愛してる、の逆転




七月下旬、俺は下界を眺めている。まだ俺が塾生の頃、よくここに来てはクロと秘密の修行をしたり、考え事をしたりしていた。今もたまにこの場所にやってきては、ただ、目の前に広がる光景を眺めることがある。

この場所で、改めて戦うことを決意した日のことを思い出す。そしてその翌日の林間合宿で、俺がサタンの子であると皆にバレてしまったんだっけ。
俺は懐かしさに目を細める。そして、ゆっくりと頭上を仰いだ。空は高く、青く澄んでいる。その色は徐々に赤みを増して、鮮やかなグラデーションを刻んでいた。

……―――逢魔が時。

人が活動を止め、悪魔が活動を始める時間帯。
そして、人と悪魔が、出会う時。

俺はその青から赤に染まる夕暮れを眺めながら、そっと、目を閉じた。
同時に、コツリ、と背後から足音がして、くっと口元を歪めた。

「随分と時間が掛かったな。そんなに俺は見つけ難かったか?………雪男」
「いいや。兄さんを見つけることなんて、僕にとってはたやすいことだよ」
「そうか。そう、だよな」

一度だけ、固く瞼を閉じた後、ゆっくりと振り返る。
祓魔師の重たそうなコート。少し垂れ目がちの瞳に、頬と口元をホクロ。眼鏡を押し上げるその仕草さえ、俺の覚えている通りの雪男だ。
だけど……―――、目の前の男は、もう、雪男ではなかった。

「……―――俺との兄弟ごっこはどうだった?さぞかし滑稽だっただろう?俺は、何の疑いもなくお前を信用していたんだから」
「そうだね。兄さんは、僕を心の底から信用していた。……笑いを堪えるのに、必死だったよ」
「だろうな。……でも、もうそれも必要ねぇだろ?俺のことを「兄さん」と呼ぶのも止めろ。……―――「第三の子」ペテロ」
「ひどいな。僕は雪男だよ、兄さん」

小さく笑ったその男に俺はカッと頭に血が上って、とっさにその頬を殴りつけた。カシャン!と掛けていた眼鏡が外れて、地面にたたき付けられた。

「……ふざけんな……!雪男はッ……、俺の弟は……ッ」
「「青い夜の子」じゃない?」
「ッ」

ソイツは殴られた頬を撫でながら、俺の言葉を続けて、笑った。可笑しい、と言わんばかりに。

「それこそ可笑しい主張だよ、兄さん。兄さんだって、元を正せば「青い夜の子」だ。だったら、僕だって同じ。同じ血を分けた、悪魔とのハーフだ」
「でも、雪男はちゃんと検査して良性だったはずだ!」
「そうだね。……でもそれは、兄さんが虚無界へと行く前のことだ」
「……!!」

ハッと目を見開く。確かに、その通りだからだ。
俺が虚無界へと行く前までは、雪男は毎日のように検査を受けていた。その結果は、良性。つまり、雪男はその時は人間だった。
だとしたら、俺が虚無界へと行っていた三年の間に、悪魔としての血が覚醒してしまったとしたら?

「……―――兄さんが虚無界へと消えてからの三年間。僕がどんな思いで過ごしてきたと思う?最初の一年は、何もする気が起きなかった。塾の講師も祓魔師の仕事も放棄して、ただぼんやりと日々を過ごしていた。次の二年目になって、僕は気づいた。あんなに怠惰な生活を送っていたのに、身体は全然衰えを感じないんだ。それですぐに分かったよ。僕は、兄さんと同じように悪魔として覚醒したんだって。その時僕はもう、兄さんを愛することに疲れていた。それなのに、あれほど望んだ兄さんと同じ存在になってしまった。……兄さんを愛することを止めた僕は、だから、兄さんを憎むことを選んだ」
「……!」
「そして、帰ってきた兄さんは、とても幸せそうだった。配下の悪魔たちに愛されて、勝呂君たち友人にも恵まれて。それなのに、僕の周りには誰も居なくなっていた」

独りだったよ、と男は、雪男は笑う。
それは違う、と言おうとしたけれど、微笑む雪男の顔を見て、何も言えなくなってしまった。例え俺が何を言ったとしてももう無意味だと、分かってしまったからだ。

「……たとえ、そうだとしても。お前が「青い夜の子」で、「第三の子」ペテロだったなんて言うのは、嘘なんだろ……?だって、俺が知っているペテロは……、少なくともお前じゃなかった」
「そうだね。兄さんが対峙していたペテロは、僕じゃない。でも、「第三の子」ペテロは僕だ。それが、僕の能力なんだよ」
「………っ、擬態、か」

よくできました、と雪男はいつもと同じ調子でそう言った。
「蟲の王」ベルゼブブの眷属の一部に受け継がれるという能力、擬態。これはその文字通り、何かに擬態することを得意としていて、その見分けはどんなに優れた目を持っていても判断がつかないと言われている。俺も虚無界にいた時に一度見たことがあるが、見分けなんてさっぱりつかないほど、そっくりだった。
擬態はなんにでも化けることが可能で、生物はおろか、無機物にも擬態することができるらしい。
その能力を、ペテロである雪男が持っていたとしたら。違う人間に化けて俺を欺くことは、可能だった。

「これで、分かったでしょ、兄さん。僕は兄さんと同じ悪魔の血を引くハーフで、兄さんを恨んでいる「青い夜の子」の一人なんだってことが」
「………―――」

ギリ、と奥歯を噛み締める。

テトスからペテロのことを聞いた時に、俺は二つの策を考えた。
一つは、テトスの言うとおりペテロ=雪男であり、雪男は悪魔として覚醒してしまっている場合と。
そしてもう一つが、ペテロは雪男じゃなく、ペテロが雪男に化けている場合。
この二つを、俺は頭の中に置いた。そして後者であることを望んだ。いや、絶対に後者だと思っていたのだ。
だけど、テトスの部屋から出た俺に、雪男は、ペテロは、決定的なことを告げた。


「兄さん、言ったじゃない。兄さんと僕は対等だって。どちらかが偏ってしまうような関係は止めようって、兄さんが言ってくれたんじゃないか」

と。

この言葉は、確かに俺が「雪男」に対して言った言葉だ。
そしてそれを知っているということは、目の前の雪男は間違いなく「雪男」で。
ペテロが雪男に化けているのだという可能性は、そこで潰されてしまった。

たった一つ。
俺と雪男とで交わした約束が、俺と雪男を決定的に違える結果になってしまった。

……痛い。どうしようもなく、心が痛い。

だけど……―――、俺はここで立ち止まるわけにはいかない。
俺には、捨てられない想いがある。守りたいものが、まだこの世界にはある。
だから、だからこそ。

俺は、戦うしかないのだ。
昔も、今も、これからも、ずっと。

この世界でたった一人のひとと違うことになろうとも、俺は刃を下ろすわけにはいかないのだ。

「あぁ……―――、分かったよ。もう、十分だ」

しゃあ、ん、と金属が擦れる音が響く。背負った刃を抜きながら、真っ直ぐにその姿を見つめた。
迷いは、なかった。

「兄さん。ぼくとは戦わないんじゃなかったの?」

雪男が唇を歪めて笑いながら、俺の持つ刀を見てそう言った。俺もその言葉に、クッと一つ笑みを零して。

「あぁ、言ったな。でも、お前はもう俺の弟じゃない。そうだろ、ペテロ」
「そっか。……、僕はその言葉を信じていたんだけど、な」
「………!ッ、残念だけど、その言葉は無効だ」

泣きそうだ、と思った。だけどそれをぐっと堪えて、俺は刀を握りしめる。
耳に痛いくらいの静寂が、辺りを包む。どくん、どくん、と自分の心臓の音が聞こえてきそうな静寂の後。
じゃり、と雪男の足が動いた、その瞬間。

「ッ、行け!」

力の限り叫ぶ。
同時に雪男の背後で、魑魅魍魎の群れが雪男へと襲いかかった。背後を振り向いた雪男は、とっさに腰に手をやって、ハッと目を見開いていた。
その隙をついて、俺は雪男へと駆ける。

そして、刀を思いっきり振り上げて……―――。

は、と目を見開くその瞳と、目が合う。信じられない、と言わんばかりの顔をした雪男を見て、俺はニヤリと口元を吊り上げて笑う。振り上げた刀が、夕暮れに反射して赤く光る。その光が残影を引きながら、雪男へと振り下ろされる。

兄さん、とその唇が動くのを、ハッキリと捉えたその瞬間。

俺は……―――。











「雪男を、殺せ」

正直、本気で驚いた。
彼があんな風に無防備に自分に涙を見せるなんて、よほどのことがあったに違いないと思った矢先、信じられない言葉が彼の口から飛び出した。
雪男、というのは、彼の大事な兄弟の名で、彼はその名を、その存在を、とてもとても大事に思っていた。
なのにどうして、殺せなどと言うのか。

『……。正気ですか、若君。今の話は……!』
「あぁ、俺は本気だ」
『ッ、ですがそれでは……!』

アスタロトが信じられないとばかりに若君に詰め寄っている。俺も正直、彼の真意を問い質したかった。だけど、彼の表情を見て、口を閉じる。彼は、本気だ。本気で、弟を殺せと命じている。

『止めろ、アスタロト。若君の命令だ』
『だけど……!』

まだ八候王として、また悪魔としても幼い末の弟は、納得がいかないという顔をしていた。それは当然、弟の方を案じているのではない。殺せと命じた若君を、心配してのこと。
その気持ちは、痛いくらいに分かる。だが。

『「腐の王」。お前、若君に意見するつもりか』
『!』

俺はアスタロトを睨む。すると、ハッと身体を硬直させたアスタロトが、慌てて若君へと頭を垂れた。
俺たち配下の悪魔に要求されるのは、絶対的な忠誠だ。力で抑え付けていた前王サタンと、配下たち自身の意思で配下となっている今の若君とでは、確かに絶対的な差がある。だが、俺たち配下にとって、どちらだったとしても、やはり王は絶対だ。その王に意見するなど、本来なら極刑ものだ。
だが、それをしないのが、俺たちの王で。

「レヴィアタン。アスタロトを責めるな。こいつも、俺のことを心配して言ってくれてるんだから。……な?アト?」
『若君……』
「それに、何の説明もなしにお前たちに命令するわけじゃないさ。だから、頭を上げてくれ」

小さく笑いながら、彼はそう言った。
心優しい、俺たちの王。本当は、自分の方がずっと辛いはずなのに、それでも笑っている。だからこそ、俺はこのひとを守りたいのだと思うのだ。
笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣けるように。これからもずっと傍にいて、守っていくつもりだ。
だから。
そんな大事なひとを苦しめる存在を、俺は決して許さない。

……―――奥村雪男。
貴様にどんな理由があったのせよ、お前は俺の王を傷つけた。
絶対に、許さない。

最初に貴様と約束したとおりに、俺はお前を殺してやる。


ざわ、と殺気だった俺の雰囲気を察したのか、彼は驚いたように目を見開いた。だけそすぐに苦笑して。

「だから、そんなに殺気立つなって。今からちゃんと説明する。それを聞いてから、お前たちには行動に移してもらうからさ」

物騒な殺気はしまえ、と彼は安心させるように俺の肩を叩いた。そして、真っ直ぐに俺を見下ろして。

「レン。テトスから、ある情報を聞いた。「第三の子」ペテロが、雪男だと」
『!まさか!』
「そう。俺もまさかと思った。だけど……ペテロの能力を考えれば、不可能というわけじゃない。ただ……やっぱりそこには矛盾が生じる」
『……はい。奥村雪男は、正常な人間だったはずです。それなら……』
「あぁ、ペテロが雪男に化けている可能性が高い。というより、俺は、それに賭けたい」

ふる、と俺の肩を掴む彼の指先が震えた。彼は多分、その考えであって欲しいと願っているのだと、その仕草で分かった。
俺も、彼のためにそうであって欲しいと思う。
ペテロが奥村雪男だなんて、そんな現実は彼には残酷すぎる。

「……でも、正直その考えは……ほぼゼロに近い。……さっき確認したけれど、あの雪男は、確かに雪男だった」
『そう、ですが』
「ペテロが雪男だとしても、そうでないとしても、今の雪男を捕らえる必要がある。どちらにしてもこれはユダの、反乱軍の策であることは間違いないんだ」
『はい。……でしたら、奥村雪男を捕らえればいいだけのことです。殺す必要は、ないと思うのですが』
「……。いや、だから、だよ。だから、殺すんだ」
『……―――え?』

何、と彼を見上げれば、苛烈な青い色をした瞳が俺を射抜く。まるで彼の炎のようなその激しさに、つい、見惚れてしまった。
そして。

「俺にさ、考えがあるんだ」

そう言って、彼は悪戯を企んでいる子供のように、笑った。









ザン、と振り上げた刃を、俺は真っ直ぐに雪男へと振り下ろす。
どさ、と倒れこむ弟の身体。溢れ出す鮮血が、刀を染め上げる。

そして、もう動かないその身体を見下ろして、ぽつりと呟いた。



「……――――、ごめんな」



俺は、うそつきだ。


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