愛してる、の信頼




七月下旬、俺は額に浮かんだ汗を拭った。ジリジリと焼け付く太陽を見上げて、晴れ渡った青い空に目を細める。もう、夏は目の前だ。生暖かい風が頬を掠めて、吹き抜けていく。
遠くの方で、蝉の声も聞こえる。もう少しすれば、大量の蝉の合唱を聞けるだろう。
俺はせみの声を聞きながら、ふと、思い出す。

そういえばあの日も、こんなに暑い日だった。

「……―――」
「兄さん?」

ぼんやりとそんなことを考えていたら、隣を歩いていた雪男から怪訝そうな声で呼ばれた。どうした?と雪男を見上げれば、雪男は俺の顔を見て驚いた顔をしていた。何だ、と問う前に、なんて顔してるの?と言われる。

「なんて顔って言われても、自分じゃ分かんねーよ」
「……」
「な、なんだよ」

じぃ、と穴が開くほど見つめられて、たじたじになる。
元々大人びた奴だったけれど、三年前に別れた時よりも、またさらに大人っぽくなった弟。同じ年のはずなのに、その落ち着いた雰囲気は俺とは似ても似つかない。だからだろうか。雪男にじっと見つめられると、妙に落ち着かない気分になる。
俺がそわそわと視線をさまよわせていると、兄さん、と雪男がやけに真剣な声で俺を呼んで。

「兄さん。僕に話してないこと、まだあるでしょ」
「!」

思わず、俺の方が雪男を見つめてしまった。雪男は真っ直ぐに俺を見下ろしていて、ウソをつくことを許してくれない。まぁ、もともとウソをつくつもりはないけれど。
あぁでも、優秀な弟を誤魔化すのはやっぱり至難の業だな、と内心で苦笑を漏らす。

「ある、と言えば、ある、な。お前に話していないこと」
「……」
「でも俺は、お前に言うことではないと思ってる。これからも、それは変わらねぇ」

真っ直ぐに雪男を見返して、俺は告げる。
雪男と俺は、対等だ。その思いは、今でも変わらない。巻き込むだとか、そんな風に考えるのはもう止めている。
だけど、それでも雪男に話していないことが結構あって、きっと雪男はそのことに気づいたのだろう。
それでも、俺は雪男に話すつもりはない。強がりとかじゃなくて、本当に、話す必要がないと思っているからだ。

「そっか。兄さんがそう言うなら、仕方ないね」

雪男は俺の考えを読み取ってくれたのか、あっさりと引き下がった。もう少し粘るかと思っていたのに、あまりにもあっさりとしていたので、俺の方が驚いた。
すると雪男は、俺の顔を見て小さく笑いながら。

「僕はね、兄さん。兄さんのことは信じていないんだよ。兄さんは嘘つきだし、我儘だ」
「だ、誰が嘘つきだよ!俺がいつ嘘をついたんだよ!」
「結構ついていたじゃないの。三年前に」
「はぁ?ついてねーよ!三年前も、今も!」
「そうかな?兄さんはそうかもしれないけれど、僕はそう思っていない」
「……、どういう意味だよ、それ」

相変わらず、雪男の言葉はよく分からない。何というか、自分だけで納得しているような言葉を使うのだ。そして、それを理解できない俺のことも、雪男は理解していて。
分からないだろうね、と肩を竦めるんだ。

「とにかく。僕は兄さんを信じていないんだよ。……薄情だと思う?」
「……、ちょっとだけ」

むす、と唇を尖らせる。
信じていない、と面と向かって言われるのは、ちょっと、というか、かなり、嫌だな、と思う。でも、真っ直ぐに俺を見つめる雪男の目を見ていると、何だか、「信じない」という言葉が違った意味に聞こえてくるから、不思議だ。
そう正直に言えば、雪男は少し嬉しそうな顔をして。

「僕はね、兄さん。兄さんを信じないことで、兄さんと対等で在りたいんだよ」
「対等で?」
「そう。兄さんを信じるってことは、兄さんに頼ってしまうのと同義だと、僕は思ってるんだ。それが、僕は嫌なんだよ。だから兄さんも、僕のことは信じなくていいよ」
「でも、俺は雪男のこと信じてるぞ」
「……うん。それが、兄さんの強さだよ。だけど僕は弱いから、兄さんを信じないことで強く在ろうとしてるんだ」
「……お前の言葉は、よく分かんねぇ」
「あはは、そうだろうね」

でも、それでいいんだよ、と雪男は言う。

「兄さんは、兄さんのままで居てくれれば、それでいいんだ。小さい時に別れたときも、三年前に別れたときも、そして今も、兄さんは兄さんのままで居てくれたから。それで、いいんだよ」

そう言って、雪男は俺の手の甲に、そっと自分の手の甲を触れ合わせた。たったそれだけの接触なのに、触れたその部分だけが、異様に熱くて。
雪男は俺から視線をそらせて、真っ直ぐに前を見つめていた。俺はその横顔をちらりと盗み見て、雪男は変わったな、と思う。
俺はずっと変わらない、と雪男は言うけれど、俺からすれば、雪男はずっと変わってる、と思う。
小さい頃に別れたときと、三年前に別れたとき、そして、再会した現在いま
少しずつ、小さな変化だけれど、雪男は確実に変わっていっている。それは悪い意味でじゃなくて、良い意味で、だ。
雪男は少しずつ、進んでいく。それを多分、成長っていうんだろうけど。

泣き虫で弱かった雪男は、いつしか銃を持って悪魔と戦う術を学んだ。そして、人を救う術を知り、人として、生きている。



止まってしまっている俺を、置いて。



「……―――」

ゆきお、とその名を呼ぶ声は、忙しく鳴く蝉の声に、掻き消された。
ただ、触れた手の甲の熱だけが、焼け付くような痛みを訴えて。

だから夏は嫌いなんだ、と潤んだ世界を、汗のせいだと、誤魔化した。



俺と雪男が向かっているのは、旧男子寮。つまり、俺たちの住処だ。
だが、今は俺たちだけの住処ではない。何故なら……―――。

『お帰りなさいませ。若君』

旧男子寮の前、俺と雪男の姿を認めたレンが、俺の前まで走り寄ると、膝をついた。そんなことしなくてもいいと言っているのに、レンはいつだって頑なだ。まぁ、この前のテトスの件があったからだろうと思っているけれど、何だか壁を作られているようで、ほんの少し寂しいんだけどな。

「あぁ、ただいま。……どうだ?テトスの様子は?」
『あまり、良い、とは言えません。相変わらず、部屋の篭ったままです』
「そうか……」

レンは苦渋に満ちた顔でそう言った。俺は寮の二階の窓、テトスがいるであろう部屋を見上げて、さて、と思う。
テトスをレンの監視下に置いて、今日で一週間。レンと共に旧男子寮に住むことになったテトスだが、あの日以来自分の部屋に篭ったまま、食事もしていない。このままでは栄養失調で倒れてしまう。
だが、たとえ死ぬと分かっていたとしても、テトスは出てこないだろう。レンもそれを感じているのか、悲しげに目を伏せていた。

「本当なら、口を無理やり開いてでも飯を食わせるところなんだが、そういうわけにもいかねぇしな」
『あぁ、それは……ちょっと』

レンは俺の言葉に、苦笑を洩らした。多分、虚無界にいたころの出来事を思い出しているのだろう。
昔、虚無界にいたころに、何度か手作りの料理を八候王たちに振舞ったことがある。皆、何か知らないけどすごく感動して、料理の取り合いが始まり、城が半壊したこともあった。そんなある日、ベルが珍しく料理を残した。いつもはいの一番に料理に飛びつくベルなのにどうしたんだろう、と思って訳を聞くと。

『若。ボク、にんじんはきらいです』

そう涙ぐみながら言った。幼い容姿に違わないその好き嫌いに苦笑しつつも、ダメだ!と無理やり人参を食わせたことがある。それ以来、八候王たちは自分の嫌いな食べ物を先に申告するようになった。まぁ、食べるよう努力はするように言ってはいるけれど、その食材をなるべく遣わない料理、もしくは使ったとしても分からないようにする工夫をした。
でも、誰も俺の料理に文句を言ったことはなかった。皆、美味しいと言ってくれた。本来なら、悪魔は食事をしなくても生きてはいける。だけど、元は物質界で育った俺のことを思いやって、俺の料理を食べてくれる。
そういえば、レンは好き嫌いなく全部食べてたなぁと、レンの顔を見て思い出した。そして、そうだ!と良いことを思いつく。

「なぁ、レン。少し、相談があるんだけど……」






『本当に、大丈夫ですか?やっぱり、俺が行ったほうが……』
「大丈夫だって。俺に任せろ」
『……はい』

テトスの部屋の前。俺は心配そうに俺を見るレンに、ニッと笑い返した。手には先ほどできたばかりの料理がホカホカと湯気を立てていた。

「いいか。俺がいいって言うまで、部屋には入らないように。これは命令。……了解?」
『……、承知致しました。若君』

しぶしぶ、と言った様子のレンを宥めるように笑いかけて、俺はコンコン、と扉を叩く。だが、部屋からの返事はない。俺は構うことなくドアノブに手をかけた。

「おーい。入るぞ」

がちゃり、と扉を開けると、昼間なのに部屋の中は真っ暗だった。窓のカーテンは締め切っていて、どんよりとした空気が部屋内に充満している。
これじゃあ病気になりそうだ、と思いつつ、部屋の奥、角に蹲るその小さな体を認めて、小さく笑った。

「ほら、テトス。飯、出来たから持ってきてやったぞ」

俺は部屋に入りつつ、扉を閉める。暗く密閉された部屋の空気が、肩に圧し掛かる。

「お前、ずっと飯食ってないだろ?このままじゃ、倒れちまう。レンだって、お前を心配してるよ」
「……ッ」

レン、という言葉に、ぴくりとテトスが反応を示す。

「……そ、だ」
「ん?」
「嘘だ。……嘘だ。に、……アイツが、ぼくのことを心配するなんて」
「テトス」
「アイツはぼくたちを捨てたんだ。ぼくたちを捨てて、お前を選んだんだ。だから、もうぼくたちのことだってどうでもいいんだ」
「テトス。それは、違う」
「違わない!だって、に、ッ、アイツは、お前の傍にいて幸せそうだ……、だからッ」

アイツは、もうぼくたちの兄弟じゃない!
そう吐き捨てるテトスに、俺はカッと頭に血が上った。手に持った盆を床に下ろすと、テトスの前まで歩み寄って、その胸倉をぐっと掴み上げた。

「テメェこそ、アイツが、レンがどんな気持ちで居るのかも知らねぇくせに。兄弟じゃねぇ?ふざけんな!お前はそう思っていても、レンはそうじゃねぇってことくらい、お前なら分かるはずだろ!?それなのに、どうしてアイツを信じてやらねぇ!?」
「……ッ」
「レンを、お前たちから奪ったのは俺だ。だから、レンがお前たちから離れたのは、俺のせいにすればいい。だけど!アイツは、レンのことは、ちゃんと信じてやれよ!兄弟じゃねぇか!」

真っ直ぐに覗き込んだテトスの瞳は、綺麗な鳶色の瞳をしていた。その瞳に移る自分は、真剣な顔をしていた。
あぁ、こいつの目には、俺がこういう風に映っているんだ、と意識のどこかでそう感じて。
瞳に移った俺が、ゆらり、と揺らぐ。そして、その揺らぎは強くなって。

「……ぼくだって、ッ、ぼくだって、信じたいよ!」

悲痛な叫びが、俺に突き刺さった。
テトスはゆらゆらと瞳を揺らしながらも、決して、涙を流すまいと唇を噛み締めていた。声を上げずに泣くのは、兄弟そっくりだな、と俺のはその姿を見て思った。

「だけど……、もし信じて、また、どっかに行っちゃう背中を見るくらいなら、最初から、信じなきゃいいんだ……!ぼく、ぼくはもう、嫌だよ……ッ!」

嫌だ、と癇癪を起こしたように、テトスは喚く。何が嫌なのか、明確な言葉はなかったけれど、俺はその真意に気づいて、小さく微笑んだ。

知っている。……ちゃんと、知っていた。
だからこそ、救いたいと、そう思ったのだから。

「……そうだな。もう、嫌だよな」

戦うのは、もう。

「だったら俺と、取引しないか?テトス」
「……とり、ひき……?」
「そう。悪魔おれと。取引をしよう」

悪魔なら、悪魔らしいやり方で。

「取引をしてくれるんなら、お前たちの兄弟はお前たちの元へと返してやる。……どうだ?悪い話じゃないはずだ」
「……甘い話には、裏があるって、兄さんが言ってた」
「はは。さすがだな。でも、まぁ、確かに裏はある」
「……内容は、何?」

ニィ、と唇を吊り上げる。

「お前たちを戦いへと引きずり込んだ、悪魔の名を教えてくれ。それだけでいい。そしたら、兄弟は解放する。ただし、全てが片付くまでの間、お前たち兄弟の力を借りることになる。どうだ?立派な取引だろ?」
「そ、れは……、取引とは、言わないよ」
「言っただろ?良い取引には裏があるって。……全てが片付いたら、お前たちの虚無界への立ち入りを禁止する。そして、お前たちの悪魔としての能力を、全て剥奪する」
「!」
「その能力は全て俺の力になる。つまり俺は、お前たちの力を奪って自分の力にできる、というわけだ」
「そ、そんなの、できるわけがない!」
「できる。前のサタンが、何の為にお前たちを生み出したのか、知っているだろう?だけどそれはただ単に、悪魔と人間の子を増やす為じゃない。それはうわべだけの飾りに過ぎないんだ。前サタンの本来の目的は、悪魔と人間との間に生まれた子が成長して力を付けたら、その力を奪うことだったんだ」
「ッ、そ、そんな……」
「前サタンは、狡猾で悪魔の中の悪魔だ。お前たちがサタンを恨むことは、計算のうちだった。そして、レンたち上級悪魔もその実験に利用した。お前たちがサタンを憎めば憎むほど、お前たちはサタンを倒す為に力を付ける。それが、サタンの本当の狙いだったんだ」
「……―――-」
「だから、俺にはできる。今のサタンである、俺なら。お前たちの能力を奪うことが。……―――ただ、メリットがある。能力を奪った後、お前たちが生きていられるのかどうか。それだけが、分からないんだ。色々と調べてはいたんだけど、それだけが、どうしてもはっきりとした結果が出なかった。だからこそ、今まで黙ってた」
「じゃあ、どうして、今になって……」
「……。この前、お前を連れてきた悪魔。『智の王』アスモデウスは、本当は出不精なんだ。だから、だ」
「は?」

意味が分からない、と言いたげなテトスに、ニッと俺は笑いかけて。

「アイツは、虚無界も物質界にも興味がない悪魔でな。アイツが唯一興味があることが、謎や不思議、だ。アイツは『智の王』だからな。何でも知りたがる。研究者だしな。それで、アイツには秘密裏にお前たちのことを色々と調査してもらってたんだ。勿論、さっき言ったメリットのことも、研究してもらってた。アイツは一つの研究材料を与えると、それが解決するまで部屋からは絶対に出ない。それなのに、アイツはお前をここに連れてくるときに、一緒に物質界へとやって来た。ということは、メリットについて、粗方の目途が付いた、ということになる。そして、アイツが去る前に放った言葉」

『さっきそこの「青い夜の子」が言った失言は、聞かなかったことにしておいてやろう。私は今機嫌がいいからな』

「この言葉は、レンじゃなくて俺に言った言葉だった。アイツが機嫌がいいと言うときは、決まって研究成果が出たときだけだからな。失言を見逃すということは、良い結果が出た、ということ。まぁ、簡単に言えば、研究の結果、能力を奪ったところで死なない、ということが判明したんだぞって、俺に報告したんだと思うんだよな、あの言葉は」
「そ、それならそうって言えばいいだろ。なんで、あんな遠まわしな言い方をするんだよ」
「あー、それはまぁ、アイツがそういう性格だから、というしかねぇな。アイツ、言葉遊びが好きなんだ」
「……はぁ」

困ったもんだよな、と苦笑すれば、テトスはどう反応して良いのか分からないような顔をしていた。ま、それが普通の反応だよな。

「それはともかく。……どうだ?俺と取引、するつもりはないか?」
「……、それは……」

ゆらり、とテトスの瞳が迷いに揺れた。だがもう、その瞳には半分以上、答えが出ているようにも思えて。
俺は笑いながらテトスから離れて、床に置いた盆を手に取った。戸惑うテトスに、その盆を差し出す。すると、テトスは驚いたように目を見開いて。

「お前の兄弟は、ちゃんとお前たちのことを心配してる。この料理も、お前の好物なんだろ?ちゃんと、レンが教えてくれた」
「……ッ!」

ことり、とテトスが見えるように、床にそれを置く。テトスは、ぎゅっと手のひらを握り締めて、それを凝視していた。

そして、ふ、と。
決して流すことのなかった涙が、頬を伝って。

「……に、さん。……にい、さん。……ごめ、ごめん、さ、……ごめんな、さい……ッ」

ボロボロと涙を流すテトスに、俺はゆっくりと背を向けた。
今は、俺は傍に居ないほうがいい。そう思って。
だけど部屋を出る瞬間、嗚咽交じりの声で、待って、と言われて振り返る。
テトスは、涙に顔をぐちゃぐちゃにしながらも、真っ直ぐに俺を見つめていて。


「貴方に、伝えなきゃならないことが、あるんだ」


真剣な表情で、そう言った。
彼の足元には、温かな湯気を上らせる、うどんがあって。
俺は笑いながら、それを指差すと。

「とりあえず、それ、食ってからにしねぇ?」

そういうと、ぐぅう、とタイミングよくテトスの腹が音を立てて、テトスは少し照れたように顔を赤らめた。




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