愛してる、の疑惑




七月下旬、俺は固く唇を噛んで、旧男子寮の廊下を歩いていた。最初はゆっくりだった歩調もいつしか足早になって、最後には駆けだしていた。
息が切れるくらいに走って、走って、走って。そして、立ち止まる。

「……っ、は、……ちくしょう………っ」

胸が、苦しかった。
呼吸さえままならなくて、喘ぐように息を吐く。自分の呼吸する音がやけに煩く思えて、一つ舌打ちをする。
脳裏には、さっき別れたはずの弟の、呆然とした顔が浮かんでは消える。ダメだと分かっているのに、そんな風に思ってはいけないのに……―――、最悪のことを考えなければならないのに、まるで心臓が握りつぶされるかのような痛みを感じた。
傷つけた。大事な、弟を。守りたいと思っていた、大事なひとを。
だけど……―――、ダメだった。身体が、勝手に動いてしまった。
テトスが告げたことが本当なら、俺のすべきことは見えている。たとえ本当じゃなかったとしても、きっと俺は同じように、アイツを拒絶していただろう。

分かっている。何をすべきか。どうすればいいのか。
分かっているのに……―――苦しくてしょうがない。

「……っ、ふ」

息が上手くできなくて、頭がぐらぐらする。脳へと送られる酸素が足りないせいだ。そんなことを冷静に考えつつも、指先が震え出して。俺はその震えを押さえつけて、ふぅ、と深く息を吐いた。そして、じっと前を見据える。同時に背後で気配がして、俺は振り返ることなく口を開く。

「……アスタロトは呼んだのか、レヴィアタン」
『はい。すぐにこちらに向かうと返答がありました』
「そうか。なら、いい」
『……若君』

す、と俺の足元に膝を付いたレンは、伺うように俺を見上げた。姿を見なくても、その視線で痛いほど分かる。レンが、今どんな顔をしているのか、なんて。きっと心配してくれているだろう、あの、湖畔を思わせる水色の瞳を、揺らして。

『一体、どうなされたのです。……テトスの部屋で、何かあったのですか?若君が、あの男を拒むなんて、よほどのことがあったのでしょう?』
「……聞いていたのか」
『……。申し訳ありません。若君の様子がどこかおかしかったもので。……やはり、何かあったのですね。テトスの部屋で』
「何も、なかったさ。テトスは俺たちに協力してくれるようになった。ただ、それだけのことだ」
『ですが、それならば何故……―――、泣いておられるのです』

レンは、俺の顔を見ることなく、断言した。
そしてその言葉で、自分が今、泣いているのだと気づいた。
す、と頬に流れる冷たいソレが、涙なのだと。

「……俺が、泣いてる?馬鹿言えよ。俺は、泣いてなんかねぇよ」
『いいえ。………――――』「いや、泣いてる。俺には、分かる。ずっとアンタだけを見てきた俺には、分かるんだ」

燐、と俺をそう呼ぶ背後の男。俺はソイツを知っていた。
「青い夜の子」ヨハネでも、四人の上位王子レヴィアタンでもない。俺が知っている、もう一人の彼。

「……―――、夜羽」

振り返った先、俺の前に立つ男は、悪魔の象徴である鋭い牙も爪も生やしていない、ごく普通の人間だった。
彼は俺と目が合うと、真っ直ぐに俺を見つめた。あの、俺の苦手な、射すくめるような水色の瞳で。
そしてきゅっとその眉を寄せて切なそうに顔を歪めると、ゆっくりと俺の頬へと手を伸ばした。

「……―――泣くな。アンタに泣かれると、俺はどうしていいのか分からない」
「……。ごめん」
「謝るな。俺はただアンタに、笑っていて欲しいだけなんだ。その為に、上位王子になった。力を得る為に、アンタを守る為に、レヴィアタンになったんだ。だから……、そんな風に、全部何もかも抱えたまま、泣くのは止めてくれ」

頼む、と彼は俺の手を握り締めて、祈るように項垂れた。
固く握られた手は痛いくらいで、でも、それが今この男が感じている痛みなのだと思うと、俺は痛いとは言えなかった。
ただ、そっと瞼を閉じて、その肩へと額を押し当てて。

「……ありがとな、夜羽。それに、ごめんな……―――」

今だけは、俺もただの「奥村燐」でいさせてくれ。
ぽつりと呟くと、心得たように、夜羽は俺の頭に手をやって、ぐっと引き寄せた。
泣いているのを、見ないように。



散々泣いて、ようやく俺は顔を上げた。もうその時には見上げた男はいつも通りのレンに戻っていて、俺はレンに縋り付いていた腕を離した。

『もう、よろしいのですか?若君』
「あぁ。もう、大丈夫だ。ごめんな、レン」
『いえ。俺は貴方を支える上位王子の一人ですから、当然のことをしたまでです』
「それでも、だ」

俺はその瞳を見返した。真っ直ぐに、感謝の気持ちを込めて。
するとその水色の瞳が、ふ、と揺らいだ。嬉しそうに、ゆら、と。

『ありがとうございます、若君』
「まだ、俺は何も言ってないぞ」
『いえ。若君からは確かに、お礼のお言葉を頂きましたから』

それだけでいいのです、とレンは笑う。相変わらず、察しのいい男だ。俺は何となく照れくさくなって、頬を掻いた。
そんな俺を嬉しそうに見つめていたレンだったが、すぐに表情を改めて、再び俺の足元に膝まづいた。

『……アスタロトが来ます』
「あぁ、みたいだな」

ふ、と上げた視線の先。
空中に漂っていた無数の魑魅魍魎が一点に集中したかと思うと、それはやがて人の形となり、アトが姿を現した。アトは俺の姿を見るなり、レンと同じように俺の足元に膝をついた。

『お呼びでしょうか、若君。実は、俺のほうから報告したいことがあるのですが』
「あぁ。何となく内容は分かる。……「第三の子」ペテロについてだろ?」
『ご存知だったのですか?!彼がこの学園に潜入していることを』
「ユダやミカがいるから、多分そうだろうとは予想ができていたしな。俺もそのことについてお前を呼んだんだ、アト」
『そうですか……。俺と若君のご友人二人との調査の結果、この学園に潜伏している「青い夜の子」はユダ、ミカ、そしてペテロ。この三名と断定できました。恐らく、他の兄弟たちは虚無界にいるのか、それとも……―――』
「もう、手遅れになってしまったのか、のどちらかということだな」
『……、はい』

アトは、少しだけ瞳を伏せた。
彼もまた、「青い夜の子」の一人であり、彼らの中で一番最後に生まれた、「第十五の子」ルカだ。
レンと同じように、「青い夜」当時のアスタロトと、その眷属との間に生まれた、悪魔と人間のハーフ。そして、現八候王「腐の王」アスタロトだ。
彼もまた、レンと同じように「青い夜の子」たちを案じている。だからこそ、俺はこの物質界に残ることを許した。
だがもう、時間がない。それはアトもレンも、それはよく分かっているだろう。

「アト。ペテロの居場所は、分かるか?」
『いえ……。ペテロだけじゃなく、ユダやミカも、学園内に「居る」ということだけしか……』
「……。そう、か」
『若君……?』

表情を暗くした俺に、アトが伺うような視線を向けてきた。アトにも気づかれるほど、俺は分かりやすい顔をしているだろうか、と思うけれど、そういえばこの二人には隠し事をしようにもすぐに見破られたっけ、と思い至る。
それに……、アイツも、雪男も、そうだった。

……―――、兄さん。

俺を呼ぶ雪男の声が、耳の奥に残っている。
幼い頃に別れたときも、この学園で再会したときも、そして、虚無界へと行ったときも。
ずっと、雪男の声は覚えていた。どんなに遠く離れたとしても、どれだけの月日が経とうとも、その声だけは、ずっと、忘れなかった。

……、兄さん。

そして、その声を聞いて、俺はいつも振り返るのだ。背後にいる、弟の為に。
だけど今は、その声に振り返るわけには、いかなかった。
いかなかったんだ。

俺は、顔を上げる。

「……アスタロト、レヴィアタン」
『『はい。若君』』
「命令だ」




「雪男を、殺せ」








僕は、走り去っていく兄さんの背中を、呆然と見送った。
完全にその背中が視界から消えて、兄さんが拒絶した僕の手を、額にやった。じん、と痛む園手で顔を覆って、肩を震わせる。

「………―――ッ」

痛む手は、兄さんが本気で拒絶した証。この痛みは、本物だ。
だと、したら。

「………―――、兄さん」

ぽつり、とその名を呼ぶ。
そして……―――。



「………―――、ふふ」



込み上げてくる笑みを押さえきれず、僕は哂う。
じりじりと痛んでいた手の熱が、徐々に引いていくのが分かる。

「もう、分かっちゃったみたいだね。そうだよね、テトスを懐柔したんなら、バレて当然か」

しょうがないなぁ、と笑いながら、僕は掛けていた眼鏡を外す。もうコレも必要ないのだと、理解していたからだ。

「僕の大好きな兄さん。優しくて、でも、その優しさゆえに愚かな、僕の大切なひと。貴方が好きだけど、でも、同時に嫌いだったよ」

僕を置いていった貴方が、憎くてしょうがなかった。
だから、貴方の大好きな人を苦しめることが僕の生きがいになった。僕には兄さんしかいないのに、貴方は幸せそうに笑うから。とても、とても遠くに行ってしまったから。

だから。


「これはね、復讐あいじょうだよ、兄さん」


ころしてあげる。





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