すき、の意味





四月、僕は晴れて正十字学園に入学した。
季節は春。学園には桜の花が大量に咲き乱れていて、少し圧倒されるくらいだ。僕はぼんやりとそれを眺めながら、そういえば、小さい頃、桜並木の下でよく兄さんと遊んだな、と思い出す。

兄さん。
僕の双子の兄弟で、僕よりも数時間早く生まれた存在。
僕は未熟児で生まれて身体が弱かったけれど、兄さんは悪戯をしてはよく神父さんに怒られていた。
僕たち兄弟には、親がいない。……いや、正確には存在するけれど、会ったこともない。
母親は僕たちを産んで死んでしまったし、父親は……―――考えたくもないけれど、この世界には存在しない、サタン、と呼ばれる悪魔だ。
そして、そのサタンはこの世界を手に入れるために、僕たちを生み出し、僕ではなく兄さんが悪魔の血を受け継ぐ存在になった。

僕がそのことを知ったのは、僕が悪魔と呼ばれる存在を認識できるようになった時だ。怖くて不気味な影を視るようになった僕に、神父さんは苦々しい顔をして、僕たちの出生の秘密を話してくれた。
そして。

『お前は、燐とは離れて暮らしたほうが良い』

そう、神父さんは言った。
当然、僕は嫌だと思った。兄さんと離れて暮らすなんて考えられない。きっと寂しくて、死んでしまう、と。
だけどそんな僕に神父さんは。

『燐を、そしてお前を、守るためなんだ』

とても悲しい顔をして、そう言うから。僕は何も言えずに、ただ黙って俯いた。
それから、表向きは身体の弱い僕の静養の為、という名目で、兄さんとは離れ離れになった。兄さんは泣き出しそうな顔をしていたけれど、ぐっと泣くのを我慢して。

『ゆきお、体が治ったら、またいっしょにくらそうな!』

そう言って、笑った。
僕も泣くのを我慢して、うん、と頷いたのを、昨日のことのように覚えてる。

僕が強くなったら。
兄さんを守れるくらい、強くなったら。
また、兄さんと一緒に暮らそう。

そのためだけに、僕は祓魔師になった。死に物狂いで勉強して、「最年少で称号を手にした天才」なんて呼ばれて。
塾の講師として抜擢されて、しばらく僕の周囲は慌しかった。だけどそれも落ち着いてきたから、もうそろそろ兄さんと一緒に暮らしたい、と神父さんに告げるつもりだった。

だけど。

その前に、神父さんは逝ってしまった。サタンに、憑依されて。
兄さんを、サタンから守るために。




「奥村君」

ハ、と我に返る。ぼんやりとしていた僕を、怪訝そうに見つめる先生がいた。どうやら新入生代表として挨拶する僕を探しに来たらしい。

「大丈夫?緊張してるみたいだけど」
「いえ……大丈夫です」

僕は眼鏡を押し上げつつ、にこりと笑う。その笑みに先生はホッと安心したような顔をして、もうすぐ式は始まるからね、と上機嫌でそう言った。
僕は、分かりました、と返しつつ、内心でため息を付く。

強くなるために、無くしたものが沢山ある。
得たものも多いけれど。
こんな僕を見て、兄さんは何て言うだろう?

……―――昔みたいに、笑いかけてはくれないかもしれないな。

僕が自嘲するように笑みを浮かべると、ザワ、と風が吹いて。

「ゆき、お……?」

風にまぎれるように聞こえた、その声。僕はドクン、と心臓を高鳴らせた。
記憶にある声よりも、少し低い。だけど、解かる。
この、声は……―――。

僕が痛いくらいに心臓を高鳴らせて、振り返った先。
桃色の花びらの舞う、その向こう側に。
一人の少年が、僕を見て呆然と佇んでいた。
黒い髪と、少し吊り上がった青い瞳。少し幼さの残る顔立ち。
正十字学園の制服に身を包んだ、そのひとは。
僕がずっと、頭の片隅に思い描いていたその姿とは、少し違っていたけれど。
だけど、解かる。彼は、僕がずっと、守りたいと思っていたひとで。
これからも、ずっと、一緒にいたいと思ったひとだ。

「にい、さん……!」

どうして、だとか。
なんでこの場所に、だとか。
言いたいこととか、聞きたいことは、たくさんあったけれど。

だけど、とりあえず、全部捨てて。

僕は、兄さんに向かって一直線に走り寄った。
兄さんも、僕に向かって走ってきて。

「ほ、ほんとに、雪男、だよ、な……?」

少し息を切らせて、兄さんは僕を見上げた。僕はそれに、ドキリとする。
誰よりも憧れていたそのひとが、今、僕を見上げている。
同じ身長だったはずなのに、いつの間にか僕は兄さんを追い抜いていて。

「雪男」

僕を呼んで、大きくなりやがって、と笑う。

……あぁ、変わらない。
僕の兄さんは、僕の兄さんのままで。
何一つ変わることなく、僕に笑顔を向けてくれる。

たったそれだけのことだけど、僕にとっては何よりも大切なことで。

「兄さん」

僕は熱くなる目頭を誤魔化すように、その体を引き寄せた。
僕の腕の中に、すっぽりと収まってしまう兄さんに、また、心拍数が上がる。
このひとは、こんなにも小さいひとだったんだ、と。

「ちょ、……雪男!」

兄さんは僕の腕の中で体を硬直させながら、真っ赤になって抵抗する。
離せ、と言われたけれど、どうしても今は、離したくない。

「兄さん」

ぎゅ、と少し細い肩を抱きしめて、何度も兄さん、と呼ぶ。そんな僕に、兄さんは抵抗を止めて、おずおず、と僕の背中に腕を回した。
小さく背中を掴まれて、堪らない気持ちになる。

「兄さん。……会いたかった」

切実な声が出ていたと思う。そんな僕に兄さんは、うん、と一つ頷いて。

「俺だって、同じだよ」

お前に会いたかった、とそう言われて。僕はまた、兄さんを抱く腕に力を込めた。
痛い、と少し苦笑しながら抗議する兄さんの声を無視して。

これからは、僕がずっと傍にいて、貴方を守る。

新たにそう誓って、僕は兄さんの髪に、そっと唇を寄せた。


最初は、憧れだったはずの感情。
だけど、離れてみて良く分かった。この、狂いそうなくらいの、激しい感情の意味が。


僕は、このひとのことが……――――。


『すきだよ、兄さん』


心の中でしか伝えられない想いを、そっと風に乗せて。
僕は、ゆっくりと瞼を閉じて、腕の中の体温を感じていた。