言った。
有無を言わせないその雰囲気に、俺は、はい、と力なく項垂れた。その時ちょうど鐘が鳴って、授業は終わった。
「あー、マジかよ……」
「雪ちゃん、ずっと燐のこと呼んでたんだよ?それなのに燐、ぼーっとしてて返事しなかったから……」
どんよりと落ち込む俺に、どうかしたの、としえみが心配そうに聞いてきた。俺はまさか、女の子のことを思い出してぼーっとしていました、何て言えなくて、なんでもねぇよ、と答えた。
「……」
明日も、あの子はあの場所に来るだろうか。まだスケッチブックは完成していなさそうだったから、きっと現れるだろう。
……俺も、行ってみよう。もし来なくても、昼寝するにはいい場所だから。
そう考えて、小さく笑った。
その日の夜。部屋でクロとくつろいでいると、雪男が帰ってきた。いつも塾の講師やら祓魔師の仕事やらで、雪男の帰りは遅い。
「ただいま、兄さん」
「おー、おかえり、雪男」
真っ黒なコートをクローゼットにかけながら、雪男は俺を見て、そういえば兄さん?と満面の笑みを浮かべた。かなり、嫌な予感しかしない表情だ。
「な、なんだ?」
「今日の授業、アレ、どうしたの?いつも以上に話を聞いてなかったでしょ?」
「そ、そうか?」
「そうだよ。それに、今日の課題はちゃんとやった?クロと遊んでる暇なんてあるの?」
「あーもう!ちゃんとやってるよ!ほら!」
どうだ!と課題のノートを広げる。胡散臭そうにノートを見た雪男は、はぁと盛大にため息をついた。
「兄さん、これほとんど間違ってるよ」
「げ、マジ……?」
「マジだよ、マジ。全く……今日の授業をちゃんと聞いてないからだよ」
「う、うるせー」
しょうがないな、と雪男は眉間に皺を寄せる。俺はバツが悪くてそっぽを向くと、雪男がやけに真面目な声で、兄さん、と俺を呼ぶ。
「ほんとに、今日はどうしたの。……ぼーっとしてたし、僕が何度も呼んだのに返事もしないし」
「……ごめん」
俺は少し俯いて、ぽつりと呟くようにして謝った。俺が反省していると分かったのか、雪男はそれ以上何も言わなかった。代わりに、今から教えてあげるから、といつものように言った。
俺はそれに、素直に頷いた。
雪男に課題を教わりながら、うんうんと唸っていると、雪男がじっと俺のことを見ていることに気がついた。何だよ、と顔を上げると、雪男は真剣な顔つきで言った。
「兄さん、僕がいない間、クロを連れて歩いて」
「え、何で」
俺が首を傾げていると、何でもいいから、とやけにしつこく食い下がった。俺はその勢いに押されるようにして、分かった、と言った。すると少しホッとしたような顔をしたから、今回のことでかなり心配をかけてしまったのだろうか、と思う。
……雪男は、心配性だからな。
俺は内心で苦笑する。そして、心配性な弟を心配させないようにしないとな、とくすぐったい気持ちになった。
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