愛してる、の約束




七月下旬、あれから何事もなく日々が過ぎていく。恐らく、学園内に入り込んだ「青い夜の子」たちも、今は大人しく身を潜めているのだろう。
俺はというと、「青い夜の子」たちの調査をアスタロトや勝呂、志摩に任せて、騎士団の一員として悪魔を祓う任務についている。雪男は俺の複雑な立ち位置を気にして、任務には就かなくてもいいんじゃないの?と言ったけれど、俺が物質界にいる以上、騎士団と上手くやっていかなければならないのは必須だし、虚無界にいるときに、八候王たちにはそのことをちゃんと告げてある。
自分は虚無界の王だけれど、祓魔師でもあるのだ、と。
皆複雑そうな顔をしていたけれど、納得はしてくれた。まぁ、悪魔を祓うと言っても悪戯程度を繰り返す悪魔の相手はしないつもりだし、人間を傷つけたり、殺したりした悪魔のみ祓う、という条件付きだけど。

そんな複雑な事情もあってか、俺の付く任務はほとんどが難易度の高いものになってしまうのは仕方のないことで。万年人手不足ゆえに、俺はずっとバタバタと忙しく働いていた。それこそ、塾の講師をしている雪男や勝呂、志摩たちと同等くらいには。

そんな、ある日のこと。
やはり難易度の高い任務が終わった帰り道、一緒に任務に就いていたシュラが、なにやら意味深に俺を見ていることに気づいた。

「な、なんだよ?」
「んー?んにゃ?こんなに忙しいと、色々とアレだろうなーと思ってさ」
「アレ?」

アレって何だ?と首を傾げると、シュラはニヤニヤと笑って、とぼけんなって!と俺の肩に腕を回してきた。相変わらず大きな胸を押し付けられて、どぎまぎする。

「ちょ、シュラ!」
「にゃはは!照れんな青少年!つーか、そうだよなぁ。お前、まだチェリー君だろ?」
「な、なん……っ」
「お、図星かね?」

にゃはは!と笑うシュラに、俺は赤くなった顔を誤魔化しつつ、ギロリと睨む。おお、怖!とさして怖がってもいないくせにそう言った。内心で舌打ちしつつ、これ以上絡まれるのはゴメンなので、懐いてくるシュラの腕を振り払って。

「何勝手に誤解してんだよ。俺、もう童貞じゃねーし」
「……。はぁ!?」
「何でそんなに驚いてんだよ!童貞じゃなくて悪いかよ!」
「い、いやぁ……その……」

シュラは俺の発言に何故かひどく動揺していた。そんなに驚くことか?と首を傾げていると、シュラは、あー……と何かに納得したように唸って。

「そりゃ、そうだよなぁ。どっちがどっちになってもいいんだもんなぁ」
「は?」
「んにゃ、こっちのハナシ」

成程、と自分で勝手に納得し始めたシュラに、一体なんだったんだ?と俺はますます首を傾げるのだった。



そんなことがあった、その日の夜。
寮に帰り着くと、まだ雪男は帰ってきていなかった。今日は俺の方が早かったんだな、と思いつつ、夕食の支度を始める。
物質界に帰ってきた今でも、俺が夕食を作るのは変わらない。忙しい俺を見かねて、無理をしなくてもいいよ、と雪男は言ってくれたけれど、でも、俺は夕食だけは作りたいのだと言った。
やっぱり俺の作った料理を食べて美味しいと言ってくれるのが、嬉しいから。

俺は鼻歌交じりに夕食の準備をする。今日は秋刀魚が安かったから、秋刀魚の塩焼きにしよう。あとはアサリも買って来たから、味噌汁にするのもいいな、とメニューを考えていると、においをかぎつけたクロがやって来た。

『りん、きょうはさかなのにおいがするぞ』
「おう。今日は秋刀魚の塩焼きだ。お前の分もちゃんとあるからな」
『うん!ありがと、りん!』

ぴょんぴょんと跳ねて嬉しそうなクロに頬を緩ませつつ、アサリの準備に取り掛かっていると、バタバタと廊下を走る音が聞こえてきた。誰だ?こんな時間に廊下を走ってる奴、と顔をしかめていると、足音は真っ直ぐこちらに向かってきて。

「兄さん!!」

慌しくやってきたのは、雪男だった。祓魔師のコートをぐちゃぐちゃに乱して、肩を上下させている。雪男が服を乱すなんて珍しいと俺は少しだけ驚いた。

「おう、おかえり!なんだよ、そんなに慌てて」

今日はお前の好きな秋刀魚だぞ、と笑顔でそう言えば、雪男は黙ったままズンズンとこちらに向かって歩いて来た。その仕草から、雪男がひどく怒っているのだと気づいて、アレ?と思う。もしかして、秋刀魚がイヤだったのか?と首を傾げていると、雪男はぐっと俺の肩に両手を置いて、にっこりと笑った。笑っているのに、目が笑っていない。完全に目が据わっている。

「兄さん?」
「な、なんだ?秋刀魚なら綺麗に焼けてるけど……?」
「うん。そうだね。美味しそうだね。……それよりもさ、兄さん。今日、シュラさんと何か話した?」
「シュラと……?」
「うん。シュラさんと」

何を話したっけ、と思い返してみると、そういえば任務の帰りに童貞がどうのという会話になったことを思い出した。もしかして、アレのことだろうか?

「あー……そういえばシュラと童貞の話になったっけ」
「……それで?兄さんはどう答えたの」
「え?あー……」

俺は少し言葉に詰まった。まさか双子の弟に、童貞じゃありません、なんて面と向かって言うのは何となく恥ずかしいし、気まずい。
俺が目を泳がせていると、兄さん?と雪男は促してくる。話せ、と言葉もなく雰囲気でそう威圧してくる。お前、実は俺よりも悪魔らしくね?と口元を引きつらせながら、半ば自棄になって。

「あーもう、分かった!言うって!シュラには童貞じゃねーって言った!ほんとのことだし!」
「…………――――、そう」

悪いか!と言えば、雪男はたっぷり間を置いて、返事を返して来た。それまでの剣幕とは大違いで、どこか落ちこんだ様子の雪男に、アレ?とまた首を傾げる。もしかして雪男も、俺が童貞だと思っていたのだろうか、と。
そりゃあ、俺だってもう成人しているんだし、性欲が全くないわけでもないし。それに、言い方は悪いけれど、悪魔は快楽に従順だ。生理的に、童貞のままでいるのは体にもよろしくない(らしい)。

「……雪男?」
「………、何?兄さん?」
「もしかして………―――」

ひどく落ちこんだ様子の雪男に、何となくピンと来た。俺は少しだけ目を細める。そうかそうか、とその肩をぽんと叩いて、にっこりと微笑む。

「お前こそ、童貞なのか?」
「んなわけないでしょ」

にべもなく返ってきたその答えに、俺は、あぁそう、と肩透かしを喰らった気分だった。
だって雪男が落ち込んでるから、兄貴に先を越されたと思っているのかと思ったのに。
でも、違うとなれば何だろう?
そう思いつつも、雪男が童貞じゃないということに、少しだけ、胸が痛む自分がいて。
馬鹿だなぁ、と苦笑する。雪男だって立派な成人男子だ。そういうことがあったって可笑しくないし、雪男はモテるし、と胸の痛みを誤魔化すように、俺は自分にそう言い聞かせた。
すると雪男は、どこか真剣な顔で俺を見下ろしてきた。三年前よりも成長した、立派な男の顔つきで。
俺がそれに、ほんの少し心臓を跳ねさせていると。

「……兄さん、僕は……―――」

兄さんのことが、と雪男が言いかけた、その時。

『若君!ご無事ですか!』

ドタドタと慌しくやって来たのは、レンだった。レンは先ほどの雪男のように服を乱して、肩を上下させている。
レンは俺と雪男を見て、目つきを鋭くした。そして俺と雪男の傍まで近寄ると、俺と雪男を引き離した。

「ちょ、レン!?」
『貴様、若君に何をしようとしていた』
「……なんで君がここに居るんだ。君は虚無界に帰ったはずだけど?」

キッと雪男を睨みつけるレン。それに睨み返す雪男。二人の間で何やらバチバチと火花が飛び散っているのが見て取れた。

『貴様が尋常じゃない様子で帰って行くのが見えたんでな。後を追って正解だった』
「それはご苦労様。もう気がすんだだろ?虚無界に帰れよ」
『俺は若君に報告があって来たんだ。貴様にとやかく言われる筋合いはない』

フン、と鼻を鳴らしたレンは、俺の方に向き直ると、俺の足元に膝を付いた。

『若君。ご報告です』
「え、あ、あぁ。どうした?」
『虚無界にて、「第七の子」テトスを捕らえました』
「!」
『テトスはどうやら反乱軍本部との連絡役をしていたようです。今は獄中で大人しくしていますが、機を見て逃亡を図るでしょう』
「そうか……テトスが……」
『どうされます、若君。八候王たちの意見は彼を拷問し、他の「青い夜の子」の居場所や、反乱軍の潜伏地を吐かせろ、とのことでしたが』
「いや、拷問は意味がない。お前なら分かるだろ、レン。「青い夜の子」たちは例え自分が死ぬことになろうとも、兄弟を裏切ったりしない」
『その通りです、若君。今生き残っている彼らは、特に団結力が強い者ばかりですし。だからこそこうして若君のご意見を伺いに来たのです。……いかがされますか』
「……――――当然だろ」

俺は、ニッと口元を吊り上げた。そして、膝を付いているレンに向かって、告げる。

「テトスを連れて来い。……力でねじ伏せるよりも、もっと楽な方法がある」
『了解いたしました。若君のお心のままに』

レンはこくりと頷いて、立ち上がった。そこでふと、厨房の方へと目を向けて。

『今夜は秋刀魚ですか。………、懐かしいですね』

ぽつり、とそう零した。その細められた瞳が微かに哀愁の色を宿していて、俺はそんな顔をして欲しくなくて、そうだ!と声を上げる。

「なんなら、一緒に食って行くか?」
『え?』
「ちょ、兄さん?!」

何で!と詰め寄ってくる雪男に、いいじゃん、と笑った。

「人が多いほうが美味しいだろ?すぐに準備できるし」
「や、それは、そうかもしれないけど……」
「いいから、いいから!な、そうしろよレン!」
『ほ、本当によろしいのですか、若君。俺のような者が、若君と一緒に食事など……』
「俺がいいって言ってんだから、いいの!さ、もうすぐできるから、待っててくれよな!」

俺は上機嫌のまま、厨房の奥へと入る。これは腕によりをかけなきゃな!と腕まくりをして、気合を入れる。その背後で複雑そうな顔をした雪男と、どことなく嬉しそうなレンが見ていたことなど、気づかずに。






レヴィアタンは燐の背中を見つめて、ポツリと呟く。

『若君は……、本当にお優しいな……』
「……」
『俺はあのような方にお仕えできて、心から光栄に思う。本来なら、俺のような者が若君と同じテーブルに付くなど考えられないことなのに、それを許してくださる。……他の奴らが聞いたら、俺は殺されそうだけどな』

はは、とレヴィアタンは笑う。雪男は、それを意外そうな顔で見て。

「確か、四人の上位王子は、王とはほぼ同等の立場にいると文献には書いてあったけど、違うのか?」
『それは物質界、いや、お前たち人間が勝手に決めたことだ。だが、まぁ俺たち上位王子は王への意見が許される立場にあるのは間違いない。ただ、「俺」自身が、それを許されているわけではない、ということだ』
「……意味が分からない」
『だろうな。だが、いずれ分かることだ』

そう言って、レヴィアタンは雪男を見下ろした。真っ直ぐな水色の瞳は、どこか澄んだ湖を思わせて。

『優しいあの方は、俺の立場を思って下さっている。だが、あの方にもあの方の立場がある。もし若君が、俺の立場ゆえに苦しむことがあったら……、お前の銃で俺を撃て』
「……―――。それは、」
『約束しろとは言わない。だが、これを頼めるのは貴様しかいない』
「……―――、やっぱりお前は悪魔だな」

そう言って、雪男は苦笑を漏らす。その態度は、了承したも同然で。

「心配しなくても、兄さんを苦しませるようなら僕は銃を抜くよ。どんな相手だろうとね」
『……、あぁ』

だろうな、とレヴィアタンは思う。目の前の男は、虚無界から彼を連れ戻そうと無茶をするほどに、彼を想っているのだから。

「おーい、雪男!レン!準備ができたぜ!運ぶの手伝ってくれ!」

無邪気に笑って、燐は二人を呼ぶ。レヴィアタンと雪男はそんな燐に小さく笑って、彼の元へと歩み寄るのだった。








BACK TOP NEXT