すき、の定理
五月、降りしきる雨の中、俺は佇んでいた。
体はボロボロだし、治りが早いはずの傷は治らずに留まって、俺の痛覚を刺激する。
荒い息を整えながら、俺は自分の足元を見る。
そこには、ぴくりとも動かないイキモノがいて。
ソイツは、俺と血の繋がりのある父親で、俺の大切なひとを殺した奴だった。
今は、もう動かない。
俺の後ろで、皆が荒い息をしている。それが妙に耳に響いて、痛い。
……サタンを、倒す。
かつて誓ったその通りに、俺はサタンを倒した。もちろん、一人じゃない。同じ塾で一緒に学んだ同期の奴らや、俺の剣の師になってくれた人、そして、俺と同じ血を分けた弟も、一緒に。
サタンの息子と言われた俺が、そのサタンを倒す。誰もがそれを望みながら成し得なかったことを、息子の俺が成し遂げた。
不思議と、心は凪いでいた。
サタンを倒したら、こうしよう、ああしよう、と思い描いていた。だけど実際は、違う結末を迎えた。
「……―――」
俺は自分の足元から目を離して、眼前を見つめた。
異形の姿をしたイキモノたちが、じっとこちらを見つめている。数百はいるであろうその集団の先に、ソレはあった。
虚無界の門。
全ての始まりであるこの門が、今目の前に在る。
『……若君』
イキモノたちの中から、一人、人間と同じような姿をした男が、俺の前に一歩踏み出した。
額から巨大な角を生やしたソイツは、俺をじっと見つめた後、俺の足元にひざまづいた。
『貴方の父君、前王サタン様は、貴方様の手によって亡くなられました。……あの虚無界の門は、王によって均衡が保たれる存在。王亡き今、虚無界の門の均衡は崩れ、とても不安定な状態です。このままでは虚無界の門は暴走し、この数以上の悪魔がこの世界に押し寄せるでしょう』
「!」
背後で、仲間たちが息を飲む気配がする。
俺はじっと、ひざまづく男を見下ろして。
「止めるには、どうすればいい?」
聞きながら、俺はもう答えを知っていた。それでも、聞かずにはいられなくて。
『次の王を立てる他に、手立てはございません。……若君、それは貴方様しか存在しえないのです』
だけど、淡々と返された答えに、俺は小さく笑った。
そうだと思った、と。
今まで考えたことがなかったといえば、嘘になる。それが、現実になろうとしていて。
「そっか」
俺は、どこかスッキリした心持ちでそう言った。そして、ひざまづく男に、しょうがねぇな、と笑って。
「俺が王ってのになれば、いいんだろ?」
シンプルで、祓魔師になるよりも簡単。
塾の勉強よりも、ずっと単純明快な答え。
それが目の前にあるのなら、俺は出すことに迷いはしない。
誰かが傷つかないで済む方法があるのなら、俺は。
「なら、なってやるよ。その、王に」
悪魔にだって、なれる。
「ダメだ、兄さん!」
俺の答えを聞いた雪男は、ひどく焦った声で叫んだ。雪男がこんな声を出すなんて珍しくて、俺は笑ってしまった。
「しょうがねーだろ?サタンの息子である俺しか、いないんだし」
初めて、俺は自分をサタンの息子だと言った。
人間でいたかったけれど、それはやっぱり、無理だから。
「ッ、それなら、僕だって同じだ!」
僕たちは双子なんだよ、兄さん!と雪男は叫ぶ。
「兄さんが悪魔だって言うのなら、僕だって同じだ!……だからッ、」
行くな、と雪男が叫ぶ。それを聞いて、他の奴らも口々に行くな、と叫ぶ。
俺はそれを聞きながら、そっと目を閉じた。
行くな、と言ってくれるひとたちがいる。
引き止めてくれるひとたちがいる。
でも、その言葉は、俺の背中を押すのには十分すぎて。
俺は熱くなる瞼をぎゅっと閉じた後、勢い良く振り返った。
みんな、俺を見て必死な顔をしていて。
「……ごめん、な」
ありがとう。
そして……―――。
「さよなら、だ」
満面の笑みを浮かべて、俺はその言葉を告げた。
そして、すぐに背を向ける。そうじゃなきゃ、笑顔で別れるなんてできないから。
「兄さん、行くな!僕を置いて行くなんて、そんなの許さない!」
雪男が、少し泣きそうな声で叫ぶ。ざわり、と俺の目の前にいた悪魔たちや、俺の足元にひざまづいていた男が、俺の背後を見て顔色を変えた。
だけど、俺は振り返らなかった。雪男が今、何をしようとしているのかなんて、見なくても分かる。
俺に、銃口を向けている。いつかの時のように。
「このまま行くというのなら、僕は兄さんを撃つ」
静かに、雪男はそう言った。途端に騒ぎ出す悪魔たち。俺の近くにいる男なんて、ギロリと牙をむいて、今にも雪男に襲い掛かっていきそうだ。
ピン、と張りつめた空気が漂う。その中で、俺はゆるりと笑った。
「撃てよ」
ざわ、と悪魔たちが騒ぐ。男も、呆然と俺を見上げていた。
背後の雪男でさえも息を呑む気配がして、そんなに驚くことかな、と思う。
「撃てるなら、撃てよ」
少し挑発するように言えば、雪男がぐっと言葉に詰まっているのが分かった。
それを感じながら、俺は歩き出す。兄さん、と雪男が呼んだけれど、振り返らずに。
……―――ほら、やっぱりな。
お前は、どうやったって、俺を撃てやしない。俺が、お前と戦わないように。
俺の背後に、男が付く。眼前の悪魔どもは一斉に俺の前に道を開けて、花道のようになっていた。
俺はその道を真っ直ぐに歩く。呼び止める仲間たちの声を聞きながら。
「すきだ、みんな」
ぽつりと呟いた言葉は、きっと皆には届かなかっただろうけど。
……―――俺の「すき」は、こういう形でしか表せない。
「行くな、兄さん!僕を、独りにしないでよ……!」
特に、意外と寂しがり屋な、もう一人の俺には。
「だいすきだよ、雪男」
この言葉は、きっと、一生届かない。