愛してる、の真実




七月下旬、俺は倒れたままの弟の姿を見下ろしている。もうぴくりとも動かない黒のコートを纏ったその体は、まるで打ち捨てられたゴミ袋みたいだ。
ぼんやりとその姿を見ろしていると、背後でぱちぱちと手を叩く音が聞こえた。振り返らなくてもそこに誰がいるのか、俺には予想がついていた。

「さすがオウサマ。弟にも容赦ないんだ?」
「……―――ユダ」

その名を呼べば、彼は、ユダは軽快なリズムを刻みながらこちらに歩いてくる。こつん、こつん、とアスファルトを歩く足音は、どこまでも軽やかで、彼が上機嫌なことを示していた。

「お前こそ、やけに嬉しそうじゃないか。こいつは、お前の兄弟なんだろ?」
「……ふふ。兄弟、ね。確かに「第三の子」ペテロは僕の大事な兄弟だよ」
「―――。何が、言いたい?」

こつん、こつん、とこちらに向かって歩いてきたユダは、俺の横を通り過ぎて、倒れている雪男の傍に立った。そして、その姿を見下ろして……―――耐え切れない、とばかりに声を上げて笑い始めた。狂ったような笑い声が、もう暗くなり始めた空に反響する。

「あはははは!傑作だ!本当、ここまで上手くいくなんて驚きだよ!」

あははは!としばらく腹を抱えて笑っていたユダは、怪訝そうな俺の顔を見て、ニヤリと口元を歪めた。

「愚かなオウサマに教えてあげる。コレは、「第三の子」ペテロではないよ」
「……―――え?」


時が、止まる。


呆然とする俺に、ユダは愉快そうに笑みを含んだ声で、歌うように告げた。

「だから、コレはペテロじゃないって言っているんだよ。オウサマ。正真正銘本物の、オウサマの大事な大事な弟、奥村雪男だよ」
「違う、ウソだ。だって、雪男はペテロだって……!」
「そう、確かにコイツはそう言った。だけどね、それは本当のことで、本当のことじゃないんだ。意味、分かるかな?」
「……―――」

正直に分からない、という顔をすればユダは得意そうに、ふふん、と笑った。じわり、と嫌な汗が手のひらを伝う。

「つまり、オウサマの弟は、奥村雪男は、自分のことをペテロだと思っていた、ということだよ。いや正しくは、そう言うように操られていた、ということなんだけどね」
「!そ、れは……!」
「そう、僕の恋人、ミカの能力。「智の王」アスモデウスの眷属の娘であるミカは、他人を洗脳する能力を持っているんだ」
「マリオネット、か……!」

俺はその瞬間、ハッと体を硬直させた。そして、今、目の前に倒れている雪男を見下ろす。
つまり、それは……―――?

「オウサマ。貴方は、貴方の手で、貴方のいとしい人を、殺したんだ。「青い夜の子」でもなんでもない、普通の人間を」

殺したんだ。


まるで断罪するように、憐れむように、そして、心底楽しそうに、ユダはそう言った。

殺した?
誰が?
俺が?
雪男を?

……―――、殺した?

「あ……―――」

瞼が、異様に熱い。
熱くて、その熱が全身に回っていく。手のひらの先が震える。足の力が抜けてしまいそうだ。

そうだ。
そう、だったんだ。

雪男は。
俺のだいじな、弟は。

俺を。

………――――裏切ってなんか、いなかったんだ。

そう思った、瞬間。

「あ、あはは………!な、んだよ、それ……!」

俺は、心の底から、笑った。
ユダが一瞬、顔を歪めた。何を、と言いたげに。だけど俺はそんなことなんかに、構ってなんかいられなかった。
ただ、嬉しくて。
ただ、どうしようもなく、嬉しくて仕方なくて。
自然と、自分の世界が潤んでいくのを、感じた。

「俺、やっぱりダメだなぁ……!どんなに強がったって、お前が俺を憎んでないって聞いただけで、こんなに嬉しいんだ。……ほんと、どうしようもねぇや……!」

なぁ、雪男。
俺、やっぱりお前を信じているよ。
俺を信じないと言ったお前を、俺はどこまでも信じる。
例えお前が俺を殺そうとしたって、そんなお前を、信じあいしてる。

それが俺の、俺なりの、お前への信頼あいじょうの形。
だから。

「俺はお前を信じてるさ」

雪男、と微笑みかけたその先は、地に伏し、動かなくなったその人で。雪男、ともう一度呼びかければ、ぴくり、とその指先が動く。むくり、と起き上がった雪男は、ふぅ、と一つため息をはいて。

「……全く、兄さんはどうしてこう、無茶ばっかりするの」

そう言って、呆れたように笑っていた。




「な、なんで……!?どうして、奥村雪男が生きている……!?」

ユダが起き上がった雪男の姿を見て、混乱している。そうだろう。雪男は俺に斬られて死んだのだと思っていたのだから。
そんなユダに向かって、俺は頬を濡らしていた涙を拭って、ニッと笑いかける。

「俺は弟とは戦わねぇ。それが、雪男と最初に交わした約束だ。どんなことがあろうとも、それは絶対に、違えちゃいけねぇんだ」
「!ッ」

ギリ、とそれまで浮かべていた余裕の表情を打ち消して、ユダは俺を睨みつける。その鋭利な刃物のような瞳は本物で、もうユダが他の策を練っているとは考え難かった。
となれば、もう、種明かしをしても大丈夫だろう。

「ユダ。お前はすげぇヤツだよ。俺の考え付くことの裏の裏まで読んで、策を練っていた。途中まで、いや、テトスが俺に「雪男=ペテロ」であるという情報を教えるまで、俺はすっかり騙されていた。いや、お前にとってはテトスが雪男=ペテロだってことを教えることすら、計算のうちだったんだ」

全ての計画は、柳がミカとして目覚めてしまったあの時から始まっていた。
目覚めたミカと最初に接触したのは、雪男だ。恐らくあの保健室で三人で話していた時にはもう、柳はミカとして目覚めていた。だから、その時に雪男に暗示をかけた。
「青い夜の子」の誰かが捕まったときに、自分が「青い夜の子」であり俺を憎んでいるのだと、思い込ませるように。
そして、他の「青い夜の子」たちと接触して、ペテロが雪男に化けて潜入するという偽の情報を与えておく。その後、「青い夜の子」が捕まり、俺に懐柔されようがされまいが、雪男は自分が「青い夜の子」であり俺を恨んでいるという暗示は発動する。そして、俺はそんな雪男に絶望し、雪男を殺す。
そして、弟を殺したことで精神的に弱った俺を殺す。これが、ユダの仕掛けた計画の全てだ。

『オウサマは僕たちの大切なモノを奪っていくのに、僕達がオウサマの大切なモノを奪って何が悪いの?……僕はね、オウサマ。オウサマが大切なモノを失くして絶望したまま死ぬことを望んでいるんだ』

ユダの言葉を思い出す。まさにその通りの結末を、ユダは用意していたのだ。
そして、俺はその罠にまんまと引っかかった。本当に、雪男とここで対峙するまで、雪男がペテロの可能性が高いと思っていたのだ。
だけど……俺は賭けたのだ。最後の、最後まで。
ある、可能性に。

「俺はどうしても、雪男がペテロだとは信じられなかった。信じたくもなかったしな。だから、俺は賭けた。雪男と最後に話してみて、本人なのかどうかを確認しようって。もし本人だったとしたら、何とかして説得しようって、思ったんだ」

そして、俺はその賭けに、勝った。
最後の、雪男との会話で、それを実感した。

『あぁ、言ったな。でも、お前はもう俺の弟じゃない。そうだろ、ペテロ』
『そっか。……、僕はその言葉を信じていたんだけど、な』

この言葉が、決定的だった。
この言葉があったから、俺は雪男を信じる自分を、信じようと思ったんだ。


『僕はね、兄さん。兄さんを信じないことで、兄さんと対等で在りたいんだよ』
『対等で?』
『そう。兄さんを信じるってことは、兄さんに頼ってしまうのと同義だと、僕は思ってるんだ。それが、僕は嫌なんだよ。だから兄さんも、僕のことは信じなくていいよ』
『でも、俺は雪男のこと信じてるぞ』
『……うん。それが、兄さんの強さだよ。だけど僕は弱いから、兄さんを信じないことで強く在ろうとしてるんだ』
『……お前の言葉は、よく分かんねぇ』
『あはは、そうだろうね』

交わした会話が、鮮明に蘇る。軽やかに笑う雪男の声も、そのままでいいんだよ、と言って、触れたその手の温度も、全部。

「雪男=ペテロだというのなら、一日も経っていないうちに主張が変わるなんて、可笑しいんだ。特に雪男は、一度こうと決めたら絶対に主張を変えない頑固もんだし」

俺を信じないと言った雪男。
そして、俺を信じていたと言う雪男。

どちらを信じるのかと言われたら、俺は、俺の感じた雪男を信じる。

「だから分かったんだ。この雪男は俺の知っている雪男じゃないってさ」
「っ、仮にそうだとしても、貴方は奥村雪男が暗示にかかっているなんて知らなかったはず!現に奥村雪男を斬ったじゃないか!なのに、どうして生きているんだ!」
「それは……―――、彼女に聞くといいさ」
「彼女……?」

誰だそれは、と言いたげなユダに、俺は彼の背後を指差した。さっきからずっと、こちらを見つめていた、彼女を。
ハッと振り返ったユダは、信じられないとばかりに目を見開いていた。そして、無意識のうちに呟く。

「……ミカ―――」

呼ばれた彼女は、優しくも悲しい、笑みを浮かべていた。


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