愛してる、の殺意




七月下旬、僕は一人でテトスの部屋へと入っていった兄さんの背中を見送って、壁に背中を預けた。
レヴィアタンが心配そうに扉を見つめている。その背中を見つめて、僕はぽつりと呟く。

「『兄さん』」

僕の言葉に、ピクリとレヴィアタンの肩が跳ねた。恐らく僕の言葉が兄さんを呼んだわけではないことを、本能的に理解したのだろう。前々から思っていたけれど、このレヴィアタンという悪魔はどこか人間じみている部分がある。アスタロトにも言えることだけれど、人間の言葉の節々から意味を量ることを彼らは心得ているようにも思えるのだ。
まるで、悪魔ではなく人間のように。

「……レヴィアタン。君は、テトスとはどういう関係なんだ?あの時、明らかにテトスは君のことを『兄さん』と呼んだ。そして、『智の王』アスモデウスもそのことを失言だと言っていた。……アレは、どういう意味なんだ?」
「……―――、それは……」

レヴィアタンは僕に背を向けたまま、言いどよむような雰囲気を見せた。顔を見なくてもそれが手に取るように分かって、それほどまでに動揺しているのだろうか、と思った。
しばらくの間逡巡していたものの、やがて意を決したようにレヴィアタンは振り返った。その青い瞳と、振り向きざまにかち合う。

「……、俺と『青い夜の子』テトスは、兄弟にあたる。他のユダやミカも、俺の兄弟だ」
「それは……、まさか……」

僕がその可能性に思い当って、息を呑む。レヴィアタンはそれを肯定するかのように頷いて、そっと目を伏せた。

「そうだ。……俺も『青い夜の子』であり、この物質界で初めて生まれた『青い夜の子』、『第一の子』ヨハネだ」
「……!どういう、意味だ?君は四人の上位王子の一人、レヴィアタンじゃないのか?」
「あぁ。俺は上位王子のレヴィアタンだ。それは間違いない。俺も、若君と同じなんだ。悪魔と人間のハーフで、この物質界である程度まで育った悪魔だ」
「だけど君はレヴィアタンなんだろ?矛盾しているじゃないか!どうして四人の上位王子のレヴィアタンが『青い夜の子』なんだよ」
「……言っただろう。『青い夜の子』は悪魔に憑依した人間同士の交配によって生まれた存在だと。つまり俺は、青い夜当時の上位王子であるレヴィアタンとその眷属との間に生まれた子であり、レヴィアタンの力を継いだ存在だ。だから若君と同じだと言ったんだ」
「……じゃあ、どうして君は他の兄弟たちのように兄さんと敵対していない?兄さんを憎んでいるんじゃないのか!」

僕はぞっと背筋を凍らせた。
まさかこのレヴィアタンが兄さんに傅くフリをして、「青い夜の子」たちに協力しているのではないか、と。
僕がそう言い放った瞬間、ざわり、とレヴィアタンの纏う空気が変化して。

「……―――、俺があのひとを憎むなど、ありえない!!」

だん!と胸倉を掴まれて壁に押し付けられると、射殺すような瞳で睨まれた。
本気だ。僕はその青い瞳を見て直感的にそう感じた。

「確かに、最初は憎んでいた。何故俺を存在させたのかと、何故同じ境遇にありながら幸せそうに笑うんだと。そう思っていた時もあった。だけど俺は……あのひとに救われた。どうしようもなかった俺を、救ってくれた。だから、今の俺がある」

僕の胸倉から手を放して、レヴィアタンはそっと自分の左腕を摩った。
左腕を見下ろすレヴィアタンの瞳はどこまでも柔らかい色を宿していて、口元には笑みさえ浮かんでいた。

「俺は『青い夜の子』ヨハネを捨てて、あのひとに仕える悪魔、レヴィアタンになった。だけど……―――、それがそもそもの始まりだったのかもしれない」
「え?」

幸せそうな瞳が、切なく揺れる。
まるで懺悔のような言葉に僕が続きを聞こうと身を乗り出したその時、がちゃり、とテトスの部屋の扉が開いた。出てきたのは兄さん一人で、何だか浮かない顔をしていた。
ダメだったのかな、と思いながら、僕は兄さんに近づいた。

「兄さん、テトスは……」
「あ?あぁ、テトスは大丈夫だ。俺たちに協力してくれるってさ」
『ほ、本当ですか、若君!テトスが、本当にそんなことを……』
「あぁ。もう、大丈夫だ。中でちゃんと飯も食ってるし。もう見張りも監視もいらねぇだろ」

ちらりと部屋を伺った兄さんは、小さく笑った。僕もその様子に、ホッと一安心した。テトスが協力してくれるなら、状況は一気に変わる。学園内に潜伏している他の『青い夜の子』たちの存在もすぐに見つかるだろう。
良かった、と肩の力を抜くと、兄さんは部屋の扉を閉める。同時に、レヴィアタンを真っ直ぐに見つめた。
鋭くも燃え上がる炎のような瞳を受けて、ハッとレヴィアタンが目を見開く。

「レヴィアタン」
「はい。若君」
「『腐の王』アスタロトを早急に呼んでくれ。話したいことがあるんだ」
『はい。承知致しました、若君』

レヴィアタンは深く一礼をすると、ちらりと僕を見て踵を返した。僕も小さく頷いて、その視線に返す。
レヴィアタンが気づいて、僕に気づかないわけがない。
去っていくレヴィアタンを見送った兄さんの瞳は、どこまでも険しい。まるで敵を眼前にしたような、そんな瞳をしていた。
テトスの部屋で、何かあったのか。そう思うほど、兄さんはその体を強張らせていた。

「兄さん」
「……、何だ?」
「何か、あったんでしょ?テトスの部屋で」
「……どうして、そう思うんだ?」
「どうしても何も。兄さん、自分が今どんな顔してるのか分かってるの?」
「……――――」
「兄さん」

黙り込んでしまった兄さんを、僕はじっと見つめた。体を強張らせて、気を張っている兄さんの様子はどこか苦しそうにも見えて、見ていられないほど痛々しい。
僕はそんな兄さんを見ていられなくて、少しでもその苦しみを分けて欲しくて、僕は促すように兄さんの名を呼ぶ。だけど、兄さんは頑なに口を閉ざしたままで。
僕は兄さん、と再びその名を呼ぶ。

「兄さん、言ったじゃない。兄さんと僕は対等だって。どちらかが偏ってしまうような関係は止めようって、兄さんが言ってくれたんじゃないか」

だから、と続けようとした言葉は。
ハッと顔を上げて僕を見上げる兄さんの瞳によって、遮られた。
兄さんは、明らかに傷ついた顔をしていた。いや、絶望した、というべきだろうか。
とにかく、兄さんは僕の言葉に泣き出しそうに顔を歪めていて、僕は息を呑んだ。

「………そう、か。そう、なんだな」

ぽつり、と兄さんが呟く。
はは、と乾いた笑みを浮かべて。
まるで傷ついてボロボロになったような兄さんの姿に、僕は耐え切れずにその肩を引き寄せようとした。
その、時。

ぱしり、と。


兄さんへと伸ばした手が、払われて。


「触るな」


鋭い、まるでナイフのような言葉が、兄さんの口から放たれた。

「え?」

呆然と、払われた手のまま、兄さんを見つめる。
兄さんは、その青い瞳を揺らしていた。真っ直ぐに僕を見つめながらも、ゆらり、ゆらり、と瞳は揺らいでいて。

あ、と思った瞬間、その揺らぎは雫となって、兄さんの頬に一つ、零れた。
泣いて、いる。
そう思った瞬間、兄さんは僕に背を向けた。まるで泣いている姿を見せなくないのだと言うように。
背中で、拒絶するように。

「……、お前は、このままテトスの傍についてやってくれ」

頼む、と言いたい事だけ告げると、兄さんは走り出してしまった。

「ッ、兄さん!」

どうして、と。
どうしたの、と。
そういう意味を込めて、僕は兄さんを呼ぶ。多分、声が、震えていた。

昔、まだ僕が体が弱かった頃、こうして兄さんを呼んだ記憶がある。置いていかれそうで、怖くて。
だけど僕が呼べば、兄さんは必ず振り返ってくれた。大好きな、あの無邪気な笑顔で。

雪男、と僕を呼んで、先に行っていた足を止めて、僕を待ってくれた。

……、だけど。

兄さんは、僕の声に応えることなく、振り返りもせずに走って行ってしまった。


「……―――、兄さん」

ぽつり、と呼ぶ声に応えるひとは、もう、いなかった。






もう一人の私が問いかける。

これでいいのか、と。

私はそれに首を横に振った。
すると、もう一人の私がこう言った。

力を貸して欲しい、と。
守りたいものがあるのだ、と。
力を貸す代わりに、自分も私の力になる、と。

切羽詰まったような、泣き出しそうな、懇願するような声に、私は頷いた。
もう一人の私が守りたいものがなんなのか、知っているからだ。
だから……―――。

悲しいけれど、彼を殺すことにしたのだ。





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