すき、の定義
六月、僕はゆっくりと覚醒した。
寝起きでぼんやりとする頭を働かせながら、脇においていた眼鏡を手に取る。クリアになる視界を確認して、そっと隣を見る。
空の、誰もいないベッドを見て、呟く。
「おはよう、兄さん」
答えは、返ってこない。
兄さんが虚無界の門へと消え、もう三年が経った。今年で、僕は二十歳を迎える。塾の生徒たちもそれは同じで、皆立派に祓魔師として活躍している。
僕は祓魔師のコートをきっちりと羽織って、愛銃である二丁を手に取る。手にしっくりとくるソレを、強く握り締めた。
「兄さん」
あの時、僕は撃てなかった。
でも、あの言葉は本当だった。僕を置いていこうとする兄さんを、本気で殺そうと思った。
だけど、やっぱり撃てなかった。それを、兄さんは分かっていたんだろう。
『さよなら、だ』
そう言って、自分一人で納得して、自分勝手に行ってしまった兄さんを、許せないと思う。たとえそれが、最善の方法だったとしても。
誰かを犠牲にして得る幸せを望んでいなかった兄さんは、自分を犠牲にすることで周りの人間を幸せにしようとした。誰もそんなこと望んでなんていなかったのに。
僕はホルスターに銃を仕舞いながら、部屋を出る。立て付けの悪い扉は鈍い音を立てて、これは調整が必要かな、と思う。
あの頃から変わらずに、僕はこの旧男子寮に住んでいる。皆口々に、他にもいい場所はたくさんあるからそっちに引っ越せば、と言うけれど、僕はそうしなかった。
この場所には、兄さんの思い出が在り過ぎるから。僕はそれを捨ててどこかへ行こうとは思わなかった。
それに、しばらくの間はこの寮に戻らないだろうから。
僕は小さく笑って、寮の扉を閉めた。
前を向くと、しえみさんや勝呂君たちといった元僕の生徒たちと、シュラさんや、兄さんが関わった京都支部の方たちが、勢ぞろいしていた。
「遅れてすみません」
僕が皆に向かってそう言うと、おせーぞビビリ、とシュラさんが文句を言う。
「全く、肝心の野郎が遅刻するなんて。てめーらほんとに似てる兄弟だよな」
「双子ですから」
苦笑交じりにそう言うと、皆も笑う。今、この場にいる全員が、きっと兄さんのことを思い出しているに違いない。
この場に集まったのは、そういう人たちばかりだから。
「じゃあ、始めるとしますか」
シュラさんが明るくそう言い放った。僕はそれに頷いて。
「ええ、始めましょう。……兄さんを、物質界に連れ戻す作戦を」
僕がぐるりと皆を見渡すと、皆、一つだけ頷いた。それを見届けて、心の中で、兄さん、と彼を呼ぶ。
絶対に、貴方を連れ戻す。そのために、この三年を費やした。だから。
「……必ず、成功させましょう」
失敗は、許されない。
虚無界の門は、虚無界の王、つまり今は兄さんの力がなければ呼び出すことはできない。
だけど、それ以外にも方法はある。虚無界の門も一種の悪魔だ。つまり、手騎士の力で呼び出せる、ということだ。
だが、並みの手騎士では呼び出せない。過去に何度か試みた者がいたらしいけど、失敗に終わっている。それは、虚無界の王の血が必要不可欠だからだ。
だけど、一つ、忘れている。
兄さんは、サタンの息子だけれど。
僕だって、同じ血を引く兄弟なんだってことを。
つまり、兄さんの血がなくても、僕がいれば虚無界の門は呼び出せる。
虚無界への道ができる、ということだ。
でもそれは、ある意味賭けに近い。同じ血族とはいえ、本当に虚無界の門を呼び出せるのか、勝敗は五分五分、といったところだろう。
それでも、やるしかない。これしか、方法がないのだから。
複雑な図が並ぶ円を見下ろして、祈る。
神父さん、どうか力を貸して欲しい。兄さんに続く道を、繋いで欲しい。
僕は手のひらを鋭いナイフで切りつけて、ぐっと拳を作る。ぽた、と数量の血が円に落ちた。その瞬間、カッと円が光を放った。僕は手に平を握り締めたまま、血を溢れさせる。
虚無界の門を呼び出すには、大量の血液がいる。貧血ギリギリの量を出し終えると、ムッと鼻につく異臭が漂い始めて。
ドン、という音と共に、あの日見た門が目の前に横たわっていた。
「呼び、出せた……」
誰かが、呆然と呟いた。僕は少しふらつく頭を振って、強く虚無界の門を睨む。
この先に、兄さんがいる。
僕とシュラさんは目を合わせる。同時に頷き合って。
「行こう、虚無界へ」
その声を合図に、皆が虚無界の門へと歩み寄ろうとした、その瞬間。
「はーい☆ストップです」
ボフンという爆発音と共に、虚無界の門の真上に見慣れた男が現れた。
唖然とする僕たちの視線を一身に受けて、彼は芝居がかった動作で一礼をした。
「御機嫌よう、皆さん」
「フェ、フェレス卿?!」
何故ここに、と皆が皆驚いた。僕だって、驚きを隠せない。
フェレス卿はサタンとの戦いの後、行方くらました。それ以来、この3年間何の音沙汰もなかったというのに。
何故、このタイミングで?そして、何が目的なんだ?
僕は身構える。シュラさんも同じことを考えているのだろう、フェレス卿を見上げたまま、わずかに腰を落としている。
警戒する僕らを見下ろして、彼はあくまでも楽しげに笑う。
「お久しぶりですねぇ。皆さん元気そうで何よりです。しかし……、まさか虚無界の門を召還するとは、また無茶なことをしたものですね」
フェレス卿は僕を見下ろして、おやおや、という顔をする。
「こんな無茶をして、彼が喜ぶとでも思っているんですか?奥村先生」
「……余計なお世話です」
「そんなに大切ですか、双子の兄が。まぁ……貴方の場合はそうでしょうけれど。果たしてお兄さんの方は、どうでしょうね?」
「……ッ、黙れ!」
声を荒げた僕に、彼は罠に掛かった獲物を見るような顔をした。そして、そうだ、と大げさに手を叩いて。
「良いことをお教えしましょう。他の皆さんも聞いておくと良い。……奥村君、……いや、現サタンは、虚無界を統べる王として、充実した毎日を送っている」
「!」
その言葉に、誰もが息を呑んだ。
「キミたちは彼をこの世界に連れ戻そうとしているようですが、彼はもともと悪魔の仔。虚無界側の人間です。そんな彼が物質界にいて、幸せだと言えるでしょうか?いいえ、決して、この世界は彼に優しくはなかった。……それは貴方が一番理解しているのではないですか?奥村先生?」
「……ッ、違う!」
「いいえ、違わないですよ。現に、今の彼はこの世界に居たときよりも、心穏やかに居られている」
「違う!そんなのは、嘘だ!」
僕はフェレス卿の言葉を否定しながら、どこか肯定している自分がいて、愕然とした。
確かに、この世界は兄さんにとって、優しいものではなかった。
小さな頃から、その力故に恐れられて、罵られて、疎外された。今では心を通わせた塾の仲間たちでさえ、一時期は兄さんから離れていた。
物質界は、兄さんにとって、苦痛でしかない場所かもしれない。
過去に何度か、思ったことだった。そしてその度に否定して、僕が兄さんを守るのだと誓ってきた。だけど結局、兄さんは虚無界へと行って、3年という月日が流れた。
三年。僕にとってはあっという間だったけれど、兄さんにとってはそうではないのかもしれない。
そう思うと、怖くなる。変わってしまった兄さんを、見るのが怖い。
黙った僕に、フェレス卿は、図星ですか、と笑う。
誰も、反論はしなかった。それぞれが、きっと一度は考えたことなのかもしれない。
フェレス卿は、そんな僕らを憐れむような表情で見下ろした。
「……これで分かったでしょう。彼はこんなことを望んではいないのだと。さぁ、そうと分かれば早く虚無界の門の召還円を閉じて下さい。この虚無界の門は、物質界にとって良いものではないのですから」
手騎士たちが戸惑ったように僕を見る。どうする、と言いたげな視線に、ぐっと唇をかみ締める。そして、フェレス卿を見上げて。
「一つ、聞かせて下さい」
「なんでしょう?」
「……兄さんは、そちらにいて、幸せそうでしたか」
「……―――」
僕は、答えを聞きたくないと思った。もう、明確すぎる答えは出ているというのに。
それでも確信めいた言葉に、耳を塞いでしまいたいと思った。
だけど、フェレス卿はそんな僕を嘲笑うかのように。
「はい、勿論ですよ」
キッパリと、言い放った。
当然だ、と言わんばかりに。
「……そう、ですか……」
僕はその答えに、泣きそうだ、と思った。もう涙は枯れてしまったと思っていたのに。
兄さんが幸せで居られる場所が在れば、それに越したことはない。その場所から連れ出していい権利なんて、誰も持ち合わせてなんかいない。
兄さん、僕は、貴方が幸せならそれでいい。
貴方の幸せが、僕の幸せなんだ。
それが、僕の「すき」の形。
この3年で色褪せることはなく、より鮮明な色をした僕の、「すき」の定義。
兄さん、僕は……―――。
「手騎士班は、門を、」
閉じて下さい。
そう、言おうとして。
「それはあんまりじゃねーの?雪男」
僕の声は、新たな声に遮られた。
え、と思う間もなく、パァン!という乾いた音と共に門が消滅して、門があったその場所に、一つの影が現れる。
ゆらり、と揺らめく、青い炎。それは鮮やかに僕の目を焼いて。
「……久しぶりだな、雪男」
照れたように、いつものように、兄さんは、笑った。
突然のことに驚きすぎて声も出ない僕らを、ぐるりと見渡した兄さんは、少し困ったようにフェレス卿を仰いだ。
「ちょっとやりすぎじゃねーの?メフィスト」
「でも、なかなかのものだったでしょう?それに、賭けには貴方が勝ったじゃありませんか」
「そりゃそうだけど」
でもなぁ、と困ったように眉根を寄せる兄さんに、僕は震える唇でその名を呼ぶ。
「兄さん……?」
「何だ?雪男?」
当たり前のように答える、そのひとに。
僕は、堪らずに駆け寄って、その体を抱きしめた。
少し驚いたように体を硬直させた兄さんは、だけどすぐに体の力を抜いて、僕の肩に額を預けた。
「お前、また大きくなったんじゃねーの?」
「兄さんは、少し小さくなったんじゃないの?」
「ソレはお前が大きくなったからだろ!?俺は……!」
ぎゃんぎゃんと喚く兄さんを、僕は強く抱きしめることで黙らせた。
何も変わらない、その体温を感じながら。
「おかえり、兄さん」
そう囁くと、兄さんはきょとんとした顔をした後、満面の笑顔を浮かべて。
「おう。……ただいま、雪男」
そっと、僕の頬に手を伸ばした。
「……何か、入り込めん空気やな……」
「あの二人、皆がいること忘れてるんじゃないの?」
「良かったね!燐が戻ってこれて!」
「ったく、人騒がせな兄弟だよな!」
「でも、奥村君が物質界にいて問題はないんやろか?」
ひそひそと話すその他一同。その中で子猫丸が投げかけた疑問に、ひょっこりと現れたメフィストが答えた。
「ソレは大丈夫です」
「フェレス卿?どういう意味です?」
「元々、物質界を手に入れるために、前サタンが作ったのが奥村君です。今はサタンの力を受け継ぎ、虚無界の王となっていますが、その力が衰えなければ、物質界にいたとしても虚無界の門を制御することは可能です」
「え?なら、あの時わざわざ虚無界に行かなくても良かったんじゃ?」
「あの時は、前サタンの力を正式に奥村君は受け継いでいない状態でした。降魔剣によって力を制御した状態でしたし、虚無界の王になるには、それなりの儀式を行わないといけないのです。だから、一度虚無界に来ていただく必要があった」
「じゃあ、その儀式が済んだらこっちに帰ってこられたんじゃないの?」
「いえ、それが……」
メフィストが答えようとすると、いつの間にか二人の世界から抜け出したのか、燐が答えた。
「や、それがよ?俺もまさか普通にこっちに帰って来られるなんて思ってなくてさ。正式に王になったんだし、帰っていいのかな?と思ってたら、どうやら俺を王に据えることを気に食わない連中がいるらしいってことで、そいつ等の対応をしてたら、3年も経ってたってわけ」
「そうそう。それでようやくその連中とも和解し、いざ奥村君を物質界に戻そうと思ったら、貴方方が奥村君を取り戻そうとしているという情報を掴みました。それを知った奥村君の臣下が大騒ぎしまして。せっかく据えた王を奪われまいと、奥村君が戻ることに猛反対してしまった」
「だから、賭けをしたんだ。俺が虚無界で暮らしたいって言っているって皆に伝えて、それでも俺を虚無界から連れ出そうとしたら、虚無界の門を閉じるって」
「な……!」
「その代わり、それで俺を連れ出すことを諦めたら、俺は物質界に戻るってな」
「兄さん……」
イタズラが成功したような顔で晴れやかにそう言った燐に、雪男は大きくため息をついて頭を抱えた。
「ま、結果的に俺の勝ちってことでこっちに帰ってこれたんだし。いいじゃねーの?」
な、雪男。と、相変わらず人の苦労を分かっていない兄の顔を見つめながら、弟は、うん、そうだね、と力なく答える。
またこりゃ、雪男は老け込むぞ、とシュラが面白がって呟いたとか、いなかったとか。
END?
というわけで、リクエストして頂きました本城柚穂様、ありがとうございます!
リクエストは「雪燐で生き別れた二人が正十字学園で再会」ということと「パラレル」ということでしたので、それをミックスしまして「幼い頃に生き別れた二人が獅郎の死をきっかけに再会」して原作の通りに進んだ後「サタンを倒すものの、燐が虚無界に行かなくてはならなくなって別れ」て「3年後、再会」という流れになりました。
はい、完全な捏造と管理人那儀の趣味に走りまくった内容になりました。それにこの話「シリーズ」ですので、まだ続いたりします(笑
それもまたおいおい書いていけたらな、と思いますが、一応ここで区切りを付けさせて頂きました。リクエスト通りに、なった、の、か?と疑問に思わないでもないですが、広い心で読んでいただけると幸いです。
ではでは、リクエストありがとうございました!