愛してる、の決意




七月下旬、僕はひゅうと耳元で通り抜けた風の音を聞きながら、ふ、と一つ息を吐く。覗き込んだスコープには二丁の銃を構えた柳さんと、その銃口を向けられた兄さん、そして、「青い夜の子」であるユダがいる。
今、あちらの現状が解らない為、迂闊に銃を発砲するわけにはいかない。だけど、トリガーに乗せた指先だけは、ずっと力を持ったままだ。少しの力を入れれば、いつでも撃つことは可能だ。

「……―――、兄さん」

じわり、と手のひらに浮かんだ汗が、夜風に拭かれて指先を凍えさせる。だけど、それでも僕は構えを解こうとはしなかった。
昼間握り締めた兄さんの手の体温を、思い出す。泣き出しそうな、その青い瞳を。

話せないことがある、と兄さんは言った。僕には話す必要のないことだ、と。
それに僕は、それでも構わないと答えた。
かつて僕が、そうだった。兄さんを守ると決めた日から、兄さんには隠し事ばかりをしてきた。僕自身、兄さんには話す必要がないと思っていたから。だから、兄さんが僕に話せないことができたとしてもそれは仕方のないことだと思う。
そして今だって、そうだ。僕にも兄さんには話せないことがある。

その証が、この銃だ。

「……さすがは奥村先生。いつ見ても、いい腕をお持ちですねぇ」
「フェレス卿」

僕の背後で、悠然と椅子に座ってコーヒーカップに口をつけているフェレス卿は、目の前の状況を楽しんでいるかのような口調で僕にそう言った。僕は銃を構えたまま、内心で舌打ちをする。

「貴方が四大騎士に就任したときはさして驚きはしませんでしたが、まさか聖騎士直属の部隊に希望するとは思いませんでしたよ」
「以前に言ったはずです。父に代わって、僕が兄を守る、と」
「………。なるほど」

クスリと一つ笑みを零したフェレス卿は、僕の隣まで歩み寄ると、まるで歌うかのように眼下を眺めていた。もう、日は暮れる。夜は悪魔が活発化する時間だ。ここからは本当の意味で気合を入れなければ、彼らの戦いにはついていけないだろう。

「貴方、実は知っていたのでしょう?「青い夜の子」の存在を。それなのに、なぜ知らない不利をしていたのですか?」
「……。兄が自分から話すのを待ちたかったからですよ。兄が話す必要がないと思っているのなら、僕はいつまでもそ知らぬふりをしているつもりでした。……だけど、結果的に兄は僕に話してくれた。だとしたら、僕はそれに応えるだけです」

兄さんの抱えているものを、僕も一緒に背負うと決めた。
まさかそれが「青い夜の子」のことだったとは思いもしなかったけれど、だけど、僕に事情を話してくれた兄さんの心を、僕は違えるつもりはなかった。

「青い夜の子」。
僕がその存在を知ったのは、まだ、神父とうさんが生きている頃のことだった。
僕が祓魔師になって一年ほど経った頃、突然神父さんが連れてきた少女。それが、柳さんだった。柳さんはまるで機械のような無表情で、じっと僕を見つめていた。まだ僕よりも随分と年下の女の子の、その冷たい目の色は、今でもよく覚えている。

『彼女は柳。お前と同じ祓魔師だ。仲良くしてやってくれ』

ニッといつものように笑った神父さんは、少々乱暴な手つきで彼女の頭を撫でた。彼女はそれに抗議することもなく、ただ黙ったままされるがままになっている。

『やっぱ、女の子はいいよなぁ!可愛げがあるし!柳は将来美人になるぞ!』
『……藤本神父、彼は……』
『あ?あぁ、雪男だよ。ほら、前に話した。双子の弟の方だ。頭の良い奴でな。医工騎士と竜騎士の資格を持ってる』
『………―――、あの人の、弟、ですか』

その時、柳さんの目がゆらりと揺らいだ。あの人、というのは兄さんのことだろうか。だが兄さんをそう呼ぶ柳さんの目には、冷たい何かが浮かんでいた。その色は、鋭い刃のように危なっかしい光を灯していて、僕は反射的に身構えた。

『雪男。少しの間、柳と組んでくれないか?』
『え?僕が、ですか?』

そんな僕達に気づいているのか、いないのか。いや、神父さんのことだから気づいていたに違いないのに、突然そんなことを言い出した。なにを言い始めたのかと神父さんを見上げれば、彼はいつもの悪戯が成功したような顔をして僕を見下ろしていた。

『柳は祓魔師になってまだ日が浅い。お前はだいぶ慣れてきているみたいだし、年も一番近い。色々と教えてやりやすいと思ってな!それに柳は可愛いし?学生は勉強だけじゃなく青春も謳歌すべきだよ、少年!』
『意味が解らないよ。……とにかく、彼女と組めばいいんだよね?』
『話が早くて助かる!じゃ、そういうことで』

後は若い者同士で、とニヤニヤとした笑みを浮かべながら、神父さんは去って行った。
祓魔師は通常、コンビやトリオで活動する。つまり、神父さんは彼女とコンビを組んで色々と教えてやれと言っているのだ。祓魔師になったばかりの頃の僕が、神父さんとコンビを組んでいたときのように。
僕は改めて柳さんを見下ろして、さて、と思う。とりあえず自己紹介が先だろうか。年下の女の子と話す機会がないので、要領が解らない。

『えっと、そういうことで。改めて、僕は奥村雪男。さっき神父さんが話したとおり、医工騎士と竜騎士の資格を持っています。……君は、どの資格を持っているのか、聞いてもいいかな?』
『………、竜騎士です。貴方と同じ』
『なるほど、同じガンナーですね。これからよろしくお願いします』

同じ資格を持っているのなら、何かと話しやすい。僕はホッと安心しつつ、そっと手を差し伸べた。すると彼女は少し驚いたように目を見開いた後、僕の顔と手を交互に見た後、恐る恐るというように手を伸ばしてきて、一度軽く触れたと思ったら、すぐに手を引いてしまった。

『?』
『よ、よろしくお願い、します……』

無表情だった彼女が始めて見せた動揺。だけどその理由がなんなのか分からずに、僕はただ、首を傾げた。

それが僕と、「青い夜の子」である柳さんとの、出会いだ。

それから数ヶ月の間、僕は彼女と祓魔師の任務に就いた。そして驚くべきことに、彼女は僕と同じ二丁銃の使い手だったのだ。数度同じ任務をこなしていくうちに、同じガンナーであることもあってか、僕達は気が合った。何というか、彼女は年下とは思えないほど落ち着いていて、一緒にいて気が楽だった。
多分、僕は彼女のことを妹のように思っていたのだと思う。幼い頃兄さんが何かと兄貴ぶっていた気持ちが、彼女と接していくうちに分かった気がしたからだ。

そして、そんなある日の任務で、彼女は大怪我を負ってしまった。原因は、報告されていたよりも上級の悪魔が出てきてしまった為。ほぼ二人で片付けられる任務だったので、援護などなく。僕と柳さんの二人で、その悪魔を祓うことになってしまった。そして悪魔を祓うことはできたものの、そこで柳さんは怪我を負ってしまったのだ。

『大丈夫ですか!?すぐに手当てを……!』
『いえ、結構です。私なら、平気ですから』
『平気って……』

じわり、と左肩から上腕、そして手の甲までに及ぶ生々しい火傷。どろりと肉の溶けたような色をしたそれを見て、絶句する。早く手当てをしなければ、左腕は動かなくなる。僕がそう危惧しているにも関わらず、当の本人は相変わらずの無表情だ。
僕はあまりにも態度を変えない柳さんにカッとなりつつも、強引にその腕を診ようとして、ハッと目を見開く。

彼女の腕は、まるで動画の逆再生のように、元に戻ろうとしていた。じゅうう、と鈍い音を立てながらも、その腕は何事もなかったかのように、最初の姿に戻ろうとしていた。

『……これ、は……』
『私は、悪魔の子ですから』

驚く僕に、彼女は無表情のまま、ぽつりとそう呟いた。元に戻ってしまった腕を、僕の視線から隠すようにしながら。
そして彼女は何も言わずに立ち上がって、歩き出してしまった。もうこの話はしたくないとばかりに。何となく彼女のそんな雰囲気を察していたものの、暗い顔をする彼女が気になって、神父さんに問い詰めた。彼女の、正体を。
神父さんは、兄さんがサタンの子であることを告げたときと同じ、真っ直ぐな目をして僕を見つめて。

『柳は……、あの子は、「青い夜の子」と呼ばれる悪魔と人間の、ハーフだ』

燐と、同じ、と神父さんはそう言って、全てを話してくれた。
「青い夜」に起きた、惨劇。
そしてそれによって生まれた「青い夜の子」と呼ばれる子供たち。

それから、柳さんのことも。

『柳は、騎士団で保護した「青い夜の子」だ。アイツは生まれてすぐに死に掛けて、そこを俺が助けた。それからは騎士団の一人として、裏方の仕事をしてもらってる』
『裏、方……』

裏方。
それは騎士団直属の部隊で、しかし表には決して姿を見せない、騎士団の裏側を担う部隊のことだ。おおよそどこかの国のお偉い方々に繋がる任務は全て裏方が行なう。
正十字騎士団の、裏の顔。
そしてそれを取り仕切るのが、聖騎士である神父さんだ。

『だけど、そんな彼女と僕を引き合わせたのは、何故です?』

裏方の人間は、その正体を隠さなければならない。全てのメンバーを知るのは、聖騎士ただ一人だ。それなのに、何故、と神父さんに問いかけると、彼は苦笑して。

『アイツとお前を会わせたのには、特に意味はないさ。ただ……、もしもの時、お前と柳が知り合っておけば何かと都合がいいかと思ってな』

もしもの時、というのがどんな時なのか、神父さんは語らなかった。自分が死んだときなのか、それとも、兄さんが悪魔として覚醒してしまったときなのか。もしくはそのどちらかなのか。
何も言わなかったけれど、多分、神父さんにとってはどちらも同じことだったのかもしれない。

そういう経緯があって、僕は「青い夜の子」のことはもちろん、本人である柳さんとは最近まで交流があっていた。
彼女が裏方の任務で、「青い夜の子」の抹殺を請け負っていたことも知っている。

だけどまさか、彼女の身体に他の「青い夜の子」の魂であるミカが転生していたなんて、誰が信じられるだろう。
彼女の腕が兄さんを貫いたとき、本当に、息が止まるかと思った。まさか、と。まさか彼女は騎士団を裏切って、「青い夜の子」強いては反乱軍についてしまったのか、と。
だけど、彼女は今、兄さんにもユダにも銃を向けている。どちらにも、平等に。

それが、彼女の心の在り方なのかもしれない。僕は、スコープ越しに彼女を見つめながら、そう思った。
「青い夜の子」でありながら騎士団の祓魔師として生きてきた、彼女にとっては。
二人に銃を向けるということは、彼女なりの決意の証だ。

僕が二丁の銃のほかに、この長距離用のライフルを手に取ったのと、同じように。



「青い夜の子」たちが学園内に潜入している、という情報が入ったのは、兄さんが物質界に帰ってきてすぐのことだった。そして彼らが、兄さんたちの言う反乱軍と呼ばれる悪魔たちと共謀しているということも、同時に情報として入ってきた。
そして、柳さんがその潜入している「青い夜の子」の調査の為、候補生として潜り込むということも、事前として知っていた。
事情としては知っていたとしても、僕はあくまでも部外者だった。その任務に付いていたわけでも、ましてや協力を要請されたわけじゃない。だけど、柳さんがユダと去って行ったその後、僕に指令が下った。
いわく、『柳さんが「青い夜の子」と協力するようなら、殺せ』というものだ。
吐き気がした。だが同時に、試されていると感じた。
「青い夜の子」と直接の関わりを持ち、なおかつ彼らが動いた原因は、兄さんだ。「青い夜の子」が悪魔と手を組み、物質界を脅かそうとしていると思っている騎士団にとって、元々目の上のたんこぶな兄さんの存在はさらに邪魔になる。
だが、そんな兄さんの傍には四大騎士の僕がいる。迂闊に兄さんには手を出すことはできない。
つまり、兄さんを快く思っていない幹部たちにとって、今回の騒ぎは絶好の機会だ。
もしこの指令に僕が従わなければ、反逆罪で処分するつもりなのだろう。
だが、もしも仮に、柳さんが「青い夜の子」と繋がっているようなことがあれば、僕は迷わず彼女を撃つ。……そうすることで騎士団の信頼を得ることが、僕の目的だ。

だけど結果として、彼女は中立の立場にいる。
そして僕はトリガーに指を掛けたまま、その動きを待っている。


でも心の底では、彼女を信じたいのだ。
あの時……、寮へと戻る途中で真実を告げてくれた、彼女のことを。




テトスが寮の部屋に篭ってしまい、兄さんがレヴィアタンからテトスの好物を聞いて、料理に勤しんでいる間、僕は一度兄さんの傍を離れた。兄さんの傍には上位王子のレヴィアタンがいるし、大丈夫だと思ったからだ。彼のことは気に食わないけれど、実力は確かだから。
さて、兄さんはどうするつもりなのかと思案していると、携帯が鳴った。発信先は、「柳さん」。
僕は動揺した心を落ち着かせて、携帯を握り締める。そして、通話のボタンを押す。

「……もしもし」
『……―――お久しぶりです、雪男さん』
「はい。……お久しぶりです」
『……―――お話が、あります。例のことで』
「!」

例のこと。つまり、「青い夜の子」のことだろう。
そして彼女は早口に、ユダが仕掛けようとしていること、そしてそれに乗じたペテロの策のことを話してくれた。
兄さんの心理を上手く利用した策だと思った。自惚れかもしれないけれど、兄さんにとっての僕は、弱点だと思われるくらいには大きいはずだから。
それが悔しいような、嬉しいような。そんな心境になりつつも、それを教えてくれた彼女に感謝した。
彼女は言った。自分の中には二人の人格がいる、と。
柳美加エクソシストとしての自分と、
青い夜の子ミカとしての自分。

どちらも自分であり、どちらも自分ではない、と彼女は電話口でそう言った。
いつも淡々とした口調の彼女の声が震えていたことには、気づかない振りをした。

そして彼女は最後に、こう言った。

『ペテロが貴方に刺客を送っています。気をつけて下さい。……私は、彼を止めます』

そう言って、彼女は一方的に電話を切った。
ツーツーと切れた通話を知らせる音が、やけに耳に残って。

僕は、ぐっと手のひらの中の携帯を握り締めた。

このままでは、ペテロの策によって兄さんの心は傷つくだろう。僕に裏切られたと思うかもしれない。
だけど……―――、たとえ兄さんに嫌われてしまったとしても、僕は兄さんを守ると決めた。

「……兄さん、……―――」

何も変わらない貴方を、守りたいと思った。
どんなに離れても、その瞳の青さを守りたいと思った。

だから僕は、銃を取る。

貴方を殺せる武器すべを、知った。
貴方を守るちからを、知った。

ゆきお、と僕を呼ぶその泣き出しそうな声も、触れた手の甲の熱さも、全部。
何も変わらない、その心ごと全部。




……――――、愛してる。




ぽつり、と囁いたその言葉は、激しく泣き出した蝉の声に掻き消された。
冷たい真っ黒な銃だけが、僕のその声を聞いていた。





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