愛してる、の常識




七月下旬、僕は兄さんと供に、フェレス卿のいる理事長室へとやって来ていた。
『青い夜の子』の一人が虚無界で捕まったというので、兄さんがレヴィアタンに指示を出して、物質界へと連れてくるように言ったからだ。かといって、並みの結界では逃げられてしまう可能性があるので、一番強力な結界が張れる場所である理事長室で事を進めようということになった。

「もうすぐ来るみたいですね。「第七の子」テトスが」
「……あぁ」

フェレス卿は相変わらず優雅に紅茶を飲んでいる。どこか状況を面白がっているような態度だが、これは彼の地だ。いちいち気にしていたら身が持たない。
兄さんは神妙な顔で頷いていた。僕には分からないけれど、兄さんとフェレス卿は何かを感じ取っているのだろう。じっと理事長室の扉を見つめていた。そして。

「……―――来た」

ぽつり、と兄さんが呟く。同時に、コンコン、と扉を叩く音が聞こえて、どうぞ、とフェレス卿が答えた。すると、ぎぃ、と少し軋んだ音を立てて扉が開かれた。現れたのはレヴィアタンで、彼の背後に二人ほど連れていた。二人とも深くフードを被っていて、どんな顔をしているのかは分からない。
レヴィアタンは兄さんとフェレス卿を見止めて、スッと腰を落とした。

『若君、兄上、「第七の子」テトスを連れて参りました』
「あぁ、ご苦労様です。どうぞ、中へ」
『はい。……ほら、入れ』
「……―――」

レヴィアタンに促されて、彼の背後にいた一人が僕たちの前へと姿を見せた。深く被ったフードを外すその手首には手錠が掛けられていて、細い手首にはひどく不釣り合いにも思えた。
フードの下に隠れていたのは、幼い、まるで少女と少年の間のような、まだ成長しきれていない顔立ち。予想していたよりも幼すぎるその姿に、僕は少し息を呑んだ。
彼(もしかしたら彼女)は、じっと兄さんを見つめた後に、僕へと視線を向けて、ハッと目を見開いた。なんだろう?と怪訝に思っていると、すぐに僕から視線を外して俯いてしまった。

「……テトス……」

兄さんは、そんな彼(仮)をほんの少し寂しげに呼んだ。すると彼(仮)は勢いよく顔を上げて。

「ぼくの名をその汚らわしい口で呼ぶな。青い外道め」
『!』
「待て!」

テトスの中性的な声が響くのと同時に、レヴィアタンが空気を変えた。ざわり、と騒いだ殺気に兄さんが素早く反応して、待ったを掛ける。

「俺が良いと言うまで、お前たちは動くな」
『……―――わかりました、若君』

レヴィアタンがしぶしぶといった様子で一歩下がる。同時に兄さんはテトスへと近づいて、じっとテトスを見下ろした。その間も、テトスは負けじと兄さんを睨み付けていて、姿に似合わないその憎悪の色が浮かぶ瞳に、僕はそんな視線を向けられる兄さんのことを想った。
優しい兄さんは、きっと悲しんでいる。それが伝わってきて、胸が苦しくなった。
兄さんは、テトスの目の前にしゃがみ込むと、手首を拘束している手錠に触れる。すると、カシャン、という軽い音を立てて、手錠が地面に落ちた。
『!』

絶句する僕たち。当のテトスも、何が起きたのか理解できていないようだった。
何を、と僕たちが兄さんに問う前にテトスがハッと肩を震わせると、勢いよく兄さんに襲い掛かった。飛び掛かってくるテトスの勢いに任せるように、兄さんが倒れ込む。その上にテトスが乗り上げて、兄さんの胸倉を掴んだ。

「どういうつもりだ!ぼくを開放して、貴様は何をするつもりだ!」

甲高い声で喚きながら、テトスは兄さんを睨む。僕がとっさに銃を抜こうとするが、スッとレヴィアタンに止められて、何故、とレヴィアタンを見る。彼は兄さんを心配そうに見つめながらも、兄さんの命令に忠実に動いている。きっと何か考えがあるのだろう。僕もとりあえずは従うことにして、銃を下す。

「ぼくたちを馬鹿にしてるのか!?ぼくを開放したってお前には何の影響もないって!?ぼくたちを侮辱するのも大概にしろよ……ッ!」
「……―――」
「ぼくたちが今までどんな目に遭ってきたのかも知らない!ぬくぬくと周りに守られて生きてきたお前には分からないッ!ぼくが、ぼくたちが、お前をどれだけ憎んでいるのかなんて、お前に分かるわけがないんだ……!」

絞り出すような、叫び。聞いている者が顔を歪め、目を逸らしたくなるような、そんな声で言い放ったテトスを、兄さんは淡々とした無表情で見上げていた。らしくないその顔に、僕が怪訝に思っていると。

「……あぁ、そうだ。俺はお前たちの気持ちなんて、ちっとも分からねぇよ」
「ッ……!」

驚くほど冷たい声で、そう言い放った。
息を呑むテトス。そして僕も、兄さんの放った言葉に驚いていた。
兄さんは、胸倉を掴んでいるテトスの手を強く握りしめて、もう一度、わからねぇよ、と言う。

「お前たちがどんな境遇に生まれて、どんな扱いを受けて来たのか。なんで俺と敵対するのか、なんで俺を憎むのか、俺は知らねぇ。……何も知らねぇから、お前がどうして手錠を掛けられているのかも、知らねぇんだ」
「!」
「だから、手錠を外した。それじゃ、答えにならないか?」
「……っ、なんだよ、それ!」

静かな兄さんの声に、テトスが動揺しているのが分かる。カタカタとその体が震えて、強気に言い返す声にも、先ほどの覇気がない。

「そんなの偽善だ!お前は知っているはずだ!ぼくたちが受けて来た仕打ちを!」
「さっきお前は「俺は知らない」って言ったはずだ。俺はそれに、『そうだ』と答えただけだ」
「違う違う違う違う!ぼ、ぼくは……!お前が、お前のせいで、僕たちが苦しい目に遭っているから、だから……!」

まるで、駄々をこねる子供だ。兄さんの上で、違う!としきりに言うテトスは。
ぶんぶんと頭を振って、兄さんは憎むべき相手だと自分に言い聞かせて、そして、自分を正当化して、自分が言った矛盾に自分の首を絞めている。
僕はその姿を見て、どこか違和感を覚えた。

虚無界の現王サタンである、兄さん。
そしてその兄さんを憎む、『青い夜の子』。
だが、『青い夜の子』たちを生み出させたのは兄さんではなく、前のサタンである僕たちの父親だ。
だとしたら最初から、兄さんを恨むのは筋違いというものだ。だが、彼らはきっと自分たちの境遇を受け入れる為に、恨みをぶつける対象が必要だった。それが自分たちの実質の生みの親であるサタン、つまり=兄さん、というのは分かる。
だが、彼らの話を聞く限りでは、「サタン」ではなく、「兄さん」本人を恨んでいるようにも聞こえて。ここで、彼らの主張が大きな矛盾を抱えていることに気づく。
恨みを、憎しみを、はき違えている『青い夜の子』たち。
そしてそれを、ただ否定せずに悲しげな眼をする、兄さん。
もしかしたら、まだ僕の知らない何かがあるのでは、と二人の姿を見て思う。
すると、テトスはキッと兄さんを睨み付けて。

「お前は、ぼくたちからなんでも奪っていく!ミカ姉さんを殺して、ヨハネ兄さんを、ルカを、ぼくたちから奪った!絶対に許さない!」
「……それは……、」
「ぼくたちは、お前に裏切られたんだ!」

裏切り者!とテトスが吐き捨てる。泣き出しそうな、顔で。
苦しげなそれに、兄さんが口を開きかけた、その時。


『おやおや、実に興味深い話じゃないか。是非とも、詳しいお話をお聞かせ願いたいな』


レヴィアタンの後ろに控えてフードを被っていたもう一人が前に出てきた。そいつはバサリ、とフードを投げ捨てて、ゆっくりと一礼してみせた。

『お話し中に申し訳ありません、我が偉大なる王よ。『智の王』アスモデウス、申し立てをしたく……』

フードの下に隠されたその顔は、にやり、と楽しげに歪んでいた。
片眼鏡を掛けたその瞳は薄い紫色を放ち、さらりと揺れる長髪も、瞳と同じ色だ。だが、その頭には小さな王冠が乗っていて、どことなく雰囲気がフェレス卿に似ていた。
つまり、何を考えているのか分からない。そんな第一印象を持たせる男は、八候王の一人、アスモデウスと名乗った。
兄さんはニヤニヤと笑うアスモデウスをちらりと見て、その後に、レヴィアタンを見た。レヴィアタンはほんの少し顔をしかめていたものの、小さく一つ頷く。それを見届けて、兄さんは改めてアスモデウスを見上げた。

「何だ?聞きたいことでもあるのか?アス」
『えぇ、我が偉大なる王。先ほどその『青い夜の子』が申しました兄弟を奪った、という発言についてです。つまるところ彼らの言い分は、「兄弟を奪った我が偉大なる王が憎い」ということで間違いはないでしょうか?』
「……、あぁ」

兄さんは、ほんの少し顔をしかめながらも頷く。それに対し、アスモデウスはニヤリと口元を三日月のように歪めて笑うと。

『なるほど。ということはつまり、その奪った兄弟を元に返せば、ことは全て済む、ということではないのでしょうか?我が偉大なる王よ』
「……」
『そうでしょう?我が偉大なる王。私は『智の王』ではありますが、これは誰でも考えれば思いつくこと。しかしそれをなさらないのは、何か考えあってのことなのでしょう?『智の王』である私が考えもつかない、何かが』

アスモデウスの言葉に、徐々にその場の雰囲気が変わっていくのを感じた。
何というか、兄さんが追い詰められているような、そんな雰囲気が漂い始めた。それはアスモデウスの口調もそうだが、言葉の節々に明らかに兄さんを軽視しているような言動が伺えるからだ。
虚無界の王である兄さんに、どうやらこのアスモデウスという悪魔は不満を持っているようにも思える。
僕は用心深くアスモデウスの動きを見つめていると、再び、その場の空気がザワリと動いた。ヒヤリと冷たい冷気のような殺気に目を瞠る。
その殺気は、レヴィアタンから放たれている。
そしてその殺気の行き先は、アスモデウス。

しかしその殺気を受けてなお、アスモデウスはニヤニヤと哂ったままだ。

『……いい加減にしろ、アスモデウス。貴様、誰に向かって意見している?』
『おやおや、何を怒っているのかい?私は我が偉大なる王に意見しているのではない、ただ質問をしてるだけだよ。それとも、君が代わりに私の質問に答えてくれるとでも言うのかな?』
『……ッ』
『はははは!無理だろうね、君には!我が偉大なる王の恩恵で生きながらえた君が私の問いに答えるなど、千年早い!』

言葉に詰まったレヴィアタンに、アスモデウスが高らかに笑う。明らかな侮蔑の意味を込めたそれに、しかしレヴィアタンは何も返さない。
何だこの異様な空気は、と僕は戸惑っていると。

「に、兄さんを苛めるな!」

兄さんに圧し掛かったままだったテトスが、叫びながら一気にアスモデウスへと距離を詰めた。人並み外れたその速さに、とっさに銃を構えると。

『私に触るな』

アスモデウスに飛び掛る前に、テトスの体が急停止した。大きく体を震わせて、がくりとその場に足をつくテトス。
そして、それを見下ろすアスモデウスの瞳には、何の感情も浮かんではいない。

『思い上がるな、出来損ない風情が。その気になればお前たち全員殺してやるものを、我が偉大なる王のおかげで生きながらえているのがまだ分からないのか、愚か者が』

低く唸るようなその声に、テトスが苦しげに呻きながらもキッとアスモデウスを睨んでいる。その強気な瞳を見たアスモデウスは、一つ鼻を鳴らして嘲笑した。

『私は物を知らぬ者が一番嫌いだ。そんな愚か者のお前に、私が教えてやろう。お前たち『青い夜の子』は……―――』

アスモデウスがテトスを見下して何かを言いかけた、その時。

「アスモデウス!」

鋭い兄さんの声が聞こえて、ハッと兄さんの方を見る。
兄さんは立ち上がって、真っ直ぐにアスモデウスを見つめている。その瞳には青い炎が揺らめいているようにも見えて、その凛とした綺麗な瞳に息を呑む。
アスモデウスもその瞳を見て驚いた顔をしていたが、すぐにニヤリと元の笑みを浮かべた。

『なるほど、なるほど。我が偉大なる王は本当に、愚かなほどに……お優しい』

何が楽しいのか、アスモデウスは上機嫌な様子で笑っている。先ほどとはうって変わったその様子に、何が何だか分からずに呆然とする。
怒ったかと思えば、次の瞬間には笑っている。ますますアスモデウスという悪魔が分からなくなった。

『だが、私はそんな貴方が嫌いじゃありませんよ。我が偉大なる王。むしろ、敬愛の念さえ抱いていると言っても過言ではない。ですが……、その優しさは時にいらぬ戦いを招く。それはとても愚かなことですよ、我が偉大なる王』
「……分かっている」
『それなら、よろしいのですが』

ちらり、とレヴィアタンを見たアスモデウスは、ひょいと肩を竦めた。

『君もだよ、レヴィアタン。君も我が偉大なる王の優しさに甘え、胡坐をかいている。それを許せない輩もいることを忘れないでいただきたい』
『それは貴様のことだろう。『智の王』アスモデウス』
『ははは!それもそうだ!』

あはは!と高らかに声を上げて笑ったアスモデウスは、そうそう、と笑みを深めて。

『さっきそこの「青い夜の子」が言った失言は、聞かなかったことにしておいてやろう。私は今機嫌がいいからな』
『ッ!』

ハッと体を強張らせたレヴィアタンは、悔しげに唇を噛み締めている。だが、兄さんは真っ直ぐにアスモデウスを見つめたまま、表情を変えずにいて。

「アス、お前………」
『さて、我が偉大なる王。これからいかが致しましょうか?この「青い夜の子」をどうするのか、貴方の判断をお聞かせ願いたい』
「……」

兄さんは何かを言いかけたものの、すぐに口を閉ざした。小さく苦笑を漏らして、そうだな、とテトスを見つめる。恐らくアスモデウスによって見動きが取れなくなっているのであろうテトスは、どこか怯えたように兄さんを見つめ返していて。
ほんの僅かな間の後、兄さんはニッといつものように笑った。無邪気な、三年前と同じ笑顔で。

「それじゃ、テトスはレンの監視の下、俺たちと行動してもらおうかな」

そうだ、それがいい、と自分の出した答えに満足そうな顔をする兄さんに、多分、兄さん以外の全員が呆然としていた。
だが、一番早く立ち直ったアスモデウスが、堪らないといった風に噴き出した。

『あはははは!さすがは我が偉大なる王!『智の王』である私でさえも考え付かないことをして下さる!』

あはははは!と壊れたように腹を抱えて笑うアスモデウス。しかし兄さんは首を傾げて、不思議そうな顔をしていた。そして、僕を見上げて。

「俺、そんなに面白いこと、言った?」
「……そうだね。普通は、思いつかないことだと思うよ」

僕は少し疲れた気分になって、銃を腰に戻す。
兄さんは、レヴィアタンを監視に置くものの、テトスを解放すると言ったも同然だ。他の「青い夜の子」のことを聞くこともせず、ただ、一緒に行動する、と。
一体兄さんが何を考えているのか分からない。いや、もしかしたら何も考えていないのかもしれない。そんなところは、三年前と何も変わっていなくて、嬉しいような複雑なような気分になる。

『全くもって理解しがたい御方だ!だが、それでこそ我が偉大なる王』

アスモデウスはひとしきり笑った後、スッと膝をついた。王冠を乗せた頭が、兄さんの目の前で項垂れている。

『『智の王』アスモデウス。貴方の思うとおりに致しましょう。虚無界に帰り、貴方のお考えを他の八候王たちに伝えておきます』
「あぁ、頼んだぞ。それと、『風の王』オリエンスに東から帰還するように言っておいてくれ。レヴィアタンを物質界こっちに呼ぶからな。その代行だ」
『仰せのままに、我が偉大なる王』

一つ頷いたアスモデウスは、兄さんの指示を受けるとさっさと立ち上がって踵を返した。がちゃり、と理事長室の扉を開けて、一度こちらを振り返る。

『せいぜい、我が偉大なる王の足を引っ張らないことだな』

クク、と肩を震わせてそう言い放った後、アスモデウスは虚無界へと戻っていった。
……明らかに、最後の捨て台詞はレヴィアタンだけでなく、僕にも向けられていた。それを感じ取って、意外とアスモデウスという悪魔は兄さんに忠誠を誓っているらしいということが解った。最初は兄さんが王であることに不満があるような口ぶりだったが、それは彼のあの飄々とした態度や口調がそう思わせるだけなのだろう。
やはり、兄さんは上級悪魔に好かれすぎている。そのことがほんの少しだけ、胸にシコリとして残った。

「さて、アスも帰っちまったなぁ。そういえば、メフィストは挨拶しなくて良かったのか?」
「え?あぁ、まぁ、いいんじゃないですか?全く会えないわけではないですし」

それまで黙ったままだったフェレス卿は、兄さんの言葉に小さく笑みを浮かべていた。でも、どうしてフェレス卿がアスモデウスに挨拶をしなければならないんだ?

「どういうこと?兄さん」
「ん?あぁ、そっか、雪男は知らないんだよな。実はメフィストとアスモデウスは同期の悪魔で、しかも従兄弟同士なんだよ」
「あぁ、なるほど。って、えぇ!?い、従兄弟?」
「そ。まぁ、ほとんどの上級悪魔は皆兄弟みたいなモンだけど、メフィストとアスモデウスは特別な事情ってヤツがあるんだよ」
「へ、へぇ」

なるほど、それでアスモデウスとフェレス卿がどことなく似ていると思ったわけだ。
僕は全力で納得しつつ、悪魔に血の繋がりなんてあるんだ、と違った意味で感心していた。








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